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Last-modified: 2010-09-13 (月) 00:29:59 (4974d)

103 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:16:16 ID:L7WFkBjK
 あるよく晴れた昼下がりのこと。一人広場をぶらぶらしていた才人の耳に、吐息のようなかすかな声が聞こえてきた。
 なんだろう、と思い、耳をすまして声の方向に歩いていく。声は一本の木の木陰から聞こえてきていた。
 修行で培った力を無駄に発揮しつつ、才人は足音一つ立てずに木に密着。そっと裏側を覗き込む。
 まず見えたのは、薄い青色の頭だった。これはタバサだな、と才人は推測する。
 ということは木陰で本でも読んでいたのかと思って、才人はさらに首を伸ばす。そしてぎょっとした。
 タバサの細い手が伸ばされている先は、どう見ても自分の胸と、股間であった。
 後ろから見るだけではよく分からないが、一方の手で服の布地越しに胸を責め、
 もう一方の手を下着の中に突っ込んで、己の陰部を弄っているらしい。
 木の葉のせせらぎのようなかすかな喘ぎ声を漏らして、タバサは一心不乱に自慰に没頭していたのだ。
(ちょ、おま、待てよ。なんでこんなところで)
 慌てる才人だったが、タバサが気付いた様子はない。
 こんなことなら忍び足など使うんじゃなかった、と才人は後悔した。
 この光景を見てから何気ない顔で挨拶するなどという真似は、才人にはとてもできそうにない。
 だからと言って、立ち去ることもできなかった。
 こんな風に集中力を欠いている状態では足音を立てないように歩くことなど不可能に思えたし、
 それ以上に乱れきったタバサの姿があまりにも刺激的で目をそらせなかったのだ。
 そして何より、股間の暴れん坊将軍が凄いことになっているのだ。
(えーい、気持ちは分かるが静まれマイサン)
 だが、才人の必死さとは裏腹に、股間の聞かん坊はますます己を奮い立たせていく。
 それと同時に、タバサの喘ぎ声も徐々にはっきりとしたものになっていく。
 今では、荒い吐息に混じって切ないかすれ声がはっきりと聞こえてくるほどだ。
 そして、タバサは一際激しい声を漏らしたかと思うと、一瞬だけ背をのけぞらせて硬直した。
(こ、これ、イッたってやつだよな?)
 誰に確認するでもなく、胸の内に問いかけてみる。さすがに実物を見たのは才人も初めてだった。
(いいもん見せてもらいました、と言っとくべきなのか)
 複雑な思いに捕われながら、才人はそっとその場を後にしようとした。
 今ならそこそこ冷静だし、タバサもまだ自慰の余韻でぼんやりしているようだったので、おそらくばれないだろうと踏んだのである。
 だが、その目論見は、一瞬後に響いた小枝の割れる音でもろくも崩れ去った。

104 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:17:09 ID:L7WFkBjK

「だれ」
 今まで一度も聞いたことのない、悲鳴のような声を上げて、タバサが振り返る。顔を隠す暇もなかった。
「あなたは」
「よ、よう」
 才人は顔をひきつらせながら片手を上げて挨拶した。それ以外にどうしようもなかった。
 タバサはいつもの無表情が嘘のように、呆然と目を見開いて口を開閉していた。あまりのことに声も出ないらしい。
「それじゃ」
 いたたまれなくなった才人はまたも片手を上げて去ろうとしたが、パーカーの左肘の部分をつかまれてしまった。
「待って」
 低い声音である。だが、いつものような淡々とした口調ではなく、必死に感情を隠そうとして隠しきれていない、乱れた声音だった。
「なにかな」
「見てたの」
 短く、端的な問いかけ。さすがに、「何を」などと言ってすっとぼけられる状況ではない。
(ああ、終わったな俺の人生。このタバサって奴もキレたらかなり過激なことしそうだ。
 一体何されるんだ。つららで串刺しか、それとも裸で氷付けになってさらし者にされるのか)
 絶望的な想像を抱きつつ、才人はやぶれかぶれで土下座した。
「ごめん、覗くつもりじゃなかったんだ。このことは誰にも言わないから氷付けだけは勘弁」
 必死に叫びながら、頭を地面にこすりつける。しかし、返事はない。
 まさかどう料理するか考えているのか、とおそるおそる顔を上げた才人は、またも信じられないものを見ることになった。
 タバサが、あのいつも無表情な顔を痛々しく歪ませていたのである。青い瞳には大粒の涙が溜まっていた。
 呆然とする才人の前で、タバサはそのまま泣き出してしまった。
 激しくしゃくりあげるタバサを放り出して逃げる訳にもいかず、才人は十分ほど必死に彼女をなだめる羽目になったのである。

105 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:17:48 ID:L7WFkBjK

「ごめん」
 十分ほどしてようやく落ち着いたタバサが、最初に言った言葉がそれだった。
 二人は今、先ほどの木の根元に並んで腰掛けていた。もちろん密着している訳ではなく、少し距離を置いてである。
「いや、謝るのは俺の方だって」
 どう答えていいか分からず、才人はとりあえずそう言っていた。頭にそういう言葉しか浮かばなかったというのもあるが。
 タバサはそれ以上何も言わなかった。才人は居心地の悪さを感じて身じろぎする。
「あの」
 何か、決心したような声だった。才人が思わず振り向くと、タバサはいつもの無表情をかすかに赤く染めて、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「本当に、黙っててくれる」
「ああ、そりゃもちろん」
 才人は間を置かずに頷いた。そもそも、誰かに話したところで、才人には少しも得することがない。
 それに、と才人は心の中で呟きながら、安心させるようにタバサに笑いかけた。
「誰だって隠しておきたいことぐらいあるし、ああいうことしたくなるときだってあるって。
 あんま大きい声じゃ言えねえけど、俺だって結構するし」
 よし、完璧。才人は心の中で自分に声援を送った。
 お前がしたことは別に恥ずかしいことじゃないと説得しつつ、それに自分はお前よりもっとやってると言ってさらに安心させる。
 ひょっとしたらタバサに軽蔑されるかもしれないという恐れがあるにはあったが、彼女の不安を減らせるのなら別にいいかとも思う。
(どうせモグラだしな俺)
 と、一応罵倒に備えて心の中で予防線を張っておく辺りが才人らしいと言えば才人らしいが。
 そんな才人の笑顔を、タバサはいつもの無表情に赤みをプラスした表情でじっと見上げていた。
 だが、やがて何かを決意したようにわずかに口元を引き締めると、突然ブラウスのボタンを外し始めた。
 才人はまたもぎょっとする。今日はなんだかぎょっとしてばっかりだと思いながら、慌ててタバサの手を止める。
「ちょっと、早まるなお前」
「なにが」
 タバサが驚いたように目を見開く。才人は軽く咳払いして、
「いいか」
 とタバサの両肩をつかみ、彼女の青い瞳を覗き込んで言い聞かせるように言った。
「いくら男にああいう場面を見られて恥ずかしいとは言え、自棄になっちゃいけない。
 俺は別に『黙っててやるからお前の体を寄越せ』とか言っている訳ではなくてだな」
 必死に説得する才人を、タバサは珍しくきょとんとした顔で見つめていたが、やがて口元に小さな微笑を浮かべて首を振った。
「わたしもそういうこと言いたいんじゃない」
「あれ、違ったのか」
「ただ、見て欲しかっただけ」
「ばっ、何言ってんのお前、俺が紳士的な男だったからいいものの、他の奴だったら間違いなく」
「いいから、見て」
 自分でもよく分からない弁解をする才人にもう一度微笑みかけてから、タバサは三つボタンを外したブラウスの肩口に手をかける。
「きゃっ」
 何故か乙女チックな悲鳴を上げて、才人は手で顔を覆う。しかし指の隙間からしっかり覗いている辺りがやっぱり才人である。

106 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:18:35 ID:L7WFkBjK

「あれ」
 才人は顔から手を外して、目を瞬いた。
 タバサはブラウスを完全に脱ぎ去ってはいなかった。ただ、少し下げて背中を露わにしただけである。
 しかし、一瞬がっかりしかけた才人は、タバサの背中を見直して息を呑んだ。
 服を着ていても小柄なタバサは、脱いでもやっぱり小柄だった。小さな背中は頼りなく見えるほど細く、白い。
 だが、その可愛らしい背中に、一目でそうと分かる異物が埋め込まれていた。
 それは、指先でつまめるほど小さな宝玉だった。だが、少しも美しくない。
 ガラス玉とは明らかに違う滑らかな表面を持つその宝玉は、見ていて気分が悪くなるような、禍々しい紫色の光を放っていたのだ。
「これ、何だよお前」
 才人呆然としたまま呟いた。才人に背中を向けたまま、タバサが肩越しに自嘲的な微笑を浮かべる。
「マジックアイテム」
「魔法で作られた道具ってやつか」
「そう。その宝玉から、首に向かって筋が浮いているのが分かる」
 才人はタバサの背に顔を近づけた。宝玉は彼女の肩甲骨の間あたりに埋め込まれていたが、
 確かに宝玉から首にかけて、白い肌が薄らと細長く浮き上がっているのが見えた。血管のようにも見えるが、色はついていない。
 その気色悪さに、才人は吐き気のようなむかつきを覚えた。
「なあ、これもしかして」
「そう。首を通って、わたしの頭の中まで伸びている」
 淡々と言ったあと、タバサは服を着直した。それから、才人に向き直って言う。
「これが、わたしがああいうことをしていた原因」
 わずかに頬が赤い。ああいうこと、というのが何なのかは言うまでもない。
「ときどき、性欲が高まってどうしようもなくなる」
「誰が、何のためにそんなこと」
 心底疑問に思って聞いたが、タバサは首を振った。
「それは言えない」
「どうして」
「どうしても」
 その声はいつものように淡々としていたが、いつも以上に他者の追求を拒む頑なさがあった。
 だが、あんなことを聞いてしまって放っておける才人ではなかった。
「そんなこと言わずにさ。誰かに脅されてるのか」
 タバサは一瞬鋭く息を吸い込んだあと、首を横に振る。あくまでも話す気はないらしい。
 才人は苛立ちまぎれに頭を掻き毟りながら問う。
「別に、俺に助けてほしいとかじゃないんだな」
 タバサは首を縦に振る。才人の苛立ちはますます強くなった。

