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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:50:35 (5644d)
202 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:35:28 ID:8Um2yxCF 銃口から立ちのぼった硝煙の臭いと、いまも絶叫とともにまき散らされている血の臭いが、森の清冽な空気にまじっていく。 空き地の中にそびえる白い塔の番人は、爪と歯をもって、みずからの守護地を侵そうとした人間の体を破壊していた。 「アニエス……」 怯えからくるおののきを隠せないルイズの声に、アニエスは短く答えた。 「けっして他の者から離れるなよ。あいつは速いし、飛ぶぞ」 それはルイズとおなじく戦慄している、自分と他全員の近衛隊士にも向けた言葉だった。 「幻獣スフィンクスの人形か、人食いの魔獣を模した人形が番人とは悪趣味きわまる…… マンティコア隊などのメイジ近衛兵とともに、蒼白になって酸鼻な光景を見ているだけの銃士隊員にむけ、アニエスが怒声を飛ばした。 「一度もどって、態勢を立て直したほうがいいわよ! 魔法もかわされた。何発かは命中したはずだが、銃弾のときと同じで動きが鈍りもしなかった。 「わかっている、だがあれが夢中になっている今なら――」 唐突に悲鳴が絶えた。 ちくしょうと呻き、アニエスはルイズに背中を向けたまま言った。 「……逃げてすぐに館に戻るぞ、陛下が危ないかもしれん」 その言葉に衝撃を受けたのか、ルイズの声が高くなる。 「どういうこと!?」 203 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:36:03 ID:8Um2yxCF 「あの森林監督官、『王の森』にこんな怪物がいることを黙っていた時点で、底意があるとしか思えない。 背後でルイズがあいまいな表情でうなずく。 「ウォルター・クリザリングを締めあげてやる! 隠していたことを今度こそすべて吐かせてやるぞ」 スフィンクスの四肢が動いた。 夕闇は青から藍にかわりつつある。それが黒に塗りつぶされても、おそらくこの魔法人形は人間たちとちがって意に介するまい、とアニエスは再度舌打ちした。 聞いた伝説のとおりなら、こいつを動かす『永久薬(エリクシル)』はまさに塔のなかにある。 その塔のなかに入れないのだ。扉は、何かの力でかたく閉ざされていた。ルイズのディスペルをかけたところ力は薄れるのだが、不思議と盛り返すのだ。 ……が、このとき異変が起きた。 ルイズがあっと声を上げ、歩み寄るスフィンクスのことも忘れたか、アニエスの隣にならんで怪物の後ろを指さした。アニエスももちろん見えている。 「あれなら入れ――」 その声が途中で止まったのは、開く扉の向こうで蠢くものたちを見たからだろう。アニエスの顔もひきつった。 ミノタウロス、首のない巨人、大サソリ、大きな毒牙のある蜘蛛、目のない大蛇、亜人や幻獣や神代の昔の奇怪な動物たち。おそらくすべて魔法人形ではあろうが。 「射撃用意やめ、総員退却。みんな走れ」 アニエスはどうにかそれだけつぶやき、身をひるがえすとルイズの手をつかみ、その小柄な体を引きずるようにして逃げはじめた。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ 204 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:36:45 ID:8Um2yxCF 話はさかのぼる。 アンリエッタは船室の窓から、眼下の森を見おろした。 早春の正午前、浮遊大陸アルビオンの澄んだ冷たい空気。 下の広大な森にはシラカバ、ブナやオークの木々がうっそうとどこまでも茂っている。 広大な森の一画に、ぽつんと小さな尖塔が立っている。アンリエッタはつい、それが何であるのか目をこらして見極めようとした。 「この規模のフネは商船には最適ですな。このようなフネを十数隻所有しているそうです、ウォルター・クリザリング卿は。 「最近は、お金の話ばかりですわね」 アンリエッタに嫌味のつもりはなかったが、不用意につぶやいたのがまずかった。 「陛下、王家の台所は、先年のレコン・キスタとの戦争のこともあってまだまだ火の車なのですぞ。 さすがに先ほどの発言は不注意だったので、くどくどと続くお説教を黙って聞くしかできない。 