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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:48:31 (5638d)
63 名前: 白い百合の下で [sage] 投稿日: 2007/09/03(月) 01:48:22 ID:Zu/XwZ2x 馬車から降りてすぐ、アンリエッタは丁重な礼を受けることになった。 彼女もむろん、じゅうぶんに礼儀正しい言葉を述べた。 白いドレスを着た女王といつもの黒衣の宰相が、この地の領主と儀礼を交わしている間、その後方で、アンリエッタの同行した数十名の近衛兵たち――銃士隊および水精霊騎士隊――は、沈黙を保っていた。 雨をふせぐフードつきの外套をはおった才人が、同じ格好のギーシュに何事かをささやく。 ギーシュが無言でうなずいた。水精霊騎士隊の隊長と副隊長、この二人の少年の面には、彼らにかぎってめったにない陰鬱な表情があった。 領主は微笑をうかべつつ、嵐に負けないように声をはりあげた。 「是非ともわが館においでください、陛下。いえ、なにぶん急なことでもあり、恥ずかしいばかりのささやかなもてなししか出来ませぬが。 「あなたの善意をありがたく受けましょう。感謝します」 アンリエッタはそう言ってから、首をふった。 「しかし侍女なら一人、同行しておりますわ」 領主は破顔した。 「これは失礼しました。もちろん、かかる至尊の御身におかれては、召使を同行しないなどということは無いでしょうが、せめて晩餐の給仕はわが家の召使たちに……」 その言葉が途中で止まった。アンリエッタが馬車から降りてきた灰色服の侍女に振りかえり、彼女の手をみずからとったからである。常識にそぐわない、異例のことだった。 華奢な体つきのその侍女は、顔を完全に覆う仮面をつけていた。 その異様な光景に気を呑まれたのか、領主は立ち尽くしていたが、そんな彼にアンリエッタが声をかけた。 「彼女は疲れています。彼女のためにも、あなたの館で休息をとらせていただけませんか?」 「あ……ええ、もちろん……」 「何はともあれ、はやく貴殿の館の中に案内してくれないか? 陛下が雨にさらされている」 あぜんとしている領主にそううながしたのは、銃士隊隊長のアニエスだった。 ………………………… 中小の貴族としてはかなり富裕なほうであるらしき領主の、夕食のテーブルは非常に大きく、それなりに見栄えのよい料理が人数分ならんでいた。 かごに山と盛られた白いパン。バターで焼いた鱒に溶けたチーズをのせたもの。 しかし、煉瓦造りの大きな食堂に通された客たちは、けっして明るい表情とはいえなかった。 まだ嵐にさらされてでもいるかのように、領主が朗々と大きな声を出した。 「突然の陛下のご来臨をたまわり、わが家にとってこれ以上の名誉はございません。 アンリエッタがなにか言う前にマザリーニが、鶏の脂に汚れた口元を布でぬぐいつつ答えた。 「そのようなものですな。通るはずだった道は、泥でぬかるんでおりました。 このときアンリエッタはマザリーニをにらみ、つぶやいた。 「枢機卿は、慎重に過ぎますよ」 女王の険のある声を、宰相はさらに冷厳としてはねつけた。 「『天国へ行く方法は、地獄への道を避けること』ですよ。回りくどく消極的といわれようとも、それがもっとも確実なやり方であることは多々あります」 女王と宰相のとげとげしい雰囲気を和らげようとてか、領主が笑みをうかべる。 「宰相閣下の今のお言葉は、ロマリアの思想家のものですね? あの思想家に学ぶものは多いと思いますよ、わたしもね」 女王は儀礼上の笑みを浮かべたが、機嫌の悪さが透けて見えるほどにそっけなく答えた。 「わたくしは好きませんわ、あの思想家。言うことがあまりに……酷薄です。まるで誰かのように」 今度はマザリーニが口をはさむ。 「わたしも感性的には決して好きではありませんよ。しかし、君主は感情で行動するものではありません。いい折ですから、陛下にはそれをよく考えていただきたい」 二人の応酬を見て、処置なしとみてか領主は沈黙する。そのまま何かを思案する表情になった。 