107 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:19:40 ID:L7WFkBjK

「じゃあなんでそんな秘密を話したんだよ」
 するとタバサはわずかに顔を伏せ、目をそらしながら小さく言った。
「誤解、されたくなかったから」
「誤解って」
「わたし、本当はあんなことしない」
 それは小さな呟きのような声だったが、才人の耳にはしっかりと届いた。
 頬を染めて返事を待っているタバサをまじまじと見下ろしながら、才人は慎重に聞く。
「つまり、なにか。俺に、エッチな子だと思われたくなかったってことか」
「そういうの、はっきり言わないで」
 もうタバサは耳まで真っ赤である。才人は慌てて手を振った。
「わ、悪い。いや、だけど思ってないよそんなの。さっきも言ったけど」
「本当」
 タバサは少し縋るような視線で才人を見上げてくる。元々女の子には弱い才人のこと、これには顔が熱くなった。
「本当だって。タバサは全然、いやらしくもなんともない」
「良かった」
 タバサの口元に微笑が浮かぶ。才人はほっと胸を撫で下ろしたが、ふと疑問を覚えた。
「なあタバサ、何で俺に誤解されるのがそんなに嫌だったわけ」
 別段、それ程タバサと親しい訳でもない才人である。
 そういう人間の誤解を解くために、わざわざ素肌まで晒してみせるというのはどうにも納得のできない話に思えた。
 するとタバサは、びしりと才人を指差して、一言。
「いい人」
 簡潔な表現に、才人は何故だかむずがゆいような気恥ずかしさを覚えた。
 こういうストレートな褒め言葉にはどうも慣れがない。
 相手が、普段あまり喋れないタバサであればなおさらである。
「いや、俺は別にいい人じゃないって」
 タバサも負けずに言い直す。
「すごくいい人」
 才人の顔面はいよいよ沸騰しかねんばかりに熱くなってきた。
 悶えて転げ回りたいような気恥ずかしさを隠すように、才人は激しく手を振る。
「違うってばもう。今だってタバサを食べちゃいたい欲望で脳がはちきれそうなんだぜ?」
 言ってしまってから、何を言ってんだ俺はと内心焦る。
 脳が熱くなりすぎて普段なら絶対言えないような下ネタを言ってしまった。
 しかし、どう弁解するかと焦る才人とは逆に、タバサは悪戯っぽく笑ってこう言った。
「さっき『俺が紳士的な男だったから』って言ってた」
 的確な突っ込みである。才人は言葉に詰まった。そんな才人を見て、タバサはくすくすと笑う。
(ちくしょー、こんな子供にいいように遊ばれてるぞ俺)
 内心少々悔しかったが、そんな感情はすぐに消えてしまった。
 いつの間にか、才人はタバサに見惚れてしまっていたのだ。正確には、タバサの笑顔に。
 それは、今まで才人が想像したことすらなかった、子供らしい自然な笑顔だった。
 黙りこんでしまった才人を不思議に思ったのか、タバサはふと笑顔をおさめて小さく首を傾げた。
「どうしたの」
「ああ、いや。お前、そんな風に笑えるんだな」
 才人にとっては何気ない言葉だったが、それを聞いたタバサは何故か沈んだ表情を浮かべて顔を伏せてしまった。

108 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:20:17 ID:L7WFkBjK

 あの後すぐに別れる気分にはなれず、結局二人はまた木の根元に座り込んで、ただ黙っていた。
 二人の距離は、先ほどよりもずいぶん近くなっていた。かと言って、密着というほどでもない。
 少し無理すれば手を繋げる距離だな、と才人は何となく思った。
「なあ」
 呼びかけると、タバサはこちらを見て「なに」と言うように小さく首を傾げた。
「タバサってさ、本名なのか」
 前に、誰かが「タバサというのは変わった名前だ」という内容のことを言っていたのを思い出したのだ。
 タバサは首を振った。
「そうなんだ。本当の名前は、なんて言うんだ」
 聞いてはいけないことかもしれない、と思いつつも、才人は自然とそう口にしていた。
 何故か、目の前の小さな女の子のことを、少しでも多く知りたい気持ちになっていた。
 タバサは目を伏せて少し躊躇う様子を見せたが、やがて口元に手を当てて、小さな声で答えてくれた。
「シャルロット」
 シャルロットか、と、才人はタバサの本名を口の中で転がしてみる。響きのよさそうな名前だと思った。
 才人は頬を赤くして横目でこちらの反応を窺っているタバサに微笑みかけた。
「可愛い名前だな」
 タバサの顔がぱっと輝いた。
「うん。わたしも、好き」
「シャルロット」
「なに」
 二人は小さく笑いあう。ふと、才人は何気なく聞いた。
「誰がつけてくれたんだ。お母さんか」
「そう。母様がつけてくださった、大切な名前」
 先ほどまで嬉しそうだったタバサの表情が、また暗いものに変わる。
 聞いてはいけないことだったか、と才人は内心後悔しながら、話題を変える。
「ところで、何でお前いっつもあんな無表情なんだ」
 そう言うと、タバサは何を聞かれたのか分からないような表情で、こちらを見た。
「ほら、お前、あんな風に笑えるじゃん。いっつも無表情でいるの、勿体無いぜ。
 いろんな表情を見せた方が、その、か、可愛いと思うしさ」
 さすがに、意識しながらストレートに可愛いなどとは言えず、
 才人はどもりながら何とか言い切った。
 そんな才人をじっと見つめて、タバサは透けるような淡い微笑を浮かべた。
「ありがとう」
 そう言ったタバサの表情は、いつもの無表情よりは断然魅力的だった。
 だが、才人には何故か、今のタバサの微笑がとても痛ましく、悲しいものに感じられてしまう。

110 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:21:17 ID:L7WFkBjK

「でも、ダメ」
 タバサは首を振った。
「今は、楽しいの、ダメ」
 タバサがそう言う理由を、才人はあえて聞かなかった。
 単なる顔見知り程度でしかない自分に教えてくれるほど軽い理由だとは、とても思えなかったからだ。
 そして、その想像がおそらく事実であろうことに、才人は深い苛立ちと悔しさを覚えた。
「それに、いつも無表情でいた方が都合がいい」
 才人の苦悩を理解したのか、どこか冗談めかした口調で、タバサが言う。
 その好意に感謝しながら、才人も微笑を作って聞き返す。
「どうして」
「いつも無表情を保つ訓練をしておけば、ああいう状態になったときも誤魔化せるから」
 そう言って悪戯っぽく笑うタバサの表情に、才人は彼女の素顔を見た気がした。
 本当は、こんな風に冗談を言って笑うのが好きな、明るい女の子なのだろう。
 そんな女の子が、どこかの卑劣漢のせいで笑うことすらできないとは。
「なるほど、そりゃいい考えだ。お利口さんだな、シャルロットは」
 内心の怒りを無理矢理押さえ込みながら、才人は無理に笑った。
「うん」
 タバサもまた、にっこりと笑ってみせる。
 才人はタバサを思い切り抱きしめてやりたい衝動に駆られた。
 そんなことをする権利は自分にはない。しかし、胸に溢れる切ない愛しさを無視することもできず、
 才人は仕方なく、手を伸ばしてタバサの頭を軽く撫でた。
 タバサは一瞬目を見開いたあと、困ったように才人を見上げてきた。
「嫌か」
 問うと、タバサは才人の手の下で小さく首を振る。
「嫌じゃない」
「じゃあ、しばらくこうさせといてくれよ」
 タバサは小さく頷いてくれた。才人は目に浮かんでくる涙を堪えながら、無理矢理笑った。

111 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:21:59 ID:L7WFkBjK

「ありがとな、シャルロット」
 タバサはまたにっこりと笑う。幼いとすら表現できる、あどけない笑顔だった。
 才人はいよいよ涙を堪えることができなくなり、それを誤魔化すように、少し乱暴にタバサの頭を撫で回す。
 タバサは困ったような視線を送ってきた。
「ちょっと乱暴」
「我慢しろ。これが男の愛情ってもんだ」
「変」
「大人になれば分かる」
 無茶苦茶な言い草だと、自分でも思う。
 それでも、タバサは楽しそうに笑ってくれる。それならいくらだって馬鹿なことを言ってやると、才人は思う。
 しかし、今は何も浮かばなかった。だから才人は、ただ黙ってタバサの頭を撫で続けた。
「お兄ちゃん」
 突然、タバサが甘えるような声で言った。
 妙な慨視感に襲われ、才人は思わず目を見開いてタバサを凝視してしまう。
 するとタバサは、また悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけてきた。。
「びっくりした」
「ああ。なんだよ突然」
「別に。ただ、お兄ちゃんがいたらこういうのかって」
 はにかむように首を傾げながら、タバサが聞いてくる。
「迷惑」
「いや、全然。何なら本物のお兄ちゃんにだってなってやるぜ」
「嬉しい。お兄ちゃん」
 冗談めかした声で、タバサが言う。
 もちろん、本気で言っている訳ではあるまい。
 だが、こうやって気楽に冗談が言える状況を、タバサが楽しんでいるのは間違いなさそうだった。
 それならお兄ちゃんだろうが召使いだろうがやってやる、と才人は思った。

112 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/24(木) 01:22:43 ID:L7WFkBjK

 やがて、天高く燦々と輝いていた太陽が半分以上地平線の向こうに沈み、周囲が黄昏の赤に染まりかけたころ。
 才人とタバサは、ただ黙って夕焼けを眺めていた。
 二人の距離は、ほぼ完全にゼロになっていた。才人はいつしか、無言でタバサを胸に抱いていたのである。
 タバサも特に何も言わずに、黙って才人に抱きしめられていた。
 才人としてはいつまでもこうしてタバサを抱きしめていてやりたかったが、もちろんそんなことはできない。
「シャルロット」
 才人は、胸の中でじっとしているタバサに優しく囁きかけた。
「ほら、そろそろ戻らないと、叱られるぜ」
 しかし、タバサは答えない。
 まさか眠ってしまったのか、と思ってタバサの顔を覗き込んだ才人は、息を呑んだ。
「お兄ちゃん」
 タバサが、潤んだ目でこちらを見上げていた。
 頬がはっきり分かるほど上気し、息も荒くなっている。よく見ると、太ももを擦り合わせてもいた。
(まさか、例の宝玉が)
 才人は歯噛みした。これほどまでに短い間隔で、性衝動が襲ってくるものだとは。
(糞野郎め)
 才人は、この世界のどこかにいるのであろう悪漢に、心の中で悪罵を叩きつける。
 だが、今はそれよりも目の前のタバサのことが気にかかる。
 才人は、タバサに刺激を与えないように小さな声で呼びかけた。
「大丈夫か、シャルロット」
「ダメ、離れて」
 手を突っ張って体を離そうとするタバサを、才人は反射的にもっと強い力で抱きしめていた。
「離して。このままじゃ、迷惑かける」
 目を潤ませながら必死に懇願するタバサを、才人は冗談めかした口調で叱りつけた。
「馬鹿、俺はお前のお兄ちゃんなんだろ。迷惑とか、気にするなよ」
「でも」
「頑張れ、シャルロット。そんなくだらねえ物に負けるな。俺がついててやるから、な」
 タバサの性欲を昂ぶらせている宝玉を外すことは、門外漢の才人にはできない。
 だからせめて、自分の欲望に抗おうとするタバサの助けになりたかった。
 タバサは病的なまでに赤くなった顔で才人を見つめ、小さく頷いた。
「うん、頑張る」
 そう宣言したものの、タバサの顔の赤みはさらに増し、吐息も苦しげに聞こえるほど荒くなっていく。
 どうすることもできない自分の無力さに苛立ちながら、才人はタバサの下半身に目を移す。
 性衝動をこらえるためだろうか、タバサが絶え間なく擦り合わせている太股の間から、
 夕日を照り返す透明な液体が筋を描いて流れ落ちていた。
 才人は音がするほど強く歯を噛み締める。
 おそらく、タバサの体を襲っている衝動はほとんど暴力的とすら言えるものなのだろう。
 タバサはそんなものに抗おうとしているのだ。
 だが、そんなものに勝てる人間がどこにいるというのか。
「お兄ちゃん」
 甘い声で呼びかけられてタバサの顔を見た才人は、思わず目を逸らしそうになった。
 タバサの顔が真っ赤に染まり、その青い瞳からはほとんど完全に理性が失われていた。
 虚ろな瞳でこちらを見つめるタバサの口元はだらしなく半開きになり、
 小さな唇の隙間から垂れ下がった舌からは、絶え間なく唾液が流れ落ちている。
「お兄ちゃん、我慢できないよう」
 媚を売るような切ない甘え声で呟きながら、タバサはほとんど膨らみのない胸を才人の体に押し付けてくる。
 とても見ていられない、と才人は思った。
(ルイズ、ごめん)
 許されぬことと知りつつ、心の中で主に詫びる。才人は無理矢理笑みを作ってタバサに微笑みかけた。
「よく頑張ったな、シャルロット」
「本当」
「ああ、偉いぞ、シャルロット」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
 嬉しそうな顔で、自分の胸に頬をこすりつけてくるタバサの頭を撫でてやりながら、才人は彼女の耳に囁いた。
「来い。お兄ちゃんが、満足するまでお前を受け止めてやる」
 それを聞くや否や、もはや止めるものもなく、タバサは背中を伸ばして才人の唇にむしゃぶりついてきた。
307 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 00:59:51 ID:weFLKaFO

