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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:48:31 (5638d)

63 名前: 白い百合の下で [sage] 投稿日: 2007/09/03(月) 01:48:22 ID:Zu/XwZ2x
 秋の嵐吹き荒れる夕方だった。

 馬車から降りてすぐ、アンリエッタは丁重な礼を受けることになった。
 その領主は、強まる雨風の中で立って、自らの領地への急な女王の来訪をでむかえたのである。
 アンリエッタの馬車に同乗していたマザリーニが、まず彼に返礼した。

 彼女もむろん、じゅうぶんに礼儀正しい言葉を述べた。
 その三十代前半ほどの、刈りこんだあごひげを持つ若い領主は、背高くがっしりした体格で、通った鼻筋と涼やかな目を持っていた。
 じゅうぶんにハンサムと言えるだろう。
 アンリエッタは彼をじっと見つめた。

 白いドレスを着た女王といつもの黒衣の宰相が、この地の領主と儀礼を交わしている間、その後方で、アンリエッタの同行した数十名の近衛兵たち――銃士隊および水精霊騎士隊――は、沈黙を保っていた。

 雨をふせぐフードつきの外套をはおった才人が、同じ格好のギーシュに何事かをささやく。

 ギーシュが無言でうなずいた。水精霊騎士隊の隊長と副隊長、この二人の少年の面には、彼らにかぎってめったにない陰鬱な表情があった。
 それはほかの者にも共通している。

 領主は微笑をうかべつつ、嵐に負けないように声をはりあげた。

「是非ともわが館においでください、陛下。いえ、なにぶん急なことでもあり、恥ずかしいばかりのささやかなもてなししか出来ませぬが。
 しかし、この嵐を避けるにじゅうぶんな屋根と乾いたベッド、供のかたがたにふるまうパンと肉、ワインくらいならいくらでもございます。
 陛下の御身のまわりを世話させていただく侍女や召使たちにもこと欠きませんよ」

「あなたの善意をありがたく受けましょう。感謝します」

 アンリエッタはそう言ってから、首をふった。

「しかし侍女なら一人、同行しておりますわ」

 領主は破顔した。

「これは失礼しました。もちろん、かかる至尊の御身におかれては、召使を同行しないなどということは無いでしょうが、せめて晩餐の給仕はわが家の召使たちに……」

 その言葉が途中で止まった。アンリエッタが馬車から降りてきた灰色服の侍女に振りかえり、彼女の手をみずからとったからである。常識にそぐわない、異例のことだった。

 華奢な体つきのその侍女は、顔を完全に覆う仮面をつけていた。

 その異様な光景に気を呑まれたのか、領主は立ち尽くしていたが、そんな彼にアンリエッタが声をかけた。

「彼女は疲れています。彼女のためにも、あなたの館で休息をとらせていただけませんか?」

「あ……ええ、もちろん……」

「何はともあれ、はやく貴殿の館の中に案内してくれないか? 陛下が雨にさらされている」

 あぜんとしている領主にそううながしたのは、銃士隊隊長のアニエスだった。

…………………………
………………
……

 中小の貴族としてはかなり富裕なほうであるらしき領主の、夕食のテーブルは非常に大きく、それなりに見栄えのよい料理が人数分ならんでいた。

 かごに山と盛られた白いパン。バターで焼いた鱒に溶けたチーズをのせたもの。
 野ウサギの骨を煮詰めてとったスープに、キャベツと玉葱と赤ワインにつけこんだ野ウサギの肉を加えて半日煮こんだシチュー。
 生食用のハーブは太った鶏の丸焼きにたっぷり添えてある。
 数種のパイの具は牛肉や果物。

 しかし、煉瓦造りの大きな食堂に通された客たちは、けっして明るい表情とはいえなかった。
 食前の祈りが済むと、めいめいが黙々と食事をとる。

 まだ嵐にさらされてでもいるかのように、領主が朗々と大きな声を出した。

「突然の陛下のご来臨をたまわり、わが家にとってこれ以上の名誉はございません。
 このたびの陛下の国土巡幸におかれては、近隣の領主らが宿を提供するという栄誉にあずかり、
残念ながらわが領地を通る予定はなかったように記憶していますが……予定が変わったのは、やはりこの嵐のためでございましょうか?」

 アンリエッタがなにか言う前にマザリーニが、鶏の脂に汚れた口元を布でぬぐいつつ答えた。

「そのようなものですな。通るはずだった道は、泥でぬかるんでおりました。
 馬車の轍がぬかるみにはまって動けなくなっても問題ですから、道を変えたしだいです」

 このときアンリエッタはマザリーニをにらみ、つぶやいた。

「枢機卿は、慎重に過ぎますよ」

 女王の険のある声を、宰相はさらに冷厳としてはねつけた。

「『天国へ行く方法は、地獄への道を避けること』ですよ。回りくどく消極的といわれようとも、それがもっとも確実なやり方であることは多々あります」

 女王と宰相のとげとげしい雰囲気を和らげようとてか、領主が笑みをうかべる。

「宰相閣下の今のお言葉は、ロマリアの思想家のものですね? あの思想家に学ぶものは多いと思いますよ、わたしもね」

 女王は儀礼上の笑みを浮かべたが、機嫌の悪さが透けて見えるほどにそっけなく答えた。

「わたくしは好きませんわ、あの思想家。言うことがあまりに……酷薄です。まるで誰かのように」

 今度はマザリーニが口をはさむ。

「わたしも感性的には決して好きではありませんよ。しかし、君主は感情で行動するものではありません。いい折ですから、陛下にはそれをよく考えていただきたい」

 二人の応酬を見て、処置なしとみてか領主は沈黙する。そのまま何かを思案する表情になった。

 食卓の上座のほうで繰り広げられているぴりぴりした会話に、居心地わるそうに水精霊騎士隊の何人かがそわそわと身じろぎしている。
 才人とギーシュはぽそぽそと囁きあっていた。

(おいギーシュ、姫さまと宰相さまはなんの喧嘩をしてるんだ?)

