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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:52:39 (5617d)
Funny Bunny 1 205氏
椅子を蹴る音が、部屋の中に大きく響き渡る。
「ちょっと、それ、どういう意味ですの!?」
ケティは丸テーブルに手を突きながら叫んだ。テーブルの周辺に椅子を置いて座っている友人たちが、それぞれに声を返してくる。
「落ち着いて、ケティ」
か細い声でぼそりと呟きながら、正面に座ったアメリィが静かに紅茶を啜る。
「そうそう。騒ぐほどのことじゃないって」
コルク栓つきの試験管を右手で絶え間なく振り続けながら、右に座ったコゼットが気難しげに顔をしかめる。かさかさした左手が収まりの悪い赤毛を掻くと、ぱらぱらとフケが落ちた。
「怒ると将来皺が増えちゃいますよー?」
小さなやすりで丁寧に爪の形を整えながら、左に座ったエリアが笑って小首を傾げる。
彼女らが魔法学院の二年生に進級して、まだ三ヶ月も経っていない、ある休日の昼下がり。昼食を食べたあとの決まりごとのようになっている、ティータイム中のことである。
三人の友人たちを順繰りに見回しながら、ケティは声を震わせた。
「皆さん、一体何を考えてらっしゃるの」
腰に両手を当てて、怒鳴る。
「サイト様を追いかけるのは、もう止めるだなんて!」
「悪いとは思うけどさ」
コゼットは椅子の上で胡坐をかきながら、右手に持った試験管を揺らしながら、食い入るように見つめている。
「ちょっと、こっちの方が忙しくなってきてて」
「こっちの方って、その試験管ですか?」
「そ。新しい薬。思ったよりも時間がかかるみたいで、これずっと振ってなきゃいけないんだよ。あたしの予想だと、調合が終われば液の色が赤くなるはずなんだけどなー」
説明している間も、コゼットはずっと試験管を振り続けていた。ガラスの向こうで青い液体が踊っている。ケティは顔をしかめた。
「どうしてそんな面倒な薬を調合なさってるんです?」
「理想の栄養剤を作ろうと思って、いろいろ試してるんだよ。多分、この製法で調合した薬が一番効果高くなると思うんだよね。今までの経験からして」
「薬好きもここまで来ると立派ですねえ」
無邪気に感心するエリアの隣で、アメリィが少し俯きつつ、ぼそりと呟く。
「でも、お風呂ぐらいは入ったほうがいいと思う」
「仕方ねーじゃん、これ放っておいたらどうなるか分かんないしさ」
彼女が無遠慮に赤い髪を掻き回すと、盛大にフケが飛び散った。アメリィがかすかに顔をしかめて、さり気なく椅子ごと遠ざかる。後で必ず床を掃除しよう、と固く誓うケティの前で、コゼットは大口を開けて欠伸をした。
「もう三日も振り続けなんだけどねー。そろそろ出来上がってもいい頃だよなー?」
「三日ですって!? まさか、その間一睡もしてないんですの?」
ケティが叫ぶと、コゼットは「そうだよー」とのんびり返事をしながら、左手で目を擦る。よく見ると、目の周りには深いくまが出来ていた。
「コゼット、あなた、そんなことしていたらその内倒れますわよ?」
「大丈夫だよ。昔、薬の材料になる虫採取しに行ったとき、五日間ぐらい起きっぱなしだったことあるし。胃袋が空っぽなら割と眠くならないもんだよ?」
「まさか、食事も取っていないんですの?」
「水は飲んでるから大丈夫だよ」
「その理屈が分かりませんわ」
溜息をつくケティの前で、コゼットは顔に疲労の色を滲ませながら、それでも気楽に笑っている。
「心配すんなって、これが完成したらちゃんと寝るからさ。きっともうちょいだ、もうちょい」
「コゼっちは相変わらずワイルドですわー。とても貴族の娘とは思えないガサツぶりです」
柔らかい銀髪に指を絡ませながら、エリアが小さく首を傾げる。その隣で、アメリィが俯き加減のまま少し頭を傾けた。長い前髪で目元が隠れているからはっきりとは分からないが、多分コゼットの顔を見ているのだろう。
「ちゃんと眠らないと肌が荒れるわ」
「そんなんどうでもいいよ、あたしの肌がきれいになろうが荒れようが、気にする奴なんていねーって」
素っ気なく返すコゼットに、アメリィはぼそぼそと小さな声で言い募る。
「ううん。コゼットは、ちゃんとお洒落すれば綺麗になる」
「ですよねー。仕草が粗暴なのはともかく顔立ちは悪くありませんもの、コゼっちは」
エリアは細い顎に白い指を当てて、悪戯っぽく微笑んだ。
「なんだったらわたしがお化粧して差し上げましょうか? いつもお薬いただいているお礼も兼ねて」
「いらないよそんなの。どうせ森行って薬の材料採取してれば落ちちゃうしさ」
胡坐をかいた膝の上で頬杖をつきながら、コゼットは相変わらず試験管を振り続けている。
「化粧だったらアメリィにしてやんなよ。実は可愛いんだから」
「わたしはいい。ブスだから」
両手で包むようにティーカップを握りながら、アメリィが恥じ入るように肩をすぼめる。
長く黒い前髪が顔にかかって、表情が見えなくなった。
「アメりんったら、ネガティヴ思考はダメですよー」
立ち上がったエリアがアメリィの背後に回りこみ、長い前髪を思い切りかき上げる。いつも泣いているように潤んでいる黒い瞳が露わになった。アメリィの頬に赤みが差す。
「エリア、やめて」
「えー、でも、こんなに可愛いおめめなのに、隠したら勿体ないですよー」
「ちょっと、あなたたち」
ケティは声を張り上げて、騒ぎ始めた友人たちを黙らせた。
「まだ、わたしの質問に答えてもらっていないんですけれど」
「あー、サイト様の追っかけを止める件ですかー?」
間延びした口調で言いながら、エリアがちろっと舌を出す。
「ごめんなさいねー。わたし、ちょっとお友達が多くなりすぎちゃいましたので、サイト様の追っかけに時間を割いている余裕がなくなってしまったんですよー」
「友だちって、あなた」
妖精のように可愛らしい顔立ちの友人を見て、ケティは頬を引きつらせる。
「まさか、また増えたんですの?」
「あ」
乱れた前髪を元に戻していたアメリィが、何かに気付いたように口を開ける。
「エリア、首の後ろにキスマークがついてる」
「あら、本当ですか?」
さして動揺した風もなく、エリアがうなじの辺りの手を当てて苦笑いを浮かべた。
「いやだわ、ルイったら本当に独占欲が強いんだもの」
「ちょっと待て」
この話題が始まってから、初めてコゼットが試験管から目を離した。咎めるようにエリアを見る。
「その名前、初めて聞いたぞ」
「あら?」
「ミシェルにパスカル、マクシム、ジャン、クロード……昨日まではこの五人だったはずだよな?」
「あらら、よく覚えてますねー、コゼっちったら。見かけに反して頭がいいんですから」
「誤魔化すなっての」
コゼットは試験管を振るのを再開しながら、深々と溜息をついた。
「ったく。あんたって奴は、放っておいたら何人でも相手作るんだから」
ぼやきながら、左手で赤い髪をかき乱す。またも飛び散るフケの向こうから、少し吊りがちな目がエリアを睨んだ。
「友だちとして一応言っておくけど、くれぐれも修羅場にならないように気をつけろよ」
「大丈夫ですよ」
人形のように愛らしい顔でにっこりと笑いながら、エリアは得意げに人差し指を立てる。
「皆さん、自由奔放な方々ばかりですから。わたしが他に何人の男と遊んでいても、自分の相手をしてくれるのなら別に気にしないって人たちばっかり選んでるんですよ、わたし」
「そういうのは自由じゃなくて、貞操観念が緩いとか適当すぎるとか言うんだよ、アホ」
「結構なことじゃありませんか。そのおかげで、わたしも危険なことなしに満足できるんですし。そんなわけで」
エリアは小さな両手を一杯に広げて突き出し、コゼットに笑いかけた。
「避妊薬、くださいな」
「ほらよ」
仏頂面のコゼットが、左手をスカートのポケットに突っ込んで、中に入っていた小瓶を投げ渡す。危なげなくそれを受け取って、エリアが嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。コゼっちの薬は市販のより信用できますからねえ。副作用もほとんどありませんし」
「おだてたって、あんたの生き方を褒めたりはしねえぞ」