食卓の上座のほうで繰り広げられているぴりぴりした会話に、居心地わるそうに水精霊騎士隊の何人かがそわそわと身じろぎしている。 (おいギーシュ、姫さまと宰相さまはなんの喧嘩をしてるんだ?) (ぼくにきかないでくれ。ああいう上流な方々の喧嘩は苦手なんだ) (おまえ貴族のいいとこ出だろ!) (そんなことより、君、あの怪我をした侍女の姿が見えないな) (姫さまが、自分に割りあてられた部屋で休ませてるよ。銃士隊の何人かも一緒だ) (……そうか。なあサイト、嫌な気分になってこないか?) (ずっとしてるよ、吐き気を感じるほどな) 「ところで、お訊きしてよろしいでしょうか?」 宰相との舌戦をひとまずおいてか、アンリエッタが領主に顔を向けた。 「近隣の領地の諸侯たちにも聞きましたが、あなたはずいぶんと……ええ、『革新的』なかたとのことですが」 「革新的? 陛下はお優しい、近隣の領主どもならばわたしについては悪口しか言いますまいよ。 「なるほど。見たところ、羽振りがよくていらっしゃる。この部屋の調度品も見事なものばかりだわ」 「ああ、『清貧』をこころがける陛下には、お気にさわりましたかな? ……そういう意味ではない? それなら是非お聞きください。 ………………………… 晩餐の後である。 アンリエッタはアニエスとギーシュを物陰に読んだ。顔をひきしめる近衛部隊 「アニエス、銃士隊は前もっていいふくめたとおりに。ギーシュ殿の水精霊騎士隊は、臨機応変な対応を。油断せぬように」 ギーシュはがちがちに緊張して頭を下げ、アニエスはいつものように一礼してから、何気なさそうにアンリエッタに問うた。 「マザリーニ殿はいまだ反対なのですか?」 アンリエッタは首をふり、苦笑気味に答えた。 「枢機卿はわたくしの父のようなもの。たしかに今日はずっと、わたくしたちは険悪な関係に見えたでしょうが…… 二人が退出しようとすると、アンリエッタは思い出したように呼び止めた。 「それと、サイト殿を呼んできていただけませんか?」 急に呼ばれていぶかしげな顔をする才人に、アンリエッタは彼の役目を伝えた。 「『ガンダールヴ』には、水精霊騎士隊をよろしくお願いしたいのです。 「はは……いや、買いかぶりっすよ。正直ルイズの虚無がないと心細いなー、なんて」 「すみません、無理を言ってこのようなことにつき合わせて。早くルイズのもとに帰りたいでしょう?」 いやあいつ今は一人で勝手に帰省してますし別にーなどと言いながら、もじもじと照れる才人を見ると、アンリエッタは少しさびしくなる。 かつて自分も、彼にうっすらと惹かれていたときがある。自分が身をひいてから時がたったが、近頃ようやくこの二人も落ち着いてきた。 アンリエッタは未練を断つように小さく首をふると、微笑して才人にもさがることを許した。 ………………………… アンリエッタは割り当てられた寝室に入った。天蓋でおおわれた、白いシーツの豪奢なベッドに腰をおろす。 髪は漆黒、瞳は青。美しい少女だった。 「そう慌てないで、ゆっくり動いて。あなたはまだ傷ついているのだから。わたくしも最善をつくしたけれども、治癒できる範囲には限りがありました」 「でも……昨日からこんな、女王陛下にあまりにおそれ多いばかりで……」 「わたくしを見なさい。ね、ただの少女でしょう? あなたと同じよ」 「同じ? 私とアンリエッタ陛下が?」 「同じです」 アンリエッタは侍女を抱きしめた。 昨夜は彼女を治療し、彼女の話を聞き、彼女のために泣いた。とうに特別なものを感じていた。 アンリエッタは、貴種らしく他人の気持ちにやや鈍いところがあるが、基本的には心優しい少女であり、他者への同情をごく自然に抱く。 (マザリーニ、あなたは『王は民への憐れみを忘れてはなりません』と自分で言っていたではないですか? なぜ今になって、もっと慎重にふるまえと言うのです?) このとき、アンリエッタは普段なら決して話さないことを話す気になっていた。 「不思議に、あなたとわたくしはどこかが似ている気さえするの。あなたは自分の身の上を話してくれました。 そしてアンリエッタは告白した。幼き日のウェールズとの恋のこと、彼をアルビオンの革命軍に殺されたこと。 