(ぼくにきかないでくれ。ああいう上流な方々の喧嘩は苦手なんだ)

(おまえ貴族のいいとこ出だろ!)

(そんなことより、君、あの怪我をした侍女の姿が見えないな)

(姫さまが、自分に割りあてられた部屋で休ませてるよ。銃士隊の何人かも一緒だ)

(……そうか。なあサイト、嫌な気分になってこないか?)

(ずっとしてるよ、吐き気を感じるほどな)

「ところで、お訊きしてよろしいでしょうか?」 

 宰相との舌戦をひとまずおいてか、アンリエッタが領主に顔を向けた。
 領主は顔をあげ、たちまち笑みを浮かべて「なんなりと」と請け負う。
 ただしその笑顔には、薄く緊張がたゆたっていた。

「近隣の領地の諸侯たちにも聞きましたが、あなたはずいぶんと……ええ、『革新的』なかたとのことですが」

「革新的? 陛下はお優しい、近隣の領主どもならばわたしについては悪口しか言いますまいよ。
 『貴族とも思えない金回しの芸当をする』くらいのことは言ったはずです、違いますか?
 いかにも、わたしは好意をもたれていません。彼らの基準からすれば卑しき職業である金貸しをいとなみ、
剣を使うなど平民の業にも手を染める……その貴族とも思えないふるまいをするわたしが、彼らよりずっと裕福なのですから」

「なるほど。見たところ、羽振りがよくていらっしゃる。この部屋の調度品も見事なものばかりだわ」

「ああ、『清貧』をこころがける陛下には、お気にさわりましたかな? ……そういう意味ではない? それなら是非お聞きください。
 近隣の領主どもがわたしについて何をいおうと、それはやっかみにすぎません。
 わたしは困った平民に金を貸しているのです。
 前年が凶作のため次の年の作物苗が買えないという農民や、腕のいい職人でありながら時世で注文が絶え、次の注文まで食いつなげない、という者にね。
 そして、わたしは決して法外な利子をとっておりません。無茶な利子で苦しんでいる者は、わたし以外の金貸しから借りたのですよ。
 ところで、ワインはいかがしますか?」

…………………………
………………
……

 晩餐の後である。

 アンリエッタはアニエスとギーシュを物陰に読んだ。顔をひきしめる近衛部隊
 隊長の二人に対し、声をひそめて告げる。

「アニエス、銃士隊は前もっていいふくめたとおりに。ギーシュ殿の水精霊騎士隊は、臨機応変な対応を。油断せぬように」

 ギーシュはがちがちに緊張して頭を下げ、アニエスはいつものように一礼してから、何気なさそうにアンリエッタに問うた。

「マザリーニ殿はいまだ反対なのですか?」

 アンリエッタは首をふり、苦笑気味に答えた。

「枢機卿はわたくしの父のようなもの。たしかに今日はずっと、わたくしたちは険悪な関係に見えたでしょうが……
厳父は娘に説教するものですし、彼の言うことは政治家としては正しいと、わたくしも理解はしているのです。
 わたくしたちの意見は、そもそも根本から対立しているわけではありません。
 ことここに至っては、彼も協力してくれるでしょう」

 二人が退出しようとすると、アンリエッタは思い出したように呼び止めた。

「それと、サイト殿を呼んできていただけませんか?」

 急に呼ばれていぶかしげな顔をする才人に、アンリエッタは彼の役目を伝えた。
 なるほどとうなずいた彼に、信頼の目を向ける。

「『ガンダールヴ』には、水精霊騎士隊をよろしくお願いしたいのです。
 守ることにかけては、あなたがいればまさに百人力と信じています」

「はは……いや、買いかぶりっすよ。正直ルイズの虚無がないと心細いなー、なんて」

「すみません、無理を言ってこのようなことにつき合わせて。早くルイズのもとに帰りたいでしょう?」

 いやあいつ今は一人で勝手に帰省してますし別にーなどと言いながら、もじもじと照れる才人を見ると、アンリエッタは少しさびしくなる。

 かつて自分も、彼にうっすらと惹かれていたときがある。自分が身をひいてから時がたったが、近頃ようやくこの二人も落ち着いてきた。
 それは親友のためにも喜ばしいことだったが、こうして顔を合わせて話すとまだ、少しの寂しさを覚えてしまう。

 アンリエッタは未練を断つように小さく首をふると、微笑して才人にもさがることを許した。

…………………………
………………
……

 アンリエッタは割り当てられた寝室に入った。天蓋でおおわれた、白いシーツの豪奢なベッドに腰をおろす。
 先に部屋にいて、ベッドに腰かけていた仮面の侍女は、あわてて立ち上がろうとしたが、アンリエッタはやさしく手を押さえてとどまらせた。
 そっと顔を覆う仮面を外す。

