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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:55:36 (5639d)

マリコルヌの冒険(その4)  痴女109号

 

 剣と剣とを打ち鳴らす鋭い金属音が、王宮の中庭に響く。
 いや、響くのは撃剣の音だけではない。
 太く、短く、荒い呼気。
 鋭い気合。
 空を斬る音に地を蹴る音。
 それらの響きが組み合わさり、重ね合わさって、壮大なる一つの楽曲と化し、アンリエッタの眼前で火花を散らす鍔迫り合いのBGMとして奏でられる。
――が、もちろん若き女王は、そんな音声情報など気にする余裕は無い。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、……」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、……どうしたサイト、もうバテたか?」
「まだまだぁっ!!」

 からかうようなアニエスの台詞に、才人は全身の疲労を感じさせない踏み込みで、彼女の懐に一気に飛び込む。
「ひっ!?」
 思わずアンリエッタが目を伏せるほどに無雑作な間の詰め方。
 当然、そのがら空きの頭蓋も砕けよとばかりに、アニエスの一撃が走る。
 だが、来るのが分かっていれば、どんなに鋭い斬撃であろうとも防ぐことは出来る。才人はアニエスの剣を鍔で防ぐと、そのまま速度を落とさず彼女の懐に入り込んだ。
 しかしアニエスも黙って間合いを詰められるようなヘマはしない。
 乾坤一擲の上段を防がれたと知るや、才人以上の敏捷さで後方に跳び、すかさず間合いを取ろうとする。その判断力は銃士隊長アニエスなればこそだ。が、その時、彼女の体勢に乱れが生じてしまう。まさしく一瞬の隙ではあったが――無論、それを見逃す才人ではない。
「隙ありっ!!」
 心中に勝利を叫びつつ更に一歩踏み込み、必殺の一剣を繰り出す――が、
(ッッ!?)
 才人の突きを、首を振って躱したアニエスの顔には薄い笑いがこびりついていた。

「ぐっ!?」
 才人の剣が宙に舞った。
 そのまま丸腰になった彼の喉元に、逆に間合いを詰めたアニエスの剣が、ずいっと突きつけられる。
 何が起こったのか、端で見ていたアンリエッタにも分からない。杖を取れば“水”のトライアングルメイジたる彼女であっても、しょせん剣に於いては素人に過ぎないからだ。
 ただ、当事者の二人と、彼らを取り巻く銃士隊の隊士たちだけに、電光のようなの彼女の剣技――わざと無理な姿勢から後方に跳んで隙を作り、それに乗じて踏み込んだ才人の手首をアニエスの剣が打った――が確認できたのみだ。

「サイト殿っ、大丈夫ですかっ!?」
 顔をしかめながら、水桶に痛む右手首を突っ込む才人は、狼狽しながら駆け寄ってくる女王陛下に、引きつった笑顔で、
「大丈夫ですよ。折れたわけじゃありませんし、冷やしておけば腫れも引くでしょう」
 と答え、半ば憧れの目線で傍らの女剣士を見上げた。
「まだまだっスね。俺じゃあやっぱり、まだまだアニエスさんには敵いませんや」
「いや、いまのは結果が示すほどに、わたしにも余裕があったわけではない。お前がやったことを、そのままわたしもやり返しただけだしな」

 才人がわざと正面をがら空きにして、アニエスの攻撃を誘導したことを言っているのだろう。意図的に隙を作って相手の攻撃を誘い、後の先を狙う戦法は、むしろ撃剣を含むあらゆる闘術における常套手段だとさえ言える。
 だが、これは口で言うほど簡単なことではない。
 わざとであろうがなかろうが、隙は隙だ。
 もしも自分が意図した通りの攻撃が来なかったら。いや、読み通りの攻撃が来たとしても、それを受け切れなかったら……まともに致命傷を喰らってしまうのだ。たとえ稽古試合であっても、銃士隊長アニエスを相手にそんな戦い方ができる者など、そうはいない。
 彼女が評価しているのも、まさにその才人のクソ度胸である。
 だが、いつもの事ながら、彼女の舌鋒は優しいだけでは済まない。