「分かってますよ。お代は将来まとめてお支払いしますから」
「いらないって。あたしは単に、友だちが妊娠して学院を退学になる……なんてことになるのが嫌なだけなんだから」
「あら、それはよかった。わたしたちの熱い友情に感謝しましょう」
邪気のない口調で言いつつ、エリアは再びケティの方に向き直った。
「とにかく、そういうわけですので、わたし、もうサイトさまの追っかけには参加できません。ごめんなさいね、ケッちゃん」
言葉では謝りつつも、あまり悪びれない軽い口調である。それでも、怒ったり文句を言ったりする気にはなれなかった。癖のある柔らかい銀髪や、平均よりもだいぶ小さな背丈、思わず触れたくなるほどに白く丸みのある頬などが作り出す、幼げで無邪気な雰囲気を前にしては、とてもエリアを怒りの矛先にはできないのだ。
悔しさに歯軋りしたくなる気持ちを堪えて、ケティはアメリィに視線をやる。彼女はちょうど、ティーカップから紅茶の最後の一滴を飲み終えたところだった。カップを丸テーブルの上に置き、ぼそりと呟く。
「ごちそうさまでした」
「ちょっと、アメリィ」
声をかけると、アメリィはゆっくりとこちらに顔を向けた。長い前髪の隙間から、潤んだ黒い瞳が不思議そうにこちらを見つめている。
「なに、ケティ」
「あなたは、どういった事情があってサイトさまの追っかけを止めると仰いますの?」
「別に、理由なんて」
アメリィはケティの視線をおそれるように顔を伏せて、叱られた子供のような小さな声で弁解する。
「わたしは元々、みんなが騒いでいたからそれに付き合っていただけで」
「じゃあ、みんなが止めると言ったから、自分も止めると仰るのね?」
「うん」
すんなり頷くアメリィに、ケティは一瞬絶句してしまった。このままでは孤立してしまう。なんとかアメリィを引き戻さなければ、と彼女に向かって微笑みかける。
「ねえアメリィ、よく思い出してみて? サイトさまって、とっても素敵な方だと思わない?」
「優しそうだとは思うけど、顔だったらギーシュさまの方が綺麗だと思うし、レイナールさまの方が誠実そう。野性味だったらコゼットの方が上」
「そこで名前出されるのは微妙に嫌なんだけど」
口を挟んできたコゼットは無視して、ケティはなおも食い下がる。
「でもほら、あの空飛ぶ機械を操縦していらっしゃるところとか、剣を振って戦っているお姿とか……」
「機械のことはよく分からないし、剣を振ってる人は乱暴に見えるからあんまり好きじゃない」
「だけど」
「それに」
アメリィは今までより少しだけ大きな声でケティの話を遮ると、スカートのポケットに手を差し入れて、大事そうに何かを取り出した。
「わたしには、これがあればいいから」
白すぎて不健康にすら見える手を、そっと開く。中には小石ぐらいの大きさの、青い宝石が収まっていた。それを見たエリアが歓声を上げる。
「わあ、すごいですねアメりん。今までで一番大きな宝石です。これ、サファイアですか?」
「うん。今朝、ようやく作れたの」
満足げに頷きながら、アメリィは手の中の宝石に顔を向けている。前髪の隙間から見える潤んだ瞳に、陶然とした色が宿っている。アメリィの肩に手を置き、彼女の後ろから宝石を覗きこみながら、エリアがとろけるような微笑を浮かべた。
「いいなあ。ねえアメリィ、今度わたしにも、何か宝石を作ってもらえませんか?」
「うん。エリアだったら、指輪にしてもイヤリングにしても似合うと思う」
仲睦まじく話す二人の横では、コゼットが相変わらず気難しげな顔で試験管を振っている。
なんだか急に自分が一人ぼっちになったような孤独感を覚えて、ケティは溜息混じりに椅子に座りなおした。
「劇薬」のコゼット、「貴石」のアメリィ、「妖風」のエリア、そして「熾火」のケティ。彼女ら四人は、魔法学院に入学して以来の友人グループだった。
収まりの悪い赤い髪と少しばかり目つきの悪い顔に、貴族とは思えないがさつな言動が特徴のコゼットは、水系統の使い手。
黒く長い髪で目元を隠し、いつも俯き加減に宝石を見つめてはひっそりと微笑むアメリィは、土系統の使い手。
柔らかく細やかな銀髪と、持って生まれた妖精のように愛くるしい顔立ち。誰にでも遠慮なく笑顔を振りまき、多くの男子生徒を遊び友達にしているエリアは、風系統の使い手。
どこにでもいるような栗色の髪に、決して不細工ではないが平凡かつ地味な容姿。これといった特徴もなく、実に平均的なトリステイン貴族の女であると自他共に認めているケティは、炎系統の使い手。
魔法の系統も性格も容姿もてんでばらばらだったが、彼女らは紆余曲折を経て親交を深め合い、今ではどこに出かけるときも大抵四人一緒に行動するほどの仲だった。コゼットが薬の材料採取のために森に出かけるときも、アメリィが町の宝石店を冷やかしに行くと
きも、エリアが男友だちを喜ばせるための服を買いに行くときも。
もちろん、ケティが上級生の男子に熱を上げているときなども、一緒になってキャーキャー騒いでくれる。最近の彼女は、サイト・シュヴァリエ・ド・ヒラガという少年を追いかけていた。
シュヴァリエ、という称号が示すとおり、元々彼は貴族ではない。それどころか、平民ですらなかった。ルイズという上級生が、使い魔として召喚してしまったという非常に珍しい経歴を持つ人物なのである。
そんな少年がシュヴァリエの位を授かったのは、少し前に終結したアルビオン戦役において、人間離れした大戦果を挙げたからである。なんと七万の大軍をたった一人で食いとめ、友軍が撤退するための時間を稼いだというのだ。
劣等生が召喚した変な使い魔、程度にしか認識されていなかった彼だが、この活躍によってシュヴァリエとなってからは、俄然周囲の女生徒たちから熱い視線を浴びるようになった。
ケティもそういう経緯で才人を慕うようになった少女たちの内の一人であり、友人たちと一緒に焼いたビスケットを彼に食べてもらおうとしたこともある。そのときは彼の主であるルイズの妨害により渡せなかったが、気持ちのほうは少しも冷めていない。それどころか、間近で彼を見ることにより、新たな魅力を発見したような気がしていた。他の貴族の少年達と違ってあまり気取ったところがなく、そういう気さくさがとても新鮮で、好ましいものに思えたのである。
そんな風に才人のことで騒ぎ立てるケティに、友人たちは大抵温かく答えていた。コゼットは才人のことを「男らしくて格好いい」と評していたし、アメリィも「優しそうな人で好感が持てる」と言っていた。エリアなど「結構な女好きというお話ですし、わたしとも遊んでくださらないかしら」と目を輝かせていて、ケティにも劣らぬほど熱を上げていたはずなのである。
それが、今日になって突然、口を揃えて「もうサイト様を追いかけるのは止める」と言い出した。
友人たち一人一人から理由を聞いた今となっても、ケティにはどうもその辺りが納得出来なかった。なんとなく、自分ひとりがのけ者にされたような気分になってしまう。
「そんな顔すんなよ」
相変わらず試験管を振り続けながら、コゼットが苦笑する。
「別に、もうみんなで遊ぶの止めるってんじゃないんだからさ」
「そうですよケッちゃん。ただ、ちょっと忙しくなっちゃいそうなので、一緒にサイトさまの話題で盛り上がるのは難しそうだ、というだけでして」
エリアがケティの肩に手を置きながらなだめる。アメリィも宝石をしまいながら小さく頷いた。
「大丈夫。みんな、これからも変わらず友達だから」
「それはそうでしょうけど、でも」
ケティは食い下がりながらも、言葉に詰まった。胸に何かがつっかえているような嫌な感じがあって、このままではどうにも引き下がれない気がする。ただ、自分が具体的に何をこれほどまでに気にしているのか、はっきりとは分からない。
「ねえ、ケティ」
不意に、コゼットが少し声の調子を落とした。驚いて彼女を見ると、試験管に向けられたままの顔に、少し厳しい表情が張りついていた。
「そもそもさ、あんた、あんまり本気じゃないでしょ」
「本気じゃない、と仰いますと?」
「決まってんでしょ? もちろん、サイトさまのこと」
どきりとした。横目でこちらを見るコゼットの瞳に、心の内を見透かすような光がある。
ケティは腕を組んで無理に微笑んだ。
「何のことだか分かりませんわ。私、心の底からサイトさまのことを慕っておりますのよ」
