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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:55:03 (5637d)
マリコルヌの冒険(その1) 痴女109号氏
――お、あいつ、今日のショーツは黒かよ。
マリコルヌ・ド・グランドプレは、ほくそ笑んだ。
(なら、そろそろ今晩、あの恋人と最後まで行く肚を決めたってところか)
彼の使い魔クヴァーシルから送信されてくる視覚情報。
夜更けの女子寮を飛び回り、窓にカーテンも引かずに油断し切っている女子生徒の、夜の日常を観察して回る。――夜目が利くフクロウならではの深夜の覗き行為は、もっぱら最近に於ける彼の最大の趣味となっていた。
トリステイン魔法学院は全寮制だ。
だから基本的に授業は男女共学ではあるが、その一般生活に於ける男女の敷居は、余人が想像する以上に高い。授業時間以外の男子と女子は、『寮』という寄宿舎によって、生活の場を隔絶されてしまっているからだ。
(食事は男女共同だが、おのおの席が指定されているため、狙った女子との意思疎通の空間には、ややなりにくい)
携帯電話のような個人間の連絡用ツールも存在せず、さらには中世ならではの貞操観念が存在するハルケギニア社会にとって、基本的に、婚姻を前提としない“親密な男女関係”を築くことは、そう簡単な事ではない。
だから、この学園生活で女っ気を充実させようと思えば、一日の終業時間――具体的に言えば、女子生徒たちが寄宿舎に帰ってしまうまでに細かい努力をするしかない。
放課後や昼休みに、意中の女子に詩や花束を送ったり、楽曲を捧げたりなどして、機嫌を取ったり歓心を得たりするのが、ハルケギニアに於ける一般貴族の恋愛方法なのだ。
マリコルヌとて、それは知っている。
そして彼とて、一般貴族としての恋愛を諦めたわけではない。
だから、この覗き行為がどれだけ罪深い、非常識な行為であるかということも、彼はちゃんと認識している。だが……、
(……マズイな……これ、病み付きになりつつあるぞ……)
無警戒な他人の生活を垣間見る。
そこにあるのは、一切の虚飾を剥ぎ取った素顔の生活だ。
男色趣味の無いマリコルヌは、さすがに男子寮を覗こうとは思わなかったが、女子寮で展開される女子生徒たちのナマの生態は、やがて、彼ほどのツワモノをしても、しばし性欲を忘れさせるものであった。
普段はしかめっ面をしている仕切り屋の少女が、自室で見せる、だらしない生活。また、普段は憎まれ口ばかり叩いている強気な少女が、自室で見せる、意外な涙もろさ。
寡黙な少女が、恋人を部屋に連れ込んだ途端、堰を切ったように甘えだし、逆に、だらしない少女が、普段からは想像もつかせないような潔癖な生活態度を見せる。
そして、そんな少女たちが勇を鼓して、部屋に連れ込んだ恋人たちに見せる媚態や誘惑、そして夜這い男たちの口説きザマ。
(おもしれえ)
娯楽の少ない寮生活で、他人の仮面の下を覗き見る行為にマリコルヌ少年が、まるで研究の対象を見つけた学者のような熱心さでハマってしまったのは、ある意味、必然であるとも言えた。
もともと、マリコルヌは自分の性欲の強さを意識はしていたが、それでも自分の女日照りに、そこまで真剣な危機感を抱いていたわけではない。
彼とて貴族の端くれ、実家――お世辞にも名門であるとはいいがたいが――に帰れば御領主様の若殿なのだ。学院を卒業して領地に帰れば、見合い話の一つや二つはあるだろう。
たとえ、爵位持ちの大諸侯ならぬ貧乏貴族であっても、それなりの縁談というものは存在する。贅沢さえ言わなければ、そう簡単に結婚相手にあぶれるというものではない。貴族社会は基本的に、婚姻によって人脈と門閥を形成し、社会を維持していくものだからだ。
ましてや、いま現在自分が所属する水精霊騎士隊は、自分たちが卒業すれば、女王陛下直属の近衛隊として、正式に王宮に上がる事になるだろう。つまり卒業後の官職は保障されたようなものである以上、将来の不安はさらにない。
(その前に、士官学校への入学を強制され、全隊員、一から軍事教練を叩き込まれる可能性はあるが)
まあ、だからこそ、気ままに自由恋愛をしようと思えば、そんな時間は学生時代に限られてくるわけなのだが……。
