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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:52:26 (5645d)
前 27-606不幸せな友人たち ギーシュ
不幸せな友人たち アニエス
ギーシュ・ド・グラモンらが処刑されてからほとんど間を置かずに、トリステインの王政は幕を閉じた。
それは同時に、貴族という特権階級の消滅をも意味していた。今回ばかりはデルフリンガー男爵領にも大きな影響が出るかと危惧したティファニアだったが、問題はほとんど起こらなかった。
現在領主として領地の運営に当たっている貴族は、各地区で選出された代表者の政治的な補佐役として、以後もその地位に留まってもよい。
アンリエッタ女王が、新たに誕生した国民議会に政権を譲渡する際、そういった取り決めが交わされたからである。
これには「それは旧領地の領民の過半数から支持を得られた場合に限られる」という但し書きがついていた。ルイズは十数年間の稀に見る善政により、デルフリンガー男爵領に飛躍的な発展をもたらしたので、領民は当然、これ以降もこの地に留まってくれるよう懇願し、彼女もこれを受け入れた。
「サイトも手紙でそうしてくれって書いてたし、あの人がちゃんと腰を落ち着けてくれるまで、この土地を守っていかなくちゃ」
ルイズはそんな風に笑っていたそうだ。
アンリエッタに反抗的だったり、地位を利用して私腹を肥やしていた貴族はほぼ全員粛清されていたため、他の領地でも事情は大体同じだったらしい。元女王の計画は完璧であり、国内で大きな問題は起こらなかった。必然的に、デルフリンガー男爵領に外界からのトラブルが持ち込まれることもなく、時はまた穏やかにゆき過ぎる。
手紙の中の才人は平和な世の中を飛び回り、各地で困っている人たちを助けて回っている。命の関わるほど危険な冒険には、もう挑んでいない。ルイズは彼からもたらされる穏やかな報告を楽しみにしながら、平穏な日々を過ごしているそうだ。
タバサとの約束は、未だに果たせていない。
何度か決意して城に接近したことはあるのだが、彼女の目の前に歩み出るための最後の一歩が、どうしても踏み出せない。
何をするのが正しいのかは、分かっているつもりだ。それでも、実際にルイズに会おうと思うと、どうしても心が揺らいでしまうのだ。
そうして何も出来ぬまま、世の中が大きく変わってからニ十五年の時代が経った。
もはや男爵ではなくなったルイズだったが、領民は未だに彼女のことを「男爵様」と呼ぶ。彼女が住まう居城は、かつてそこに翻っていた紋章から、「剣の城」と名を変えた。
才人はアルビオンにおり、未だ戦争の傷が癒えぬ地域で、復興事業に従事していることになっている。
ティファニアが彼女の小屋に予期せぬ来客を迎えたのは、そんな頃のことである。
(愛しいルイズ。俺は今、アルビオンの片隅にある寂れた小都市に滞在している。ここは前の戦争で壊滅して以来、未だにほとんど手付かずのまま復興が遅れていた町で……)
ティファニアがテーブルに向かって偽物の手紙を書き進めていたとき、不意に小屋の外から小さな話し声が聞こえてきた。
「……ではアン様、歓談の準備が整い次第、お迎えに上がりますので」
「ええ。遅れないようにね、アニエス」
ゆっくりとした足音が近づいてくる。ティファニアは慌てて立ち上がり、手紙を小屋の隅の長櫃に隠した。
(誰だろう? この小屋に用事……よね、きっと。他には何もない場所だし)
だが、先程の話し声は明らかに聞き覚えがない。いや、先に話していた方には記憶にかすかなひっかかりを覚えた気がしたが、答えていた方は本当に聞いたことがない声だった。
(どうしよう。誰が何の目的で来たのか分からないし、留守の振りをした方がいいのかしら)
ティファニアがそんなことまで考えたとき、予想通りドアがノックされる。音は控え目だし乱暴ではなかったが、不思議と無遠慮に感じられる叩き方だ。
ある程度予想できたのはここまでである。
「入りますよ」
返事を待つどころか、そもそも了解を得るつもりすらない言葉だ。まるでそれが当然とでも言わんばかりに、ドアが押し開かれる。驚くティファニアの前に姿を見せたのは、見覚えのない老女だった。
場違いに豪華なドレスを身に纏っている。肩の辺りで切り揃えられた髪は総じて真っ白だ。眉間に深く刻まれた縦皺と、この世の全てを疑っているような冷たく油断のない瞳が特に印象的だった。
(誰だろう)
困惑するティファニアの前で、その老女は無遠慮に小屋の中を眺め回すと、鼻を鳴らした。「貧相なところね、豚小屋かと思ったわ」とでも言いたげな、不遜な仕草だった。
胸にもやもやとした感じを覚えながら、ティファニアは目の前の老女に声をかける。
「あの、どちら様でしょうか」
「あら、ごめんなさいね」
全く謝意の感じられない声音だ。
「私、アンリエッタ・ド・トリステインと申します」
そう名乗ったあと、白い手袋をつけた手で口元を覆い隠して、わざとらしく笑う。
「ああごめんなさい、こんな奥深いところに住んでいるんですもの、名前を言っても分かりませんわよねえ」