「その割には笑顔が引きつってますよー、ケッちゃん」
エリアがケティの肩越しに、顔を覗き込んで来る。テーブルの向こうのアメリィが、前髪の隙間から上目遣いにケティを見上げた。
「ケティ、ギーシュさまのときも似たような感じだった」
「ちょっと、アメリィ……!」
ケティは慌てて立ち上がる。アメリィが怯えたように顔を伏せた。
ギーシュというのは、彼女よりも一学年上の男子生徒である。トリステインの名門、グラモン家の子息であり、整った細面と少々大袈裟すぎるぐらいに気取った仕草が特徴の少年だった。入学して間もないころ、ケティは彼の家柄と容姿に一目ぼれし、今の才人に対するのと同じぐらいに熱を上げていたのである。
「あー、確かにそうだ、ギーシュさまのときもこんな感じだったなあ」
思い出したように、コゼットが二度頷いた。エリアがケティから少し離れながら、可愛らしい小さな唇に指を添え、「んー」と記憶を探るように瞳を上に向ける。
「確か、あのときは偶然を装ってあの方のそばを通りすがったんでしたっけ。そしたら『やあ、これは可憐なお嬢さんだ。一瞬、こんな人里に精霊が降りてきたのかと勘違いしてしまったよ!』とか仰ったんですよね、ギーシュさま。その後はもう成すがままに口説き落とされちゃって、ケッちゃんったらすっかり舞い上がっちゃって」
「そうそう、あたしら相手にギーシュさまの魅力を散々喋り捲ってたっけねえ」
「あの、あなたたち」
コゼットとエリアの思い出話を、ケティは無理矢理遮った。顔が熱いのは気のせいではないだろう。
「出来れば、そのお話は止めていただきたいのですけど」
「なんでさ? いやー、あんときのケティは可愛かったねー」
「そうですねー。『どうしましょうどうしましょういやんいやん』って、こんな感じでしたものね」
「やめてくださいったら!」
ケティは拳を握り締めて怒鳴った。ギーシュとのこと……特に、二股をかけられているとも知らず、彼の甘い囁きを馬鹿正直に信じて舞い上がってしまっていたことは、金を払ってでも消してしまいたい、過去の汚点なのである。
コゼットは「悪い悪い」と気楽に笑ったが、その瞳に浮かぶ、こちらの内面を見透かすような色は消えなかった。
「でもさ、今回だって、あのときと大して差があるとは思えないんだけど?」
「そんなことありませんわ」
コゼットの視線から逃れるように少し顔を伏せながら、ケティは反論した。
「確かに、あのときは皆さんの言うとおりだったかもしれませんけど。今度こそ本気です
わ、わたし」
「どう本気だっての?」
コゼットの目が茶化すように細められた。ケティは落ち着かない気分を味わいながら答える。
「ギーシュさまのときは、何というか言われるままでしたけれど。今回は、攻めですから」
「攻め、と言いますと?」
エリアが不思議そうに言う。ケティは「ほら、あの」と手をさまよわせたあと、なんとか言葉を絞り出した。
「ビスケットとか、作って持って行きましたし」
「でもルイズさまに食べられちゃったじゃん」
ほとんど間を置かずに、コゼットが突っ込む。実際その通りだったので、反論できない。
「でも、でも」
それでも、ケティはなおも食い下がった。
「わたし、本気ですから。それにサイトさまも、今現在はお相手がいらっしゃらないようですし」
「いや、明らかにあの怖いご主人様に惚れてるでしょ、あの人」
「ですよねー。あんなに酷い目に遭われても、おそばを離れないんですもの」
「心底愛してるのね」
友人たち三人が口を揃えて言う。いよいよ意地になって口を開こうとしたら、「ケティ」という、コゼットのため息混じりの声に遮られた。
「あんた、口では本気とか言ってるけど、全然本気に見えないんだよね、正直さ」
「どうしてですか」
「だって、サイトさまのところに行くとき、絶対他の連中と一緒に行くじゃん」
痛いところを突かれて、ケティは声を詰まらせる。「そうですよねー」と、エリアも同意した。
「ケッちゃん、サイトさまを慕ってる他の女の子たちを出し抜く努力、全然してませんものね」
「だよな。そんなんじゃ、いつまで経っても『俺にキャーキャー言ってる女の子たちの中の一人』のままだ」
「きっと、名前も覚えてもらってない」
口々に指摘され、ケティは何も言えなくなってしまった。黙って椅子に座り、唇を噛み締める。自然と、膝の上の拳を握り締めていた。
「あ、悪い、言いすぎた」
コゼットが慌てて立ち上がり、ケティのそばに歩み寄ってきた。右手で試験管を振り続けながら、左手でケティの肩をそっとつかむ。
「ごめんなケティ、あんただって、あんたなりに努力してんのにさ」
そう言われたとき、ケティの胸に言いようのない奇妙な感覚が広がった。罪悪感とでも言うべき息苦しさに、椅子の上で身じろぎする。そんな彼女の内心に気付かぬように、コゼットは先程よりも幾分か優しい口調で続けた。
「でも、怒らないでほしいんだよ。あんたが美男子にキャーキャー言うのが悪いことだとは思わないけど、そろそろ、他のことも考えなくちゃなんないじゃん?」
「他のことって、なんですか?」
「将来のことだよ」
胸の内の閉塞感が、さらに大きくなった。「将来」と繰り返すケティに、コゼットが大きく頷く。
「そ、将来のこと。あたしらももう二年生だしさ。学院卒業したらどうするかとか、ちょっとは考えなくちゃいけないと思うんだよね」
「わたしは考える必要なんてありませんけど」
椅子に座ったエリアが、滑らかな銀髪を一房指で巻きながら、にっこりと微笑む。
「学院を卒業したら、領地に戻って婚約者と結婚することになってますので」
「あー、なんとか伯爵って、結構いい年したおっさんだっけか?」
「ええ。学院に入ったのは、元々貴族の息女として恥ずかしくない教養を身につけるため、という名目でしたから、それを活かしてどこかで働く、ということはありません。まあ、わたしにとってはどちらかと言うと、将来退屈しないための遊び相手を見つけるのが一番の目的だったんですけどね」
エリアは口許に手を添えた。
「その辺は思ったよりも簡単に達成できちゃいましたから。あとは貞淑な伯爵夫人として適当に振舞いつつ、たまにここで知り合った男の子達とこっそり遊ぶ、悠々自適の楽しい人生が待っているのですよ」
「お前ってホント自由だよな」
げんなりした口調でいうコゼットに、ケティはおそるおそる問いかけた。
「コゼットは、ここを卒業した後の予定がおありですの?」
「まあ、一応ね。ちょっと迷ってるけど」
気難しげな顔で試験管を振り続けながら、コゼットが小さく首を捻った。
「薬の研究続けるならアカデミーに進んだ方がいいんだろうけど、早めに領地に戻りたい気持ちもあるんだよね。母様のこともあるしさ」
「そういえば、コゼっちのお母様、ご病気なんですっけ」
エリアがいうと、コゼットは軽く肩をすくめた。
「そ。あたしが子供の頃に父様が死んじゃったから、執事に助けられて領地を切り盛りしてんだけど、元々あんまり体が強い人じゃないからさ」
「コゼっち見てると信じられませんね」
「余計なお世話だっての。ま、ともかく、早く母様のところに帰ってあげたいなーとも思うわけだよ。あたしの他には、まだ小さい妹たちが二人いるだけだしさ。薬の研究も楽しいけど、たとえド田舎のちっちゃな家でも、貴族の長女としての義務とか責任ってやつもあるわけだし」
少し真面目な口調から一転して、コゼットはからかうようにアメリィの方を見た。
「アメリィ、あんたはどうすんの……って、聞かなくても大体分かるけど」
「ここで学んだ魔法を活かして、一生宝石を作り続けて暮らすわ」
どことなくうっとりしたように口許を緩ませて、アメリィが呟くように答える。
「死んだあと、たくさんの宝石と一緒にお墓に入るのが夢なの」
「あんたらしいよ、ホント」
からからと笑うコゼットのそばで、ケティは隠しようのない居心地の悪さを感じていた。
(もしも『ケティはどうするの』と聞かれたら、どう答えればいいんだろう)
必死に考えるが、答えが出ない。コゼットやエリアが明る声を交し合うそばで、そうすれば質問から逃れられるとでも言うように、ケティはただ黙って身を縮めていた。
幸いにも友人たちはほとんど時間を置かずに部屋を出て行ったので、ケティがその問いを投げかけられることはなかった。