「しかしサイト、今のままでは、いささかマズイのではないか?」
「え?」
「銃士隊の隊長職を任されているとはいえ、わたしごときに、いつまでも遅れをとっているようでは、本当に虚無の担い手を守りきれるのかどうか、資質を問われることになりかねんぞ」
 その言葉に才人は思わず息を呑んだ。
「わたしがアルビオンで稽古をつけてやってからかなり経つが、お前はもっと強くなっていてもおかしくないはずだ。今のままでは、せいぜいわたしから三本に一本取れるかどうかの腕でしかない」
「……ッッッ!!」
 少年は黙りこくったまま、身じろぎも出来ない。

「アニエスッ、控えなさいっ!! 王の御前ですよっ!!」
 アンリエッタが、突然の部下の無礼に怒りの声を荒げるが、そんな女王を制したのは、勢いよく立ち上がった、傍らの騎士であった。
「サイト……どの……」
「アニエスさん、もう一本お願いします」
 彼の相貌に浮かぶ厳しい表情は、決して手首の痛みだけが生み出すものではないはずだ。
 そんな才人の顔を見て、アニエスはにやりと笑った。
「いいだろう。一本と言わず、貴様の気が済むまで何本でも相手になってやる」

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「ああ、サイト殿、お目覚めになられましたか?」
 
 高い天井に燦然と輝くシャンデリアが、目覚めたばかりの彼の眼を刺す。
 いや、才人の網膜を貫いたのは、その強烈な光だけではない。
 胸元の谷間を強調した、女王としてはいささか自由過ぎる部屋着に身を包んだアンリエッタが心配そうに、それでいて少し嬉しげに才人の顔を覗き込んでいたのだ。
「……ッッ、ひめさまっ!?」
 その瞬間に眠気は吹っ飛んだ。
 当然だろう。目を開けた瞬間に、まるで互いの額と額をくっつけんばかりの距離で、国家最高主権者の美貌が視界に突然現れた日には、驚くなという方が無理がある。
 彼女は、顔を真っ赤にして狼狽する才人とは反対に、聖女のような穏やかさで、
「大したケガもなく安心いたしましたわ。でも、念のために今宵一晩は安静にされた方が宜しいと思いますわ」
 と、にっこり笑って言った。

 だが、
(そうか、おれ……アニエスさんにやられて……)
 真新しい包帯だらけの我が身を厳しい眼で見つめる才人には、トリステインの全国民が憧れる若き女王の、花のような笑顔も、いかほどの癒しになっているのか定かではない。

(ここにいるこの方は、わたくしの知るサイト殿、なのですよね……?)
 アンリエッタは痣だらけの少年の肌を見て、思うともなく思った。

 世界のあらゆる文化文明の根幹を魔法に依存するメイジにとって、実際に肉体を行使する技術に対する視線は、決して好意的なものではない。
 たとえば、刀槍弓銃といった闘争武器術などというものに、王家に属するほどのメイジたちが実際に接する機会など絶無に等しい。
 女剣士アニエスを銃士隊長として取り立て、側近に加えてからも彼女の剣技を直に見る機会などそうはなかった。――興味が無かったと言ってもいい。
 そんなアンリエッタが、中庭で行われているという撃剣の稽古に足を運んだのは、無論、関心の対象が剣ではなく才人本人であったからだ。だが、実際に十合・二十合と火花を散らして斬り結ぶ彼の姿を見た瞬間に、魔法戦闘とは全く違う迫力に身をおののかせた。
 無論、その鍔迫り合いは、嵐を起こし、燃え盛る炎を自在に操るメイジ同士の戦いとは全く違う。
 だが……いや、だからこそ、剣という武具による闘技は、アンリエッタの目には、魔法のように他の何かに応用する事さえできぬ、純粋に殺人のために特化した、野蛮極まりない技術に思え、そして、その稽古に勤しむ才人は、彼女の全く知らない人のように見えてしまう。
 それは、アンリエッタにとって、とてつもなく寂しい事であった。