 髪は漆黒、瞳は青。美しい少女だった。
 トリステインの花と呼ばれるアンリエッタと並べても、おさおさ劣らぬほどに。
 ただ、その右目をふくむ顔の三分の一は……仮面の下でさらに、包帯に覆われて隠されていた。

「そう慌てないで、ゆっくり動いて。あなたはまだ傷ついているのだから。わたくしも最善をつくしたけれども、治癒できる範囲には限りがありました」

「でも……昨日からこんな、女王陛下にあまりにおそれ多いばかりで……」

「わたくしを見なさい。ね、ただの少女でしょう? あなたと同じよ」

「同じ? 私とアンリエッタ陛下が?」
 侍女はとまどう表情になった。
「いいえ、同じじゃないです」

「同じです」

 アンリエッタは侍女を抱きしめた。

 昨夜は彼女を治療し、彼女の話を聞き、彼女のために泣いた。とうに特別なものを感じていた。

 アンリエッタは、貴種らしく他人の気持ちにやや鈍いところがあるが、基本的には心優しい少女であり、他者への同情をごく自然に抱く。

(マザリーニ、あなたは『王は民への憐れみを忘れてはなりません』と自分で言っていたではないですか? なぜ今になって、もっと慎重にふるまえと言うのです?)

 このとき、アンリエッタは普段なら決して話さないことを話す気になっていた。

「不思議に、あなたとわたくしはどこかが似ている気さえするの。あなたは自分の身の上を話してくれました。
 よろしければ、わたくしの話も聞いてください」

 そしてアンリエッタは告白した。幼き日のウェールズとの恋のこと、彼をアルビオンの革命軍に殺されたこと。
 かつての連合軍がアルビオンを攻めた戦は、自分の復讐心から生まれたこと。

「何人も死にました……悔やまなかった日はありません。わかったでしょう、わたくしは女王などと呼ばれていても、愚かな少女にすぎないのですよ。
 あなたも、必要以上に壁をつくらないでくださいな」

 アンリエッタが話し終わったとき、その侍女は呆然と青い片目をふせ、ひざの上に視線をそそぎ、自分の手に重ねられた女王の手を見つめていた。
 ややあって、その侍女はごくりと固唾をのんだ。

「アンリエッタ様……あの……あの、昨夜話していないこともあるのです。
 私の兄は兵士でした。
 アルビオンとの戦の中で、補給部隊で物資を管理する役目でしたが、物資を横流しして利益をむさぼったかどで捕まりました。
 だから私は、国家に対する犯罪者の身内でもあるのです」

「……そうだったのですか。でもそれは、あなたの兄上のことであり、あなたには何の関係もないことでしょう?」

 美しい侍女は、黙って同年代の女王を見つめた。それから、おびえたように青い目をそらした。

「あの……アンリエッタ様、本当に慈悲深い言葉を……」

 アンリエッタは困ってそっと手をにぎった。かたくなに心を閉ざそうとする人間を、どう扱えばいいかわからなかった。

「そうね、わたくしも唐突すぎました。あなたが落ち着くのを待つことにします。
 でも、あなたはわたくしの侍女になったのですから、着替えを手伝ってくれるくらいはいいでしょう?」

「は、はい喜んで……あの、よければお手の世話も。爪をとぐことには慣れています」

 マザリーニが、領主をともなって訪れたとき、アンリエッタは侍女の手を借りて、黒い絹のドレスを身に着けたあとだった。
 下半身はふわりとしたスカートに同じく黒い靴。上半身はぴったりとなめらかに、優美な体の線にそったデザイン。肩はむき出し。長い袖は手首まで包む。

 領主がドアの外から大声で、アンリエッタに来訪を告げたとき、アンリエッタはベッドに腰掛け、ひざまずく侍女に爪を磨いてもらっていた。すらりと伸ばした細く長い腕。
 片目の侍女は差し出された手をおしいただき、棒ヤスリで慎重に、アンリエッタの健康的な美しい爪をといで短くしていた。

 来訪をうけてベッドから立ち上がりはしたものの、手をのべたまま爪はみがかせる。
 かすかに震えを体に走らせた侍女に、安心させるようにささやく。

「だいじょうぶです。あなたは爪とぎに専念していてくださいまし」

 領主が、アンリエッタの出した入室許可に応じてドアを開ける。女王が侍女に爪をみがかせている光景を見たとき、領主はこわばったように立ち尽くした。 

 領主に続いたマザリーニは、アンリエッタの服をちらと見て、品評した。

「一見、簡素でありながら上質な服ですな」

 一瞬のこわばりから解けたらしく、マザリーニに追随するように、領主も手放しで褒めちぎった。

「いや、何よりも陛下がお美しい。つねはトリステインの紋章である白百合の花のごとき美しさですが、黒百合もまた宝石のような」

 アンリエッタは上品に一礼した。

「ありがとうございます」

「しかし両者が合うかとなるとまた別ですな。同じデザインなら、白のほうが陛下にははるかに良いでしょう」

 いきなりの枢機卿の駄目だしに、領主がぎょっとしたように目をむいた。

「……ええ、前にも言われましたわね。黒は合わない、と。
 しかし枢機卿、わたくしはわたくしなりに思うところはあるのです。『王はつまるところ役者だ』と、どこかでそう聞きましたよ。
 わたくしに求められているのは、自分の考えであれ他人の考えであれ、それをふさわしく演じることなのです。役に合う衣装を身に着けて。
 黒はたぶん、今夜にふさわしいと思います」