憂鬱なティータイムから一時間も経っていない時刻、ケティは沈んだ気持ちを抱えたまま、一人寮の廊下を歩いていた。
休日ということもあって、人影はまばらである。夏も近い時分、やや強い日差しが眩しく降り注ぎ、寮周囲の木々を瑞々しく輝かせている。青空に点々と浮かぶ千切れ雲を吹き流す風が開け放たれた窓から吹き込み、人の肌にも心地よい。だが、ケティの心は空のよ
うには晴れなかった。
(将来……将来、か)
視線が落ちる。
(そんなに、遠い未来の話ではありませんのね)
だが、ケティは今まで、そのことについて深く考えたことがなかった。あえて考えないようにしていたのかもしれない。
(わたしの将来なんて、分かりきってますもの)
ロッタ家は、そこそこ長い歴史を持ってはいるものの、取り立ててどうと言うこともない、至って平凡な中流貴族である。
外聞ばかり気にして、上の者には媚びへつらい、下の者には威張り散らす父。若さと同時に夫からの愛も失ってしまい、今や召使やメイドをいびることぐらいしか楽しみのない、陰気な母。
そんな二人から生まれたケティは、やはりあまり愉快なところのない少女だった。魔法学院に入ったのも、魔法の腕を伸ばすためと言うよりは単に慣習に従ってのことだったし、予想通り成績は平々凡々としたもので、隠れた才能が爆発的に開花した、ということももちろんない。自分でもそのことは重々承知していたので、卒業後に魔法を活かす仕事に就こうなどという気は少しもなかった。
(そうなると、当然、残された選択肢は結婚ということになるのでしょうけど)
貴族の娘と生まれたからには、ほぼ間違いなく親が決めた相手と結婚することになるのだろう。父は体面さえ取り繕えればそれでよしという、トリステイン貴族の悪いところだけを凝結させたような人間だから、おそらく結婚相手も人格や能力よりは家柄優先で選ばれるに違いない。自分にとっては間違いなく不幸な結婚になる。好きでもない男に抱かれ、好きでもない男の子供を生み、若さを失って夫に見てもらえなくなり、母と同じように召使をいじめるのだけが楽しみという、実に根暗な人生が待っているに違いない。それ以外の将来など想像も出来ない。
(お兄様たちがいらっしゃるから、家督を継ぐとかそういう重大な問題とは無縁でいられますわね。でも)
自分と違って優秀な兄、姉の姿を思い浮かべて、ケティは唇を噛む。そうなると、自分には政略結婚の道具になるぐらいしか価値がないように思えて仕方がない。
(みんなみたいに、稀有な才能でもあればよかったのに)
コゼットのような豊富な知識や強い意志、アメリィのような土魔法の才、エリアのような異性の心をとらえて離さない容姿、仕草。全て、自分が持っていないものだ。
(そもそも、わたしは何も持っていない。家柄も取り立てていいわけじゃないし、容姿もせいぜい人並み程度、人を惹きつけるような素晴らしい人格者でもなければ、優れた才能を持っているわけでもない。わたしは本当に、どこにでもいるようなつまらない人間なんだわ)
そのとき、前方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。一瞬立ちすくんだあと、急いで周囲を見回す。幸い近くに物置部屋があったので、迷いなくそこに飛び込んだ。
暗い物置の中で息を殺して待つこと、十数秒。先程の声の主が、扉のすぐそばを通り過ぎる。
「おお愛しいモンモランシー、どうか僕の言葉を聞き入れてくれたまえ」
「うるさいわね。あんたの言葉なんかもう一生信用しないわよ」
ギーシュとモンモランシー。ケティの一学年上の先輩であり、今も苦い思い出として心に残っている二人の男女。彼女を選んでくれなかった男と、その男に選ばれた女が、息を潜めて物置に隠れているケティには全く気付かず歩いていく。ほんの少しだけ開けた扉の隙間から、通り過ぎる二人の横顔が見えた。ギーシュはもちろん、モンモランシーの方も、口では悪態を吐きながらも、どことなく楽しそうな様子だった。
二人が廊下の向こうに消えたのを確認してから、ケティはそっと物置を出た。相変わらず静まり返っている廊下の先、二人が向かった方向を見つめて立ち尽くす。滑らかな金色の巻き毛を揺らして歩くモンモランシーの横顔が、頭に浮かんできた。
(美しい方だわ。歩く姿も堂々としていて、わたしなんかとは大違い)
溜息が出た。
(やっぱり、殿方が最後に選ぶのは、あんな風に何か輝くものを持っている女性なのね)
ケティはぎゅっと眉根を寄せて、踵を返した。二人とは別方向に、目的もなく歩き出す。
胸に燻る想いを振り捨てようと足を速める中で、一つだけ、納得できたことがある。
先程、物置に隠れていたケティのすぐそばを通り過ぎた、ギーシュの顔。名門の子息らしく非常に整っていて、気障な仕草や甘い囁きがよく似合う。その辺りの印象は以前と変わりない。惚れ惚れするほどの美男子だと思う。
だが、彼の顔を思い出しても、ケティの胸にはさざ波一つ立たなかった。だから、断言できる。
(みんなの言うとおり、わたしはギーシュさまに恋なんてしていなかった。ただ、こんな
取り立てて褒めるところもないような自分を選んでくれたのが、嬉しかっただけだった)
苦笑いが浮かびそうになった。そうとも気付かずギーシュの口説き文句に舞い上がっていた過去の自分が、とても滑稽で恥ずかしい存在に思えてくる。
(では)
もう一つ、心に疑問が浮かぶ。
(今わたしがあの方に抱いているこの想いは、一体なんなのでしょう)
そのとき、廊下の窓の向こうから大きな唸りが伝わってきて、かすかに体を震わせた。
驚いて足を止め、窓に駆け寄って空を見る。絶え間ない唸りは、晴れ渡った空の一点から聞こえてきていた。そこに、この学院に入るまでは想像したことすらなかった不可思議な物体が飛んでいる。
(サイトさまだわ)
空を横切る鉄の翼を仰ぎ見て、ケティはそっと胸を押さえた。鼓動が早まり、無闇に熱を生んでいる。顔の火照りを自覚しながら見上げ続けるケティの視線の先で、想い人を乗せているのであろう鉄の翼は、唸りの尾を残しながら広場の方へ飛んでいく。
(どこかに出かけていて、今帰っていらしたのね)
ケティの心臓が大きく脈打った。
(今すぐに向かえば、わたしが誰よりも早く、サイトさまをお出迎えできるかもしれない)
その思いつきに突き動かされるように、ケティは寮の入り口に向かって駆け出した。
息を切らしながらヴェストリの広場の一隅に着いたころには、もうあの力強い唸りはどこからも聞こえてこなかった。不思議な鉄の乗り物は、少し離れたところに見えている粗末な建物に収まったらしい。そこは才人が副隊長を務める水精霊騎士隊の詰め所であり、あの鉄の乗り物の格納庫でもある。
(多分、まだあの中にいらっしゃるはずよね)
ケティは乱れた息を整えつつ、手鏡を覗き込んで髪を直してから、ゆっくりと歩き始めた。広場は閑散としていて誰もおらず、自分のように才人を出迎えようと走ってくる女生徒たちの歓声なども聞こえてこない。どうやら、狙いどおり一番先にたどり着けたようだ。
扉のついていない格納庫の入り口にたどり着くと、ケティは壁の陰に隠れてそっと中を窺った。
(ああ、やっぱりいらっしゃった)
胸が高鳴った。才人はあの鉄の乗り物の中に座ったまま、大きく伸びをしているところだった。今出て行けば、間違いなく自分が真っ先に彼を出迎えることができる。
そうと分かっているのに、ケティは何故か足を動かすことが出来なかった。出て行きたいのに出て行けない、もどかしい思いを抱えたまま、壁の陰で立ちすくむ。
(一体どうしたの。行きなさい、ケティ。出て行って、笑顔で「お帰りなさいませ」と声をかけるの。そうすれば、サイトさまを慕う女たちの中の一人ではなく、ただ一人きりのケティ・ド・ロッタとして覚えていただけるかもしれないでしょう)
心の中で自分を叱咤してみるが、やはり足は竦んだように動かなかった。どんなに焦ってもその状態に変わりはなく、ただ時間だけが無駄に過ぎていく。才人はもう身を乗り出して、あの乗り物の外へ出ようとしているところだった。
(早くしないと、他の子たちもやってくるかもしれないのに)
そう思いながらも、ケティは自分の欺瞞に気がついていた。こうしてせわしなく周囲を見回しているのは、他の少女達が来るのを警戒しているのではなく、期待しているからだ。