 タバサは才人の首に両腕を回し、自分の唇を才人の唇に押し付けてきた。
 経験則から言って舌をいれてくるものかと思っていたが、違った。
 タバサは才人の上唇と下唇に、交互に吸い付いてきたのである。
 この世界に来てから幸福にも数度違う女の子を相手にしてキスしたりされたりしてきた才人ではあったが、こんな風にされるのは初めてであった。
 まるで赤子が母親の乳房に吸い付くように、タバサは才人の唇を自分の唇で挟み込む。
 最初こそ、
(せめて俺がリードしてやらなきゃ)
 などと思っていた才人だったが、この予想外の攻め手に圧倒され、頭が真っ白になってしまっていた。リードするどころかされる形である。
 思う存分才人の唇を味わったらしいタバサは、才人の頭がまだ回復しない間に、いよいよ彼の咥内に舌をいれてきた。
 これも、才人が以前経験したディープキスとは似て非なるものだった。
 タバサは最初才人の反応を窺うように、彼の舌先と自分の舌先を触れ合わせてきた。
 それによって、まだ才人の準備が十分にできていないと悟ったらしい。タバサの舌は才人の舌の横に滑り込み、彼の頬の裏側を強く撫で始めたのである。
 さらに、タバサの舌は才人の前歯の裏や口蓋を這いうねるように舐め尽し、息が苦しくなった才人が視界をぼんやりさせ始めたころ、ついに彼の舌に絡みついた。
 タバサの舌使いはここでも絶妙だった。ただ舌同士を絡めるだけでなく、才人の反応を窺いつつ舌の裏や側面にまで滑らかに入り込む。
 予想以上のテクニックに、才人は既に悶絶寸前であった。無論、その理由は口が塞がれて息が苦しいからだけではない。
(これじゃ、立場が逆じゃねえか)
 才人とて男である。性交では男が女をリードすべきだという考えが、漠然としたものながらも心の奥底にあったのだ。
 しかし、これでは優位に立つどころか反撃することすらままらない。ほとんど犯されているも同然の状態である。
 そうして、キスだけで才人が意識を失いかけたとき、タバサはようやく自分の舌を才人の口の中から引き抜いた。
 二人の唇に涎の橋がかかり、沈みかけた夕日を浴びて鈍く輝く。
 口を半開きにしたまま荒い呼吸をする才人の、涙で滲んだ視界の向こうに、タバサの小さな顔が見える。
 間近で見るとさらに幼さが増したように思えるその顔は、そのあどけなさに反して興奮のために赤く染まり、口元には獲物を嬲る猫のような妖しい笑みが浮かんでいる。
「お兄ちゃん」
 優しく囁きかけながら、タバサは才人の頬に手を伸ばす。まだキスの余韻が抜けない才人は、タバサが自分の頬を撫でるのを黙って見ているしかない。

308 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:00:57 ID:weFLKaFO

「かわいい」
 お気に入りのぬいぐるみを抱きしめるように、タバサは全身で才人の体にしがみつく。そして、彼の胸に頬擦りしながら言った。
「わたしのものにする」
 どこかで聞いた台詞だなあ、と才人はぼんやり思った。どこで聞いたのかはよく思い出せないが、確かつい最近だったように思う。
 だが、そのときの口調と、今のタバサの口調はまるで違っていた。
 先ほどのタバサの声音は、嗜虐的でもなければ悪戯っぽいものでもなく、ましてやただ興奮しているだけの口調でもなかった。
 もっと真剣で、聞く者の胸に痛みをもたらすような切実な声だった。
 ふと、タバサは才人の胸から顔を離すと、何かを恐れるような不安げな顔で才人を見上げてきた。
「お兄ちゃん、わたしのこと、見える」
 何を言われているのか、一瞬理解できなかった。才人は困惑しながらも、ようやく回復してきた意志の力を集めて無理矢理笑顔を作る。
「何言ってんだ、可愛いシャルロットのことが見えない訳ないだろ」
 冗談めかしてそう答えたが、タバサは唇を噛み締めて俯いてしまう。そして、小さな声で言った。
「母様、わたしのこと見えなくなっちゃった」
 しゃくり上げながらそう言うタバサの顔は、まだ興奮に赤らんではいたが、そこには先ほどの妖艶さはまるで感じられなかった。
 才人の胸に抱きついている内に、性衝動以外の感情が胸の内から湧き上がってきたかのようだった。
 タバサはいつしか大きな瞳からとめどなく涙を流して泣きじゃくっていた。
「話しかけても答えてくれない。前みたいに笑ってくれない。頭撫でてくれない。抱き締めてくれない」
 時折声を詰まらせるタバサの姿は、目をそらしてしまいたくなるほどに痛々しい。
「母様、わたしを置いてどこかにいっちゃった」
 才人はどうすることもできずに、ただ眉根を寄せてタバサの泣き声を聞いているしかなかった。
(ああ、この子は迷子になっちまったんだな)
 才人は心の中でそう呟いた。同時に、ずっと昔の思い出が蘇ってくる。
 それは、家からずっと離れたところに出かけた際、両親とはぐれてしまった記憶だった。
 見知らぬ風景、見知らぬ人々。
 誰かに声をかけることもできず、誰かが話しかけてくれることもなく。
 もしもこのまま両親に置いていかれたらどうしようと、ただただ不安で泣きじゃくっていた思い出だ。
 あのとき、両親は必死に探し回って、何とか才人を見つけ出してくれた。
 だが、タバサの場合は違ったのだ。事情を知らない才人にも、そのことだけはよく分かった。
 タバサの低い慟哭が、才人の胸を静かに、だが強く揺さぶる。

309 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:01:49 ID:weFLKaFO

「シャルロット」
 はっきりとした呼びかけに、タバサが顔を上げる。その涙に濡れた顔を見たとき、才人はほとんど衝動的に彼女のことを抱き締めてしまっていた。
「大丈夫だ」
 途切れ途切れの震えるような息遣いと、小さく弾んでいるタバサの鼓動を胸に感じながら、才人は努めて優しい声で呼びかける。
「俺がそばにいてやる。ずっと見ててやるからな」
 それは、単なる口約束に過ぎなかった。その言葉どおりにできないことは、他でもない才人自身が一番よく分かっていた。
 だが、それでも言ってやりたかった。
 誰にも思いを吐き出せずにずっと泣き続けてきた女の子のために、たとえ嘘になるとしても言ってやりたかったのだ。
「本当」
 躊躇うように、あるいは縋るように、タバサが問いかけてくる。
「本当に、ずっと見ていてくれる」
「ああ」
「わたしのこと、忘れないでいてくれる」
「ああ」
「わたしのこと、置いていかない」
「ああ」
「わたしのこと、わたしのこと」
 それ以上は何も言えずに、タバサは才人の胸に顔を埋めてまた泣き出してしまう。
 才人は、黙ってタバサの頭を撫で続けていた。
 だが、しばらくそうしている内に、タバサの体に変化が起き始めていた。
 そのとき、タバサはすでに泣き止んでいた。その代わりにまた頬を上気させ、はっきり分かるほどに呼吸も弾ませていた。
(やっぱり、まだ収まってなかったのか)
 才人は心の中で舌打ちする。タバサだって、本来こんなことを望んでいる訳ではないだろうに。
(一人きりで泣いてる女の子を、こんな卑劣な手で苦しめやがって)
 全身に怒りを滾らせる才人の前で、タバサは徐々に気分を昂ぶらせてきているらしかった。
 いつの間にか才人の太股に跨り、股をこすりつけるように小刻みに動かしている。そうしながら、タバサは潤んだ瞳で才人を見上げてきた。
「お兄ちゃん」
「なんだ、シャルロット」
 荒れ狂う内心を無理に抑えつけて、才人は微笑みながら問い返す。
 タバサは才人にも分かるぐらいはっきりと、ほんの一瞬だけ躊躇した。
 そのとき、顔をそらしたタバサの瞳に過ぎった様々な感情の色を、才人は一つ一つ注意深く、大切に拾い上げた。
 一つは欲望だった。一つは躊躇だった。一つは憧れであり、一つは恐れだった。
 一秒にも満たないわずかな時間に、タバサの瞳の中で感情と理性とが激しくせめぎ合った。
 タバサが理性的な性格なのは、元々あまり彼女と親しくはなかった才人だってよく知っていた。
 数年もの間、鉄の意志で自分自身の感情と、卑劣な罠によってもたらされる快楽の波とに抗ってきた少女なのだ。

310 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:03:09 ID:weFLKaFO

 しかし、このとき勝ったのは感情の方だったらしい。
「お兄ちゃん」
 タバサは、一粒の涙を零しながら才人を見上げてきた。
「証拠を刻んでほしい」
 そのときのタバサの表情を見て、才人は理解した。
「お兄ちゃんがずっとわたしを忘れないでいてくれるっていう、証拠」
 この子がそんなことを言ったのは、決して欲情に負けてしまったからだけではないということを。
 一瞬だけ、才人は目を瞑った。
(ルイズ)
 大好きなご主人様の顔が、才人の脳裏を過ぎる。
 本当なら、拒絶するべきなのかもしれない。今から才人とタバサがしようとしていることは、間違いなく取り返しのつかないことだ。
 だが、才人にはどうしても出来なかった。
 数年に渡る一人ぼっちの彷徨の果てに、ようやく安堵できる場所を見出そうとしている少女を、冷たく突き放すことが。
 才人は覚悟を決めて目を見開いた。視界に、不安げな表情で返事を待っているタバサの顔が映る。
(たとえ罵られても、軽蔑されても、憎まれても。いや、殺されたっていい)
 覚悟は決意に収束し、全ての躊躇を消し飛ばした。
(俺は、シャルロットの全部を受け止めてやりたい)
 血を吐くような思いと共に、才人はタバサに笑いかけた。
「分かった。証拠、刻んでやるよ」
 タバサの顔に、泣き笑いが浮かんだ。
「お兄ちゃん」
 短く叫びながら、タバサは再び才人の唇に自分の唇を押し付けた。

 それから先のことは、あまりよく覚えていない。わずかな時間は脳を焦がすほどの濃密だったのだ。
 二人は周囲が闇に落ちるまで、獣のように交じり合った。
 才人としてはせめて妊娠の危険性を排除したかったが、タバサの責めはキスのとき以上に激しく、そんな余裕はすぐになくなってしまった。
 才人が上になることもあったし、その逆もあった。獣のように後ろからタバサの体に押し入ったこともある。
 タバサの気がようやく落ち着いたのは、もうすぐ学院寮の門限になろうかという時刻になってからだった。