胸の中のもやもやが、完全な不快感に転じた。
「いえ、知っていますよ。トリステイン王国の女王、アンリエッタ様ですよね?」
苛立ちを声音に出したつもりはなかったが、目の前の老女の顔は不快そうに歪んだ。彼女は大きく咳払いすると、目を鋭くしてティファニアを見た。
「残念ですが、私はもう女王ではありません。今ではアルビオンに住む一市民に過ぎませんわ。私のことは……アン、と呼んでくださいな」
「それでは……」
アンさんでいいのだろうか、と一度考えたが、さすがに元女王と認識している人間相手と考えると、違和感が拭えなかった。
「アン様、でよろしいですか?」
「ええ、それで結構です」
アンリエッタは満足げに頷き、何かを待つように悠然と腕を組んだ。
「とりあえずこちらに掛けて下さい」
テーブルの前に置いてある椅子を手で示したが、アンリエッタは動く気配がない。視線にわずかな非難を込めてこちらを見つめている。そこでようやく、目の前の老女が元女王だった、ということを思い出した。
黙って椅子を引くと、アンリエッタは無言で椅子に座る。白手袋を脱ぎながらこちらを見る目は、「鈍い人ね」とでも言わんばかりの目つきだった。頬が引きつりそうになるのを我慢しながら、ティファニアもテーブルを挟んで向かい側の椅子に腰掛ける。
「ええと、それで」
話を切り出そうとすると、「その前に」とアンリエッタは眉をひそめた。
「町からここまで歩き通しで、喉が渇いたのですけれど。それとも、ハーフエルフには客人にお茶を出す習慣がありませんの?」
「すみません、そういったものは置いていなくて……水でよろしければ、ありますけど」
アンリエッタは信じられないことを聞いたとでも言うように、ため息をつきながら大袈裟に首を振った。
「いりません。水など飲むぐらいなら我慢した方が……」
言いかけて、何かに気付いたように視線を止める。じろじろと無遠慮にティファニアの格好を眺めたアンリエッタは、また口元を手で隠して笑った。
「ごめんなさい、あなた、大層貧しい生活を送ってらっしゃるのね。そんな方にお茶を所望するだなんて、気遣いが足りませんでした。どうか、許してくださいましね」
侮蔑と嘲弄の意図が滲み出ている口調だった。ティファニアは数年前よりも継ぎはぎが増えた自分の服が急に恥ずかしく思えてくるのと同時に、目の前の老女に対する嫌悪感がこれ以上ないぐらいに膨れ上がるのを感じた。
(なんて嫌な人なんだろう)
なんの躊躇もなくそう思う。基本的に臆病で、心の中ですら他人のことを悪く言ったりできないティファニアにとっては、ほとんど初めての体験だった。
「それで、アン様は、どういったご用件でこちらに?」
早く帰ってくれないだろうか、と思いながらも、表面には出さないよう努力しながら問う。アンリエッタは皺だらけの手でドレスをいじりながら、興味なさげに答えた。
「別に、この小さな小屋に用があったわけではありませんよ。私はね、大事な大事な親友に会いに来たのです」
アンリエッタの乾いた唇が、大きくつり上がる。ティファニアは身を固くした。
「大事な親友、ですか」
「ええ。あなたもよくご存知でしょう? とうに死んでしまった愛しい人が、まだ生きていると思い込んで、稚拙な嘘を少しも疑わずに幸せに生きている、世界で一番馬鹿な女……」
一語一語に強い力を込めながら、アンリエッタは言う。
「ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールのことですよ」
ティファニアの背筋が震えた。目の前の老女への嫌悪感が、一息で恐怖に変わる。
アンリエッタは馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「でも、あの子ったらちょうど体調を崩しているとかで、お付きのメイドが歓談の申し出を断りましたの。私の従者が交渉に行っているから、もう間もなく応じるとは思いますけどね。全く、せっかく私がアルビオンからやってきたというのに、体調を崩しているなんて……相変わらず空気の読めない女だわ」
憎憎しげに言ったあと、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「まあでも、仕方ないかもしれませんね。こんな辺鄙な山の中で、老婆が暮らしているのですもの。体を悪くするのも当然の」
突然、アンリエッタは目を見開いた。椅子の上で体をくの字に折り、激しく咳き込み始める。驚いたティファニアが立ち上がりかけると、鋭く叫んだ。
「来ないで!」
「でも」
「大丈夫、わたしは、大丈夫です」
苦しげに喘ぎながら、アンリエッタが言う。皺と染みが目立つ頬を、汗が一筋垂れ落ちた。目が爛々とした不気味な光を放っている。
「そうよ、わたしは人の助けなんかいらない。そんなに弱ってなどいないもの。あの子を笑ってやるまでは……あの子よりも先に、死ぬものですか。あの子なんかよりも先に……!」
怨嗟のこもった呟きは、途中で聞き取れなくなった。
アンリエッタはしばらくしてようやく顔を上げると、取り出したハンカチで顔の汗を拭う。
「ごめんなさい、お見苦しいところをお見せしましたわね」