「今宵、あなたが演じようとしているのは道化の役ですよ。自分でどう思われているか知りませんが」

 マザリーニは苛々をこめて言った。
 領主がそっと彼の黒衣の袖を引っ張っているのは、「もうおやめなさい」と促しているのだろう。
 アンリエッタは一心に爪をみがく侍女を一瞬だけ見てから、声をはりあげた。

「枢機卿、あなたはわたくしをあくまで愚弄するおつもりですか? 
 王の威を傷つけることは、立派な罪ですよ」

「王権の尊さについて、陛下は真に理解してさえいらっしゃりませんぞ。
 あなたは、いつまで子供でいるつもりなのですか?」

 切り返すマザリーニの冷たい言葉を、アンリエッタはそれまでの怒りの熱をこめた目とは打って変わって、同じような冷たい目で見返した。

(さあ、ここからだ)

「もう分からず屋と話すつもりはありません。じゅうぶんです。
 牢で頭を冷やしなさい。
 この館に地下牢はありますか?」

 その問いかけは、領主に向けて発されたものだった。
 若い富裕な領主は、驚愕に目を見開いた。

「い……いけません、陛下……仮にもマザリーニ様のような国家の功臣に、一時のいさかいでそのようなことを……」

「わたくしはそのようなことの確認を求めたのですか? 地下牢はあるのか、と訊いたのですよ。あるならば案内しなさい。アニエス!」

 アンリエッタの鋭い呼び声からほとんど間をおかず、銃士隊隊長が現れた。ほかに三人の部下を連れ、全員が剣をさげ鎧を身に着けて。
 明らかに、前もって用意していた。

 沈黙するマザリーニの前に立ちふさがるようにして、領主は慌てた声を出した。

「お待ちください、これはこのような高貴な方を遇する道ではありません。
 マザリーニ様にたのまれて、わたしは陛下とマザリーニ様の仲裁に役立てればと、ここに同参したのです。彼をわが家の牢に入れるためではありません。
 正式な逮捕状もない、これは法にのっとっていません……せめて地下牢ではなく、部屋に軟禁くらいであれば……」

「あなたも王権に逆らうのですか? マザリーニ、あなたは地下牢で頭を冷やす必要があります。そうですね?」

 アンリエッタの確認に、宰相は肩をすくめてみせた。

「まあ、陛下がそれを望まれるなら、わたしとしてはこの我がままに付き合いましょう。そういうわけで、地下牢に案内してくれ」

 あっさりとあきらめた宰相を、領主は信じがたいものを見るように見た。
 アニエスに従ってきた銃士隊員たちが、めいめいの剣を抜き、マザリーニと領主をとりかこむ。
 主君のそばに控えたアニエスが、声を領主にかけた。

「早く案内してくれないか? それとも……地下牢を見せたくないのか?」

 侍女がこのとき、顔をあげて震える声ではっきりと告げた。

「地下牢の場所なら、私が知っています」

 ハンサムな領主の呆けたような表情に、ゆっくりと状況に対する理解の色が広がっていった。
 そして、変わって笑みが広がっていった。残忍な怒りに満ちた笑みが。

…………………………
………………
……

 地下牢は陰惨きわまった。
 暗さと猛烈な悪臭の中で、生き物のうごめく気配とうめき声がする。

 手燭の明かりを侍女に持たせて、アンリエッタ達はその中を歩いた。
 銃士隊員たちは、マザリーニを囲むと見せて、巧妙に領主を取り囲んで歩いている。

 アンリエッタは火に照らされる囚人たちの、「人」から変わり果てた姿と悪臭に、吐き気をこらえて口元を覆った。
 地下牢はもとより快適な場所ではないが、この牢は、まさしく入れられるだけで人体を腐らせていく場所だった。
 牢ごとの明かり窓さえなく、牢の外の通路に光がさしこまないような作りの通気孔があるのみ。
 床は糞尿と腐った血でぬるぬるし、うじが囚人の体から離れて通路を這っている。

(ひどい……)

 アニエスが、顔の前をびっしりと飛びまわる蝿を手で追いながら、皮肉っぽくつぶやいた。

「ここの牢はつねに満杯のようですね。あそこの牢なんか、死骸を取り出しさえしていませんよ。マザリーニ様を入れておく余裕はなさそうですな」

 マザリーニがひょうひょうと答える。

「老人だからな。拷問されるのもごめんこうむるよ。あの壁の器具なんて見ただけで痛い。
 しかし、よくここまで地獄を体現する牢を作れたものだ、最低限の明かりさえないとは」

「……マザリーニ」

「何です? 陛下」

「あなたは、このような光景をみてもなお、この領主を即刻処断せずにおれますか。
 王都に戻り、詳細に調べ上げ、警備隊をつかわし、司直の裁きを待てとあなたは言ったのですよ。焦るべきではないと。
 この男の邪悪な支配はそれだけ長らえ、ここの囚人たちはそれだけ生き地獄を味わったでしょう。もしくは耐えられず死んだでしょう。
 それでもまだ、急ぐべきではなかったと言うのですか」