311 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:03:55 ID:weFLKaFO

 夕暮れどきに並んで話したときと同じように、二人は木に背中をもたれさせてただ黙って座っていた。
 言葉は、ない。
 タバサはあの濃密な時間が終わってからずっと、どこか呆然とした表情で俯いていたし、才人もそんな彼女にどう声をかけていいか分からなかったのだ。
 だから、静かな夜の闇の中、ただ黙って彼女の言葉を待っていた。
 不意に、静寂の中に音が生まれた。才人は黙って傍らを見る。
 それは、俯いたタバサが小さな嗚咽を漏らす音だった。
「ごめんなさい」
 激しい後悔と自己嫌悪に染まった声を、タバサは無理矢理絞り出した。才人は首を振る。
「シャルロットは悪くねえよ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいって。こんな可愛い子抱けて、むしろ幸せだぜ俺は」
 そんな冗談しか言えない自分に、どうしようもなく腹が立つ。タバサは泣き止まなかった。泣きじゃくりながら、首を横に振った。
「わたし、知ってた」
「何をだ」
「お兄ちゃんが」
 そう言いかけて、タバサは一度口を噤んで言い直した。
「才人が、誰を愛してるか」
 また冗談を言おうとして、失敗した。それは本当のことだったから、才人には何も言えなかった。
「知ってたのに、わたし、あんなこと」
 タバサは圧迫するように頭をかかえる。小さな手の下で、柔らかい青い髪がくしゃくしゃになった。
 さすがに見ていられなくなり、才人はタバサの右手をつかんで首を振った。
「そりゃ違うよシャルロット、お前は悪くない」
「わたしが欲望に負けたから」
「止めろ、自分を責めるな」
「全部ぶち壊しになった」
「そんなことないって」
 才人の必死の説得にも、タバサは耳を貸さなかった。ただ、自分自身を嫌悪するように、激しく頭を振り続けた。
 そうしている内に、遠くの方から鐘が打ち鳴らされる音が響いてきた。

312 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:04:53 ID:weFLKaFO

「門限の鐘」
 呆然とした声で呟きながら、タバサがフラフラと立ち上がる。今にも倒れてしまいそうなその様子に、才人は思わず立ち上がって彼女を支えようとした。
「触らないで」
 突然、タバサが叫び声を上げた。激しい拒絶に、才人は思わず手を引いてしまう。その間に、タバサは才人の手の届かないところに行ってしまった。
「才人」
 闇の向こうで、タバサが振り返る。
「ありがとう」
(ああ)
 才人は心の中でため息を吐いた。
「今日のことは、全部忘れて」
(遠い)
 二人の間に立ちふさがる闇が、密度を増したように感じる。
(なんて、遠いんだろう)
 どんなに必死に手を伸ばしても、弾かれてしまいそうなほどに。
「黙っていれば、きっと秘密にできる」
 いつもの淡々とした口調を取り繕って話すタバサの顔すらも、今は見えなかった。
「明日からは、また何でもない二人に戻る」
 堪えきれなかったのか、後半はほとんど涙声になってしまっていた。
「さよなら」
 必死に感情を押し殺した声で言い残して、タバサは駆け足で去っていった。
 闇に押しつぶされてしまいそうなほどに小さく、頼りない背中が、闇の奥に聞こえていく。
 引き留めることも追いかけることも出来ずに、才人はただただその場に立ち尽くしていた。
「ちくしょう」
 タバサの姿が完全に見えなくなった瞬間、胸に湧き上がってきたどうしようない感情を吐き出すように、才人は木の幹を思いきり殴りつけた。

313 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:06:25 ID:weFLKaFO

「なるほどなあ。そんなことがねえ」
 いつもの気楽な口調で、デルフリンガーが言う。
 あの後、才人は最初にタバサと話していた時点で木陰に放置していたデルフリンガーを鞘から引き抜き、全ての事情を話した。
 本当はタバサと交わったことは伏せておきたかったが、細部を話そうとすると結局全てを話さなければいけなかったのだ。
「いやあ、さすが相棒だ。よっ、この色男」
 デルフリンガーは茶化すような口調で言ったが、才人はにこりとも笑わなかった。
 ただ、じっとデルフリンガーの刃を見つめながら問うた。
「デルフ、聞きたいことがあるんだ」
「いやあ、俺としてはあのちっこい嬢ちゃんとの情事をもっと詳しく」
「デルフ」
「なんだね」
 どうにも気乗りのしなさそうな口調で、デルフリンガーが問い返してくる。才人は刃に映る自分の顔を見つめながら訊いた。
「シャルロットの体に埋まってる宝玉のことなんだけどさ」
「ああ。下品なマジックアイテムもあったもんだよなあ。それに比べて見てくれよ俺様の高級感あふれる」
「あれ、ルイズの魔法で解除できないのか」
「どうだろうね」
 とぼけるような口調だった。こいつは知ってて隠してやがる、と才人はさらに問い詰める。
「教えてくれ、頼む」
 デルフリンガーはしばらく答えなかったが、やがて観念したように言った。
「難しいと思うね」
「どうして」
「実際見てないからよく分からんけど、それ体に直接埋まってて、その上脳まで達してるっぽいんだろ」
「ああ」
「そういうもんは、何ていうか無理矢理引き剥がすの難しいんだよね。下手すりゃ精神に悪影響が出る」
「シャルロットが狂っちまうかもしれないのか」
「そういう危険性もあるだろうねえ」
 才人は唇を噛んだ。もしも可能なら、ルイズに頼むつもりだったのだ。
「それに、これに関わるのはあんまお勧めできないね俺としちゃ」
「なんでだよ」
 デルフリンガーは一瞬間を置いてから、苦々しげな声で続けた。
「どうも、先住魔法の臭いがすんだよ」
「先住魔法」
 才人は鸚鵡返しに呟いた。その言葉には、あまりいい思い出がない。
 強く優しい男だったウェールズ王子を、呪われたゾンビとして蘇らせた魔法も、確か先住魔法だったはずだ。

314 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/29(火) 01:07:12 ID:weFLKaFO

「こりゃ完全に俺の勧なんだけど、あんときのと今回の、多分使ってる奴一緒なんじゃねえのかな」
「つまり」
「ミョズニトニルン」
 才人は息を飲んだ。
 ガンダールヴである自分と同じ、ゼロの使い魔。
 神の頭脳、ミョズニトニルン。
「懐かしき先住魔法の連発だ。そう考えるのが一番合理的だわな」
「要するに、今回は他の虚無と対決する可能性があるってことか」
「そういうことだねえ」
 気楽な口調で答えるデルフリンガーを前に、才人は数秒黙考した。そして、問うた。
「デルフ」
「なんとなく嫌な予感がすんだけど、なんだね」
「マジックアイテムってのは、術者から魔力を供給されて動くもんなんだろ」
「そうだよ」
「なら、ミョズニトニルンを倒せば、シャルロットの体に埋まってる宝玉は力を失うんだな」
 確認するような問いかけに、デルフリンガーは数秒沈黙を保った。才人は少し苛立ちながら問う。
「そうなんだな」
「そうだよ」
 観念したような声で、デルフリンガーが答えた。
「少なくとも、ディスペル・マジックで無理矢理引き剥がすよりゃずっと安全だと思うね」
「そうか」
「あのなあ相棒。俺はお前さんの考え方はかなり理解してるつもりだから、何をしようとしているのかも分かるんだよ」
 才人は、デルフリンガーの刃にじっと目をこらす。自分の鏡像は、実際に物を斬れそうなほどに鋭い視線を返してきた。
「俺はよく知ってんだ、その目」
 ため息のような声だった。
「そりゃ人殺しの目だぜ、相棒」

(ああ、そうさ)
 今まで一度も抱いたことのなかった感情が、凄まじい勢いで才人の全身を駆け巡っていた。
(あの一人ぼっちの女の子を助け出すためなら)
 濁流のように激しいその流れは、一つの決意となって収束する。
(俺は、この世界で殺人者にだってなってやる)
 そうして透徹された殺意は、他のどんな感情よりも冷たく、同時にどこまでも熱かった。
416 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:30:02 ID:bYY80l+o
 背後から聞こえてくるルイズの寝息が規則的なものになったのを見計らって、才人はそっと声をかける。
「ルイズ」
 声の大きさを少しずつ大きくして、二度、三度。反応はない。
 ルイズが間違いなく眠っていると判断して、才人はそっとベッドから抜け出した。
(今日は離しててくれてよかったな)
 才人は心の中でほっと息を吐く。
 アルビオンから帰還して以来、ルイズは夜寝るとき必ず才人の服をつかんで離そうとしなかった。
 また才人がどこかに行ってしまわないかと不安なのだろう。
 だが、今日は違った。服をつかむどころか、少し距離を置き、こちらに背中を向けて寝ていたのだ。
(まあ仕方ないか、かなり怒ってたし)
 タバサと別れて部屋に戻ってきた才人を、ルイズは激しく怒鳴りつけた。
 門限を過ぎてもなお連絡一つ寄越さなかった才人にご立腹だったらしい。
 実際悪いのはこちらだったし、タバサとあんなことをした後だったこともあって余計に罪悪感がつのり、才人はルイズのなじりを甘んじて受けたのだ。
 才人は足音を立てないように注意しながら、部屋の壁に立てかけてあるデルフリンガーのもとに向かう。
 静かに鞘から引き抜くと、剣はやたらと陽気な声で喋り出した。
「よう相棒、元気してた」
「馬鹿、大声出すな」
 自分も十分に大きな声で怒鳴りつけてから、才人はおそるおそる振り返る。
 ベッドの上のルイズは、声に反応したように寝返りをうってこちらを向いたが、目覚めてはいないらしかった。
 月明かりに青白く照らされた寝顔は、今も健やかな寝息を立てている。
 才人はほっと息を吐いた。
「良かった、起きてない」
 一瞬間を置いて、デルフリンガーが答えた。
「みてえだね」
「っつーかお前、俺が鞘から抜くたびに大げさに反応すんの止めろよ」
「だってモテモテの相棒に構ってもらえなくてデルフ寂しかったんだもん。くすん」
 才人が無言で鞘に押し込もうとすると、デルフリンガーは慌てたような声でそれを止める。
「待て待て待て、冗談だよ冗談」
「一瞬本気で捨てようかと思ったぜ」
「いやん。相棒ったらいけず」
「えーと、剣ってのは何度ぐらいで溶けるんだっけかな」
「ごめん、マジごめん。だからさり気なく微熱のねーちゃんの部屋の方見るのは止めて」
「ったく。今はお前の冗談聞きたい気分じゃないんだよ」