「いえ。あの、どこかお体をお悪く」
「そんなことはありませんよ。気遣いは無用です」
ぴしゃりと断定しながらも、アンリエッタの息は荒い。よく見ると、顔色もかなり悪いようだった。
濃い化粧で巧妙に隠されているため、今の今まで気付かなかったが。
(それにしても)
息を整えているアンリエッタを見ながら、ティファニアは思う。
(この人は、本当にアンリエッタ女王陛下なんだろうか)
直接見るのはこれが初めてだったが、彼女もまたルイズを取り巻く嘘を形作るのに協力した人間なので、シエスタからいろいろと話を聞いてはいた。
その記憶を頼りに考えれば、彼女と自分はさほど年が離れていないはずである。だが、目の前の老女を見ていると、どうもそれが疑わしく思えてくる。
(もしかして、ここに来てから四十年だと思っていたのはわたしだけで、本当はもう六十年ぐらいの年月が流れていたんだろうか)
ティファニアがそう疑ってしまうぐらい、目の前の女性は実際の年齢以上に年老いていた。
かつては白百合と讃えられたというその美貌は、艶を失った肌に深く刻まれた皺と浮き出た染みの中に埋もれてしまっている。髪はほとんど真っ白で、瞳は暗く濁っている。背筋はまだ伸びているが、そこから感じられるものは凛々しさではなく、自分より低いものは出来る限見下してやろうという浅ましい高慢さに過ぎない。着ているドレスは元女王らしくきらびやかだったが、年老いた老婆にしか思えない彼女が身につけていると、何かとても醜悪なものを見ているような、非常に嫌な気分にさせられる。
視線に気付いたのか、アンリエッタがこちらを見て不愉快そうに眉根を寄せた。
「なんですか、人の顔をじろじろと」
「いえ……ごめんなさい、なんでもありません」
「失礼な……全く」
アンリエッタはぶつぶつと何やら低い声で文句を言っていたが、やがてふと、何かに気付いたように立ち上がった。
「あら、これはなんですか?」
アンリエッタは、部屋の隅に置いてあった長櫃の中から、手紙を一枚取り出した。封筒から便箋を取り出し、声に出して冒頭を読む。
「『愛しいあなたへ』……ああ、ルイズからのお手紙ね」
皺だらけの顔に皮肉げな冷笑が浮かんだ。もう一枚、先程ティファニアが隠した書きかけの手紙を、取り出すと、面白がるような視線をこちらに向けてくる。
「そう言えば、あなたがサイト殿の振りをして、ルイズに手紙を書いているのでしたね。彼女、今は愛しいサイト殿がどちらにいらっしゃると思い込んでいるのかしら?」
「アルビオンの片隅、未だ戦争の傷跡が癒えない地区で、復興作業に従事している、ということになっています」
「ふうん、そうなのですか」
アンリエッタは小ばかにした様子で言うと、何か汚いものにでも触れるように、ルイズからの手紙を指でつまんでぴらぴらと振った。
「馬鹿なルイズ。サイト殿はもうとっくにこの世を去られているのだから、そんなことが出来るはずも無いのに」
アンリエッタは口元を手で隠し、意地悪げに目を細めた。
「私があの子のところに行ったら、きっと嬉しそうに愛しいサイト殿のことを話してくれるでしょうねえ。彼がとっくに死んでいて、本当は自分がずっと一人で道化を演じていたってことを、少しも知らずに。ああ、そうだわ」
いかにも名案を思いついたという風に、アンリエッタは手を合わせた。
「いっそのこと、今日私が本当のことを教えてあげようかしら」
ティファニアが思わず立ち上がりかけると、アンリエッタは心底愉快そうに唇を歪めた。
「安心なさい、軽い冗談です。最愛の人の死も忘れるような愚かな女に、これ以上の仕打ちは可哀想ですものね」
そう言いつつも、アンリエッタはその思い付きが心底気に入ったらしい。手紙をゴミのように長櫃の中に投げ入れると、低い声で笑い始める。
「でも、本当に今教えてあげたら、あの子一体どんな顔するかしら。驚くかしら、怒るかしら? いいえ、それよりもまずはみっともなく泣くに違いないわ。昔から虚勢ばかり張っていて、中身の方は哀れになるぐらいに弱い女でしたもの。今だってこんな山奥に引きこもりっぱなしなのだから、その辺りは全然変わっていないでしょうね。ああ、なんて無様な女なのかしら。これだけ長い時間を、馬鹿げた幻想相手に無意味に過ごしてきたんですもの。本当に、無駄な人生だわ」
ここにはいないルイズを嘲笑い続けるアンリエッタの顔は、暗い悦びに満たされていた。聞いているのが耐え難くなるほど悪意に満ちたその様子に、ティファニアは椅子に座ったまま小さく身を縮める。
(どうやったら、こんなにも下劣な人間になることができるのかしら)
ふとアンリエッタがこちらを見て、問いかけてきた。
「ねえ、あなたもそう思うでしょう?」
醜い老女が一歩、こちらに近づいてくる。ティファニアは椅子に座ったまま身を引いた。
「なにが、ですか?」
「ルイズのこと。愚かで哀れなあの女。ねえ、なんて無意味な人生なんでしょうねえ?」
嬉しそうな笑みを張りつけたまま、アンリエッタの顔が小さく傾ぐ。無機質にすら見えるその動作に、ティファニアは危うく悲鳴を上げそうになった。
「そう思うでしょう? あの女の人生は無意味でしょう、哀れでしょう、何の価値もないでしょう?