そして今宵、長らく“観察”を続けていた、とある女子生徒が、勝負下着とおぼしきショーツに履き替えるのを見て、マリコルヌの心中に沸いたのは、性欲よりも、嫉妬よりも、むしろ少女への声援だった。
無論マリコルヌとて、その少女が想いを寄せる男子生徒に嫉妬を感じないと言えば嘘になる。
だが、少女の日常生活を覗き見し、彼女がその男子に、どれほどの思慕と憧憬の念を抱いているか知ってしまっているマリコルヌとしては、その少女にむしろ父親か兄に近い感情を持ってしまっている。
ならば彼としては、必然的に少女の恋の成就を応援せざるを得ない。
(らしくねえな)
心中、彼は苦笑する。
モテない自分への満腔の不満と、モテ男たちへの身を焦がす程の憤怒と嫉妬。そして性欲。
それが自分――マリコルヌ・ド・グランドプレの構成成分だったはずなのに。
ぼくも変わっちまったもんだ、と思う。
無論、以前の性欲が跡形も無く消えたわけではない。
だが、いま続けている人間観察によって、自分は確実に以前とは変わった、と思える。少なくとも以前なら、他人の恋愛を応援する自分など、どう逆立ちしても想像できなかったからだ。
多分、他人の私生活を覗き見ることによって、以前よりも他者に対して優しくなれるようになったのは確かなようだ。
(まあ、それでもやってることは、ただの犯罪なんだがな……)
そのときだった。
自室のベッドで寝そべりながら使い魔の“眼”を使っていたマリコルヌは、不意にぎょっとした。
(いまのは……!?)
クヴァーシルが視覚の端に捉えた一人の男。
なぜ、目端に見えた男の影に、自分の肉体がそんな反応を示したのか、彼自身にも分からない。だが、分からないからこそ気になった。それは事実だ。それはマリコルヌの中の騎士隊員としての意識を、激しく揺さぶった。
マリコルヌは、その男を追跡することをフクロウに命じる。
(ぼくは、あの男を知っている……?)
その予感は、なぜか悪寒すら伴っていた。
薄茶色のローブと、つばの広い異国の帽子を目深にかぶった男の人相は、この夜更けでは、見極める事さえ出来なかったに違いない。だが、彼の使い魔はフクロウだ。クヴァーシルの夜目を以ってすれば、深夜も白昼も、大して変わりは無い。
そして、双月の月明かりから身を隠すように、校舎や塔の影づたいに歩を進めるその男は、最上級生であるマリコルヌから見ても、見覚えのない顔をしていた。
無論、彼とて、学院にいる全ての者の顔を記憶しているわけではないが、その男の相貌は、下級生と呼ぶにはあまりにも落ち着き過ぎ、教師と呼ぶにはあまりにも若すぎるように見えた。
つまり、少年のようにも思えるし、熟年のようにさえ見える。
マリコルヌは、そういう貌を持つ者たちを知っていた。
(まさか……嘘だろ……?)
男は、とある塔に辿り着くと指輪を光らせ、その身をふわりと浮き上がらせた。
フライか? だが、男は杖を振るったようには見えなかった。いや、そもそも杖を携帯しているようにさえ見えなかった。
そして、その姿は学院長……オールド・オスマンの私室の窓を無雑作に開け、室内に消えてゆく。
「……っっ!!」
一筋の冷や汗がマリコルヌの背筋を伝う。
ここで外に飛び出し、学院長室に不審者が侵入した事を騒ぎ立てるべきなのかも知れない。だがマリコルヌの精神は、ここでパニックにならない冷静さを奇跡的に持ち合わせていた。
何故なら、男が部屋に入った途端、窓から明かりが洩れたからだ。
つまり、この謎の男は、少なくともオールド・オスマンに害意を持っていないという事になる。わざわざ窓から部屋に入って、明かりをつける刺客などいるはずがない。また、明かりをつけて刺客を出迎える標的も、また然りだ。
クヴァーシルをその窓際に飛ばせる。
嫌な予感が背筋から消えない。
カーテンの隙間から室内の様子をうかがう。
「我をまとう風よ、我が姿を変えよ」
フクロウが部屋の中から聞こえた、その声を聞いた時、もはや、深夜の校庭をうろついていた怪しい男の姿は無かった。その代わりに、マリコルヌが二度と会いたくないはずの男がそこにいた。
腰まで伸びた、流れるような美しい金髪。
ガラス細工のように光る、切れ長の碧眼。
貴婦人のような、線の細い顎のライン。
そして、それらの美貌を完璧に裏切るように突き出た、人外の証明――長い耳。
(……エル……フ……!?)