「何人も死にました……悔やまなかった日はありません。わかったでしょう、わたくしは女王などと呼ばれていても、愚かな少女にすぎないのですよ。 アンリエッタが話し終わったとき、その侍女は呆然と青い片目をふせ、ひざの上に視線をそそぎ、自分の手に重ねられた女王の手を見つめていた。 「アンリエッタ様……あの……あの、昨夜話していないこともあるのです。 「……そうだったのですか。でもそれは、あなたの兄上のことであり、あなたには何の関係もないことでしょう?」 美しい侍女は、黙って同年代の女王を見つめた。それから、おびえたように青い目をそらした。 「あの……アンリエッタ様、本当に慈悲深い言葉を……」 アンリエッタは困ってそっと手をにぎった。かたくなに心を閉ざそうとする人間を、どう扱えばいいかわからなかった。 「そうね、わたくしも唐突すぎました。あなたが落ち着くのを待つことにします。 「は、はい喜んで……あの、よければお手の世話も。爪をとぐことには慣れています」 マザリーニが、領主をともなって訪れたとき、アンリエッタは侍女の手を借りて、黒い絹のドレスを身に着けたあとだった。 領主がドアの外から大声で、アンリエッタに来訪を告げたとき、アンリエッタはベッドに腰掛け、ひざまずく侍女に爪を磨いてもらっていた。すらりと伸ばした細く長い腕。 来訪をうけてベッドから立ち上がりはしたものの、手をのべたまま爪はみがかせる。 「だいじょうぶです。あなたは爪とぎに専念していてくださいまし」 領主が、アンリエッタの出した入室許可に応じてドアを開ける。女王が侍女に爪をみがかせている光景を見たとき、領主はこわばったように立ち尽くした。 領主に続いたマザリーニは、アンリエッタの服をちらと見て、品評した。 「一見、簡素でありながら上質な服ですな」 一瞬のこわばりから解けたらしく、マザリーニに追随するように、領主も手放しで褒めちぎった。 「いや、何よりも陛下がお美しい。つねはトリステインの紋章である白百合の花のごとき美しさですが、黒百合もまた宝石のような」 アンリエッタは上品に一礼した。 「ありがとうございます」 「しかし両者が合うかとなるとまた別ですな。同じデザインなら、白のほうが陛下にははるかに良いでしょう」 いきなりの枢機卿の駄目だしに、領主がぎょっとしたように目をむいた。 「……ええ、前にも言われましたわね。黒は合わない、と。 「今宵、あなたが演じようとしているのは道化の役ですよ。自分でどう思われているか知りませんが」 マザリーニは苛々をこめて言った。 「枢機卿、あなたはわたくしをあくまで愚弄するおつもりですか? 「王権の尊さについて、陛下は真に理解してさえいらっしゃりませんぞ。 切り返すマザリーニの冷たい言葉を、アンリエッタはそれまでの怒りの熱をこめた目とは打って変わって、同じような冷たい目で見返した。 (さあ、ここからだ) 「もう分からず屋と話すつもりはありません。じゅうぶんです。 その問いかけは、領主に向けて発されたものだった。 「い……いけません、陛下……仮にもマザリーニ様のような国家の功臣に、一時のいさかいでそのようなことを……」 「わたくしはそのようなことの確認を求めたのですか? 地下牢はあるのか、と訊いたのですよ。あるならば案内しなさい。アニエス!」 アンリエッタの鋭い呼び声からほとんど間をおかず、銃士隊隊長が現れた。ほかに三人の部下を連れ、全員が剣をさげ鎧を身に着けて。 沈黙するマザリーニの前に立ちふさがるようにして、領主は慌てた声を出した。 「お待ちください、これはこのような高貴な方を遇する道ではありません。 「あなたも王権に逆らうのですか? マザリーニ、あなたは地下牢で頭を冷やす必要があります。そうですね?」 アンリエッタの確認に、宰相は肩をすくめてみせた。 「まあ、陛下がそれを望まれるなら、わたしとしてはこの我がままに付き合いましょう。そういうわけで、地下牢に案内してくれ」 あっさりとあきらめた宰相を、領主は信じがたいものを見るように見た。 「早く案内してくれないか? それとも……地下牢を見せたくないのか?」 侍女がこのとき、顔をあげて震える声ではっきりと告げた。 