あなただって、そう思うでしょう? だって、あの子の記憶を奪い続けてきたのは、他ならぬあなたなんですものねえ?」
アンリエッタの瞳に、羨望の色が混じる。
「なんて素敵なのかしら。記憶を奪う魔法だなんて。ねえ、楽しかったでしょう? あの女からサイト殿の死に関する記憶を消してあげるのは。あの子は今、死の直前に自分だけがサイト殿に想われていたという、その事実すら知らない。自分がどれだけサイト殿に愛されていたのか、永遠に理解することはないんですもの。ああ、わたしにもその魔法が使えたらいいのに。そしたら、毎日ルイズにサイト殿の死を思い出させて、思う存分泣き叫ばせて、その後でまた記憶を奪って、嘘の思い出を教え込んで幸せな気分に浸らせたあとでまた本当のことを教えて泣き叫ばせてまた記憶を奪って、何度も何度も何度でも、死ぬまでそれを繰り返してあげるのに、ねえ」
恍惚とした笑みを浮かべるアンリエッタの前で、ティファニアは耳を塞ぐことすら出来ずにいた。
頭の奥に鈍い痛みがある。視界がやけに狭くなっていた。朦朧とする意識の中、アンリエッタの声だけが延々と響き続ける。
――ねえ、楽しかったでしょう?
(違う、わたしは、この人とは、違う)
心の中で叫んでみるが、疑念は振り払えない。
――あの女の人生は無意味でしょう、哀れでしょう、何の価値もないでしょう?
悪意に満ちた言葉は、しかしすんなりと胸に入り込んでくる。
そうなのではないか、と思っている自分が、心のどこかにいた。
都合のいい幻想に抱かれたまま、偽りの幸せの中で生きているルイズを哀れむ気持ちが、この胸の中に確かにある。彼女をその状態に貶めているのは、他ならぬ自分だというのに。
(この人は、わたしだ。だって、この人が言っている通りのことを、わたしはずっと繰り返してきたのだから。悪意があるかどうかなんて、少しも関係ない。記憶を奪われ続けているルイズさんにとっては、どちらにしても同じことなんだわ)
アンリエッタを見ていて感じる醜さは、そのまま己の醜さでもあった。目をそらしたくなる気持ちを抑えて、ティファニアはポケットの中にあるものをぎゅっと握り締める。タバサがくれたナイフは、いつも肌身離さず持っていた。その柄を握り締めて、なんとか目をそらさずに、アンリエッタを見つめ続ける。彼女は笑っている。老いた顔に浮かぶ醜悪な笑みを、隠そうとする素振りすら見せない。
吐き気を催す光景だった。だが、ティファニアは見つめ続けた。
(そうだ、忘れてはいけない。わたしは、これぐらいに邪悪で卑劣な行為を、今でも続けているんだから)
そのとき、不意にアンリエッタが笑いを収めた。ティファニアもナイフの柄を握り締めていた手から力を抜く。手の平に汗が滲んでいるのが、いちいち確かめずとも分かった。
不気味なほど静かだった。笑いを収めたアンリエッタは、何も喋ろうとしない。沈痛にも思えるほどに力のない表情で、じっと床を見つめている。先程までの妄執的な笑いからは想像もつかない、虚ろな雰囲気を漂わせていた。そこには狂おしい怒りも忌まわしい悦びもない。その表情を見ていると、ティファニアの胸は強く、痛ましく締めつけられた。
(一体、どうしたんだろう)
困惑したが、それも少しの間だけだった。アンリエッタはまた、来たときのような底意地の悪い表情を取り戻し、退屈そうに、無遠慮に小屋の中を見回し始めた。
「それにしても、ここは本当に何もないのですね。あら、これは……?」
ティファニアの体が激しく震えた。アンリエッタが興味を示したのは、たった一つだけある木の棚の上段に置いてある、青銅の置物だった。ギーシュが最後にくれた贈り物で、彼女が永遠に失ってしまった大切な時間を、唯一形として留めていてくれるものだ。
(やめて、それに触らないで! 汚さないで!)