 だが、そんな彼女の寂寥感など、自らの傷を眺める少年には通じない。
 アニエスに言われた言葉が、ひたすらに才人の心を打ちのめしていたからだ。

 アンリエッタ暗殺計画の噂がトリスタニアを席巻し、銃士隊や旧魔法衛士隊はおろか、王宮に参勤中の諸侯の私兵まで動員された戒厳令が敷かれている現在、才人の所属する水精霊騎士隊も、当然首都警備陣に編入されている。
 だが、その副長である彼の担当は、城門でも王宮でもなく、城の奥座敷――すなわち女王陛下アンリエッタの私的空間に於ける身辺警護であった。
 無論、シュヴァリエとはいえ平民上がりの少年ごときが、国王の私邸に土足で上がりこみ、そのプライベートを共にしているという事実は、王家としても憚りがあるため、彼の任務は銃士隊長アニエスの助勤ということになっている。
 だが、当の才人としては、この任務は実際のところ、退屈極まりないものであった。
 無論、奥座敷詰めの護衛は、才人一人ではない。銃士隊の隊士たちや、女官・奥女中として働く女メイジたちもいる。だからと言ってはなんだが、才人は暇さえあれば、アニエスを語らって、中庭で剣の稽古をつけてもらっていたのだ。
 アンリエッタが彼の稽古を見学しようなどと酔狂を起こしたのは、なにかと口実を設けては、アニエスのところへ行きたがる才人の挙動を怪しんだ結果であった。

「サイト殿……貴方が落ち込む気持ちも分かります。でも、アニエスとて、わたくしが銃士隊の隊長に抜擢したほどの剣士なのですよ。むしろガンダールヴの能力を使わずに、あそこまで彼女と渡り合える御自分の腕を、誇るべきですわ」

――そう。稽古中の才人の左手に、ルーンが輝きを放つことはない。
 彼ら二人が使っていた剣は、稽古用の刃引きの剣に過ぎず、人を殺傷する事のみを目的に作られた真剣ではない。そしてガンダールヴのルーンが、その“神の左手”たる真価を発揮するのは、あくまでもルーンが“武器”と認めた得物を主が握った場合のみなのだ。
 たとえばそれはM72 ロケットランチャーであったり、
 たとえばそれは零式艦上戦闘機であったり、
 たとえばそれはナチス・ドイツ製タイガー戦車であったり、
 たとえばそれは『ガンダールヴの左腕』たるデルフリンガーであった場合である。

 だが、やはり才人の心は落ち着かない。
 アンリエッタの言うことなど百も承知だ。
 家族や故郷を奪われ、女性の身でありながら剣一本を携えて戦士としての自分を鍛え上げてきたアニエスに比べれば、彼が剣の修行に本腰を入れ始めたのは、ハルケギニアに召喚されてからの、わずか数年のことに過ぎない。
(年季が違い過ぎる)
 そう言い訳する事はいくらでも出来る。
 だが、それで自分まで騙し切ることは、とうてい不可能だ。
 才人には分かっている。
 アニエスが言った言葉は、決して間違ってはいない。
 虚無の使い魔だ、ガンダールヴだとふんぞり返ったところで、ルーンが発動しなければ、自分は所詮、歳の割には腕がたつという程度の、一山いくらの剣士に過ぎないのだ。純粋なわざの話ならば、まだまだ上には上がいる。

(いや、違う……)
 そうじゃない。
 おそらく、あの女丈夫の言いたかったことは、おそらくそういう処世訓じみた、当たり前の意見ではないのだろう。
 彼女は、才人に『ルイズを守り切れるのか』と言った。
 守るというからには、そこには“敵”の存在が不可欠になる。ならば、この場合の“敵”とは誰だ? この前の『聖戦』で伝説の系統“虚無”の継承者である事を満天下に喧伝し、“アクアレイアの聖女”の称号を送られた彼女に、牙を向ける者など誰がいる?

「姫様……虚無の使い魔は、虚無の担い手に勝てると思います?」
「なっ!?」

 アンリエッタは絶句した。

 そう、無能王ジョゼフがいない今、ルイズに触手を伸ばそうとする“敵”が、ハルケギニアにいるとすれば、それは即ちロマリア教皇聖エイジス三十二世こと、ヴィットーリオ・セレヴァレ以外にはいない。
 彼がジョゼフを葬った真の理由は、明白だ。
 それは、ジョゼフが自分以外の“虚無の担い手”の抹殺を図ったからではない。
 本来、国王となるはずだった弟を暗殺し、王位を奪った簒奪者だからでもない。
 享楽に耽り、政治を、信仰を、民を顧みない暴虐の王だったからでもない。
 ともにエルフを討ち、聖地を奪回するための同志には、ジョゼフは決してなり得ないと判断したからだ。いや、同志どころか邪魔者以外の何者でもないと判断したからだ。
 だからこそ、ジョゼフは消されたのだ。