しかも、そのエルフは、マリコルヌも知っていた。
かつて敵としてまみえた、ビダーシャルという名のエルフ。
嫌な予感は的中した。
その姿を視覚の端に捉えた瞬間の動揺もむべなるかな。アーハンブラ城で味わった恐怖を鑑みれば、たとえこの男がどのような姿に変身を遂げていたとしても、本能的に肉体が反応するのは、決して不思議ではない。
そして、不可解なのはそれだけではない。
当の学院長・オールド・オスマンその人は、普通にベッドから体を起こして、そのエルフに微笑んでいる。その様子は、あたかも久しぶりに会った莫逆の友人に声をかけているようにさえ見えるからだ。
ハルケギニアのメイジ養成機関の中でも屈指の名門・トリステイン魔法学院の学院長の私室に、人類の敵対種たるエルフがいる!!
その事実は、マリコルヌの理解を激しく超越していた。
確かに、世界有数の賢者であるオールド・オスマンであるならば、たとえエルフであっても顔が利く、ということもあるのかも知れない。
(いや、ないない!! それはない!!)
マリコルヌの心中の叫びに根拠は無い。だが、何が起こっているのか事態を見極めようとすれば、彼らの会話を盗み聞くしかない。
だが、そのときだった。
切れ長のエルフの碧眼が、クヴァーシルを――正確には、使い魔の目を通してマリコルヌを睨みつけたのだ。
「誰の使い魔かは知らぬが、覗きは悪趣味だな」
クヴァーシルは窓から一目散に飛び立った。
翼も折れよとばかりに力を込めて羽ばたき、僅かでも、その部屋から――そのエルフから距離を取る。その逃亡にマリコルヌの意思は一切介在していない。あくまでの種としての生存本能が取らせた行動だ。
何故なら、マリコルヌ本人はといえば、そのときにはすでに眼を回してベッドに倒れていたからだ。
無論、偶然ではない。
ビダーシャルの視線に込められた魔力のせいだ。
「殺したのか?」
それを知ってか、オスマンも不安そうにエルフに訊く。
「殺生はならんぞ。我が校の生徒が興味本位で覗いておっただけかも知れんのだからな」
その言葉に、ビダーシャルはつまらなそうに、だが心配そうに首を振る。
「我々エルフは無意味な争いを好みません。しかし、あなたはそれで宜しいのですか?」
見る者が見れば、その会話に驚倒したに違いない。
ガリア王ジョゼフにさえ、対等の態度と言動を崩さなかった、ネフテスのビダーシャルともあろう者が、人間相手に敬語を使っているのだから。だが二人とも、双方の言動に疑問を持っている様子は無い。むしろ、そんな事は問題ではないとばかりに話を続けていた。
ビダーシャルの台詞が表す意味はただ一つ。
今宵の一幕を覗き見ていたのが、単なる生徒の好奇心ではなく、歴とした機関の偵察要員の所業であったとしたなら、オスマンの失脚は免れようも無い。それでもよいのかと言いたいのだ。
だが、老人は動じない。
むしろ笑ってビダーシャルに応える。
「わしを誰じゃと思うておる? 俗世の権力ごときに、このオスマンが膝を屈すると思うのか?」
そう大見得を切ったオスマンだったが、それでも視線を外さないビダーシャルに、やがて気圧されるように俯き、寂しそうに言った。
「それに、――どのみち“虚無の担い手”は見つかったのじゃ。わしの仕事はもう、ほとんど終わったも同然じゃよ」
「おおい、マリコルヌ!! 何やってんだよ、いないのかっ!?」
個室の扉をガンガンと殴る音がする。
いや、その殴打音よりも、ドア越しに少年がわめく声のほうが激しい。
「あ?」
マリコルヌは眼を覚ました。
体を起こすが、その途端、頭蓋が割れそうに響く。まるで瓶一杯の火酒を呑んだようだ。
(あれから……いったい……?)