問題になっているのは、彼女が新設した志願兵による平民の常備軍である。 マザリーニが咳払いした。 205 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:37:37 ID:8Um2yxCF 「それと陛下、貴族たちをこれ以上怒らせることは避けなければなりません。平民にあまり肩入れしすぎ、貴族に厳しすぎると、陛下は思われはじめているのです。 「枢機卿、あなたも巡幸の直後、言ったでしょうに。 女王は顔をあげて、枢機卿に強い視線を向ける。 王権を強化すること、諸侯の過ぎた力をそぐこと、平民の権利を拡大すること。 「私が申しあげたのは、気づかれないようにじわじわと、ということでしたぞ。 いまの枢機卿は政治家の顔をしていたが、内実は弟子にたいして辛抱づよく指導する教師なのだった。 「税を払いたくない貴族は、あせって武器を売る。すると世に流通する武器が多くなり、値段が大きく下がる。 諸侯から買った恨みは、この先どう不利に働くかわかりません。 (大貴族たちは多くの免税特権を持っているわ。度をこした贅沢をしたり、投資に失敗さえしなければ平民よりはるかに豊かなのに、国庫にむくいる比率はより少ないのよ) もともと、潔癖なところのあるアンリエッタである【9巻】。 「マザリーニ。わたくしはトリステインの女王ではないの? 諸侯の主君ではないの? 「……あなたの祖父、偉大なるフィリップ三世が玉座にゆるぎなく君臨した古き良き時代には、王は名実ともに諸侯の『主』でした【2巻】。 マザリーニは最後にそれをのみ言うと、口をつぐんだ。 206 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:38:10 ID:8Um2yxCF ほどなくフネは『桟橋』の木【2巻】に停泊した。 彼女を待つ数十名の中、並んだ桃色の髪と黒い髪が視界にはいった。 降り立ったそこは、すぐ館の庭である。 トリステインの河川都市トライェクトゥムの領主にして市の参事会員、アルマン・ド・ラ・トゥール伯爵は四十七歳。 その横。 この館の主、アルビオンの『王の森』の森林監督官、ウォルター・クリザリング卿のほうは、ゆるやかなあずき色の服と狐の毛皮のコートを身に着けている。 二人とアンリエッタが形どおりの挨拶をかわした後、ラ・トゥール伯が発言の許しを得て言上した。 「陛下、このようなあわただしい日程になって申しわけありませぬ」 「まさか。マルシヤック公爵に引き止められるまま、ロンディニウムに予定より一日多く滞在してしまったのはこちらの都合です。わたくしが謝らなければなりません」 今回は、形としてはトリステイン出身の代王マルシヤック公爵【8巻】と会い、彼によるアルビオンの統治の詳細な現況について、直接の報告を受けるのが主目的ということになっていた。 「では陛下、昼食会をかねて本題に入ってもよろしゅうございますか。中庭に用意はととのっております。 ラ・トゥールは礼儀正しくはあったが、まるで自分の館のように傲然として悪びれない態度。良くも悪くも、貴族的な尊大さがにおう男であった。 207 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:39:11 ID:8Um2yxCF サクラソウの咲きほこる中庭には樫のテーブルがしつらえられ、料理の大皿が運び込まれていた。 (魚介類?) クリザリング卿が召使たちに指示を飛ばしている間、ラ・トゥール伯爵が少しのあいだ消えていたが、その姿がふたたび見えたとき彼はワイン瓶の大樽をひとつ、同行した秘書官に抱えさせていた。 飲んでみるようにすすめられ、わけがわからないながらもアンリエッタは飲み干した。 「……なるほど」 ふいに横で、マザリーニがつぶやいた。理解の光がその目にある。 「空路の交易拡大、というわけか。 ラ・トゥール伯爵が、満面の笑みを浮かべた。 「さすがに明晰でいらっしゃる。そのとおり。 よって、とラ・トゥールは続けた。列席者の大半は、何を言わんとするかすでに理解していた。 「空路交易により、これらの新鮮な商品を安くアルビオンの民に提供するのです。ごらんください、この領地にはフネが停泊できる立派な港があります。また、商船に転用できる立派な船団がすでにあります。 王家に対し、対等の呼びかけという形。アンリエッタは媚びへつらわぬその態度にかえってすがすがしい印象をいだき、微笑未満の表情をうかべて質問した。 