417 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:32:20 ID:bYY80l+o

 無意味な疲れを感じつつ、才人はデルフリンガーを完全に鞘から引き抜く。
 月明かりを浴びて、刃が青く輝いている。その冷たい光に、才人は無言でじっと目を凝らした。
「なあ、相棒よ」
 デルフリンガーが、どことなく気まずそうな声で言う。才人は視線を動かさずに返した。
「なんだ」
「マジでやるつもりなのかい」
「やらなきゃいけないならな」
 才人は淡々とした口調で答えを返す。しかし、その実内心では激しい葛藤が渦を巻いていた。
 タバサに対する仕打ちを考えれば、相手は最低の人間だ。犬畜生にも劣るクズという奴である。
 だから、殺せるはずだと。躊躇いなどないはずだと。
 そう心に言い聞かせるのだが、やはり恐れにも似た感情が消えてくれない。
(ちくしょう、なんで)
 才人は苛立ちまぎれに舌打ちする。デルフリンガーはそれを聞いていたはずだが、特に何も言わなかった。
 ただ、苦悩する才人の内心を推し量るかのように、似合わぬ沈黙を保っている。
 目を瞑り眉根を寄せ、才人は何度も何度も心に「俺はミョズニトニルンを殺すんだ」と言い聞かせ続ける。
 しかし、どれだけ繰り返しても、心の隅に引っかかっている躊躇いは消えてくれなかった。
 才人は肩を落とした。剣の腹に軽く頭を当て、刀身に映る自分の顔をぼんやりと眺める。
 その瞳からは、つい数時間ほど前に人を殺すことを決意したときの鋭さが幾分か失われていた。
(別に、怒りが消えた訳じゃないんだけどな)
 時間が経って、幾分か気が落ち着いてきたせいだろうか。怒り以外の感情が、心の隅から湧き出してきたのだ。
 そのせいだろう。「本気でぶちのめしてやる」とは思えても、「本気で殺してやる」とはどうしても思えない。
 何とかして殺意を回復しなければ、と思い、才人は再度目を閉じた。
 頭の中に、殺すべき相手の姿を思い浮かべる。黒いローブに身を包んだ女。
 顔はフードで見えなかったが、口元に終始薄気味の悪い微笑を浮かべていたのを覚えている。
「得体の知れない奴だったな」
 才人は、さらに深く思い出す。少し前、サウスゴータ付近の森で遭遇した、もう一人の「ゼロの使い魔」のことを。
「シェフィールド、だったっけか」
「本名じゃないらしいがね」
「俺がガンダールヴ、あいつがミョズニトニルン」
「伝説の使い魔同士のガチンコバトルって訳だね。わーい、楽しみだなあ」
 あからさまに茶化しているデルフリンガーの口調に、才人は想像を中断して顔をしかめた。
「おいデルフ、お前なんだって今回はそんなに反対すんのよ」
「相棒よ」
 不意に、デルフの声が低くなった。
「こりゃ俺の見立てだがね」
「なんだよ」
 前よりは幾分か真剣な声音に、才人は少したじろいだ。

418 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:33:17 ID:bYY80l+o

 デルフリンガーは、意志を持った剣として存在してきた長い年月を想像させるような、重みのある声で続ける。
「お前さん、このまんまだとまた死んじまうね」
 才人は目を見開いた。「まあ冗談だけど」などとデルフリンガーが笑い出すのを期待したが、剣はひたすら沈黙を保っている。
「なんでだよ」
 黙っているのに耐えられなくなり、才人は何とか声を絞り出した。
「やってみなきゃ分かんねえだろそんなの。前と違って、今の俺はガンダールヴなんだし」
「そんなもんは問題にならん」
 デルフリンガーの言葉は実に断定的だった。まるで、分かりきった事実を指摘するかのように。
 その声によって、自分の未来が決定されたかのような錯覚すら覚えてしまう。
「相棒。隊長さんの言葉、覚えてるか」
 不意に、デルフリンガーが訊いてきた。隊長、と言われてすぐに思い浮かんだのは、刃のように鋭い目をした女の顔だった。
「実戦では、負けると思った方が負ける。結局のところ、技も、術も、自信をつけさせるだけのものに過ぎない」
 思い出させるように、デルフリンガーが言う。確かにそんなことを言われたな、と才人は小さく頷いた。
 デルフリンガーは、一語一語を強調した、言い聞かせるような口調で続ける。
「それと同じことだよ。相棒の心には、まだ人を殺すことへの躊躇いがある」
「だから」
「今まではそれでも良かった。ガンダールヴの力を得た相棒に勝てる奴なんざ、普通の人間どころかオーク鬼みてえな化け物の中にも
 まずいねえからな。手加減して、殺さないように戦うことだって不可能じゃなかっただろう。だが、今度は違う。
 ミョズニトニルンだ。性質が違うとは言え、相手も同じゼロの使い魔なんだぜ。その上、前に見た感じじゃ、
 奴は何でだか相棒にかなりの敵意を持ってるみてえだからな。あらゆる手を使って殺そうとしてくるに違えねえや」
「あらゆる手って」
「ミョズニトニルン。ありとあらゆるマジックアイテムを使いこなす神の頭脳」
 詩でも読み上げるような調子で言ったあと、デルフリンガーは苦々しげな声で続けた。
「ちっこい嬢ちゃんに使われたのも、相当えげつねえもんらしいがね。
 相棒が想像もつかねえほど胸糞の悪い効果を持ってるマジックアイテムなんざ、この世には数え切れないほど存在してるんだ。
 相手は、そういうものをほぼ無制限で使える」
「俺だってありとあらゆる武器を使いこなせるんだろ」
「力だけじゃ、知恵には勝てんよ。それに、さっき言った問題がある。
 相手を殺すことに躊躇いがある奴とない奴と、どっちの攻撃がより強いかなんざ、子供だって分かる話さ」
 結局のところ、ただそれだけの話なのだった。
 決定的に、殺意が足りない。
 無論、殺す気満々で戦ったところで、勝てるとは限らないのだが。

419 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:34:11 ID:bYY80l+o

「でもよ」
 才人は喉に詰まったものを無理に吐き出すような口調で言った。
「だからって、放ってはおけねえよ。勝ち目がなかろうが殺意が足りなかろうが、そんなことは実際あんまり関係ないんだ。
 俺はあんな風に弄ばれてるシャルロットを放っておけない。ただ、それだけだ」
 才人の言葉をただ黙って聞いていたデルフリンガーは、やがて深いため息をもらした。
「言っても聞かねえんだもんな」
「馬鹿だからな」
 才人は頭を掻きながら苦笑した。
「違えねえや」
 デルフリンガーもまた笑い声で答える。
 ようやくデルフリンガーの雰囲気が元の調子に戻ってきて、才人は内心ほっと息を吐く。
「相棒よ」
 不意に、デルフリンガーは再び声を低くして言った。
 今度は、先ほどのような言い聞かせる口調ではなく、ただ真剣に自分の思いを語りかけようとしている口調だった。
「前にも言ったが、俺はお前さんの妙にまっすぐなところが好きだ」
「ああ」
「だから、出来る限り長生きしてもらいてえのさ。
 俺から見りゃ相棒と過ごす時間は一瞬だが、楽しい時間ってのは少しでも多い方がいいからね」
「そうだな」
「いいか。躊躇うなよ、相棒。今回ばっかりは、敵に情けをかけようなんて思ったら、間違いなく死ぬぜ」
 断定的な言葉を、才人はただ黙って聞いていた。
 デルフリンガーの言っていることが真実であるのは、才人にもよく分かる。だから、小さく頷いた。
「ああ。安心しろ、俺は躊躇わねえよ」
 何も答えない剣の刀身を青白い月明かりにかざし、才人は己に言い聞かせるように口を開く。
「そうさ。相手は、あんな小さな女の子にひどいことした糞野郎なんだ。死んだ方が」
 言いかけて、才人は首を振った。死んだ方がという言い方は、今は相応しくないように思える。
 だが、正しい言葉を吐き出すために、才人は何度か息を吸い直さなければならなかった。
「殺した方が、世の中のためになるってもんだ」
 デルフリンガー以外誰も聞いている者などいないというのに、その声は自分でも分かるほどに硬く、ぎこちなかった。
 そして、このときになってようやく理解できた。
 結局のところ、たとえどんな理由があろうとも、現実に自分自身の明確な意思で他人を殺めるということ自体が、平和な日本育ちの才人には考えるだけでも苦痛なのだ。
(でも、それじゃミョズニトニルンを殺せない。シャルロットを助けられない)
 しばらくの間、才人は唇を噛み締めて、窓から差し込む淡い月光の中に立ち尽くしていた。
 静寂の中、様々な思いが胸中を掠めていく。
 怒りは、ある。あの瞬間感じた怒りは、今もまだ心の中で燃え続けている。
 だが、心の中にある躊躇いや迷い、あるいは恐れを全て忘れさせてくれるほどには、激しくないらしい。
「くそっ」
 小さく吐き捨てて、才人は剣を下ろした。

420 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:34:44 ID:bYY80l+o

 憂鬱な気分で肩を落とし、鞘にデルフリンガーを収めようとしたとき、不意に剣が言い出した。
「焦るなよ、相棒。今はミョズニトニルンの居場所だって分かんねえんだ」
「そりゃそうだけど」
「ちょいと散歩でもしてきたらどうだね。気分転換にはならあな」
 才人は、肩越しに振り返って窓の外を見た。満天の星空に浮かんだ月が、柔らかな光を地上に投げかけているのが見える。
 確かに、散歩をするのにはちょうどいい夜かもしれない。
「そうだな。ちょっと、歩いてくるかな」
「そうしなよ。ああ、俺はこのまま置いてってくれや。
 間違って嬢ちゃんが起きちまったら、散歩行っただけだって言ってやらなきゃいけねえだろ」
 それもそうか、と思って、才人はベッドの上のルイズに目を移す。
 愛しいご主人様は、先ほどと全く変わらない穏やかな寝顔を見せていた。才人の胸の奥に、突かれたような鋭い痛みが走る。
 アルビオンから戻ってきたあとにギーシュやモンモランシーから聞いた話によると、
 才人が死んだと思い込んでいたルイズはほとんど死人のような状態で日々を過ごしていたらしい。
 再会した直後以外は、才人に対してそんな素振りなど微塵も見せなかったルイズである。才人はひどく驚いた。
 しかし、夜寝るときに才人の服の端を強く掴んだり、時折才人の存在を確かめるようにひどく深刻な顔で軽く触れてきたりと、
 彼女が不安に思っている印は確かにあるのだ。
「ごめんなルイズ。お前を不安にさせたい訳じゃないんだけど」
 才人はベッドの傍に立ち、ルイズの頬を軽く撫でた。
 かすかな震えが手の平に伝わってきて、どうしようもない愛しさが胸の奥から溢れ出した。
 今日のことで、タバサのことを何とかしてやりたいと思ったのは事実だった。
 だが、やはり自分が好きなのはルイズなのだと、才人は改めて実感する。
(ルイズを巻き込む訳にはいかない)
 不意に、そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
(ミョズニトニルンやら、そいつの主人の虚無やら、下手したら戦争以上に危険かもしれねえもんな)
 仮にどこか遠くに出かけることになっても、ルイズは連れて行けない。
 そんなことを考えながら、才人は部屋を後にした。

421 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:35:50 ID:bYY80l+o

「さて、そろそろ狸寝入りは止めにしたらどうかね」
 才人が出て行ってしばらく経ったころ、不意にルイズの部屋にデルフリンガーの声が響き渡った。
 しばらくして何の反応もないことを知ると、声色を変えてこう続ける。
「才人ったらわたしに隠れて何話してるのかしら。また他の女の子と仲良くしてるの。
 もう、わたし、こんなに才人のこと好きなのに。わたしだけを見てくれないと拗ねちゃうんだから」
 気色の悪い声音でルイズの真似をするデルフリンガーにとうとう我慢できなくなり、ルイズは布団を蹴り上げながら叫んだ。
「ええそうよ起きてますよ、起きてて悪い」
「別に悪かないよ」
 瞬時に口調を戻して、デルフリンガーが答える。
 この剣、絶対いつか売り飛ばしてやるなどと考えながら、ルイズは床に下りて腕を組む。
「で、一体あの馬鹿犬今度はどんな馬鹿なこと考えてる訳。
 ホントにもう、帰ってくるなり余計なことに首突っ込んで、あの馬鹿はホントに馬鹿なんだから」
「そんな馬鹿な才人がわたし大好きなの」
「吹き飛ばすわよ」
「いやごめんなさいマジで勘弁してください」
 速攻で平謝りしたあと、デルフリンガーは苦笑混じりに言った。
「そんな心配するこたねえよ」
「わたしが起きてること知っておきながらあんな深刻な話しといて、心配するなとはなによ。あんま馬鹿にすると本気で吹き飛ば」
「いやだから俺を脅すためだけに祈祷書開くのは止めてってば」
 大きく息を吐きながら祈祷書を閉じ、ルイズはイライラと唇を噛み締める。
「とりあえず、事情を説明しなさい。ミョズニトニルンがどうとか言ってたでしょ。わたしに関係ないとは言わせないわよ」
「いや、関係ないよ」
「あんたね、ふざけてると」
「真面目だよ、俺は」
 言葉どおり、デルフリンガーは急に真面目な口調になった。その声の静かさに、ルイズはつい黙ってしまう。
「悪いことは言わねえ、今回ばっかりは相棒のことを放っておいてやんな」
「なんで、使い魔のことで主人が遠慮しなきゃ」
「相棒が苦しむぜ」
 端的な言葉に気勢を削がれて、ルイズは口を噤んだ。それ以上は何も言わないデルフリンガーに苛立ちながら、親指の爪を噛む。
 あちこちに視線をさまよわせたあと、ルイズは躊躇いがちに訊いた。
「ねえ、ボロ剣」
「なんだね」
「あの馬鹿、またわたしに黙って死んじゃうようなことしてるんじゃないでしょうね」
 溜まっていた疑念を口にすると、胸に垂れ込めていた不安はもっと色濃く、重くなった。