自分の情況を確認しようとした瞬間、骨さえも凍らせるようなエルフの冷たい瞳が、マリコルヌの脳裡に走った。
「〜〜〜〜〜〜ッッッッ!!」
逆流してくる胃液を、両手で口を抑えて、懸命に嘔吐をこらえる。いくら何でも自室のベッドの上で、反吐をぶちまけるわけにはいかない。数秒かかって、どうにか彼は口中の吐裟物を飲み下した。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
昨夜見た、学院長室での光景が現実だったのか否か、それは分からない。でも、単なる夢であるとも思えない。
マリコルヌは、本来なら今頃は森で眠っているはずの使い魔・フクロウのクヴァーシルの生死を確認したい衝動に駆られたが、さすがに、今はそんな事をしている時でもなさそうだ。
いま自分を叩き起こした、ドアから発する呼び声と殴打音。
何をするにも、まずは、あの乱暴極まりない訪問者の相手をしてからだ。
頭痛を誘発する、この怒号の主も誰であるかは知っている。――魔法学院の同級生、水精霊騎士隊の幹部格である肉体派の少年・ギムリ。
杖を振るって錠を外そうとしたが、頭痛がひどくて魔法に集中できそうに無かったのでやめた。ベッドから降りると、重い身体を引きずって扉まで行き、倒れそうになるのを堪えながら、ドアを開けた。
「何だよギムリ、こんな朝っぱらから」
そんなマリコルヌの様子と台詞に、ギムリは一瞬きょとんとなったが、
「朝? 何言ってるんだよマリコルヌ、もう放課後だぜ?」
次に呆然となるのは、マリコルヌの方だった。
(放課後!? そんな時間まで、だらしなく正体を無くして、寝込んでいたっていうのか!?)
だが、マリコルヌのそんな反応も、ギムリは歯牙にもかけないようだった。
もともと大雑把で、細かい事に神経の行き届く男ではない。マリコルヌの青い顔にも、また二日酔いだろう、くらいの理解で納得し、納得した以上は疑いを持つような性格をしていない少年なのだ。
そして、何よりそんな豪快なギムリが、泡を食ってマリコルヌを呼びに来る、という事は……。
「ンな事より大変だぜマリコルヌ!! おれたち全員、トリスタニアに緊急招集だってよ!!」
「は?」
「手柄だ手柄! 手柄上げて名を上げる絶好の機会だって言ってるんだよっ!!」
「……いきなりだな。一体何があったんだよ?」
そう訊かれてギムリは、むしろ嬉しそうに周囲を見回すと、マリコルヌを押して彼の個室に入り、ドアに施錠した。
「……いいか、これからする話は隊の幹部の中だけの極秘事項だ。無闇やたらと話すなよ」
と、いかにもな武者震いをしながら、声を潜める。
その様子は「これは秘密ですわよ」と言いながらゴシップを振りまく社交界の婦人たちを連想させ、マリコルヌはいささか興醒めする思いで、ギムリの言葉に頷く。
普段ならともかく、こんな割れんばかりの頭痛の中で、低俗な噂の伝言ゲームに参加するのは御免だったが、まあ、これも付き合いというやつだ。仕方が無い。
ギムリは、そんなマリコルヌの心中も知らず、口を開く。
「今朝、ギーシュとサイトが、王宮に呼び出されて、アニエスから聞かされたらしいんだが……」
アニエス・シュヴァリエ・ド・ミラン。
言わずと知れた、女王陛下直属の王宮衛士隊“銃士隊”の隊長であるが、女性である事や出自が平民である事から、かつての魔法衛士隊同様の信頼を一般貴族から受けているとは、お世辞にも言い難い。
彼女から何度か軍事講習を受けた、彼ら水精霊騎士隊の学生たちにしても、本人のいないところで敬称をつけて呼ぶほど、決してアニエスを敬ってはいなかった。もっとも、あの苛烈極まりない訓練内容からすれば、学生たちが彼女を嫌うのは無理もない話なのだが……。
「どうやらな、いま王宮でとんでもない計画が進められているらしい。おれたちは、それを阻止するための増援警備だって話だ」
「……まどろっこしいな。とんでもない計画って、一体何なんだよ?」
半ば、興味なさげに訊き返すマリコルヌだが、ギムリは、そんな彼に気分を害する事も無かった。それどころか、施錠してある室内にもかかわらず油断無く周囲を見回し、窓の鍵を確認するとカーテンを引きなおし、そこまでして、ようやく小声で囁いた。
「アンリエッタ女王陛下の暗殺計画、だってよ」