208 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:39:59 ID:8Um2yxCF 「王家が援助しない場合には?」 「やむをえませぬ。大貴族やほかの都市におもな株主となっていただくでしょう」 ここでマザリーニが受けた。 「資金のことだけではない。いまのアルビオンのような各国の利害がからみあう地において、そのうち一国の政府の後ろだてすらない民間事業がうまくいくと? 「ええ、その場合は、トリステイン王家以外でどうにかしてくれるところを探すでしょうな」 援助してくれなければ他国にこの話を持ちこむ。そう言ったも同然で、危険なせりふだった。それを、ラ・トゥール卿はさらっと吐いた。あるいは平然をよそおっている。 実のところ、これは試してみる価値のある話に聞こえた。すでに王家が提案を受けることは七割がた決まり、互いの利権のラインをさだめる駆け引きに移っていることを双方が承知している。 クリザリング卿が、話がどうでもよいかのような表情を浮かべ、奇妙な沈黙を保っていることに気づき、アンリエッタは彼に水を向けてみた。 「クリザリング卿はどうなのでしょうか? この話において、船団と港を提供する彼の同意は得られているのですか。 答えたのはラ・トゥールだった。 「むろんです。急な話ではありましたが、数日前に合意はすでに得ています。彼は彼ですでに空輸事業を手がけていたそうですが、革命騒ぎの間はそれもままならず、戦争が終わってからはなにかと…… クリザリング卿が不遇という話に、アンリエッタは気まずいものを覚えた。 結構です、とアンリエッタはうなずいた。 「では、王政府としてはこの話を真剣に考えさせていただき――」 「お待ちいただきたい、商談とは別に、手前には申しあぐるべきことがあります」 女王をさえぎったのは、クリザリング卿だった。本来はそれだけでも無礼であったが、くわえてその男は驚くべき行動に出た。 209 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:40:44 ID:8Um2yxCF 「天地も人も照覧あれかし。火と水と土と風と虚無にかけて、始祖ブリミルの御名にかけて。 中庭の誰もが絶句した。 アンリエッタは呆然と、目の前にひざまずいたその『王の森』の森林監督官、かつてのアルビオン王の代官を見る。 ところ狭しと食卓に並べられた魚料理は、誰にも手をつけられないまま湯気を立ちのぼらせていた。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ 「ただいま戻りました、陛下」 波乱の昼食会の後、数刻ばかり。 アニエスは革の手袋を脱ぎ、アンリエッタの机の横に直立して、開口一番にそう言った。 彼女はアンリエッタの船が到着する一足先、早朝にこの領地にやって来て周辺を調べていたのだった。 「ご苦労さまでした。やはり、なにか変わったことがありましたか?」 「はい。周辺地域でのうわさ話のとおり、ここはおかしなところのある土地です。 その名が出たとき、女王がやや動揺した様子を見せた。ルイズと才人も似たような表情で沈黙している。 「いえ……気にしないで。報告を続けてください」 「では陛下、申し上げます。ラ・ヴァリエール殿の『虚無』の協力をあおぐ必要があるかと。 210 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:41:30 ID:8Um2yxCF あの塔だわ、とアンリエッタは一人ごちた。空の上から見た、森の中の奇妙な尖塔。 「わたしの虚無で、その塔の扉をどうにかしようというわけ?」 「しかり。貴殿ならどうにかできるかもしれん」 「待って、アニエス。その前に、なぜそんなことをする必要があるのか、聞かせてもらえないかしら? アンリエッタとアニエスは顔を見合わせた。 「話していなかったの、アニエス?」 「……失念していました。忙しくて顔を合わせる機会がそうはなく、たまに会ったらアホなことばかりで……サイトが」 アニエスにぎろりとにらまれ、横からのルイズの視線もちょっと冷ややかなものになり、才人は居心地わるそうにそわそわした。 (数ヶ月であれを一割返せたって、かなり奇跡的な話だと思うんだけどな……自分のために使ってたら一生食える額だぞ) 才人の内心のぼやきをよそに、女性陣は目を見交わしあって何やらうなずいている。 「秋の事件にかかわる話なのです。あなたたちも当事者ですから、すべての情報を知る権利がありますわね。 