422 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:36:47 ID:bYY80l+o

 脳裏に、数ヶ月前の光景が蘇る。
 残酷な命令。
 二人だけの結婚式。
 霞んでいく微笑。
 目を覚ますと、才人はどこにもいない。
 あのときの恐怖が再び蘇ってきて、ルイズの全身を大きく震わせた。
 心胆を凍らせるようなその悪寒に、ルイズは自分の肩を抱きしめる。
「不安になるのは分かるがね」
 デルフリンガーが、幾分か優しい口調で語りかけてきた。
「相棒はもう死なねえさ。お前さん一人、残したままじゃな」
「どこにそんな根拠が」
「あれで馬鹿がつくほど真っ直ぐな相棒だぜ。
 七万の軍隊に突っ込んでいっても、最後は好きな女のところへ帰ってきた野郎だ、ちょっとは信用してやんなよ」
 好きな女、という言葉は、ルイズの胸に暖かい何かをもたらした。
 小さな胸を重くしていた不安を、少しだけ軽くしてくれるような、甘い匂いを漂わせる何か。
 その暖かさに少しだけ胸を高鳴らせながら、しかしルイズは拗ねたように目をそらしながら訊く。
「どうだか。さっきの話聞いてると、また他の女の子絡みの問題なんでしょ」
「まあね」
「やっぱり。なによ、好きだとか何とか言っておいて、他の女の子のところばっかり」
「分かりやすく嫉妬するようになったもんだねお前さんも」
 感心したような言葉に、ルイズの顔面が熱くなった。その熱さを誤魔化そうとして、ルイズは拳を握り締めながら怒鳴る。
「嫉妬なんかしてない」
「面倒くさいからもうそれでいいけどさ」
 呆れたようにため息を吐いてから、デルフリンガーは諭すような口調で言った。
「だけどさ、そういうのを含めて、一度だけ相棒を全面的に信頼してやったらどうかね」
「どういう意味よ」
「さっきも言っただろ。相棒は何やってたって、最後は好きな女のところに戻ってくるのさ。
 そういう男だ。そんな男が惚れた、ただ一人の女なんだぜ、お前さんは」
 揺るぎない確信の込められた言葉だった。何となく気恥ずかしくなって、ルイズは視線を床に落とす。
 それから、ちらりと上目遣いにデルフリンガーを見ながら、小さな声で問う。

423 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:37:50 ID:bYY80l+o

「つまり、他の女の子にデレデレしてても、最後はわたしのところに戻ってくるって言いたい訳」
「そうそう。結局のところお前さんが一番だからね相棒は」
「本当にそうなの」
「見てりゃ分かりそうなもんだがね」
「見てて信用できないから言ってんでしょ。あの馬鹿ときたらいっつも他の女の胸とか胸とか胸とか胸とか。あと胸とか」
「相棒は単にいい奴なのさ。女に迫られても強く拒絶できない程度にはね」
「何よその都合のいい言い訳は」
「そんぐらいの優しさがなきゃ、とっくにお前さんに愛想尽かしてると思うけどね、相棒は」
 確かにそうかも、と一瞬納得しかけて、ルイズは慌てて首を振った。デルフリンガーが楽しげに笑う。
「ま、相棒がお前さんに愛想尽かさないのは、別に優しいってのが理由じゃないがね」
「じゃあなによ」
「お前さんのことが好きだからさ」
 結局そこに行き着くんだから、とルイズはため息を吐いた。
(信用する、か)
 ふと、その言葉が頭に浮かび、心がぐらついた。
(確かに、わたし、あいつのことちゃんと信用したことって、一度もなかったかも)
 デルフリンガーの言葉ではないが、七万の軍勢に突撃しても帰還した男なのだ。
 信じてやってもいいかもしれないと、思わないでもない。
(だけど)
 ルイズの目元が引きつった。
(それと他の女とイチャついてるのとは話が別よ。そりゃ確かに今まではわたしのとこに戻ってきたけどね、
 だからってこれからもどんどん浮気しなさいなんて言える訳ないじゃないの)
 ルイズの苛立ちを見透かしたかのように、不意にデルフリンガーが言ってきた。
「ほらあれだ、ここらでご主人様の余裕ってもんを見せつけておいたらどうかね」
 急に予想もしていなかったことを言われ、ルイズは眉をひそめた。
「誰によ」
「競争相手に決まってんだろ。特にあのメイドとかな」
 メイド、という単語を聞いたルイズの脳裏に、一瞬にして意地悪く笑う黒髪巨乳のメイドの顔が描かれる。
 顔をしかめるルイズに、デルフリンガーはなおも言った。

424 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:39:37 ID:bYY80l+o

「『あんたがどんなに誘惑したって、才人の心はもうわたしのものなのよ、残念だったわね』ぐらい、
 笑いながら言ってやったらどうかね。それで相手が何言ってきても『ふーん、それで』って澄まし顔で返してやるのさ」
 その提案は、実に巧みにルイズのプライドをくすぐってきた。微妙に、口の端が引きつる。
「で、ムキになってなおも相棒との情事をぶちまける相手を、お前さんは哀れみの目で見下ろしながら言ってやる訳だ。
 『哀れな女ね、遊ばれてるとも知らないで』と。カーッ、こりゃいいや、完全勝利って奴だぜお嬢ちゃん」
 実際にそんな風に振舞ったとき、あのメイドがどんな顔で悔しがるか。
 それを想像するだけで、ルイズの胸に心地よい満足感と優越感が広がってくる。
 ルイズは口元がひきつるのをこらえつつ、努めて澄ました顔で頷いた。
「そうね。あの犬も少しは忠誠心って物が分かってきたみたいだし、ちょっとは信用してあげてもいいわ」
「あー、そう」
「でも」
 不意に、また不安が胸に垂れ込めてくる。ルイズは念を押すように訊いた。
「本当に大丈夫なんでしょうね」
「心配すんなって。少なくとも、お前さんに黙ってどっか行ったりはしねえよ、相棒は」
 デルフリンガーの口調はあくまでも頼もしい。ルイズはため息を吐いた。
「結局事情もよく分かんないし」
「時期が来たら、相棒本人の口から直接聞かせてくれるだろうよ。その方がいいだろ」
 その言葉に完全に満足した訳ではなかったが、どちらにしろ今は才人本人が不在なのだ。
 問い詰めるとしても、彼が戻ってきてからにしなくてはならないだろう。
 ルイズが再び布団に潜り込んだとき、出し抜けにデルフが言った。
「なあお嬢ちゃん」
「なによ」
「これから何があっても、これだけは忘れんじゃねえぜ。相棒は、お前さんのことが一番好きなんだ」
「しつこいわよあんた」
 怒った口調で言いながら、ルイズは目を閉じる。そして、ふと心の中で呟いてみた。
(才人は、わたしのことが好き。他の誰よりも、わたしのことが一番好き)
 何度も何度も繰り返している内に、自然と口元に微笑が浮かんでくる。
 ルイズは暖かい気持ちを抱きしめたまま、安らかな眠りに落ちていった。

425 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/08/31(木) 23:49:44 ID:bYY80l+o

 しばらく経って、ルイズが完全に寝てしまったことを確認したデルフリンガーは、ぼそっと呟いた。
「まあ、お前さんが実際にそんな風に振舞えるかどうかは全くの別問題なんだけどね」
 もちろん、ルイズは聞いていない。今も微妙ににやけた顔で幸せ一杯夢の中である。
「やれやれだねえ。さて相棒、これでお前さんの愛しいご主人様がこの問題に巻き込まれることはなくなった訳だ。
 相棒の気持ちを汲んでやった俺ってばなんて頭のよくて気が利く剣なんでしょう。そんじょそこらのなまくら刀とは訳が違うね。
 さすが伝説の剣だ。いよっ、男前」
 デルフリンガーは不意に押し黙った。一人で騒いでも空しいだけだ。
「とは言え」
 ぼやくように、言う。
「本当ならご主人様の虚無も当てにした方がいいと思うんだがね。
 このまんまじゃマジで相棒一人でミョズニトニルンとぶつかることになるんだぜ。
 下手すりゃもう一人の虚無の使い手とも戦うことになるしなあ。
 そんでもって、相棒はまだ心に迷いがあると」
 一人でぶつぶつと状況分析したあと、デルフリンガーは大げさにため息を吐いた。
「うわあ、こりゃダメだ、負ける要素しか思い浮かばねえよ相棒。
 あー嫌だ、今のミョズニトニルンってかなり底意地の悪そうな女だったかんね。
 相棒が死んじまったら俺マジで溶鉱炉行きなんじゃない、ねえ」
 もちろん、答える者はいない。分かっていて一人で騒いでいるのである。
「お前さんの性格じゃ難しいだろうが、何とか覚悟決めてくれよ相棒。
 俺たちの命運はそれにかかってんだからさ」
 そんな風に一人で格好つけてみても、やはり空しいだけだった。
582 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:12:56 ID:+EkAIKRj

 幼い頃のタバサは、今のように四六時中本ばかり読んでいるほど読書好きではなかった。
 確かに本を読むのは楽しかったが、生来快活で明るい性格だったタバサは、部屋の中で本を読んでいるよりも、
 領地内にある森で走り回ったり、湖で泳いだりする方が好きだった。
 それが今のようになってしまった一番の原因は、言うまでもなく父親と母親を相次いで失ってしまったことだった。
 物語や魔法学の本に没頭していると、一時期とは言え辛い現実を忘れることが出来たのだ。
 彼女がまだ十代半ばの、しかも元々外向的な少女であったことを思うと、あまりにも痛々しい現実逃避である。
 だが、そうでもしないと気が狂ってしまいそうなほどに、彼女を襲った運命の変転は過酷だったのだ。
 そうやって年を重ねるにつれて、タバサはますます本の世界に没頭していった。
 休日である虚無の曜日ともなると、一日中誰とも会わずに自室でページを手繰り、
 普段も人に話しかけられるのを拒むかのように、常に冷めた目で紙の上の文字を見つめていた。
 その内、他人と話すことも億劫に感じるようになった。
 自分と違って何の苦労もせずに日々を過ごしている同級生たちを見ていると、
 抑え切れない嫉妬ややり場のない怒りが胸に湧き起こってきて、どうしようもなくなってくるのだ。
 何故かそういうことを感じさせないキュルケと出会うまで、
 タバサは周囲の人間に喋れないのではないかと誤解されるぐらい、口も心も開かない少女だったのだ。
 そんな彼女の自室は、当然ながら本で埋もれている。入り口と窓付近を除く壁が、ぎっしりと本が詰まった本棚で塞がれているのだ。
 常に紙とインクの匂いに満たされているこの部屋が、今となってはタバサが唯一安らげる場所だった。
 授業がないときは大抵部屋に閉じこもり、夜寝る直前まで本を読んでいるのがタバサの日課だった。
 本を読んでいないと、どうにもならないことを延々と考え続けてしまうからだ。
 だから、タバサが起きている間、この部屋からページを手繰る音が絶えることは滅多にない。
 しかし、その夜は違っていた。
 ページを手繰る音の代わりに、押し殺されて掠れきった、切ない吐息が静かに響いていたのである。
 もちろん、出所は主であるタバサのベッドだった。寝台に敷かれたシーツは乱れて皺だらけになり、彼女が横になったまま激しく動いたことを示していた。