 そして、そういう意味では、教皇がルイズに毒牙を伸ばさぬ理由は存在しない。何故なら彼女もまた、教皇の提唱する「聖地奪回軍」に、絶対に協力するはずがないからだ。
「ルイズは、この前の聖戦で、完全に教皇とジュリオを敵視しちゃいましたからね。ああなったら、あいつはテコでも意見を変えませんよ」
「でも、でもサイト殿……たとえそうでも、ルイズは無能王とは立場が違います。公爵家の三女とはいえ、一介の貴族が教会にたてつくなど出来るものではありませんよ。教会の権威は、ある意味、国王すら凌駕するのですから」

 確かにそうだ。
 このハルケギニアが、あくまでキリスト教文明に沿った社会構造を有するならば、たしか教会には『破門』という必殺の切り札がある事を、高校で世界史を学んだ彼は知っている。
 宗教圏からの社会的抹殺を意味する、この処分をちらつかされれば、いかにルイズといえど、彼らに正面切って逆らうことは出来ない。
 だが、それでも才人には分かる。
 ルイズが教皇の同志になる事は、絶対に在り得ない、と。

 そして、才人は考える。
 実際問題、ロマリアが何かを仕掛けてきた時、おれはどうすればいい? 

 世界への絶望と破壊欲に凍てついたジョゼフの精神さえも、あっさり覆してしまったヴィットーリオの“虚無”。剣を振り回してどうにかなる相手とは思えない。いや、はっきり言ってしまえば、具体的に何をすれば教皇に対抗し得るのかさえ分からない。
 ならば、できる事をするしかない。
 世界を手玉に取るような男を相手に、詰め将棋をしても勝ち目がある頭脳を、才人は所有していない。それは自分でも分かっている。ならば相手の土俵ではなく、自分の土俵で戦うしかない。謀略をあえて引っくり返すだけの暴力を、この身に装備するしかない。
 だが、今の自分は……あまりにも無力だ。絶望したくなるほどに。

「デルフ」
「おう」
「おれは、虚無に勝てるか?」
「……どうだろうな」
「おまえは、虚無を吸収できるか?」
「やったことねえからな。わかんね、としか言えねえなぁ」
「そうか……」

 そのとき、俯いた額をこつんと小突かれる感触に、顔を上げた才人が見たのは、可愛らしい膨れっ面のアンリエッタだった。
「サイト殿……貴方の苦衷は分かりますが、それでも少しは、このわたくしを信用してくれてもよいのではありませんか?」
「えっ?」
「ルイズを守るのが貴方の仕事。でも、あの子を守れるのは、何も貴方だけでは有りませんよ」
 彼女はその豊かな胸に手を置くと、硬い声で言い切った。
「わたくしが、守ります。――貴方とルイズは、このトリステイン国王アンリエッタが、あらゆる手を尽くして守ります。たとえ教皇聖下であろうとも、お二人に手は出させませんわ」

「ひめさま……」

 その言葉は、少年の心にとても力強いものとして響く。
 一国に君臨する権力者が真摯な瞳で、自分が味方になってやると言ってくれたのだ。無論、才人にはアンリエッタの言質を取る意識はない。だが、一個の人間として、これほど言われて嬉しい台詞はない。
 が、少年の心に満ちたぬくもりは、次の瞬間には氷点下に冷えた。
 眼前の若き女王の瞳に灯った真摯な光が、いつの間にか、湿り気を帯びている事に気付いてしまったからだ。
(ちょっ、またかよっ!?)
 包帯だらけの若い体に、アンリエッタが乗り出すように自らの体重を預けてくる。
「ですから、サイト殿……この哀れな女王に、貴方たちを守る“報酬”を、お恵み下さい……」

(もう、女王としての顔しか見せないって、言ったじゃないかよっ!!)
 彼としても、そうツッコミたいところだが、最近のアンリエッタは妙に違う。警護任務として、傍らに才人を配するようになって以来、かつて以上に、過度のスキンシップを要求するようになってしまっている。
 目を潤ませ、頬を染め、饒舌になり、二人きりの場所なら、吐息がかかる距離まで彼と接近し、それでいて才人と目を合わせると、俯いて黙り込んでしまう。また、彼がアニエスや他の銃士隊員たちと話をしていると瞬時に不機嫌になり、謝っても許してくれない。
(やべえよルイズ、やっぱこの人、露骨過ぎるよ……)
 いまさら朴念仁を気取るつもりは、すでに彼には無い。アンリエッタの気持ちなど、その態度を見れば、バカでも分かろうというものだ。
 だが、理由が分からない。
 この高貴なる女性が、今更ながらのデレモードを再開させた理由が。