 マザリーニは奇妙な笑みを浮かべている領主を冷たい目で見やり、アンリエッタに向き直った。

「陛下、この男が通常より残忍であることは、今となっては疑いをいれません。
 ですが、このような自ら御身を危地に入れるようなことが、なぜ賛同できたでしょうか」

 そのとき、笑い声が響いた。
 明るく、心底おかしげに。
 領主は腹をかかえて体を折り、笑っていた。そして、彼は笑ったままアンリエッタに言葉を放った。

「陛下、陛下、まったくこれはひどい。わたしはあなたの忠実な臣下ですよ。
 王権に対し反逆の意思はありません。そのわたしに対し、あなたは不意をうって訪れ、マザリーニ様と共謀して私を罠にはめた。
 この晩、わたしは杖さえ持たないまま御前にまかりこしたのに、あなたは女どもに剣を持たせてわたしに突きつけるのですね」

「王権に対し反逆の意思がない?」

 アンリエッタは冷ややかに領主に答えた。

「王の良民を守らずして、何が王への忠誠ですか? あなたに貴族の資格はありません」

「良民! 良民!」

 ほとんど爆笑の勢いで、領主は叫んだ。

「こいつらは金を返さない債務者であり、わたしは領主としての権利で裁きを下したのですよ。
 最低限の利率にもかかわらず返せない者たちです。ほかの債権者から借りておきながら、いつまでも金を返さないので、わたしが債権を買った者もいます。
 くず共ですよ、こいつらは。そして自らこの運命を選んだのです。
 疑いならこいつらの書いた証文書を見るといい、『返せなければ一身をかける』と書いてありますから!
 この牢獄ですか? 陛下、あなたのお嫌いというロマリアの思想家は、こう申しておりますよ。『愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全だ』とね。これは罰ですよ、罰!」

「領主の地位を悪用して、武力と裁判権と徴税権をちらつかせて借金を取り立てたということですね。この娘の父親もそうですね?」

 アンリエッタは狂笑する領主に、片目の侍女を示した。唐突に笑いがやんだ。女王は言葉を続けた。

「あなたはこの娘の美しさに惹かれ、この娘の父が作ったほうぼうへの借金を、債権者たちからまとめて買い上げた。そして厳しく取り立て、領主としての強権を使ってこの牢に放りこみ、この娘を……自分のものにした」

「ええ、彼は私の体を、文字通り切り刻みました」

 アンリエッタの冷たい怒りの声にかぶせるように、淡々とした声が侍女自身の口から発せられた。彼女は今では落ち着いているようだった。

「そういう性質なのでしょう。刃物を使うこともあれば、針やペンチや火を使うことも……私の前にも何人も、彼に殺された女はいると思います。
 彼の好む道具には、使いこんだ形跡がありましたから」

 領主は笑い声はやんだものの、いまだに笑みの形に顔をゆがめたまま、低い声でブツブツとつぶやいた。

「陛下、陛下、その娘は気が狂っているのですよ……その無くなった目は自分でくりぬいたのです。狂人の言うことを信じるのですか?」

 娘は残った青い目をきらめかせ、微笑を返した。

「そうでもしなければ、あなた私を棄ててくれなかったでしょう? 顔だけは傷つけまいとしてたものね」

 耐え切れないという表情で、アンリエッタが叫んだ。

「この娘が手足を縛られ、のどをつぶして棄てられていたのも、自分でやったことだと言うのですか?
 全身の傷、背中にまで刻まれた傷跡も、自分自身でつけたものだと?
 わたくしは彼女を治療するときに、すべて見たのですよ。
 もしわたくしたち一行がたまたま通りかかって、その中の一人がたまたま森の中に入らなければ、この娘は見つけられずに死んでいました」

 領主は黙った。笑みのまま。
 暗い地下牢の中、侍女の持つ燭台の明かりだけが、ちらちらと揺れている。

 アンリエッタは緊張を悟られまいと、ひそかに息を呑む。
 と、領主は、唇をまくれあがらせて吐き捨てた。

「あの愚か者ども、殺して捨てろと命じたのに。直接手をかけることに怯みやがる……ああ陛下、気になさらずに。わが家の召使の話です。
 どうやら彼らには罰を与える必要がありそうです、これも主君の義務ですよ」

 罪を認めたとみてとって、アンリエッタは静かに宣告した。

「彼らには、女王つまりわたくしと国家の名において、罪に見合った裁きが下るでしょう。あなたがそれを行う余地はありません」

「陛下、そうお思いですか? この日あなたを出迎えたとき、そこの女の姿を見て、わたしが『もしや』と警戒しないとでも思ったのですか?
 何の準備もしないと思っていたのですか?
 いいえ、あなたがわたしを小ざかしく問い詰める意図は丸見えでしたよ、だから夕食の間中、領地のほうぼうに使いを出しておきました。
 領主は私兵をかかえるものです。彼らは集まり、もうここに来るでしょう」