御意、と女王に頭を下げ、銃士隊長は二人に向きなおった。 「これまで事後経過を明かさなかったことは詫びよう。 淡々と語るアニエスに、わずかに息を呑んだルイズがまた質問した。 「奇怪な死、とは?」 211 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:41:59 ID:8Um2yxCF 「互いに首を絞めて殺しあった。または自死した。 この異様な話をはじめて聞かされた二人の表情はこわばった。 「だが、私は納得できん。あの襲撃に関する多くの情報が、やつらと共に失われたのは間違いない。口封じだと思う、どのような手段かは知らないが。 ルイズが話にうなずく。 こちらもいつものパーカーの上に、防寒のため冬用の騎士のマントをしっかりはおってきた才人が手をあげた。 「怪しげなところって、ここアルビオンだけど。なにか目星がついたんですか」 「目星といえるほどはっきりしたものではない。正直に言うと勘だ。 「アニエス、それが? 盗賊みたいなあぶれ者って、わりとどこにでもいるわよ」 「いや、話としてはここからが本命だ。 耳慣れない〈永久薬〉という単語に、とまどう様子のルイズのひざにアニエスが一冊の冊子をぽんと投げた。 「王の森の〈永久薬〉。千年前に、有能な錬金術師ゆえアルビオン王家の賓客となり、森に住むことを許されていた『塔のメイジ』が作り出した」 「〈永久薬〉の効果は、これを投与された物質を変質させ、効果や力をなかば永続させる」 「最後に〈永久薬〉をみずからに使った『塔のメイジ』は、今もなお魔の塔の頂上で生きているという」 ここまで読みあげて、ルイズはなにか言いたげに顔を上げた。が、アニエスに無言でその先をうながされ、朗読を続行する。 212 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:42:41 ID:8Um2yxCF 「〈永久薬〉の作り方は塔の秘奥であり、千年間、さまざまな者が塔に入ってそれを作ろうとした。数人は成功したが、始祖に呪われたこの術は、ついに幸福をもたらさなかった。 「怪しいことは何でも調べておきたい。 半眼になったルイズに、至極まじめに答えるアニエスだった。 「この領地に、ほかに妙なことがないではないのだ。 「それはさっき話に出たマーク・レンデルというならず者のためじゃないの? 「平民の盗賊団だ。それにフネまでを使い、長い期間をへても根絶できないというのは妙だな。よほど相手が巧妙か、本気で根絶する気がないかだと思うが。 「……わかったわよ。とにかく一緒に行きましょう」 そうアニエスに告げたルイズは、ふとアンリエッタを見た。 そういえばこちらの問題もあったのである。再戦うんぬん。 「アニエス、それでいつ行くの?」 「今から」 「ちょ、ちょっと待って! 急すぎない!? 夜になっちゃうわよ!」 213 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:43:13 ID:8Um2yxCF 「陛下を筆頭に、王宮の者はだれもかれも忙しいんだ。時間を無駄にしたくない。日が暮れたら途中の小屋で寝泊りする。 ここで、アンリエッタが反応した。 「メイジも付けましょう。近衛隊を割いて連れて行きなさい、森の盗賊たちが寄り付けないように。こちらにはラ・トゥール伯爵が同行した警備兵たちがいますから。 メイジがあまり好きではないアニエスは嬉しそうではなかったが、淡々と「御意」と述べた。同じ近衛隊なら「陛下の命令」ということで一応は団結できる。 ………………………… 「クリザリング卿の求婚をどう思いますか、ルイズ?」 二人が去った後、アンリエッタは開口一番、謹厳な声でそう問うた。 「問題外ですわ。たかが一代官の身分で、あのような場での求婚。無礼のきわみとさえいえましょう」 アンリエッタはうなずいた。こちらも政治家をこころがけようとする顔になっている。 身分。公式的に相手を選ぶとすれば、アンリエッタの身分には釣りあう者などほとんどいない。 「実はさきに枢機卿やラ・トゥール卿とも話したのよ。クリザリング卿の申し出は断る以外にないわ。 はっきりした声でアンリエッタはそう言った。 「それがクリザリング卿にわかっていないはずはないのに…… 214 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:44:01 ID:8Um2yxCF なにを目的とするか。