583 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:14:07 ID:+EkAIKRj

(もう、止めなきゃ)
 陰部と乳房を手で弄りながら、タバサはぼんやりとした頭で考える。
 既に、この夜だけで数回ほど絶頂を迎えている。にも関わらず、体の疼きは一向に収まってくれなかった。
 いつもならば、背に埋め込まれた宝玉の効果で性欲が昂ぶるのは、せいぜい一日一回程度だというのに。
 異常ではあったが、不思議なことではなかった。
 タバサには、その理由が分かっていたからだ。
(お兄ちゃん)
 涙に潤んで熱くなった目を閉じれば、目蓋の裏に一人の少年の姿が浮かび上がってくる。
 黒髪に黒い瞳のその少年は、お世辞にも美形とは言いがたかった。
 どちらかと言えば三枚目という表現の方が似合うし、主人に怒られている姿は実に間抜けで、情けない。
 だが、そんな格好の悪い少年こそが、タバサがどうしても自慰を止められない理由なのだった。
 タバサは既に固く尖って上向いている乳首を左手の指でゆっくりとこね回しながら、右手の指先を陰唇の奥に差し入れる。
 どういう風にすればより強い快感を得ることが出来るのかは、よく分かっていた。
 数年前に背中に宝玉を植えつけられて以来、ほとんど毎日欠かさず行ってきた行為だからだ。
 しかし、タバサが長時間自慰に耽ったことはほとんどなかった。
 普段なら、この行為はタバサにとって無理矢理高められた性欲を静めるという意味しか持っていなかった。
 さらに、同年代の少女たちの中でこういう行為をしているのは自分だけに違いないという羞恥心もあったので、
 タバサはより強い快感を求める本能を理性で無理矢理抑えつけて、ひたすら淡白に自慰を終わらせてきた。
 少し前までならば、それも苦にはならなかったのである。
 だが、最近は違った。
(お兄ちゃん)
 タバサの理性を撥ね退けて、想像は勝手に広がっていく。
 彼と話がしたい。彼に頭を撫でられたい。彼に抱きしめてもらいたい。彼に抱いてもらいたい。
 イメージが次々と頭の奥から溢れ出して、暗闇を埋め尽くす。
 ゆっくりと陰核を擦っていた指先の動きを、背筋を震わせる快楽の高まりに応じて少しずつ激しくしていく。
 全身が火照り、意識が白濁に飲み込まれていく。タバサは意味不明な高い嬌声を発しながら、背筋を反り返らせた。
 絶頂の余韻は静かに引いていき、後に残ったのはシーツと下半身を汚す愛液と、激しい自己嫌悪の情だけ。
 タバサは仰向けに横たわったまま、目を腕で覆って泣き出した。自分が情けなくて仕方がなかった。
(誰だって隠しておきたいことぐらいあるし、ああいうことしたくなるときだってあるって)
 彼の声が脳裏に蘇り、吐息を零させるような甘い感情が胸を満たす。
 その言葉に慰めを見出している自分が、また腹立たしかった。

584 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:15:08 ID:+EkAIKRj

 いつの頃から才人についてあんなことを願い、想像するようになったのかは、自分でもよく覚えていない。
 土くれのフーケが起こした事件のときからだったかもしれないし、アルビオンへの旅に同行したときからかもしれない。
 気がつくと、彼の姿を目で追っている自分がいた。
 気がつくと、自慰のときに彼に抱かれることばかり考えている自分がいた。
 しかし、その願いが叶わないものであることは、自分でもよく分かっていた。
 彼がルイズのことを心の底から好いているのは端から見ていてもよく分かったし、
 なによりも、日常的にこんなことをしていると知ったら、彼は自分を嫌悪するだろうと思っていたからだ。
 そうやって諦めていられればよかった。
 そうすれば、いつも取り繕っている無表情の下に、彼に抱かれたいという願望を隠したままにしておけた。
 だが、今日の昼間、外を歩いているときに不意に性衝動が襲ってきて、
 部屋に戻ることも出来ずに仕方なく隠れて自慰をしていたのを彼に見つかったことで、全てが駄目になってしまった。
 いや、その時点でも、まだ取り返しはついたのかもしれない。
 彼が他人の秘密を言いふらすような人間でないことは、よく知っていた。
 だから、いつものような無表情を作って、淡々と口止めして別れればよかったのだ。
 実際、そうしようともした。
 だが、土下座して詫びる彼を見下ろしている内に、無表情を取り繕うことなどできなくなってしまっていた。
 この後、彼が自分を見るたびに嫌悪感の入り混じった軽蔑の表情を浮かべて目をそらすのだと想像すると、
 胸が締め付けられたように痛み、堪えようもない涙が目から溢れ出して止まらなくなってしまったのだ。
 そんなタバサに、彼は黙っていてくれるとを約束してくれた。
 それだけでなく、「お前がやっているのは別におかしなことじゃない」と、優しく慰めてもくれたのだ。
 その言葉が本当だとは、とても思えなかった。
 いや、それが優しい嘘だと思ったからこそ、タバサの胸ははちきれんばかりの喜びで一杯になってしまった。
 そこでお礼だけ言って去るべきだったのだ。それが、最後の一線だった。
 しかしタバサは、理性ではそう考えながらも、誤解を解きたいなどと考えてしまった。
 自分が最初から淫乱な女だったと思われたくない、と。
 その願望をどうしても抑えることが出来ずに、背中の宝玉のことや、母親のことまで話してしまっていた。
 そうやって自然に彼と話しているのがあまりにも嬉しくて、そろそろ帰らなくてはと思いながら、ついずるずるとあの場にい続けてしまった。
 その結果が、あれだ。
 自分がいやらしい欲望に負けてしまったせいで、全てが台無しになった。
 そして、その罪悪感に苛まれながら、まだこんなことをしている。
 つくづく、自分が嫌になる。

585 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:15:40 ID:+EkAIKRj

(馬鹿なシャルロット)
 タバサは心の中で自分を嘲笑った。
(お前の好きな男の人にはね、もう愛している人がいるのよ)
 脳裏に、二人の人間の姿が浮かぶ。
 一人は自分が好きな黒髪の少年で、もう一人は、その少年が愛している人。
 桃色がかったブロンドの少女と黒髪の少年が並んでいるところを想像するだけで、切り裂かれるような痛みが胸に走る。
 今はただひたすら、その痛みに耐えていたかった。
 それが、絶対にしてはならないことをしてしまった自分に対する、罰のようにすら思えた。
 そのとき、タバサはふと、視界の隅で窓ガラスが揺れていることに気がついた。
 何かと思って目を向けると、誰かが外から窓を叩いている。
 声が外に漏れないようにと、部屋の周囲に音を遮断するサイレントの魔法を張り巡らせていたために、気がつかなかったのだ。
 そしてタバサは、窓を叩いている人物が誰かを知って、目を見開いた。
 それは、タバサが心を乱す根本の原因になっている人物、平賀才人その人だった。
(ここ、五階なのに)
 混乱しながらも、こんなところから落ちては大変だと思い、タバサは慌てて窓を開ける。
 才人は窓枠に片手でぶら下がり、もう一方の手で窓を叩いていた。何故か、赤い顔でそっぽを向いている。
(どうしてそんなところにいるの。落ちたらどうするの)
 そんな風に怒鳴ったつもりだったのだが、サイレントの範囲内に入ってしまったらしく、声は音にならなかった。
 こんな面倒なものをかけたのは一体誰だと憤慨しつつ、タバサは魔法を解除する。
 そして、まだそっぽを向いたままの才人に向かって叫んだ。
「どうしてそんなところにいるの」
「いや、多分正面から行ってもいれてくれなさそうだなと思ってさ」
 才人は顔を背けたまま答える。つまり、こちらから登場すれば部屋に入れざるを得なくなると計算したものらしい。
(ずるい)
 タバサは唇を噛んだ。実際、いつまでも才人をそのままにしておく訳にはいかないのだ。
「分かった。早く入って」
 タバサは才人の腕を取って部屋の中に引き入れようとしたが、何故か才人は慌ててそれを拒んだ。
「いや、ちょっと待ってくれよお前」
「なにが」
 両腕で才人の右手を引っ張っていたタバサは、苛立ちながら問う。すると才人は、相変わらず明後日の方向を向いたまま、言いにくそうに言った。
「お前、服」
 言われて初めて、タバサは自分がほとんど裸に近い状態であることを思い出した。
 小さな悲鳴を上げて両手で胸と股を隠すと、才人もまた悲鳴を上げた。片手の支えを失って落下しかけたのだ。
「大丈夫」
 大事な部分を隠したままタバサが問いかけると、才人は顔を出さずに言った。
「とりあえず、服着てくれ」
 タバサは顔から火が出る思いで部屋の中に引っ込んだ。

586 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:16:22 ID:+EkAIKRj

 夜着を着直したタバサが、才人を部屋に招き入れて数分。
 ベッドの傍に椅子を持ってきて座った才人は、どうにも居心地の悪い気分でタバサの部屋の中を見回していた。
 キュルケから、大方の事情は聞き出していた。
 タバサがガリアの王弟の娘であること。
 その王弟、つまりタバサの父親は、政争に巻き込まれて命を落としていること。
 さらに、たった一人の肉親となってしまったタバサの母親ですらも、水魔法の毒によって心を狂わされてしまったこと。
 そういった事実を再確認するように心の中に並べていると、才人の胸に怒りが湧きあがってきた。
(許せねえ)
 眉根を寄せ、膝に置いた拳を握り締める。
 タバサを助けてやりたいという思いは、才人の中でますます強くなりつつあった。
 今まで聞いた話をまとめてみると、おそらくミョズニトニルンは今のガリアの無能王を支持する一派に属している。
 あんな宝玉を背中に埋め込まれているぐらいだから、タバサとてミョズニトニルンの存在は認知しているはずだ。
 ならば、敵の居場所も知っているに違いない。
 そういった諸々をタバサから直接聞き出すために、才人はこの部屋に来たのだ。
 だが、いざこうしてタバサと向き合ってみると、どう話を切り出していいものだかよく分からない。
(ひょっとしたら、宝玉埋め込まれたときにひどいことされたかもしれねえし、
 それに、両親のこととかだってあまり思い出したくはないだろうしな)
 タバサの心を大切にしてやりたいと思えば思うほどに、何からどう聞いていいものか分からなくなっていく。
 そのタバサは、シーツの乱れたベッドに座って俯いている。暗くても分かるぐらい、沈んだ顔で何やら考えている様子である。
(タイミング、悪かったなあ)
 才人は心の中で後悔のため息を吐く。寝ているかもしれないとは思ったが、まさか自慰しているとは思いもしなかったのである。
 タバサが何も言わないのは、そのことを恥ずかしがっているからなのかもしれない。
 才人がそんな風に考えたとき、不意にタバサが口を開いた。
「ごめんなさい」
 出てきた言葉がいきなりこれである。才人は困惑して聞き返した。
「何で謝るの」
「だって」
 タバサは泣きそうな声で続けた。
「サイト、部屋を追い出されたんでしょう」
 才人は目を剥いた。何がどうなったらそんな話になるのか。
「さっき、わたしがあんなことして、それをルイズに見られたから」
「いや、あの、シャルロット」
「これでサイトがルイズに嫌われたら、わたし、わたし」
 後悔と自己嫌悪に満ちた言葉を吐き出しながら、タバサは泣き出してしまった。
 才人は慌てて立ち上がり、シャルロットの隣に腰掛けると、彼女の肩を抱いて必死に言い聞かせ始めた。
「違うよ、そんなことにはなってない」
「嘘」
「本当だって」
「でもサイト、怒ってた。怖い顔で、拳を握り締めて」
 瞳に涙を滲ませて、タバサが言う。
 要するに、タバサが喋らなかったのは、才人が自分のせいで部屋を追い出されて、
 そのことを怒っているからだと思っていたかららしい。