 その言葉に合わせて、地上から銃声がひびいた。
 マザリーニがはっと顔をあげた。
 アニエスが大して慌てる様子もなく言う。

「銃士隊、および水精霊騎士隊が完全武装で警戒している。まあ問題ない」

「本気で言っているのか、そこの女? 魔法の使えぬ女どもと、餓鬼どもの集団が何の役に立つ? こちらの手勢は数もおまえらと同じだけ集まるのだぞ」

 領主の嘲笑に、誰も答えなかった。
 ガンダールヴの存在まで説明してやることはない。
 かわりに、アンリエッタはもう一度宣告した。

「おとなしく罪に服しなさい。明白な反逆に移った時点で、あなたの領主としての権利は剥奪されたのですよ」

 領主は肩をすくめた。

「ええ、陛下にはしてやられましたよ。
 本来なら、わたし自身があの兵どもを統率しているはずだった。
 しかし、つい先ほどマザリーニ卿にうながされ、御前に出るなら杖を置けと言われた……あとは知ってのとおり……」

 突然で、迅速な動きだった。
 領主は自分に突きつけられた銃士隊の三人の剣のうち、一本の刀身をつかむと、
その銃士隊員を蹴倒し、背後から突きこまれた二本の剣を払った。

 そのまま女王に向けて突進する。
 アニエスが無造作にその前に、剣をぬいて立ちはだかった。「どけ」と領主は絶叫した。

 二条の剣閃が走った。
 領主の突きはアニエスの胸甲の上をすべり、アニエスの剣は領主ののどを貫いていた。

「なるほど、貴様は変わったやつだ。貴族でありながら剣も使えるとはな。
 だが、鎧を着ていないものばかり相手にしてきたようだな?
 陛下を人質にしようとしたのだろうが・・・玉体に手をかけようとした時点で、こうなると想像できなかったか?」

 アニエスの言葉に、領主は首を貫かれたままごぼごぼと血でのどをならし、笑みを浮かべた。
 アンリエッタはその光景を見ていた。

(王は役者、王は道化・・・)

 心を、できるかぎり冷たく保つ。
 最後まで、怯まぬ女王を演じきらなければならなかった。

 アニエスの剣が首から抜かれ、かつて彼女の臣下だった領主が牢獄の床に倒れたとき、
アンリエッタは黒いドレスの裾をつまんで一礼した。

…………………………
………………
……

(……ようやく終わった)

 嵐が止んでいる地上にもどり、灯火に照らされた城の庭に出て、アンリエッタは大きく息を吐いた。
 あの牢獄の陰々たる空気を、肺腑から追い出すように。
 かすかに血と牢獄の臭いのする黒いドレスを、一刻も早く脱ぎたい。

 けれども、この夜にはまだやることがあった。報告を受けねばならない。
 目の前にギーシュと才人が駆け寄ってくる。
 どちらも服や髪がボロボロになっていたが、大怪我はなさそうだった。

「やりましたよ! 連中は大挙してやってきましたが、追い返しましたとも、ええ!」

「ギーシュてめえ、メイジを半分くらい俺一人にまわしやがったくせに、何を威張ってんだ! 見ろこの焦げた服を!」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人をあわててなだめ、治癒魔法をかける。
 火傷を治療してもらいながら、才人がアンリエッタに聞いた。

「終わったんですよね? 姫さま、今度からちょっと危ないことは避けてくださいよ」

(マザリーニと同じことを言うのね)

 なぜかおかしくなり、アンリエッタは軽やかに笑った。

「こう見えてもわたくしは昔、なかなかおてんばだったのですよ。ルイズから聞きませんでしたの?」

「……アンリエッタ様」

 静かな声で呼ばれた。アンリエッタは振り向いた。あの片目の侍女が、はかなげに立っていた。才人とギーシュが、目配せをしてそっと退がる。

「あ……ええ、これで全て終わりましたわ。あなた……これからどうするの?」

 アンリエッタは侍女の前に歩み寄り、抱いていた心配を疑問として聞いた。

「あなたさえ良ければ、わたくしの王宮で仕え――」

「アンリエッタ様、お手を」

 女王の言葉をさえぎって、侍女はそう言った。

「あなた……?」

「お手の手入れをあと少し。終わっていませんもの」

 侍女の唐突な要求にとまどいながらも、アンリエッタは言われるまま手を出した。
 侍女は棒ヤスリを取り出すと、丁寧にその爪をといで短くしていく。
 そして、片目を伏せたまま、「話さなかったことがもう少しあるのです」と。

「私の父は腕の良い金銀細工師でした。
 お金についてはだらしなく、借金がほうぼうにありましたが、父の作る細工物は本当に見事だったのです。
 ですから、借金の取り立ても、決してひどくはありませんでした。
 遅れてはいましたが、父は返していましたし、細工の注文が来るかぎり返済能力はあると債権者からも認められていましたから。
 でも、ある日それが一変しました」

 侍女は顔を上げずに、爪をみがきながらしゃべり続ける。アンリエッタは異様な寒気を感じた。

「父は近衛兵団の杖の、銀の鎖飾りの一部を、大きな工房から任されて手がけておりました……近衛兵たちの好む金や銀の飾りもね。
 でもある日、新しく王位についた方が、『華美な悪弊』としてそれを廃止してしまったのです」