「地下牢の場所なら、私が知っています」 ハンサムな領主の呆けたような表情に、ゆっくりと状況に対する理解の色が広がっていった。 ………………………… 地下牢は陰惨きわまった。 手燭の明かりを侍女に持たせて、アンリエッタ達はその中を歩いた。 アンリエッタは火に照らされる囚人たちの、「人」から変わり果てた姿と悪臭に、吐き気をこらえて口元を覆った。 (ひどい……) アニエスが、顔の前をびっしりと飛びまわる蝿を手で追いながら、皮肉っぽくつぶやいた。 「ここの牢はつねに満杯のようですね。あそこの牢なんか、死骸を取り出しさえしていませんよ。マザリーニ様を入れておく余裕はなさそうですな」 マザリーニがひょうひょうと答える。 「老人だからな。拷問されるのもごめんこうむるよ。あの壁の器具なんて見ただけで痛い。 「……マザリーニ」 「何です? 陛下」 「あなたは、このような光景をみてもなお、この領主を即刻処断せずにおれますか。 マザリーニは奇妙な笑みを浮かべている領主を冷たい目で見やり、アンリエッタに向き直った。 「陛下、この男が通常より残忍であることは、今となっては疑いをいれません。 そのとき、笑い声が響いた。 「陛下、陛下、まったくこれはひどい。わたしはあなたの忠実な臣下ですよ。 「王権に対し反逆の意思がない?」 アンリエッタは冷ややかに領主に答えた。 「王の良民を守らずして、何が王への忠誠ですか? あなたに貴族の資格はありません」 「良民! 良民!」 ほとんど爆笑の勢いで、領主は叫んだ。 「こいつらは金を返さない債務者であり、わたしは領主としての権利で裁きを下したのですよ。 「領主の地位を悪用して、武力と裁判権と徴税権をちらつかせて借金を取り立てたということですね。この娘の父親もそうですね?」 アンリエッタは狂笑する領主に、片目の侍女を示した。唐突に笑いがやんだ。女王は言葉を続けた。 「あなたはこの娘の美しさに惹かれ、この娘の父が作ったほうぼうへの借金を、債権者たちからまとめて買い上げた。そして厳しく取り立て、領主としての強権を使ってこの牢に放りこみ、この娘を……自分のものにした」 「ええ、彼は私の体を、文字通り切り刻みました」 アンリエッタの冷たい怒りの声にかぶせるように、淡々とした声が侍女自身の口から発せられた。彼女は今では落ち着いているようだった。 「そういう性質なのでしょう。刃物を使うこともあれば、針やペンチや火を使うことも……私の前にも何人も、彼に殺された女はいると思います。 領主は笑い声はやんだものの、いまだに笑みの形に顔をゆがめたまま、低い声でブツブツとつぶやいた。 「陛下、陛下、その娘は気が狂っているのですよ……その無くなった目は自分でくりぬいたのです。狂人の言うことを信じるのですか?」 娘は残った青い目をきらめかせ、微笑を返した。 「そうでもしなければ、あなた私を棄ててくれなかったでしょう? 顔だけは傷つけまいとしてたものね」 耐え切れないという表情で、アンリエッタが叫んだ。 「この娘が手足を縛られ、のどをつぶして棄てられていたのも、自分でやったことだと言うのですか? 領主は黙った。笑みのまま。 アンリエッタは緊張を悟られまいと、ひそかに息を呑む。 「あの愚か者ども、殺して捨てろと命じたのに。直接手をかけることに怯みやがる……ああ陛下、気になさらずに。わが家の召使の話です。 罪を認めたとみてとって、アンリエッタは静かに宣告した。 「彼らには、女王つまりわたくしと国家の名において、罪に見合った裁きが下るでしょう。あなたがそれを行う余地はありません」 「陛下、そうお思いですか? この日あなたを出迎えたとき、そこの女の姿を見て、わたしが『もしや』と警戒しないとでも思ったのですか? その言葉に合わせて、地上から銃声がひびいた。 「銃士隊、および水精霊騎士隊が完全武装で警戒している。まあ問題ない」 「本気で言っているのか、そこの女? 魔法の使えぬ女どもと、餓鬼どもの集団が何の役に立つ? こちらの手勢は数もおまえらと同じだけ集まるのだぞ」 領主の嘲笑に、誰も答えなかった。 「おとなしく罪に服しなさい。明白な反逆に移った時点で、あなたの領主としての権利は剥奪されたのですよ」 領主は肩をすくめた。 