 いや、分からないといっても推測は出来る。
(やっぱ、なんのかんのと暗殺計画の噂に怯えてるんだろうな……)
 この女性は、自らの権勢欲によって為政者の座を得たわけではない。ただ王家に生まれ、王家の者としての当然の成り行きで玉座に就いただけの女性に過ぎない。
 無論、今のアンリエッタは、即位したてのころとは違う。王として国を統べる気概や抱負も持ち合わせているだろう。
 だが、この女性の本質は、自ら屍山血河を築いてでも鉄腕を振るう女傑ではない。誰かに支えてもらって、やっと気丈に振舞える、どこにでもいる当たり前のおんななのだ。

 実は才人は、アニエスに釘を刺されている。
「陛下のたっての希望ということで、貴様を奥座敷の警護につける事を承知はした。だが、もし陛下と過ちを起こすような事があれば、貴様の死は、もはや免れ得ぬものと覚悟しておけ。法が裁くまでもない。このわたし自らの手で、貴様の首を刎ねさせて貰う。分かったか?」
 と、彼女は眉間に皺を寄せて語った。
 才人からすれば、自分の配置を勝手に決められた挙げ句、そんな台詞まで投げつけられるような任務など、はっきり言って迷惑きわまりなかったのだが、『陛下のたっての希望』である以上、拒絶する事も出来ない。
 だが、まあ才人も正直言って、タカを括っていた。
 いまさらアンリエッタが、自分にモーションをかけて来るわけがない。そう思っていたからだ。
 だが、……結果からすれば、才人は自分の認識の甘さを大いに悔む事になる。
(この人、まさかおれを殺したいのか?)
 アンリエッタの誘惑は、まさにそう疑わんばかりの勢いで、彼の理性を責めたてたからだ。才人が暇さえあれば、アニエスの元へ出向き、必要以上に剣の稽古に励んだ理由の一環は、意味不明なほどに積極的な女王のアプローチに辟易したという事実が、少なからずある。
 だが、……いまこのとき、平賀才人は追い詰められつつあった。

「サイト殿、少しでいいのです。多くを望むつもりは有りません」
「なっ、何が……スか?」
「あなたがルイズに与える、その半分で構わないのです。ですから……わたくしにも、お情を下さいまし……」
 そう言いながら、少年の胸板にそっと手を置くアンリエッタ。
 細く、白く、形のいい指が蠢き始め、包帯に覆われた彼の乳首に、微かな刺激を送り始める。
「……ッッ!?」
「愛を誓えとは申しません。伽を命じるつもりもありません。ですから、ですからせめて貴方の唇だけでも、わたくしにっ!!」
「いや、でも姫さま、やっぱソレまずいっていうか――」

 返事を聞く気はなかったようだ。
 女王は、慌てふためく男の唇を、薔薇の花弁のような自らのそれで、一気に封じた。

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――暑いな。

 マリコルヌは、思わずそう呟いた。
 店先から、愛馬のいななきが聞こえる。
 早く乗れよ、こんな峠の茶屋で、暇潰ししている場合じゃないだろうが。早く王都に帰還しねえと、オマエまずいんじゃねえのかよ?
 茶屋の店頭に繋いだ馬がそう言っているように聞こえた。

 まあ、そう聞こえるのも無理はない。
 街道沿いの宿を出てから、まだいくらも進まぬうちに、この茶屋に入って数時間。
 僅かな食事と数杯の水で粘りまくる彼の姿は、まるで現れぬ恋人との待ち合わせに焦燥する駆け落ち男のようだった。茶屋の亭主も、店の奥に引っ込んで出て来る気配もない。この、すっぽかされ貴族が、まさか食い逃げはすまいと思ったのだろう。

 グラスに注がれた水を一気に飲み干す。
(ぬるい)
 思わず顔をしかめたが、誰に文句を言う筋合いもない。この水を注文してから、もう30分は経過しているのだから。
 ズキリとした疼痛が背骨を走る。
 痛いのは、尻だ。
 椅子が安物過ぎる、というわけではない。
 何が原因かは分かっている。
(お尻叩きって、……こんなに後に引くんだな……)
 快楽に酔うモンモランシーの顔が脳裡に浮かぶ。
 満腔の屈辱と、恐怖と、嘔吐しそうになる程の不快感を伴って。
「じじいめ……!!」
 吐き捨てたはずの唾液が、ひたすら苦い。