 落雷を受けたような衝撃を感じ、アンリエッタは凍りついた。

(近衛兵団の杖の、銀の鎖飾り? それは……それは……高等法院長リッシュモンを処断する前に、わたくしが廃止した……) ※5巻P182参照

「それで父は当座の仕事のめどを失いました。
 債権者は、父にこれまでのようには金が入ってこないかもしれないと知ると、取立てを厳しくしはじめました。
 そしてある日、私に目をつけたあの領主が、父を見放した債権者たちから債権をまとめて買い上げ、速やかに返さねば借金のかたとして私を連れて行くと脅したのです。
 訴える? 借金したのは間違いないことで、裁くのは土地の領主ですよ? つまり、あの男です。
 連れて行かれたくなければ、期日までに金を返すしかありませんでした。
 領主の上にいるはずの王様は何をしているのだろう、とも思いました」

 アンリエッタは凍りついたまま、侍女を見ていた。思考も舌も麻痺して、何も言葉が出てこなかった。
 侍女の灰色の服、その袖から見える素肌には、いくつもの傷跡がついている。

「……王軍で補給担当の部隊の兵になっていた兄は、それを知るとなんとかして金を作り、送ってこようとしました。軍の物資を盗んで売ってでも。
 そのときはすでにアルビオンとの戦になっていました。兄は見つかり、戦時ということで利敵行為のかどで即刻処刑されました。
 平時ならねえ。平時なら、補給物資を売りさばいたくらいで死刑にはならなかったかもしれないし、警戒がゆるくてばれなかったかもしれないのに」

 顔を上げないまま、侍女は肩をふるわせた。泣いているのか、笑っているのか判別しがたい声が漏れていた。

「アンリエッタ様、アンリエッタ様、あなたのお手手はとてもきれい。
 華奢で細い指、傷の無い白い肌、爪だって完璧な形。
 私みたいに全身が傷だらけじゃないです」

 侍女は一つだけ残った青い青い目を上げて、アンリエッタの目を見る。
 手入れしていた彼女の指を口にふくみ、舌をはわせて、まだ爪をといでいない最後の指の爪を噛んだ。
 ぷちりぷちりと爪を噛み切っていく。

「私にも恋人がいました……あなたのウェールズ王子ほどハンサムではなかったけれど、幼いころから知っていて、私を大切にしてくれた人が。
 彼の爪が伸びてくると、よくこの糸切り歯で爪を噛み切ってあげました。
 彼も兵士として、あの戦に行っていましたよ……でも、連絡が絶えました。
 兄が金を作れず、父が牢の中で死んで、私はあの男にさいなまれるようになった後も、彼がどうなったのか、ずっと知りたいと思っていました。
 この館に出入りする商人にようやく接触し、彼の消息を聞きました。
 彼は戦死したんですって。本当におかしい話、私は死ぬに死ねないでいたのに、戦争ってあっさり死ぬのねえ」

 アンリエッタはがたがたと震えていた。

(『あなたとわたくしはどこがが似ている気さえ……』わたくしはそう、言いました……彼女が、恋人をあの戦で奪われたのなら、その仇は……)

 先ほど、地下牢で領主と相対していたときには、女王としてふるまえた。
 なのに、青い目の前で、今の彼女は、ただの黒いドレスを着た怯える少女だった。

 そのとき横から――飛びかかる勢いで――アニエスが侍女を押し倒し、うつぶせにして背中に手をねじりあげ、蒼白な顔で棒ヤスリを奪い取った。

「申し訳ありません、陛下! でも……このヤスリは先が尖っています、突き刺すこともできそうなほどに」

「………………ぁ……」

 アンリエッタは口に両手を当てて、我知らずあとずさった。
 アニエスに組み伏せられた侍女は首をねじまげ、青く深い瞳で地面から見上げ、心底から不思議そうに彼女に問いかけた。

「アンリエッタ様、あなたはご自分と私は同じだと言ってくださいました。
 それなら、なぜ私が恋人のため、父と兄と自分のために復讐しようとしても、こうして私は組み伏せられ、あなたは立っているのでしょうか? 
 『私と同じ』あなたは復讐することができたのに。私にはわかりません」

 アニエスが怒鳴った。

「おまえの、全ての不幸が陛下のせいか!? あの戦はアルビオンが先に手を出してきたのだ!」

 少女は青い、青い、青い一つきりの瞳で、地面からただアンリエッタ一人を見る。

「先に……でも、その後の、私の恋人と兄を奪った大遠征は? する必要があったのでしょうか?
 トリステインの白い百合の紋章の下で、オリヴァー・クロムウェルと戦った者たちは、そして死んでいった者たちは……
 アンリエッタ様の復讐のために戦場に行ったと、アンリエッタ様自身が話してくれましたよ」

…………………………
………………
……

「死んだ領主の罪を公表します。財産は国家が差し押さえます。かの領主の評判が悪かったのは幸いですな、どこからも文句は出そうにありません。
 死者に鞭打つほどに苛烈に行いましょう。国内の諸侯たちも、それを見てあらためて王威を知るでしょうから」

 マザリーニの事務的な言葉に、返事は返ってこなかった。
 枢機卿はアニエス、そして才人と顔を見合わせ、三人して深いため息を同時についた。
 彼は、主君に声をかけた。

「陛下、それ以上飲むのはおよしなさい」

 やはり返事は無い。

「陛下。どうしようもないのですよ、どんな施政も万人を幸福にはできません。
 かならず、どこかでしわ寄せがくるのです。彼女はあなたの政によって起きた、一番悪い運命を引き当てただけです。運が悪かったのですよ。
 多くの民は、あなたを慕っていますよ」