自分一人で彼の前へ出て行くなど、どうやったって出来るはずがない。
どれだけ想像しても、頭に思い浮かぶのは「何故この見知らぬ女は、自分に気安く声をかけてきたのだろう」とでも言いたげな、迷惑そうな才人の顔ばかりだ。
自分がどんな顔をして出て行き、どれだけ勇気を振り絞って声をかけたとしても、彼の心には何の感情も呼び起こさないのではないか。そう考えると、とても前へ進めなかった。
そうやって彼女が迷っている内に、才人は鉄の翼の上に危なげなく降り立った。ケティの予想に反してすぐには地面に降りず、翼の上で振り返って、先程座っていたところを覗き込む。
「おい、早く出てこいよ」
「うっさいわね、使い魔のくせにご主人様を急かすんじゃないわよ」
ケティは息を飲んだ。てっきりあの乗り物に乗っているのは才人だけかと思っていたが、もう一人同乗者がいたらしい。その声の主のことも、ケティはよく知っていた。
「ったく、狭苦しいったらないんだから」
「飛んでる最中ははしゃいでただろうが、お前」
「はしゃいでなんかいないわよ!」
癇癪を起こしたように叫びながら、小柄な人物が姿を現す。桃色がかった美しいブロンドの髪と、少々色気には欠けるが可愛らしさでは他の追随を許さない小柄な体、そして、女ならば誰もが羨むであろう完璧な美貌。
何もかもがケティとは正反対に思える彼女の名は、ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールという。かつては魔法が使えないためにゼロのルイズと馬鹿にされていたが、一年ほど前に有名な盗賊を捕えた功績を認められて以来、周囲に一目置かれるようになった少女である。
ケティにとってもっと重要なのは、彼女が使い魔才人の主人であるという事実だった。
「ほら、使い魔ならちゃんとご主人様を支える」
「へいへい、分かりましたよお嬢様」
才人がそっと手を差し出し、ルイズが上機嫌なすまし顔でその手を取る。まるで一枚の絵画のような光景だ、とケティは思った。同時に、どうしようもないほど自覚する。その絵の中に、自分が入れる隙間など少しもないのだと。
才人という少年は、絵に描かれた王子様のように、ケティにとっては遠すぎる存在だった。
(あの方はきっと、わたしの名前すら覚えてはいない)
二人から目をそらすように顔を伏せ、壁の縁を強く握り締める。ナイフで抉られたような胸の痛みは、どうやっても治まってくれそうにない。
そのとき、背後からいくつもの騒がしい靴音が聞こえてきた。振り返ってみると、才人を慕う女生徒たちの一群が、黄色い歓声を上げながら走ってくるところだった。彼女らが近づいてくるのを見つめながら、ぼんやりと考える。
(わたしも、あの子たちと全く変わらないの?)
何度も首を横に振り、ケティは駆け出した。格納庫の中ではなく、広場の方へ。こちらには目もくれないその一団とすれ違っても、まだ走り続けた。彼女たちの中に埋もれてしまうのだけは絶対に嫌だった。
木々の隙間から木漏れ日が点々と落ちる道を、ケティは俯きながら歩いていた。一歩踏みしめるごとに、森の土は柔らかな感触を返してくる。小鳥のさえずりと木の葉の囁きを運ぶ微風が、栗色の髪を優しく撫でるように吹きすぎていく中、とぼとぼと歩き続ける。
先ほど、遠くから才人とルイズを見つめていることしか出来なかったときの無力感、閉塞感が、小さな胸を押し包んでいる。息苦しさすら感じるほどの痛みに、このまま消えてしまいたい気分になる。しかしちっぽけな体は今厳然とこの場に存在していて、消える気配など微塵も見せなかった。
(わたしはどこにも行けないし、何にもなれない)
胸中で呟いた言葉が、そのまま残ってさらに胸を重くする。大きく溜息をついても息苦しさは消えず、それどころかさらに強く胸を締めつけた。周囲の景色も少し暗くなる。そう思ってよく見ると、実際に木々の間隔が狭くなって、日光を遮っていた。行くあてもなく歩く内に、森の中でもかなり奥深いところに入り込んでしまったらしい。
少し迷いながらも、ケティは森の奥に向かって歩き続けた。まだ気晴らしが必要だった。
こんな気持ちのまま学院に帰りたくはない。学院周辺に広がるこの森には、今まで何度も足を運んでいる。コゼットが薬の材料を採取するために森を訪れる際、他の友人たちと共にそれに付き合うからだ。目印を刻んだ木を何本か見かけるから、この辺りにも来たこと
がある。迷って帰れなくなるということはないはずだ。
(万が一迷ってしまっても、『フライ』の魔法で空に飛び上がればいいだけですし)
そう考えながらも、今の自分では頭上を覆う木々の枝にぶつかったりしそうだ、と少し不安になる。その感情を沈めようと顔を上げかけて、ケティは眉をひそめた。
前方の高い木々の向こうの空に、何かが尖ったものが突き出しているのが見える。先端が陽光を浴びて鈍く光っているところを見る限り、明らかに金属製の人工物だ。(あんなもの、前に来たときはありましたっけ?)
ケティは不思議に思いながら、前方に向かって歩き出した。鬱蒼とした木々が作り出す曲がりくねった道を通り過ぎ、目標に向かって少しずつ近づいていく。近づくごとにその物体の巨大さが分かってきて、少し不安になった。
(もしかして、野盗の隠れ家、とかではありませんよね?)
今まで読んだことのある物語の数々が、頭を過ぎっては消えていく。馬鹿馬鹿しいことだ、とケティはかぶりを振った。森の奥深くと言っても、魔法学院の周辺なのだ。王軍所属の竜騎士が空から目を光らせているような場所に、あんな大きな鉄の建物を建てる盗賊などいるはずがないし、そもそも見つからずに完成させるのは不可能だ。
だからこそ、不思議でならない。あれは一体いつの間にここに出現したのだろう。胸がどきどきした。自分の存在の小ささに嫌気が差していたところに、あんな不可思議な物体が現れたのだ。物語の中に入り込んでしまったかのような奇妙な好奇心の命ずるままに、ケティどんどん前へ進んでいった。
やがて、森の中の開けた一角が見えてきた。そのすぐ近くまで近づき、太い木の幹に体を隠してそっと向こうを窺う。鉄の建物は、間近で見ると想像していた以上に大きかった。
丸みを帯びた塔のような建物だ。全体はいかにも硬そうな金属で作られていて、壁には丸くて分厚いガラス窓がいくつかついている。底の方は周辺に生えているどの木よりも太かったが、上にいくにつれて細くなり、先端は槍のように尖っている。天を貫こうかとでも言うように、空に向かって真っ直ぐ伸びていた。そんな物体が、森の真ん中に突如として出現したのだった。
(これは一体なんなんでしょう?)
ここまで近寄ってみても、ケティはそれがなんなのか検討もつかなかった。考えに考えて、ひょっとしたら変人のミスタ・コルベール辺りが秘密裏に建造した魔法の建物なのかも、という推測が頭の隅に浮かんだとき、不意に声が聞こえてきた。
「スペンダー、周囲に人影はないな?」
「イエス、キャプテン」
誠実そうな大人の男の声に、平坦で少しざらついた、奇妙な声が答える。「塔」の影から、一人の男が姿を現した。背の高い、精悍な顔つきをした男だ。短く刈った茶色の髪と、やや四角張った顎に生えた無精髭が、落ち着いていながらも野生的な雰囲気を生み出している。それ以上に目を引くのは、その男が着ている服だった。たくましい体つきを浮かび上がらせるような、ぴっちりした服を着ている。見たことのない格好だった。ケティの想い人である才人も妙な服を着ているが、この男の服装はそれ以上に変わっている。
(見たことのない方だわ)
当然のことを心の中で再確認しつつ、ケティはその男をじっと見つめた。男は「塔」の底部周辺をうろついて、壁に触ったり叩いたりしながら、誰かに向かって話しかけていた。
そのたびに、あの妙にざらついた声が返ってくる。しかし、周囲には男のほかに人影は見当たらない。
(一体どこにいるのでしょう)
困惑しながら「塔」の周りに視線をさまよわせていたそのとき、足元で何か妙な音がした。ケティの知っている限りだと、フォークと食器がぶつかるときのものによく似た、金属的な軽い音だ。驚いて下を見ると、大きな蜘蛛のような物体が、透き通ったガラスの目でじっとこちらを見上げていた。
(化け物!?)