どんな利益があるのか。 ……が、この場合はそこが焦点ではない。 「クリザリング卿が明言したわけではないけれど、求婚を断っておいて彼の船団や港の提供を受けるのは期待できないわね。 遠くを見ながらつぶやいているアンリエッタを、ルイズはどこか哀しそうな目で見ている。 「……あの、姫さま、わたしに話って、それだけなのですか?」 ルイズの気遣うような声に、アンリエッタは穏やかにふりむいた。 「ルイズ、サイト殿のことだけれど」 来た。 「いえ、あの、誤解しないでね。 「……え? でも、先の事件のときにおっしゃったことは」 「あれはあれで、本心だと思うの。たしかに……あの事件のときサイト殿を意識しました。 アンリエッタはもじもじと、前で組み合わせた手の指先を動かしながら、言葉を必死で探している。 215 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:44:47 ID:8Um2yxCF 「姫さま、わかりました。申し訳ありません。軽々しくあのようなことを言ったわたしが粗忽でした」 結婚さえ政治的に決めることを求められるアンリエッタが、恋愛において今さらまともな「勝負」など簡単にできるわけもないのだった。暇さえろくにない。 土俵に上がることをしりごみしたアンリエッタと、これ以上この問題で自分が謝るのもなにかが違うと感じるため、言葉を続けられなくなったルイズ。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ 「塔の探索隊はこんなものか。これだけ見える人数がいれば、盗賊というのは最初から襲うのを遠慮するものだ。 アニエスに説明されながら、ルイズは館の廊下を歩く。 「出かける前に、クリザリング卿に念のため通告しておこう。森林監督官だからな」 館の主の部屋の前でたちどまり、アニエスはノックして返事をもらい入室した。 その青年は、昼時にみずからが起こした騒ぎなど忘れたように窓ぎわの肘掛け椅子に身をしずめ、さしこむ午後の物憂い陽光を浴びていた。 「用は」 「ああ、これから森中の塔に行く。あの塔を開くつもりだが、かまわないな?」 「好きにするがいいさ」 どうでもよさそうな声。アニエスは眉をひそめて問いかけた。 「あの塔のなかに何があるのか、訊いてよいか?」 「狂気と、歳月そのものが」 「……思わせぶりなことを聞きたいのではない。具体的にはなにがあるのだ?」 「〈永久薬〉を作るための施設だから、そのための設備があるに決まっている。あとはガラクタが」 216 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:45:27 ID:8Um2yxCF 恬淡とした態度でいきなり直球を投げられて、精神的にたたらを踏んだアニエスが言葉につまっている間に、クリザリング卿は投げやりな調子で先手を打った。 「言っておくが、〈永久薬〉のことを話してやる気にはまったくならん。自分で勝手に見ればよかろう」 「……ああ! そうさせてもらおう」 わけのわからない対応をされ、アニエスが険悪な声を出す。ルイズはその腕をなだめるようにたたき、かわって前に出る。 「クリザリング卿、わたしもいいかしら。なんで陛下に求婚したの? あなたは陛下に……その、本気で?」 彼女も直球を投げた。 「ウォルター・クリザリングの父親が死に、アカデミーからこの館に戻り家督をついで間もないころ、まだ二十代の青年であった数年前。 クリザリングの独白を聞いてルイズは、違和感と驚きを感じている。 違和感は、自分のことを第三者のように語ったこと。 (姫さまはお綺麗だもの、ウェールズさまの他にもあの方に懸想した者が、いてもおかしくないとは思っていたけれど……) 「クリザリングはそこでトリステインの姫君を見た。 内容はまぎれもなく愛を語っているはずだったが、それは異様なほど淡白な口ぶり。なぜかルイズたちは寒気を覚えた。部屋のどこかから、かすかに鼻をつく臭気がある。 「マーク・レンデルなる無法者を、なぜ長くのさばらせておくのだ? フネまで森の警備に使っておきながら片づけられないとは信じがたいな」 「あれは以前はわが配下で、森番の筆頭だった。よく森を知っている、追いつめるのは容易ではない」 目をまたつぶったクリザリング卿は、今度はまぶたを持ち上げもせず答えた。それきり黙る。 