「うそです」

 弱弱しい声。アンリエッタは、椅子に腰かけてワイングラスを次々とかたむけていた。
 目に光はなく、グラスをつかむ手に力はなかった。
 素肌に薄手の、淡いピンクの夜着をはおっただけのしどけない姿。

「枢機卿、あなたは正しい、あなたの言うとおりでした……わたくしはまさに、道化の王です。王権について、何もわかっていなかった」

「陛下! ……このようなことは決して言いたくありませんが、王はときに民の幸福を、数字としてとらえねばなりません。あの娘は、最も少ない部類なのですぞ。
 自分の感情に振り回されてはなりません!」

「マザリーニ、出て行って、おねがい。今は……」

 マザリーニは悲しげに息を吐き、そして背を向けた。
 出がけに、アニエスと才人に目配せしていく。

 アニエスが、気が重そうに口を開いた。

「陛下、あの少女のことですが……彼女は、なかば気が触れているようです。
 そういう名目で、修道院に入れることにしました。院の外へ出てくることがないように、修道院側に伝えておきます」

 びくりとアンリエッタが震えた。それから、か細い声で訊く。

「……それは……幽閉ではありませんか」

「いかにも。ほかにどうします? 古来より、王の玉体を傷つけた者は、未遂であっても本来は死刑です。彼女を殺しますか?」

「だめ。絶対にだめ」

 ほとんどすすり泣くような声で、アンリエッタは拒否した。

「彼女はわたくしの体をなにも傷つけていない、ただ爪を噛んだだけです……わたくしは痛みさえありませんでした」

 心は痛んでいるでしょう? と問うような目でアニエスは主君を見、そして続けた。

「……彼女自身が復讐の意思をはっきりと口にしましたよ。それをわたしも聞きました。
 どちらにしても、これ以外に彼女が死罪に問われず生きる道はありません。
 狂人の支離滅裂な行動であったということにすれば救えるのですよ、陛下。
 ……彼女が本当に狂っていたのかそうでないのか、わたしにもわかりませんが」

 虚脱したような女王を痛ましげに見やり、アニエスは黙って一礼した。
 そして、『任せるぞ』とばかりに才人の肩をぽんと叩いて退出する。

 その女傑の後姿を見送ってから、才人は最後に取り残されたことに気がついた。
 濁った目でどこかを見つめながら、ちびちびとワインをなめている女王を振り向き、さんざん迷ったあげく話しかける。

「あ……あのさ、姫さま、俺の周りの人たちには平民もけっこういるんだけどさ、決して姫さま憎まれてなんかいないって。
 どっちかといえば好かれてるんじゃねえかな」

「……ほんとう?」

「本当本当! マジだって! だ、だから元気出してくださいよ」

「それは、きっとその方たちが、わたくしのために誰か大切な人を失わなかったから……だから、こんな女王をまだ許してくれるのです」

 アンリエッタは机にぶつかるほどに頭を垂れた。
 衝撃が深すぎて、悔恨の涙さえ出てこない。

(わたくしは愚か者、自分のために死んだ者が何人もいると、ちゃんとわかっていたつもりだった……でも、でも……)

 震える手でボトルのワインをグラスにそそぐ。
 目の前で才人が何か言っている声が、水の中のようにくぐもって聞こえない。
 グラスをふと見つめる。グラスになみなみと注がれた赤いワイン。真っ赤で、どろりとして、戦で流れた血のような。

「う――ええぇぇっ!」

 突如として吐き気がこみあげ、アンリエッタは口を押さえて突っ伏し、必死に嘔吐をこらえた。

 気がつくと、少年に抱え上げられていた。
 そのままベッドに横たえられ、寝具をかぶせられる。

「寝ろよ! いいから、もう寝ちまえよ。一晩寝れば、きっとましになるから」

 怒ったような才人の声。涙でぼやけた目で、彼の顔を見上げた。
 自分を心配してくれていることが、なぜかはっきりわかった。

「眠れません……」

 弱々しく首をふる。

「だって目をつぶると、青い瞳が見えるのです……」

 罪を責める声も聞こえる。
 『トリステインの白い百合の紋章の下で……』と。

 ふと、唇を重ねられた。
 少年が離れたあと、彼をぼんやりと見上げる。
 才人は顔を赤らめて、アンリエッタの手をにぎっていた。

「……それは、ルイズにするような?」

「……あいつ、キスして触れててやればよく眠れるから」

 少女はほんのかすかに、嗚咽を漏らした。少年の手を握りかえして、哀願する。

「おねがい、もう一度してくださいまし。言われたように眠りますから……決して夢は見たくない、夢を見ないように、お願いだからここで手もにぎっていて……!」

 才人は言われたとおりに唇を重ねた。

 アンリエッタが彼の手をにぎりしめたまま眠ったあと、彼は憮然として頭を垂れる。

「あー……俺ルイズいるのにな……なんかヤベエ」

『ホントにな。いいのか?』

「うわデルフ、いきなりしゃべるなよ! ほっとけないんだよ、この人」

 秋の夜、静寂が満ちる嵐の後。
 白百合の紋の国、白い寝台の上、
 赤い罪悪感にまみれて、
 白い女王は眠る。


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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:48:31 (5638d)

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