アンリエッタが青銅の置物に手を伸ばしかけたとき、ティファニアはもうほとんど駆け出す寸前だった。あの皺だらけの手で触れられたら、間違いなく彼女を突き飛ばしてしまっていたに違いない。
そうならなかったのは、非常にいいタイミングで扉がノックされたためであった。アンリエッタの手が止まり、ティファニアは少し安心してドアを振り返る。
「どうぞ」
言うと同時に扉が開き、一人の女性が姿を現す。
「失礼。アン様、歓談の準備が整ったそうです」
その女性が、小屋の中に足を踏み入れながら言った。ぴしりと伸びた背筋やきびきびとした所作、言葉遣いに、ティファニアは懐かしさを覚える。
アンリエッタは置物に伸ばしかけていた手を引っ込めて、鼻を鳴らしながら振り返った。
「遅かったわね、アニエス」
「申し訳ありません、シエスタ……メイドが頑固だったもので、少々手間取りました。城までお送りいたしますので」
「当たり前です。あなたが草を払わなければ、ドレスが汚れてしまいますからね。全く、どうしてこんなところに来なければならなかったのかしら。ではティファニアさん、ごきげんよう」
アンリエッタはテーブルに置いていた白手袋を着けなおすと、さっさと小屋を出て行ってしまった。
その後に続いて、アニエスも出て行く。
しばらくして、従者の方だけが小屋に戻ってきた。既に日が落ちていたので、ティファニアはテーブルの上のランプに明りを灯していた。その頼りない明りの中で、従者は頭を下げる。
「すまないな。アン様はお一人でルイズに会われることをお望みだ。しばらく、ここで休ませてもらえるか」
申し訳なさそうに言うアニエスに、ティファニアは椅子を勧めた。
「ごめんなさい、お茶も出せないんですけど」
「構わんさ。ああ、だが少し喉が渇いていてな。水ぐらいはもらえるとありがたいな」
ゆったりと椅子に腰掛けながら、アニエスが言う。ティファニアは木の棚から器を取り、小屋の隅に置いてある水桶から水を注いだ。客人に差し出すと、感謝の笑顔を返される。
「ありがとう。本当にすまないな、突然やってきて」
器を傾けるアニエスを改めて見て、ティファニアは深い安堵を覚えた。
やや堅苦しい外套に包まれた背筋は、ぴしりと伸びている。張り詰めていながらも幾分か他者への余裕を残した凛々しさが感じられた。こちらを愉快そうに眺める瞳には、前向きで確固とした光がある。
髪も取り立てて言うほど白くはなっておらず、染み一つない顔には皺など数えるほどしかない。
いきすぎなぐらい年老いていた主に比べて、元近衛隊長でもある従者は、ほぼ実年齢どおりの外見であった。いや、実際の年よりも幾分か若く見えるかもしれない。
「さて、改めて……久しぶりだな、ティファニア」
気さくに言ったあと、何かに気付いたように苦笑する。
「と言っても、そちらにとってわたしは四十年前に少し会っただけの女か……わたしのことは覚えているか?」
「はい、もちろんです、アニエスさん」
ティファニアにとっては、才人やルイズと同じく、ほぼ初めて交流を持った「外界の人間」だから、アニエスのことは驚くほどよく覚えていた。
「アニエスさんこそ、よくわたしのことを覚えてらっしゃいましたね」
「それはまあ、な。ハーフエルフというだけあってあのころと外見がほとんど変わっていないし、なにより、いろいろと印象的だったからな」
ティファニアの胸をちらりと見て言ったあとで、「それに」と付け加える。
「ルイズのことで、シエスタと連絡を取り合っていたんだ。お前が彼女の幸せを守るために何をしていたかも、よく聞いている。わたしとしては、十数年来の旧友に会うような気持ちなのさ」
アニエスはすっと立ち上がり、おもむろに右手を差し出した。戸惑いながらもそっと握り返すと、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「わたしのことを、恨んではいないか?」
「どうしてですか?」
予期せぬ問いかけに驚くと、アニエスは短く答えた。
「グラモン卿のことさ」
「ギーシュさん……いえ、彼は自分の意志で行動していましたし、彼自身もアニエスさんのことを恨んではいませんでした。それにわたしはここにいただけで、王都での状況には少しも関わっていませんから、恨むだなんて……」
実際、ギーシュのことを思うと少し複雑だったが、やはり恨むところまではいかなかった。アニエスは少し安心したように「そうか」と呟いたあと、またすまなそうに眉を傾げた。
「アン様のこと、すまなかったな。不快な思いをしただろう」
「ひょっとして、ずっと小屋の外で聞かれてたんですか?」
「いや。だが、何があったかは大体分かるさ」
唇の片端が皮肉っぽくつり上がった。
「誰にでもあんな態度なんだ、あの方は」
ここで先程どんなやり取りが交わされたのか、大体把握できている口調だった。アニエスは椅子に座りなおしながら、少し疲れた口調で言う。
「昔はあそこまでひどくはなかったんだがな。せいぜい冷たい印象を与える程度だった。それが、王政の破壊を成し遂げてアルビオンの片田舎に引っ込んでからというもの、ますます酷くなっていった。
王政に対して抱いていた狂おしい怒りと憎しみが矛先を失くして、周囲の全てに向けられるようになったんだろうな。今ではすっかり陰険で根暗な老人だ」
アニエスはふと、何かに気付いたように苦笑して首筋をかいた。
「すまんすまん、こんなことを言ってもお前には何のことだか分からんだろうな」
そう言いながら、目を細くして小屋の中を見回す。
「お前もこの四十年間、一人の人間のために苦労を重ねてきたのだと思うとな……つい、同志のように感じてしまって、何もかも打ち明けたくなってしまうんだ。許してくれ」