 あの後、モンモランシーの膣内にたっぷり発射してしまったマリコルヌは、満足そうに意識を失った彼女とは対照的に、血相を変えてオスマンを探し回り、モンモランシーにかけられた暗示の解除と、処女膜の再生を懇願した。
 もはや、モンモランシーは何も覚えていないし、ふたたび彼の前に頬を染めて現れることもない。――と、思う。
 というのは、モンモランシーをオスマンに預けるや否や、マリコルヌはそのまま逃げるように魔法学院を後にしたからだ。一秒でも早く、ここから消えよう。トリスタニアに帰ろう。そう思ったのだが、道行きも半ばの街道で、不意にマリコルヌは思い出したのだ。
(王都には……ギーシュがいる……!!)
 そして、いま、都から数リーグの地点で進退窮まったように、無為に時間を潰す太っちょの姿が、ここにあった。

 男が一人、店に入って来た。
「親父、酒をくれ」
 その声に、店の奥から慌てて亭主が出て来る。
「済みません、お待たせしました。――ご注文は酒と仰られましたが、葡萄酒で宜しいですか? 何か食べるものも御一緒にお持ちいたしましょうか?」
「そうだな、なら羊の干し肉でも貰おうか」
「はい、かしこまりました」
 輝くような営業スマイルを見せ、ちょび髭を生やした店の亭主は、ふたたび店内に引っ込んでしまった。

 マリコルヌは、そのまま店の隅のボックスシートに陣取った男を、引き付けられたかのように眼で追っていた。
 こんなところで、供も連れずに一人出歩くメイジに会うなど、実に珍しいことだからだ。
 いや、ひょっとすると男は、メイジではあっても貴族ではないのかも知れない。
 そのマントは旅塵にまみれて真っ白になっており、テーブルに置いた羽帽子も、衣装に負けじと薄汚れをアピールしている。腰に吊るされたサーベル状の得物が杖であろうか。
 ただ、この男がただものでないということだけは、マリコルヌにも分かる。
 ぼさぼさの髪から覗く鋭い眼と、一面のヒゲに覆われた口元から、くたびれた外見をまるで感じさせないほどの精悍さを、男は発していたからだ。
 そして、マリコルヌが彼から目が離せなかったのは、さらにもう一つの理由があった。
 少年は、その男に見覚えがあったのだ。
(どこで見たっけ……? いや、確かにどっかで見たよな……間違いなく)

「小僧、俺に何か用か」

 猛禽を思わせる鋭い視線がマリコルヌを貫く。
「あっ、いっ、いえっ! すみませんっっ!!」
 慌てて頭を下げる少年に、男は、さらに追い討ちをかけた
「そのように、他人をじろじろ見るのは感心せんな。俺の機嫌がもう少し悪かったら、杖に手を伸ばしていたところだ」
「すっ、すみません! すみませんっっ!!」

 狼狽するマリコルヌは、懐から銀貨を取り出し、自分が座っていたカウンターに置くと、ほうほうの態で店から飛び出し、馬の背に飛び乗ると、手綱を打った。
 自分が飲んだ数杯の水と食事。銀貨一枚では、かなりの額の釣りが返って来るはずだが、そんな事は気にならなかった。男の目に宿っていた殺伐な光。それを見た瞬間、マリコルヌは素直に身の危険を感じたからだ。

「なんだったんだ、あのヤロウ……」
 マリコルヌがさっきの男を馬上で回想したのは、馬が店からかなりの距離を走ってからだった。
 いきなり全速力で早駆けをさせたものだから、馬もかなり息が上がっている。
「この老いぼれ馬が……!」
 舌打ちしながら、思わず呟く。
 まさか追ってくるとは思わないが、もしも男が、まともな馬に鞍を載せていたなら、あっという間に追いつかれてしまうだろう。
「せめてペガサスかユニコーンとまでは言わないがよ。やっぱ馬にカネを惜しむのはよくないよな」

 その瞬間、袋小路が開いた。
 閉ざされていた記憶が連結し、そこに鮮やかに、男の姿が甦る。
(ユニ、コーン……!)
 あれはフリッグの舞踏会から数日後。
 当時はまだ即位していなかったアンリエッタが学院を訪れたとき。
 王女を乗せた、ユニコーンが牽引する王家の馬車。その傍らに、同じく歩を進めていた一頭のグリフォンに騎乗していた――王宮魔法衛士隊グリフォン隊の隊長。
 

「たしか……ワルド子爵……とか……っっ!?」

 

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