未知の物体に対する根源的な恐怖に、悲鳴を上げて飛び上がる。
「誰だ!?」
「助けて!」
男の叫びとケティの悲鳴が重なった。何かを考える余裕もないままニ、三歩男の方に駆け出し、そこで少しだけ冷静になって立ち止まる。先程の蜘蛛型の物体が、八本足をカチャカチャ鳴らしながら「塔」の方に駆けていく横で、ケティは声も出せずに立ち尽くす。
「君は……」
呆然と呟いたあと、男は困りきった苦い顔で頭を掻き、「塔」の方を振り返った。
「スペンダー、周囲に人影はないんじゃなかったのか」
「センサーの不調のようです、キャプテン」
詰問するような男の声に、しれっとした声が答える。答えたほうの姿は、やはり見えなかった。
(どうしましょう)
ケティの体が小さく震え出した。足が竦んで動けない。先程の男の声を聞く限り、自分は何かまずいところに出てきてしまったらしい。先程の、蜘蛛の形をしたおぞましい物体が頭に浮かぶ。一体何をされるんだろう、と思ったところで、男がこちらを見た。迷っているような、困っているような表情を浮かべていた。
「こんにちは……いや、はじめまして。何から話したものか」
そこまで言いかけたあと、男は不意に慌てた様子で問いかけてきた。
「すまない、お嬢さん。僕の言葉は分かるかな?」
何故そんなことを聞くのかはよく分からなかったが、男の雰囲気に危険なものは感じられない。ケティは少しほっとしながら、それでも警戒は緩めずに、無言で小さく頷く。「良かった、翻訳機の方は問題ないみたいだな」
「イエス、キャプテン」
ほっとした男の声に、例のざらついた声が生真面目に答える。この頃になるとケティも少し落ち着きを取り戻して、男のことを少しは冷静に観察できるようになった。
間近で見ると、男はやはり変わった格好をしている。ぴっちりした服には継ぎ目がなく、上下一体になっているようだった。だが変なのは格好だけで、顔立ちは普通の人間と大して変わりがない。それどころか、真面目で誠実そうだ。無精髭があるせいで少し粗野に見えるが、ハンサムと言っても差し支えない造作だった。
その男が、咳払いをしながら、ためらいがちに近づいてくる。
「すまなかったね、お嬢さん。周囲の様子を記録するために地上用の観測ユニットを放っていたんだが、人がいるとは思っていなかったんだ。怖がらせてしまったようで、申し訳ない」
男は深く頭を下げる。
「いえ、そんな。勝手に驚いたのはわたしの方ですし」
と、ほとんど考えもなしに言ってしまってから、ケティは自分で驚いた。既に、目の前の男に対する警戒心が消えつつある。相手はこれほど怪しくて、わけの分からない人間だというのに。だが、心底こちらに申し訳ないと思っているらしき謝罪の仕草や、後ろ暗いところなど全く窺えない瞳の輝きを見ていると、自然と警戒が薄らいでいくのも事実だった。
ケティは深く息を吸い、乱れた衣服の裾や髪を整えながら、「ところで」と声をかけた。
「あなたは一体、どこのどちら様? この塔のような建物は一体なんなのですか? こんなところで何をなさっているんですか?」
矢継ぎ早に質問する。我ながら不躾だとは思ったが、好奇心は抑えようもないほどに膨れ上がっていた。ケティの問いかけに対し、男は短い頭髪を掻きながら「いやぁ、それは」と困ったように口ごもる。ちゃんとした返事をくれたのは、男ではなくもう一つの声だった。
「このお方は偉大な大魔術師なのです、レディ」
「スペンダー?」
男が驚いたように「塔」の方を振り返る。ケティもまた驚き、目を見張った。
「まあ、大魔術師、ですか」
「いや、誤解しないでくれ、お嬢さん」
「そうです、大魔術師です」
男の焦った声を遮るように、平坦ながら得意げな声が頭上から降ってくる。
「彼の名は、ジョン・ワイルダー。遥か西方よりこの地に旅してきた、不世出の大魔術師。
私はワイルダー様に仕えております、不可視の精霊スペンダー。以後お見知りおきを」
「そうだったのですか」
ケティは感嘆の声を上げた。なるほど、確かにそれほどの男ならば、こんな森の奥深くに、これほど巨大な建物を何の前触れもなく出現させるのも、不可能な話ではない。それ以外の理屈では目の前の現実にどうとも説明がつかない。きっと、西の大洋を越えた世界では、こういった魔法が発達しているのだろう。
ケティはそんな風に納得しかけていたが、目の前の男……ミスタ・ワイルダーは、腕を組んで呆れたように溜息をついた。
「スペンダー、これは一体何の遊びだ?」
「先ほど戻った飛行型観測ユニットが持ち帰った情報を分析いたしますに、この惑星はそういった文明が構築されているものと推測されます。しかるに私、アシモフ式第7世代型陽電子頭脳スペンダーが、データベースに収められている情報から、キャプテンのこの世界における違和感のない素性を捏造したのです」
「自分で捏造と認めるんじゃない。全く……そもそも、お前のデータベースにさっきの嘘八百に関わるどんな情報が収められていたというんだ?」
「遥か昔に流行したファンタジー小説の一群です、キャプテン。トールキン、ムアコック、エディングス、ローリング、ラッキー、ヤマグッティ……いずれもキャプテンの娯楽とするべく、私が収集したものです」
「初耳だ」
「キャプテンに報告すると『不要だ、削除しろ』と言われるのは目に見えておりましたので。他にも文学、ホラー、ラブロマンス、SF、ライトノベル等、およそ十万点ほどが収められております。キャプテンもたまには読書に没頭して、教養を深められることをお勧めいたしますが」
「余計なお世話だ」
ワイルダーがうんざりしたようにかぶりを振る。ケティは困惑した。彼らの会話の内容はよく分からないが、先程の大魔術師云々が嘘だったらしい、ということは理解できた。「でも、それならあなた方は一体……?」
「うん、その、なんと説明したものか」
ワイルダーが困ったように頭を掻くと、またどこからかスペンダーの声が降ってきた。
「キャプテン、船体のチェックは滞りなく完了しております。休憩がてら、船内でそちらのレディに事情を説明して差し上げるというのはいかがでしょうか」
言い終えると同時に、空気が抜けるような音がして、「塔」底部の壁の一部が、四角くせり出してきた。その部分が前に倒れて、無骨な鉄の階段が現れる。外れた壁の向こうに、「塔」の内部が見えていた。どうやら、ここが入り口らしい。
「仕方ないな」
ワイルダーは呟き、親しみのある笑顔を浮かべて、「塔」の入り口を手で示した。
「こちらへどうぞ、お嬢さん。大したもてなしはできないが、質問には全て答えてあげよう」
そう言って、先導するように歩き出す。ケティは少し迷ったあと、結局彼についていった。「塔」の入り口が、未知の世界に続く扉のように、口を開いて待ち構えていた。
足を踏み入れた先は、丸い部屋になっていた。壁面も天井も湾曲していて、唯一平らなのは床だけだ。大聖堂の丸天井をそのまま部屋にしたような形で、全面が真っ白だ。丸く分厚いガラス窓の向こうに森が見えていなければ、一体自分はどこに入り込んでしまったんだろうと首を傾げていたかもしれない。
ケティが完全に部屋の中に入るのと同時に、再び空気の抜けるような音を立てて、入り口が閉まった。
「そちらにどうぞ、お嬢さん」
部屋の中央に立ったワイルダーが手で目の前を示すと、そこの床から四角いテーブルと透明な椅子が音もなくせり上がってきた。驚くべき魔法だ、と思いながら、ケティはテーブルを挟んでワイルダーと向かい合わせに腰掛ける。丸い天井の一角が開いて、中から細
長い鉄の腕が二本伸びてきた。どこからか、スペンダーの平坦な声がする。
「コーヒーをどうぞ、キャプテン。レディは紅茶でよろしかったでしょうか?」
「あ、はい。ありがとうございます」
細長い鉄の腕が、手に握った二つのカップをテーブルに置くのを、ケティは呆然と見つめていた。飛び上がらんばかりに驚く場面なのだろうが、あまりにも異様なことが連続して起きているせいで、感情を表す機能が一時的に麻痺しているようだ。