「いえ、わたしは、そんな」
ティファニアは迷った。自分が重ねてきたのは苦労などではなく罪の意識から来る自罰なのだと、アニエスの言葉を訂正するべきだろうか。やめておいた。彼女の話が自分にはよく分からなかったように、自分の話もまた、彼女にはうまく伝わらないだろう。
「なあ」
椅子をかすかに傾け、胸の上で手を組んだアニエスが、不意に口を開く。
「アン様がどうして今頃になってこの土地を訪れたがったのか、分かるか?」
「いえ、わたしにはよく……」
「あの方は、もう長くはないんだ」
体をくの字に折って激しく咳き込むアンリエッタの姿が、ティファニアの脳裏に浮かんだ。
「ではやはり、ご病気なのですか?」
「さあな……どこもかしこも悪いんじゃないだろうか。分からないんだよ、医者に体を触らせたがらんのだ、あの方は」
そう言ったあとで、アニエスはくぐもった笑い声を漏らした。
「いや、医者だけではないか。私にすら、体を触られることだけは許さない。まあ今さらあの方に触れたいと願う者がいるわけでもないし、特に不都合はないんだが、な。彼女が触れてもいいと思っている人間は、たった一人だけさ。お前もよく知っている人物だよ、ティファニア。誰だか分かるか?」
アニエスの瞳に探るような色が浮かぶ。ティファニアは困惑しながら答えた。
「誰、と言われても……ルイズさんですか?」
アニエスは肩を揺すって笑った。
「まさか。ルイズに触られるのは、他の誰に触られるよりも嫌だろうよ。そのぐらい、彼女を憎んでいるからな。それに、あの方が唯一触れられたいと願う人間は、男だよ。いや、触れられたいなんてものじゃないな。抱きしめられたい、と言ったほうがいいか」
ティファニアは目を見開いた。一人の少年の笑顔が、頭の中に浮かぶ。
「まさか、その人って」
アニエスは目を閉じ、深々と頷いた。
「そう、サイトだ。サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガ。アルビオン戦役にて輝かしい戦功を上げ、それだけを歴史に残して永遠に去ってしまった、我らの愛しい英雄殿さ」
どことなく皮肉っぽい言い回しだ。ティファニアは困惑した。
「でも、どうしてですか? サイトは、女王様のことなんてあまり口に出さなかったのに」
「だからこそ、なおさらだろうな。そのわずかな繋がりに、あの方は縋りついたのだ。サイト殿なら自分を救ってくれる。女王アンリエッタではなく、ただ一人のアンリエッタという女として愛してくれる。それが真実だったのか否かはともかくとして、彼女は強くそう信じていたんだ」
アニエスは片目を開いて、静かにティファニアを見た。
「そんな男が、自分からは遠く離れたところで、知らない間に死んでしまう。しかも、死ぬ間際に他の女のことを言い残してだ。さて、どうなるだろうな?」
体が震えた。アンリエッタのルイズに対する激しい敵意の源がなんなのか、今では分かりすぎるほどよく分かる気がする。
「でも、それじゃあ」
混乱しながら、ティファニアは問いかけた。
「彼女はどうして、今さらルイズさんに会いたいと?」
「確かめたくなったんだろうさ」
「確かめる……何を?」
「自分という人間が、ルイズよりも勝っているということをだ」
アニエスは胸の上で手を組みかえながら言った。
「あの方はルイズにサイトの死を忘れさせ、偽りの幻想の中に貶めて、なんて馬鹿な女だろうと優越感に浸りながら生きてきたんだ。サイトに愛されたルイズよりも、サイトに愛されなかった自分の方が、人間としては数段優れているのだ、とな。それだけが唯一ルイズに勝つ方法だと頑なに信じているのさ。そして今、近い将来の自分の死を直感したとき、確かにそうなのだと確かめたくなった。だからルイズに会って、間近で彼女を思い切り笑ってやろうという気になったのさ」
「それじゃあ、やっぱり彼女は、ルイズさんに真実を教えるつもりで……?」
一瞬、あの老女を行かせたことを後悔しかける。だが、アニエスは首を横に振った。
「それはない。ありえない」
「どうしてそう言いきれるんですか?」
「ルイズが記憶を取り戻したら、サイトの最後の言葉も思い出してしまうからな。死の直前まで、ルイズがサイトに深く愛されていた、といことを。それよりは彼女を愚かな女に貶めたまま、心の中で思う存分高笑いする方を選ぶさ。安心しろ、今回の歓談でルイズは傷つかん。懐かしい親友との旧交を温めて終わりさ。彼女にとってはな。だが、あの方にとっては」
アニエスは、どこかやりきれない様子で息をついた。
「あの方にとっては、期待していた通りの結果にはならんだろうな」
「どういうことですか?」
「見ていれば分かる。どうせ、あの方は自分から息せき切らしてこの小屋に飛び込んでくるさ。ともかく」
アニエスは肩を竦めた。
「これで、あの方のことを少しは分かってもらえたと思うが」
探るような瞳がティファニアを見つめた。
「お前としては、どうだ? あの方のことを、どう思う?」
ティファニアは俯き、己の心を探った。アンリエッタの心情をある程度理解した今、彼女に対する嫌悪感や恐怖は、哀れみの感情に変わっていた。
「悲しい人だと思います。自分の感情を制御できずに、周りにぶつけるしかなかった」
同時に、不思議な人だとも思った。彼女に対する感情は、短い時間の間に目まぐるしく移り変わる。
不快に思えたり、哀れに思えたり……ひょっとしたら、目の前の騎士はそんな主のことが愛しく思えて、未だに付き従っているのかもしれない。
「でも、どうしてでしょう。どうして彼女は、そうまでサイトのことを追い求めたんでしょうか?