「ええ、陛下にはしてやられましたよ。 突然で、迅速な動きだった。 そのまま女王に向けて突進する。 二条の剣閃が走った。 「なるほど、貴様は変わったやつだ。貴族でありながら剣も使えるとはな。 アニエスの言葉に、領主は首を貫かれたままごぼごぼと血でのどをならし、笑みを浮かべた。 (王は役者、王は道化・・・) 心を、できるかぎり冷たく保つ。 アニエスの剣が首から抜かれ、かつて彼女の臣下だった領主が牢獄の床に倒れたとき、 ………………………… (……ようやく終わった) 嵐が止んでいる地上にもどり、灯火に照らされた城の庭に出て、アンリエッタは大きく息を吐いた。 けれども、この夜にはまだやることがあった。報告を受けねばならない。 「やりましたよ! 連中は大挙してやってきましたが、追い返しましたとも、ええ!」 「ギーシュてめえ、メイジを半分くらい俺一人にまわしやがったくせに、何を威張ってんだ! 見ろこの焦げた服を!」 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人をあわててなだめ、治癒魔法をかける。 「終わったんですよね? 姫さま、今度からちょっと危ないことは避けてくださいよ」 (マザリーニと同じことを言うのね) なぜかおかしくなり、アンリエッタは軽やかに笑った。 「こう見えてもわたくしは昔、なかなかおてんばだったのですよ。ルイズから聞きませんでしたの?」 「……アンリエッタ様」 静かな声で呼ばれた。アンリエッタは振り向いた。あの片目の侍女が、はかなげに立っていた。才人とギーシュが、目配せをしてそっと退がる。 「あ……ええ、これで全て終わりましたわ。あなた……これからどうするの?」 アンリエッタは侍女の前に歩み寄り、抱いていた心配を疑問として聞いた。 「あなたさえ良ければ、わたくしの王宮で仕え――」 「アンリエッタ様、お手を」 女王の言葉をさえぎって、侍女はそう言った。 「あなた……?」 「お手の手入れをあと少し。終わっていませんもの」 侍女の唐突な要求にとまどいながらも、アンリエッタは言われるまま手を出した。 「私の父は腕の良い金銀細工師でした。 侍女は顔を上げずに、爪をみがきながらしゃべり続ける。アンリエッタは異様な寒気を感じた。 「父は近衛兵団の杖の、銀の鎖飾りの一部を、大きな工房から任されて手がけておりました……近衛兵たちの好む金や銀の飾りもね。 落雷を受けたような衝撃を感じ、アンリエッタは凍りついた。 (近衛兵団の杖の、銀の鎖飾り? それは……それは……高等法院長リッシュモンを処断する前に、わたくしが廃止した……) ※5巻P182参照 「それで父は当座の仕事のめどを失いました。 アンリエッタは凍りついたまま、侍女を見ていた。思考も舌も麻痺して、何も言葉が出てこなかった。 「……王軍で補給担当の部隊の兵になっていた兄は、それを知るとなんとかして金を作り、送ってこようとしました。軍の物資を盗んで売ってでも。 顔を上げないまま、侍女は肩をふるわせた。泣いているのか、笑っているのか判別しがたい声が漏れていた。 「アンリエッタ様、アンリエッタ様、あなたのお手手はとてもきれい。 侍女は一つだけ残った青い青い目を上げて、アンリエッタの目を見る。 「私にも恋人がいました……あなたのウェールズ王子ほどハンサムではなかったけれど、幼いころから知っていて、私を大切にしてくれた人が。 アンリエッタはがたがたと震えていた。 (『あなたとわたくしはどこがが似ている気さえ……』わたくしはそう、言いました……彼女が、恋人をあの戦で奪われたのなら、その仇は……) 先ほど、地下牢で領主と相対していたときには、女王としてふるまえた。 そのとき横から――飛びかかる勢いで――アニエスが侍女を押し倒し、うつぶせにして背中に手をねじりあげ、蒼白な顔で棒ヤスリを奪い取った。 「申し訳ありません、陛下! でも……このヤスリは先が尖っています、突き刺すこともできそうなほどに」 「………………ぁ……」 アンリエッタは口に両手を当てて、我知らずあとずさった。 「アンリエッタ様、あなたはご自分と私は同じだと言ってくださいました。 アニエスが怒鳴った。 