217 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:46:20 ID:8Um2yxCF 「おまえか」 ウォルター・クリザリングと周囲に呼ばれている青年は、目をあけて窓に視線を投げた。 「遊びまわるのも大概にするがいい。正直、アルビオンに腰を落ち着けてほしくもないが……金はじゅうぶんにくれてやっただろう? 小鳥が沈黙して首をひねる。青年はその黒い目の奥を見る。 「あの求婚を見ていたのか? あれこそ狂気と笑うのか? あれにはそれなりの理由がつく。クリザリングが望んだことだからな。『自分』の願い、命より優先した願いは重要だろう。 息をついで、彼は言う。 「だから思い残しのないように、すべてのことを片づけようとしただけだ……クリザリング家がこれで絶えようと、あの塔は誰も入れぬまま、高く揺らがず存在する。 その小鳥が、首をかしげていた。その目が小さなブドウほどに大きく見開かれている。 舌打ちをして、青年は目をあわせてやった。 直接脳に投影される映像を、見る。 218 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:48:10 ID:8Um2yxCF 青年は、いつのまにか椅子から立ち上がっていた。 「……虚無の魔法だというのか? ああ、そんなものもこの世にあったな……かびの生えた文献にしか出ないと思っていたよ。 飛び立つ小鳥に目もくれず、青年は部屋の隅に歩き、巨大な衣装だんすを開け放った。 「塔に行く者たちを襲え。館からじゅうぶんに離れてから仕留めていけ。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\ 数刻後。冒頭のルイズたちの苦難と同時刻、館。 アンリエッタは食卓の上座で、ラ・トゥールの秘書官に注がれるワインを傾けた。甘ったるいが後をひかない味、確かに値のわりには逸品である。 クリザリング卿はテーブルの向かい側でつつましやかに、マッシュルームのピュレを添えた赤やまうずらの翼肉を切りわけている。 ラ・トゥールはアンリエッタの右手側の席に座り、ワイングラスを手に一席ぶっていた。彼と相対している左手側のマザリーニが、ときおり相づちをうって意見を返している。 あまり食欲はなかった。 いささかワインのまわった頭で、アンリエッタは広間の隅で警護の任についている少年を見やる。 (ルイズのことを心配しているのかしら) 219 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:48:45 ID:8Um2yxCF たぶんそうだろう。多くの近衛兵がついており問題はないはずだが、それでも彼は気になるようだった。 「……いまとなっては河川都市のいずれも、私がみずからの裁量で事を決することを支持してくれています。 「ほう、トライェクトゥムにとっても河川都市全体にとっても、貴君のような聡明な方を上にいただいたのは幸運でしょうな。 「ええ、もちろん中には、少数ですが不満な者がおります。かれらは旧来の特権にしがみつこうとしているのですよ。水路を利用した、川と海の貿易にこだわっているのです。 「いやいや、実に興味ぶかい。陛下にとっても多くを学べるいい機会……陛下?」 「ええ、はい、興味ぶかいお話でした」 うわの空で返事するアンリエッタを、マザリーニが呆れた目で見た。 (心配ないわよ、ルイズ。 ………………………… 晩餐のあと。アンリエッタにあてがわれた寝室。 召使の女が入ってきて、寝室の暖炉の火をかき消した。 (クリザリング卿はどうして、わたくしに求婚したのかしら。 220 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:49:17 ID:8Um2yxCF クリザリング卿が自分を見たときの顔を思い浮かべる。 布のうえでしどけなく寝返りをうつ。 人目を考えず自由に恋愛する権利など、王族に生まれたときからない。それは、彼女も身にしみていた。 夜の影のなか、熾火がくすぶる暖炉。寝台のうえで、少女は体を丸めて想いに沈む。 (あなたはここの王になるはずでした、そしてわたくしはゲルマニアに嫁ぐはずだったわ) 運命は烈風となって、その未来は羽毛のように吹き散らされ、ウェールズ・テューダーは皇太子のまま死に、そして自分はトリステインの女王になった。 「国のために嫁ぐ」ことを当然と育てられ、実際にゲルマニアに嫁げと言われて諾々と従ったあとでも、アンリエッタは想いが叶うことをどこかで夢見ていた。 自由を奪われていく姫としての暮らしの中、それだけを夢見て生きていたほどに。