彼のことを忘れて、新たな愛情を見つけることは出来なかったんでしょうか?」
「そうするには、サイトの与えてくれた希望があまりにも大きすぎたんだ。彼女は想い人を二度失くしている。一人目のときは彼自身の誇りや気高さに敗北し、二人目のときは他の女に敗北した。特に二人目は、『ひょっとしたら、この人なら』という期待を強く抱かせてくれたようだからな。いまさら、三人目に期待することは出来なかったんだろう。そうそう、こんなことがあった」
何かを思い出すように、アニエスは表情を緩めた。
「王政が幕を閉じ、あの方が晴れて自由の身になった朝のことだ」
その日、アニエスが「陛下」と呼ばわると、彼女は不快そうに顔をしかめたらしい。
『私はもう女王ではありません。今後は二度とそう呼ばないように』
『ではなんとお呼びいたしましょうか』
アニエスが問うと、主は少しの間考えて、とても嬉しそうな顔で、
『では、アンとお呼びなさい』
『アン様、ですか』
『ええ。それが一番好ましいわ』
そう答えた彼女の顔には、何かを懐かしむような、あるいは甘い夢に浸るようなうっとりとした笑みが浮かんでいたという。
「何故彼女がアンと呼ばれたがったか、わたしはよく知っている」
「どうしてですか?」
「彼女は一度、町娘に変装して、ある男と安宿でわずかな時間を過ごしたことがある。そのとき、『アンと呼んでくれ』とその男に頼んだそうだ。何度も何度も、そう聞かされた」
アニエスはどことなく憂鬱そうに目を細めた。
「遠い昔の話だ。その男はもうどこにもいない。ただ、アン様の胸の中にだけ存在する思い出さ」
アニエスは軽く肩を竦めた。
「あまりあの方を軽蔑しないでほしい。せめて哀れみに留めておいてくれ。彼女とて、誰か一人の男
に全身全霊で愛してもらっていれば、ああはならなかったかもしれんのだからな」
アニエスは肩越しに振り返る。その方向には、ルイズが暮らす剣の城がある。
「今日遠くからルイズを見て、わたしは改めてそう思った」
ティファニアが身を硬くしたのが分かったのか、アニエスは物問いたげな視線を向けてきた。
「最近、ルイズとは話していないのか?」
「ルイズさんは、わたしがここにいること自体知りませんから……会うのも、記憶を消すために真夜中城の中に忍び込むときぐらいで、それも彼女が寝ている間に済ませてしまいますので」
「なるほどな。これで合点がいった」
「なにがですか」
アニエスは椅子の背にもたれながら、目を細めて小屋の中を見回した。
「この狭苦しい小屋さ。最初見たとき、本当にこんなところで人が暮らしているのかと驚いたものだ。
入ってみるとまるで監獄だ。そして、それは事実だったらしい」
視線がティファニアに戻ってきて、彼女を思いやり深く見据えた。
「なあティファニア。お前、強い罪悪感を持って生きてきたな? 自分は許されない罪を犯したと、
その罰を受けるために生きているんだと、そう思って生きてきたんだろう?」
ティファニアはその視線から逃れるように俯いた。膝の上で、ぎゅっと拳を握る。
「だがな、そんな必要はないと思うぞ」
驚いて顔を上げると、アニエスは穏やかな笑みを浮かべていた。
「わたしは今日、ルイズを見た。そして今日までずっと、アン様を見てきた。だから分かるんだ。愛されなかったと嘆きながら生きてきた女よりは、たとえ嘘の中でも、愛されていると実感して生きてきた女の方が、よほど幸福なのだと。ああ、反論はしないでくれ」
口を開きかけたティファニアを、アニエスはやんわりと押しとめた。
「別に、理屈としてどちらが正しいとか、人道的にどうだという話じゃないんだ、これは。単にわたしがどう感じたかというだけの話だ。だが、お前もあのルイズを見ては、そう思わずにはいられないだろうよ。あらゆるしがらみやこだわりを超えて、そう思わせてくれる何かが、彼女にはある」
言い終えて、アニエスはぽつりと呟いた。
「それは、あの方とても同じだろうな」
と、突然小屋の扉がばたんと開き、険しい表情のアンリエッタの姿が、深い闇の中にぼんやりと浮かび上がった。彼女は濃い化粧の上からでもはっきり分かるほど顔面蒼白で、眉間の皺はより深くなっていた。よほど急いでここまで来たのか、息が上がっている。草木の中を無理矢理進んできたのだろう、豪華なドレスあちこち破れている上に、草まみれだった。ここを出て行ったときの高慢な余裕は、いまや欠片もなかった。
「アニエス、帰りますよ」
出し抜けに言う。ティファニアには一瞥もくれない。
「おや、もうよろしいのですか? あれだけルイズとの歓談を熱望されていましたのに」
「いい、もういいです。あんな馬鹿な女、どれだけ見ていたって、あまりの馬鹿さ加減にこちらがイライラさせられるだけですもの。全く……あんな女」
ティファニアへの辞去の挨拶もなしに、アンリエッタは荒々しく身を翻す。アニエスが苦笑しながら立ち上がった。
「と、いうわけだ。悪いが、お暇させてもらおう。あの方を一人で歩かせるわけにはいかないからな」
「一体、何があったんでしょう?」
戸口に立って、遠ざかるアンリエッタの背中を見ながら問うと、アニエスは素っ気なく答えた。
「大方予想はつく。ルイズがあまりにも幸せそうで、満ち足りた様子だったから、耐えられなくなったんだろうさ。彼女と比べて、自分が惨めすぎてな」
アニエスの視線もまた、遠ざかっていく主の背中をとらえていた。
「本当に、暖かくて優しい雰囲気を纏っていたからな、ルイズは……圧倒的とすら表現できるほどだ。