「おまえの、全ての不幸が陛下のせいか!? あの戦はアルビオンが先に手を出してきたのだ!」 少女は青い、青い、青い一つきりの瞳で、地面からただアンリエッタ一人を見る。 「先に……でも、その後の、私の恋人と兄を奪った大遠征は? する必要があったのでしょうか? ………………………… 「死んだ領主の罪を公表します。財産は国家が差し押さえます。かの領主の評判が悪かったのは幸いですな、どこからも文句は出そうにありません。 マザリーニの事務的な言葉に、返事は返ってこなかった。 「陛下、それ以上飲むのはおよしなさい」 やはり返事は無い。 「陛下。どうしようもないのですよ、どんな施政も万人を幸福にはできません。 「うそです」 弱弱しい声。アンリエッタは、椅子に腰かけてワイングラスを次々とかたむけていた。 「枢機卿、あなたは正しい、あなたの言うとおりでした……わたくしはまさに、道化の王です。王権について、何もわかっていなかった」 「陛下! ……このようなことは決して言いたくありませんが、王はときに民の幸福を、数字としてとらえねばなりません。あの娘は、最も少ない部類なのですぞ。 「マザリーニ、出て行って、おねがい。今は……」 マザリーニは悲しげに息を吐き、そして背を向けた。 アニエスが、気が重そうに口を開いた。 「陛下、あの少女のことですが……彼女は、なかば気が触れているようです。 びくりとアンリエッタが震えた。それから、か細い声で訊く。 「……それは……幽閉ではありませんか」 「いかにも。ほかにどうします? 古来より、王の玉体を傷つけた者は、未遂であっても本来は死刑です。彼女を殺しますか?」 「だめ。絶対にだめ」 ほとんどすすり泣くような声で、アンリエッタは拒否した。 「彼女はわたくしの体をなにも傷つけていない、ただ爪を噛んだだけです……わたくしは痛みさえありませんでした」 心は痛んでいるでしょう? と問うような目でアニエスは主君を見、そして続けた。 「……彼女自身が復讐の意思をはっきりと口にしましたよ。それをわたしも聞きました。 虚脱したような女王を痛ましげに見やり、アニエスは黙って一礼した。 その女傑の後姿を見送ってから、才人は最後に取り残されたことに気がついた。 「あ……あのさ、姫さま、俺の周りの人たちには平民もけっこういるんだけどさ、決して姫さま憎まれてなんかいないって。 「……ほんとう?」 「本当本当! マジだって! だ、だから元気出してくださいよ」 「それは、きっとその方たちが、わたくしのために誰か大切な人を失わなかったから……だから、こんな女王をまだ許してくれるのです」 アンリエッタは机にぶつかるほどに頭を垂れた。 (わたくしは愚か者、自分のために死んだ者が何人もいると、ちゃんとわかっていたつもりだった……でも、でも……) 震える手でボトルのワインをグラスにそそぐ。 「う――ええぇぇっ!」 突如として吐き気がこみあげ、アンリエッタは口を押さえて突っ伏し、必死に嘔吐をこらえた。 気がつくと、少年に抱え上げられていた。 「寝ろよ! いいから、もう寝ちまえよ。一晩寝れば、きっとましになるから」 怒ったような才人の声。涙でぼやけた目で、彼の顔を見上げた。 「眠れません……」 弱々しく首をふる。 「だって目をつぶると、青い瞳が見えるのです……」 罪を責める声も聞こえる。 ふと、唇を重ねられた。 「……それは、ルイズにするような?」 「……あいつ、キスして触れててやればよく眠れるから」 少女はほんのかすかに、嗚咽を漏らした。少年の手を握りかえして、哀願する。 「おねがい、もう一度してくださいまし。言われたように眠りますから……決して夢は見たくない、夢を見ないように、お願いだからここで手もにぎっていて……!」 才人は言われたとおりに唇を重ねた。 アンリエッタが彼の手をにぎりしめたまま眠ったあと、彼は憮然として頭を垂れる。 「あー……俺ルイズいるのにな……なんかヤベエ」 『ホントにな。いいのか?』 「うわデルフ、いきなりしゃべるなよ! ほっとけないんだよ、この人」 秋の夜、静寂が満ちる嵐の後。 |
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