【四巻】 夢は砕けた。当たり前のように叶わず、無残な形で終わった。 (焦がれて狂って、残ったものは……みじめさと悔恨と、罪だけだった) まもなく嫁ぐはずだったアンリエッタが、危険をおかして亡命をすすめてもウェールズは断った。 それでも、アンリエッタの抱いた愁傷は、その瞬間を思い返すたびに虚しさをつのらせる。 221 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:49:48 ID:8Um2yxCF 後になって、それを埋めてくれる相手がいるかもしれない、と思えたことがあった。 一度あきらめたはずだったけれど、先の秋にまた心を燃えたたせてしまったのだった。 (サイト殿のことはもう考えてはだめ、忘れなくては) どのみち、それも叶うことはないのだから。これが恋であるか完全な自信はないが、たぶんそうだとしても、幸福に終わることなど決してないだろう。 彼女なりに、この冬のあいだ考えていたことだった。 ただ救いとしては、しばらく続いたルイズとの気まずさもこれで解決するはずだ。クリザリング卿の唐突な求婚は、自分の立場を思い出させてくれるという意味で役に立った。 それなのに、ゆっくり冷えていく部屋の夜気の中、少しずつ想いはつのるばかりだった。 思い浮かべてしまう。黒い髪の毛、黒い瞳。 ぶっきらぼうな優しさ。 時折ルイズに向ける深い愛情のまなざし。 彼はいま、この部屋と廊下をはさんで反対側の部屋に寝ている。護衛の慣例として、何が起こっても即座に駆けつけられるように。 想像するぶんだけ、独り寝の寂しさがますますつのり、まどろんで半ば夢のなかにたゆたいながら、瞳がうるんで艶をおびていく。 (……なにか、おかしくないかしら?) 妙だった。アンリエッタはベッドから身を起こした。 気がつくとふらふらと立ち上がり、部屋を出て心の命じるところに行こうとドアノブに手をかけていた。 呼吸が荒くせわしなくなり、体温が熱くなっていく。 よろめいて心臓をおさえるように胸元をつかんでから、アンリエッタは飛びつくように部屋の隅の手荷物をさぐった。 222 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:50:23 ID:8Um2yxCF 夢うつつに、起きてサイト殿、と呼びかけられたような気がした。 「……んにゃ?」 体をゆすぶられ、寝ぼけまなこで才人はベッドから上体を起こした。 「わたくしです、静かに」 「ひ、姫さま?」 何だってまた。才人はそう問おうとして気づいた。アンリエッタの呼吸は苦しげなものだった。 「毒の類を盛られました。おそらく晩餐のときに」 一瞬で目が覚め、才人ははね起きた。血相を変えた彼の様子を見て、あわてたようにアンリエッタが補足する。 「だいじょうぶ、解毒薬は服用しました。さいわいにも即効性ではなかったのです。 よくわからず、才人はとまどった声でたずねた。 「毒ではない?」 「ええ、ですが善意の産物とはとても言えません。 アンリエッタの言葉が終わらぬうちに、突然の轟音が夜を裂いて響きわたり、露のおりた窓ガラスを震わせた。 223 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:51:33 ID:8Um2yxCF 廊下のほうからも何者かの叫びが聞こえた。 才人がドアから離れないうちに、廊下を走ってくる音が聞こえた。 才人はドアから距離をとる。入ってこようとしている外の誰かに「だれだ? 何があった?」と呼びかけた。 愕然と立ち尽くしているアンリエッタを振り向き、才人は「逃げましょう!」と意見を述べた。 「このような……こんな大胆な真似をするなんて。以前とは違う、軍はすぐ近くにいるのに」 領主は平民の共和主義者と違い、多くは領地から離れられないという点では、反乱を起こせば根絶するのはより容易だ。 「これがラ・トゥール伯爵、クリザリング卿のいずれが起こしたものにしろ、こんな軽々しく反乱のような真似をして、三日と無事ですむはずがないのに」 今この館では、アンリエッタ以外ではその二人しか、まともに動かせる兵力を持っていないはずなのだ。 「そこは俺にだってわかりませんよ。相手が誰でもいまはとにかく逃げなきゃ」 館を出て、速やかにアニエスたちのあとを追い、合流する。それしか今は思いつかない。 才人は身をひるがえしてベッド枕元のデルフリンガーをつかみ、それを抜く。 