遠目にもそれがわかるほどだったのだ。何か大きなものにずっと愛され続けて、それを確信しながら生きてきた人間だけに出せる空気だよ、あれは。まるで陽だまりのような……あんな人間の前に出れば、誰だって我が身が恥ずかしく思えたり、泣き出したいほど惨めに思えてきたりするものだろう」
アニエスの瞳に哀れみの色が宿った。
「お気の毒な我が主。怒りも憎しみも熱を失い、唯一残されていた自尊心や、ルイズに対する優越感まで、今や粉々に打ち砕かれてしまった。もはや、あの痩せ細った体を支えるだけの力すら残ってはいまい。おそらく、先は長くないだろうな」
淡々とした口調に、ティファイアは息を飲む。それに気付いたのか、アニエスはこちらを向いて苦笑した。
「そんな顔をしないでくれ。私にとっては喜ばしいことさ。これでようやく、あの方も苦しみから解放されるのだ。実に悲しい形ではあるが、な。忌まわしく呪わしい闇の汚泥は、ルイズによって払われた。そうなれば、心の片隅に沈められていた優しさや穏やかさが、またあの方の心の表面に浮き上がってくるかもしれん。たとえ死に向かう運命だとしても、その方がずっと人間らしいと思わないか?」
なんとも言えないティファニアに、アニエスは微笑みかけた。
「答えられんか。まあ今はいい。だがお前はいつかルイズに会って、わたしの言葉を実感することになるだろう。間違いなくな。そのときわたしが生きているかどうかは分からんが、お前からの報告を楽しみに待たせてもらうことにするよ」
そのとき、闇に落ちた森の中から、か細い怒鳴り声がかすかに聞こえてきた。
「アニエス、何をしているのですか! あなたが道を照らさなければ、歩けないではありませんか!」
「申しわけありません、すぐに参ります!」
答えて、アニエスは外套の中からランプを取り出した。ニ、三歩歩き出してから不意に振り返り、ティファニア向かって軽く手を上げた。
「ではな。楽しみにしているぞ」
そうして、彼女は何も残さず、主を追って闇の中に立ち去ってしまった。
それから一ヶ月も経たない内に、アニエスからの手紙が届いた。剣の城に届けられたものを、ジュリアンが持ってきてくれたのである。
「ティファニアへ。
昨日、アン様が亡くなった。病死だ。ルイズを見てご自身の人生の不毛さを思い知ったせいか、すっかり抵抗力をなくされてしまったのだ。旅を終えてアルビオンに帰る途上、既に何度か意識を失くされていたほどだ。それでも、本人が朦朧としながらもアルビオンに帰ることを望んだので、わたしは希望を叶えて差し上げた。トリステインは彼女にとっては忌まわしい土地だ。あそこで死にたくはなかったのだろう。
安らかな死に様だった、とは言いがたい。ベッドに横たわったまま絶え間なく呻いて、咳き込んで……むしろ、かなり苦しんだと言ったほうがいいだろう。
彼女は死の直前、何かを探すように手を伸ばした。わたしが思わずその手を握ると、とてもか細い声で誰かの名前を呟いた。ウェールズ、だったかもしれないし、サイト、だったかもしれない。それに答えて『アン』と呼びかけてやると、不意に表情を和らげて、そのまま息を引き取った。だから、苦しみぬいた割に、死に顔はとても安らかだった。
今、葬儀の準備の合間にこの手紙をしたためている。葬儀、と言っても、彼女は人間嫌いだ。こちらに来てから親しい友人どころか、知人と呼べる人間さえ作らなかった。だから、立会人はわたしだけだ。長年大勢の人間にかしずかれて来た元女王のものとしては、なんとも寂しい葬儀になる。彼女は見知らぬ人間の立会いなど望まないだろうから、これでいいのかもしれないが。
少し、考える。彼女の人生は不幸なものだったのか、と。いや、その点については考えるまでもないか。彼女は女王として多くの人間に幸福をもたらしながら、一人の人間としてはとても不幸な人生を送った。それは間違いない。
だが、彼女は人生で一番満ち足りていた瞬間の思い出を抱いて逝ったのだ。だから、最後の一瞬だけは、世界中の誰よりも幸福だったのではないかと思う。
さて、我が主は逝ってしまったが、それを送るわたしもまた、長く生きてはいられないだろう。急に、長年溜まりに溜まった疲労が、この体を重く感じさせるようになった気がする。お前からの報告を受けることも、きっとないだろうな。
さらばだティファニア、我が友。お前がいつか、アン様と同じように、ルイズによって呪いから解放されることを願っている……いや、信じている」
文章の結びに、署名があった。迷いのない形のいい文字で、アン様の剣、アニエス・シュヴァリエ・ド・ミラン、と書いてあった。
その後アニエスがどうなったのか、ティファニアは結局知らないままだった。
後世、彼女本人ではなくアンリエッタ女王の足跡を辿った歴史家が、アルビオンの片隅で、一冊だけ残された手記を発見した。
その手記は、アンリエッタ女王の真の姿を後世に伝える唯一の資料として、その後も長い間大事に保管され続けたそうである。
アニエスとの再会を経て、ティファニアはタバサとの約束を果たすために残された時間が、あとわずかであるということを思い知った。自分達と同世代であるアンリエッタが死んだのなら、ルイズだってそう長くはないかもしれないのだ。
だが、ティファニアは、ルイズよりも先に、彼女の一番近くにいた人と別れることとなった。
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