ワイルダーは手元に置かれたカップから、見慣れない真っ黒な液体を美味そうにすする。
ケティは好奇心を駆られた。
「あの、その真っ黒いのは、飲み物なのですか?」
「え? ああ、コーヒーのことかい?」
「コーヒー、ですか?」
「そうか、君が住んでいる地域では、飲まないんだね」
納得したように呟いたあと、ワイルダーは悪戯っぽい笑みを浮かべて、自分が持っているカップを差し出してきた。
「試しに一口、飲んでみるかい?」
ケティはおそるおそるカップを受け取った。中に満たされた液体は黒々とした光を湛えていて、まるで泥水のように見える。
(大丈夫、この人だって飲んでいるんだから、毒ではないはず)
自分に言い聞かせながら、ケティは目を閉じてカップに口をつけた。飲んだ途端に凄まじい苦味が舌を這い回り、思わずカップから口を離してしまう。ワイルダーが声を上げて笑う。
「お嬢さんにはまだ苦すぎたようだね」
子供扱いされていると感じて、ケティは少しムッとした。カップをテーブルの上に戻してから、居住まいを正してワイルダーを睨みつける。まだ口の中に残る苦味に顔をしかめながら、文句を言った。
「仮にも貴族の娘に対してそのような物言い、失礼なのではありませんか? それに、わたしはお嬢さんなどという名前ではありません」
ワイルダーは苦笑しながら頭を掻いた。
「これは失礼。そう言えば、自己紹介するのを忘れていたね。わたしはジョン・ワイルダー。この船の船長だ。さっきからふざけたことばかり言ってるのは、AIのスペンダー。この船の制御のほとんどを受け持っている。以後よろしく」
そう言って、ワイルダーはテーブルの上で右手を差し出した。その手と彼の顔を交互に見比べて、ケティはどうしたものかと困惑する。それを見て取ったのか、ワイルダーは慌てて手を引っ込めた。
「すまない、初対面の相手と握手する習慣はなかったかな?」
「いえ、分かりますけれど」
ケティもまた、慌てて自分の手を差し出す。ワイルダーがほっとした様子で、その手を握り返した。武骨でたくましい大きな手が、ケティの小さな手を軽く包み込んでいる。なんだか変な感じだった。男同士で友情の証として握手をするのは知っているが、女性に対して握手を求める男など、ケティは他に知らない。
(やっぱり異邦人なんだわ)
改めて確認するのと同時に、俄然目の前の男に対して興味が沸いてくる。ケティは手を離すと、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。
「あなたは一体どこのどなた? 先程『船』と仰っていましたけど、『塔』の間違いではございませんの? それに、スペンダー……AI、というのは一体どのようなマジックアイテム」
「その前に」
ワイルダーは穏やかながらどこか面白がるような口調で、ケティの質問を遮った。
「出来れば、君の名前をお聞かせ願いたいんだが」
頬が熱くなった。そう言えば、相手に聞くばかりで自分のことは何一つ言っていない。
ケティは慌てて座りなおすと、咳払いをして自己紹介した。
「失礼いたしました。私、ケティ・ド・ロッタと申します。ロッタ家の三女で、トリステイン魔法学院に通っております」
ワイルダーの目が子供のような輝きにきらめいた。上の方に目を向けて、はしゃいだように言う。
「聞いたか、スペンダー」
「イエス、キャプテン。会話は全て録音されております」
「ああ、そうしてくれ。貴族に魔法、魔法学院か! 本当にファンタジーの世界らしいな、ここは!」
感心したように何度も頷いたあと、ワイルダーは興味深げにこちらの顔を覗き込んできた。
「ということは、君は貴族の令嬢でお姫様ってことだ。そういわれれば、確かにどことなく気品のある雰囲気だものな」
間近でまじまじと見つめられると、ケティの胸に恥じいるような感情が浮かんできた。
身じろぎしながら、ぼそぼそと答えを返す。
「いえ、お姫様だなんて……ロッタ家はそれほど身分の高い家柄ではありませんし」
「そうなのかい? まあ僕からすれば同じことさ。生まれてこの方、貴族の令嬢なんて見たこともないんでね」
そう言ったあとで、少し気まずそうに頬を掻く。
「そういうわけだから、多少礼儀作法に欠けるのは許してもらいたいんだが、どうかな?」
「ええ、構いません。楽にしてください」
ワイルダーがほっと息を吐いた。
「やあ、良かった。テーブルマナーなんて求められたらどうしようかと思った」
「だから少しは教養を身につけるべきだと、常日頃から申し上げているではありませんか」
「うるさいぞスペンダー、宇宙の男にそんなものは不要だ」
拗ねたように唇を尖らせるワイルダーを見て、ケティはなんだかおかしくなった。未知の世界の住人だと思っていた男に、急に親しみが湧いてくる。彼の笑顔が、想い人である
才人にどこか似ているからかもしれない。そう思ってみると、彼と才人はどことなく似通った雰囲気があるような気がした。たくましく、気さくで、穏やかで。貴族でないということは彼も平民なのだろうが、こんな風に何の気兼ねもなく話をすることが出来る。その辺りも、やはり似ている。
「さて、ケティ」
ワイルダーが膝の上で手を組んで、少し身を乗り出してくる。呼び捨てで呼ばれたことは、特に気にならなかった。
「僕にいろいろと聞きたいあるようだね。なんでも、遠慮なく聞いてくれ」
ケティは迷った。確かに聞きたいことはたくさんあったが、たくさんありすぎてどれから聞いていいのか分からない。とりあえず彼がどこから来たのか聞こう、と口を開きかけたところで、不意に盛大なファンファーレが鳴り響いた。驚きに体が跳ねる。ワイルダーもぎょっとしたように、ケティの背後を見つめていた。その視線を追って振り向くと、天井から鉄の腕に吊るされた黒い板のようなものが降りてきていた。ケティが振り向くのを待っていたかのように、その黒い板に動く絵が映し出される。
「無限に広がる大宇宙を駆ける、誇り高き男!」
誇らしげな叫びと共に、実物よりもいくぶんか美化されたワイルダーの顔が大写しになる。
「その名は、キャプテン・ワイルダー! 数多の惑星を飛び回り、未知の世界を解き明かすために深遠なる宇宙を駆け抜ける! 星の海を渡るその行く手に待ち受けるのは、栄光か、それとも死か!」
声と共に、次々と絵が切り替わる。派手な爆発を背景に、見慣れぬ銃を手にして走るワイルダー。蔦につかまって木から木へと飛び移るワイルダー。剣を片手に、謎の黒尽くめ男を相手に死闘を演ずるワイルダー。
「進め、キャプテン・ワイルダー! その手に未来を勝ち取る日まで!」
最後にきらりと歯を光らせて笑うワイルダーの顔が大写しになったあと、板はまた天井に引っ込んでいった。唖然としているケティの耳に、スペンダーの真面目くさった声が聞こえてくる。
「いかがでしたでしょうか。なおスタッフに関しましては、音響スペンダー、美術スペンダー、演出スペンダー、総監督スペンダー」
「おい、スペンダー」
ワイルダーがうんざりした声で遮った。
「一体何の遊びだ、今のは」
「初めてお越しいただいたお客様にキャプテンのことを紹介するべく、秘密裏に製作していたCGムービーです。お気に召しませんでしたか?」
「当たり前だ。見ろ、ケティの顔を。すっかり動転しているじゃないか」
名前を呼ばれて、ケティははっとしてワイルダーの方に向き直った。
「あの、今のは一体」
「イカれたAIの悪ふざけだ。気にしてくれなくていい。スペンダー、船長命令だ。しばらく黙ってろ」
「了解いたしました、キャプテン」
悪びれない声で答えて、スペンダーが黙り込む。「まったく」と呟いたあと、ワイルダーは苦笑気味に言った。
「まあ、さっきのふざけたムービーも、ある程度正しくはあるんだが。僕は確かに、未知の宇宙を旅してその情報を持ち帰る探検者だ。この惑星も、知的生命体らしきものが確認されたので降りてみたわけだし。でもまさか、ここの人間がここまで僕らに似ているとは思いも」
「あの」
ケティはためらいつつも、ワイルダーの話を遮った。