ベランダの白木の桟、すこし離れた箇所に飛来した炎の玉がぶつかって、その箇所を瞬時に消し炭に変えた。 やべえ猶予がねえ、と青くなった才人は、とっさにアンリエッタの腕をつかんで引き寄せ、抱きあげた。 ほっそりした柔らかい体が腕のなかで驚きにこわばるのも、考慮している暇はない。 224 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:52:53 ID:8Um2yxCF 昼のようにあかるい月光に照らされた館の庭では、どちらがどちらとも知れぬ二陣営の戦闘が行われている。 館をとりまくブナの森に逃げこむことには成功した。 居心地悪そうに才人の胸でちぢまっているアンリエッタが、自らの異変に気づいたようなうろたえた表情になった。 ………………………… 長くガンダールヴの力を使うわけにもいかず、けっきょく才人は途中からアンリエッタの手をひいて走っていた。 「サイト殿、待って、待って、わたくし……!」 アンリエッタがその声とともに、よろめくように極端に遅くなってきたのを感じ、才人はやむをえず足をゆるめた。 「姫さま、失礼しました。でも、やっぱり今は急がなきゃ。 デルフリンガーをおさめ、葉の露と汗でぬれた額を服の袖でぬぐいつつ言おうとして、才人はその手をとめた。 「……姫さま?」 大きく胸を上下させ、白い呼気が荒いのは走ったためとしても、それだけでは説明できないほど妙に足元からふらついている。 「姫さま? どうし――」 225 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:54:04 ID:8Um2yxCF 才人の声は途中で封じられた。問いを発しかけた口ごとふさがれた。 「ちょ、何、」 才人がテンパった声を出せたのはつかの間、すぐまた湿った唇を重ねられる。 華奢な身体でもぐいぐいと押しつけられると、才人までよろめいて後ろに下がってしまう。 「ちょっと――ちょっと待った! なんなんです一体……むぐ」 パニックになりかけたところでひときわ深く唇を重ねられる。 「盛られたのって……『惚れ薬』のたぐい?」 その問いに、アンリエッタはうるんだ目を伏せて荒い息をつきながら、こくりとうなずいた。 「待ってください、解毒薬をのんだのでは?」 「のみました! のんだ、のに……おかしいのです、どんどんぶりかえして」 ほとんど唇がふれあう距離で、ささやきを交わす。 原因がわかっても、対処法がわからない。 「ちょっ、待て姫さま待ったストップ、しっかり気を持って!」 「ち、違います、服の下に解毒薬が! 226 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:54:52 ID:8Um2yxCF 万が一のために、とっさに万能解毒薬をアンリエッタは懐に入れてきたのだった。が、横抱きにされたり走ったりで、気がつくと自分では手を入れられない背中のほうに薬の瓶がある。 「サ、サイト殿、取り出してください」 至近距離でそう言われ、才人は絶句した。 「はやくして、わたくしに意思があるうちに早くして!」 やむをえず、才人はアンリエッタの暗紫色の絹ガウンを取りのけ、背中側に手をまわして、うなじの方から肌着の中に手を差しいれた。 「え、えっと、あれ? あ、腰帯のあたりまで落ちてるのか……」 肌着に腕までを突っこむと、少女の身体がびくんとはねた。 「あっ、くっ、くすぐらないで!」 くすぐってねえよ妙な声を出すなよ、と才人はますます動揺した。 「……あ……ぁ…………」 227 :黄金溶液〈上〉(白い百合の下で・3):2007/11/28(水) 01:55:22 ID:8Um2yxCF 聞くな俺聞くな、と少年は腕を深くまで進めてまさぐりながら意志を総動員している。 「……やっぱり、……だめ……」 ふと、アンリエッタの顔が上げられた。 待ておい何だこの状況、と才人はその舌を自分の舌で必死で拒みながら、思考をつなぎとめる。 この状況下で混乱しかけていた才人が気づかなかったのは、無理もないかもしれない。 夜風を切って矢が飛んだ。それは二人の近くの木に突き立ち、矢羽を震わせた。 「獣の待ち伏せに、妙なものがかかったな。数人がおまえたちに狙いをつけている、樹上と木々の間から。 「誰だよ、あんたら?」 才人は剣を抜きかけた手をそのままに、そうたずねた。 「どうも。マーク・レンデルだ」 |
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