「なんだい、ケティ」
「いえ、先程仰った、宇宙だとか惑星だとかいった単語の意味が、よく分からなかったもので」
「ああそうか、うっかりしていたな」
ワイルダーはぴしりと自分の額を叩いたあと、穏やかに笑った。
「分かった、じゃあその辺りから説明しようか」
そして、ワイルダーはケティが今まで想像したことすらなかった事実を語り始めた。
青い空の向こう、無限に広がる大宇宙。風も空気も上下左右の区別もない、広大な星の海。その海を駆け抜け、星から星へと旅する探検者。その探検者が乗り込む、ロケットという名の巨大な船。
「それでは、このハルケギニアも、そういった『星』の中の一つだと仰いますの?」
「そういうことだね。この世界で信奉されているのが地動説か天動説かは知らないが、現実は僕が今説明した通りだ。夜空に瞬く星々も、多くはここと似たような世界なんだよ」
ワイルダーはケティの呆然とした表情を楽しむように言う。彼の言うことが全て理解できたわけではなかったが、嘘ではないこともなんとなく分かった。王都で持て囃されている人気者の吟遊詩人ですら、ここまで馬鹿げた物語を作り出すことは出来ないだろう。ワイルダーが語った世界は、ハルケギニア住人の想像の範疇を超えている。逆に言えば、それが信じるに足る証拠にもなり得るのだった。
「この『塔』も、ロケットという名の船だと?」
「ああ。こいつは」
「恒星間移動すら可能な空間跳躍航法を実装した、最新式のブラッドベリ型ロケットです、ミス・ロッタ」
スペンダーの声が会話に割り込んだ。
「人類史上最も効率的かつ高性能な超小型対消滅エンジンと、その燃料を船内で生産するための超小型反物質生成プラントを完備し、長期間宇宙を旅する乗員にもストレスを与えないよう、徹底的に配慮された居住スペースを備えております。そして何よりも特徴的なのは、ロケット全体の機能を保持、管理、制御するこの私、アシモフ式第7世代型陽電子頭脳、スペンダーでありまして」
「スペンダー」
ケティにはさっぱり意味が分からない説明を捲し立てるスペンダーの声を、ワイルダーが不機嫌そうに遮った。
「僕はさっき、黙ってろと言ったはずだが」
「『しばらく』とも仰いました。その時間はもう終わったものと判断したのです、キャプテン」
「分かった。じゃあ今度は、僕がいいと言うまで黙ってろ」
「了解しました、キャプテン」
またも生真面目な声で答えて、再度スペンダーが黙り込む。「まったくあいつは」と疲れたように肩を落とし、ワイルダーが頭を掻く。
「おしゃべりな奴で、すまないね。だがまあ、やっぱり説明自体に嘘はない。この船は星の海を旅するためのロケットなんだ。昨日の夜この森に着陸したあと、観測ユニットを放って周辺を探索させていたところに、君が来たわけさ」
「でも、こんなに大きなものが空から降りてきたら、いくら真夜中でも誰かが気付くと思いますけれど」
「ああ、この船には光学迷彩……要は透明になれる機能があってね。君がここに来る少し前までは姿を消していたのさ。その頃になって急に機能が不調になったとスペンダーが言い出したものだから、仕方なく僕自身が船外に出てチェックしていたんだ。さて」
ワイルダーは椅子の上で居住まいを正し、じっとケティを見つめた。
「今の説明である程度推測できたかもしれないけれど、このロケットの存在は、本当なら誰にも知られてはならない。特に、ここのように……ああ、気を悪くしないでくれ……まだ文明が未発達な惑星の住民にはね」
「どうしてですか?」
「もちろん、混乱が起きるからさ。自然な文明発展に悪影響を及ぼすし、何より精神的に
未成熟な文明に過ぎた力を与えるわけにはいかない。本当なら、これほど深く接触して、自分の素性を明かすこと自体、惑星同盟間規約で禁じられているんだよ」
前半はよく分からなかったが、後半の「禁じられている」という部分に、ケティは罪悪感を覚えた。
「つまり、あなたは今、規則を破ってしまっているのですね」
「まあ、そういうことになるかな」
「ごめんなさい、わたしのせいで」
身の縮むような思いを味わうケティに、ワイルダーは気楽に言った。
「いや、別に君のせいじゃないよ。どちらかと言うと油断していた僕らが悪いんだ」
「でも」
「ただまあ」
ワイルダーは少し言いにくそうに切り出した。
「こちらの事情を分かってもらえたのなら、僕らのことは秘密にしておいてもらえると助かる。君のご両親や、友人にも喋らないでいてもらえないか?」
「ええ、それはもちろんです。ロッタ家の家名に賭けてお約束しますわ」
「本当かい? ありがとう、すごく助かるよ」
安堵しきったワイルダーの声を聞くと、またもケティの中で好奇心が首をもたげてきた。
「参考までにお聞きしたいのですけれど、もしもわたしが喋ってしまった場合、どうなるのですか?」
「そのときは、急いでこの星から出て行くだけさ」
ワイルダーは肩をすくめた。
「このロケットがなくなれば、誰も君の話を信じなくなるだろうからね」
「それもそうですわね」
ケティもまた、ほっと息をつく。喋れば誰かに害が及ぶような、危険な秘密を知ってしまったわけではなさそうだ。ふと窓の外を見ると、外の森が黄昏の色に沈みつつあるのが見えた。
「ああ、わたし、もう学院に帰らないと」
慌てて立ち上がると、ワイルダーが少し残念そうな顔で呟いた。
「そうか、もう帰ってしまうのか。残念だな、君の話もいろいろと聞かせてもらいたかったんだが」
「え、わたしの話ですか?」
思いがけない言葉に、ケティの胸が高鳴る。ワイルダーは立ち上がりながら頷いた。
「ああ。どうせ規則を破ってしまっているんだし、住人の口から直接この世界のことを聞いた方がいろいろと得だろうしね。君がさっき言っていた、魔法というのも見せてもらいたいし……まあ、無理強いはしないよ。君にも君の都合があるだろうしね」
話しながら、ワイルダーは壁の一角に歩み寄る。それを待っていたかのように空気が抜けるような音がして、壁が四角く切り取られて向こう側に倒れた。その先には、暮れなずむ森が広がっている。白い部屋に差し込む黄昏の光に、ケティは目を細める。入り口の階段を下りると同時に、緩やかな風が木の葉のざわめきを運んできた。
「さて、それじゃさよならだ、ケティ」
低い階段の上に立ち、ワイルダーが眉を傾ける。
「送っていけなくて申し訳ないね。本当なら、君のような女の子をこんな時間に一人歩きさせたくはないんだが」
「いえ、大丈夫です。この森のことはよく知っていますし」
そう言ったあと、ケティは迷った。先程から、ある思いつきが心の中をぐるぐると駆け巡っている。だが、それを言ってしまって迷惑にならないものか。
「あの、もし、よろしかったら、なんですけど」
散々悩みぬいた挙句に、ケティは思い切って切り出した。ワイルダーが、驚いたように
目をしばたたく。
「なんだい、急に?」
「いえ……あの、もしよろしければ、またここに来てもいいでしょうか? ああ、もちろん、この船のことは誰にも話しませんので」
「本当かい?」
ワイルダーの顔に喜びが広がる。彼は階段を駆け下りてきて、ケティの小さな手をぎゅっと握り締めた。その熱烈な仕草に、ケティは自分の頬が熱くなるのを感じた。
「ありがとう、ケティ。もちろん大歓迎さ。楽しい話をたくさん聞かせておくれよ」
上下に手を振るワイルダーを見て、ケティは恥じらい混じりの不安に襲われた。
「そんな、わたし、きっと大したことは話せませんわ」
「いやいや。僕にとって、未知の世界の話はなんだって心が躍るんだ。是非ともここに通って、いろんな話を聞かせてほしい。ああ、もちろん」
ワイルダーは悪戯っぽく片目をつむった。
「君だけを特別に招待するわけだからね。必ず一人で来てくれよ。僕としては、それだけ約束してもらえればいい」
「わたしだけ、特別」
なんとも言いがたい感動が湧き起こる。今まで何も持っていなかった自分が、ついに他人が持っていない秘密を手に入れた。その事実に、小さな胸が激しく躍った。