587 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:16:55 ID:+EkAIKRj

 才人はタバサに笑いかけた。
「そりゃ勘違いだ。本当に、見られてはいないよ」
「でも」
 タバサが涙に濡れた顔を上げる。ここまで言っても、まだ自分のせいで才人が迷惑していると思っているらしい。
(なんで)
 才人はやりきれない思いで奥歯を噛み締める。
(なんでそんなに、自分を責めるんだ)
 仮に本当にあの場をルイズに見られて部屋から追い出されていたとしても、やはり才人は怒りはしなかっただろうと思う。
 タバサがあんな風になってしまったのは背中に埋め込まれた宝玉のせいだし、あのときタバサを受け入れたのは、他ならぬ才人自身なのだ。
 だから、タバサには何の責任もない。むしろ、被害者と言ってもいいはずなのだ。
「本当に違うんだって」
 才人は必死の思いでそう言った。どう言ったら納得してくれるか分からないから、とにかく何度も言い続けるしかない。
「ルイズに見られたなんてことはない。大体そうなったら、俺が五体満足でここにいられる訳ないだろ」
 そう言うと、タバサは顎に手をやって「そうかも」と呟いた。こんな理由で納得されてしまう自分の立場が、少し嫌ではある。
「よかった」
 そう言って、タバサはようやく笑顔を見せてくれた。
 それは、いつもの冷たい無表情とは比べ物にならないほど年相応に見える、自然な表情だった。
(笑えばこんなに可愛い子なのに)
 才人の胸に苦い痛みが広がっていく。
(それに、凄くいい子じゃないか)
 王弟の娘と言えば、下手をすればルイズよりも格が高い大貴族の令嬢である。
 さらに、今までは無口に無表情だったから冷たい奴だと思い込んでいたが、よくよく思い返してみると、
 タバサはキュルケの無茶な要求にもちゃんと応えてやっていたと思う。友達思いなのだろう。
 友達思いと言えば、さっきあそこまで才人に対して責任を感じていたことだってそうだ。
 そして、今目の前にある、屈託のない笑顔。
 それら全てが、タバサが幸せな環境で育ってきたことの証であるように思えた。
 そんな少女が、今や両親からも引き離されて、一人卑劣な仕打ちに苦しんでいるのだ。
(やっぱり、この子をこのままにしておく訳にはいかねえ。たとえ、今シャルロットを傷つけることになるとしても)
 才人は心の中で決意を固めると、ベッドに腰掛けたまま体の向きを変えた。
「シャルロット」
「なに」
 きょとんとした顔で、タバサが問い返してくる。才人は彼女の瞳を正面から覗き込みながら、慎重に言った。
「俺は確かに怒ってたけど、あれはお前に対して怒ってたんじゃないんだ」
 才人が何か重要な話をしようとしていることに気付いたらしい。タバサも、息を詰めて才人を見返してきた。
「俺の怒りは、お前の敵に対して向けられているんだ」
「わたしの、敵」
 タバサの顔が強張る。才人は頷いた。
「そうだよ、シャルロット。いや」
 才人は一度言葉を切って大きく息を吸い込み、力を込めて彼女の名前を言い直した。
「シャルロット・エレーヌ・オルレアン」

588 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:17:31 ID:+EkAIKRj

 タバサの瞳が一度大きく見開かれ、それからゆっくりと元の大きさに戻された。
「キュルケ」
 いつもの無表情で、一言、そう問いかけてくる。才人は頷いた。
「ああ。だけど、キュルケを責めないでやってくれ。俺が無理に聞き出したんだから」
 タバサは小さく首を振る。
「キュルケが話したなら、きっとサイトを信用したってことだから」
 それから俯いて何事かを考え始めたタバサに、才人はぐっと顔を近づける。
「シャルロット。俺に、お前の敵のことを教えてくれ」
 それだけで、十分意図が伝わったのだろう。タバサはゆっくりと才人の瞳を見返した。
「どうして」
「そいつらの手から、お前を救い出す」
 タバサは首を振った。
「無理」
「できるさ」
「できない」
「やってやる」
 二人はしばらく無言で睨みあった。タバサは絶対に教えないという意志、才人は絶対に聞き出してやるという意志を瞳に込めて。
 数分ほども経って、最初に折れたのはタバサの方だった。ため息を吐いて、瞳をそらす。
「分かった」
「教えてくれるのか」
 自分を頼る気になってくれたのかと、才人は喜びに顔を輝かせたが、タバサの方は少々不機嫌そうに唇を尖らせている。
「教えないと分からないみたいだから」
「信用ねえなあ」
 才人は笑ったが、タバサは顔を彼の方に向け、真剣な口調で言ってきた。
「違う。サイトが強いのは、わたしもよく知ってる」
「ああ」
「だけど、無理」
「どうして」
「あの女は」
 そう言った拍子に何かを思い出したのか、タバサは一度唇を噛んだ。
「あの女は、異質」
「どういう意味なんだ」
 あの女、という単語にミョズニトニルンの影を見ながら、才人は問う。
「聞けば分かる」
 それだけ言うと、タバサは目を細くして、静かな声で自分の過去を語り始めた。

589 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:19:00 ID:+EkAIKRj

 タバサの両親は、才人の想像どおりとても優しい人たちだったらしい。
 父親が王家の血筋に連なる大貴族だったこともあって、ほとんど連日連夜公務や晩餐会への出席などがあり、タバサを構ってやれる暇もほとんどなかった。
 それでも彼らは自分たちの少ない自由時間をほとんど全てタバサと共に過ごすことに当ててくれたため、
 タバサは幼いころそれほど寂しさを感じたことはなかったそうだ。
 その、幸福に満ち足りた幼年時代は、ある日突然終わりを告げる。
 前王没後間もない頃に開催された狩猟会に出席したタバサの父親が、毒矢に胸を射抜かれたのである。
「妙な話だった」
 タバサはかすかに眉根を寄せながら言う。
「あの狩猟会に、父様は信頼していた家来を数人連れて参加していた。なのに、誰も犯人の姿を見ていない」
 その上、何故か調査もすぐに打ち切られてしまったという。
 毒矢を撃ったという平民が一人捕縛されてろくに尋問すらされないまま処刑されたが、それがでっち上げであることは誰の目にも明らかだった。
 こうして、ガリア王国は有力な王位継承者の一人を失った。
 王位は、今や前王の遺児の中で唯一人の生き残りとなった、ジョゼフという名の男が継ぐことになった。
 タバサと母親は、その当時オルレアン公を失った悲しみに捕われていたため、ジョゼフが王位を継ぐことに反対する気力すらなかった。
 何よりも、タバサの母は娘であるタバサに害が及ぶことを恐れたため、しばらく宮廷からは遠ざかろうとすら考えていたのである。
「なのに」
 タバサの眉間の皺が深くなった。ベッドの上に置かれた拳がより強く握られ、シーツに歪な波形を刻む。
「あいつは、母様を」
 絞り出すようにして吐き出された言葉に、才人は違和感を覚えた。
 さらに話に意識を集中する才人の前で、タバサは感情を押し殺した淡々とした口調で説明を続ける。
 貴族たちの卑劣な策略により、タバサは母親すらも失って一人ぼっちになってしまった。
 使用人たちも不思議なほどあっさりと去っていき、昔は使用人や家来の騎士たちで賑わっていたオルレアン家の邸宅も、
 幼いタバサと、精神を病んだ母親と、彼女を守る老僕一人が暮らす寂しい場所に成り果ててしまったのだ。
 今や娘のことすら分からなくなってしまった母親の隣で、タバサはただ苦痛だけの日々を送っていた。
 愛しい人を理不尽な理由で奪われた人間は、その精神的苦痛から逃れようとする意味合いもあって、大抵復讐に走るものである。
 タバサも、その例に漏れなかった。
 彼女は事件から間もないころ、単身宮廷に赴いて現王家への忠誠を誓ったのである。
 無論、その真の目的は、宮廷に潜り込み、一連の事件の黒幕を見つけ出してその息の根を止めることであった。

590 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:21:20 ID:+EkAIKRj

「だけど、現実は甘くなかった」
 タバサは深く息を吐き出す。
「わたしはジョゼフ派の貴族たちに警戒されて、面倒な任務ばかり押し付けられることになった」
 そして、宮廷に潜り込むどころか、厄介払いとばかりに他国への留学生として送り出され、今に至るのだと。
 そう語り終えた後に、タバサは才人の瞳をじっと覗き込んで、厳しい声で付け加えた。
「分かったでしょう。わたしの敵は、ガリアの中枢に居座るたくさんの貴族たち。軍隊だって動かせるし、彼ら自身も強力なメイジばかり。
 サイト一人に協力してもらってもどうにもならない」
 突き放すような冷淡な口調だった。
 だが、その言葉を額面どおりに受け取るには、今の才人はタバサのことを知りすぎていた。
「だから」
「だから、わたしのことは放っておいてほしい、か」
 タバサの声を遮って、才人が言葉を継ぐ。
「あのなシャルロット、そんな事情知っちまった上で知らん振りできるほど、俺は演技がうまくねえんだ」
「そんなの知らない」
「なら今知っとけ。それとお前、まだ俺に迷惑かけるとか思ってるだろ」
「思ってない」
「いーや、思ってるね。お前がそういう奴だっての、今日だけでよく分かったからな」
 鼻先に指を突きつけてそう言ってやると、タバサはわずかに顔をしかめた。才人は笑う。
「なあシャルロット。俺はこの世界に来て、何でだかガンダールヴなんてとんでもねえ力を手に入れちまった。
 最初は訳が分かんなかったけど、最近になってようやっと分かった。
 これは、誰かの力になりたいっていう、俺の意志を助けてくれるものなんだって」
 左手のルーンを頭上にかざし、才人は目を細めた。
「俺は、お前を助けてやりたいって思う。力のあるなしに関係なくな。
 だから、これは俺が勝手に思ってることなんだ。迷惑だとかなんとか、お前は少しも気にしなくていいんだぜ」
 気楽な調子の言葉を、タバサは俯いて聞いていた。やがて、聞こえるか聞こえないかぐらいの、小さなため息を吐き出した。
「自分勝手」
 拗ねたような声。
「おう。こういうことならいくらだって自己中になるぜ、俺は」
 才人は唇をひん曲げて笑う。
「空気読めない人」
 恨みがましい声に、少しだけ涙が混じっている。
「ルイズほどじゃないね」
 それに気付かない振りをして、才人は冗談っぽく肩をすくめた。
「人の気持ちも知らないで」
 押し殺したような声で言い、タバサは俯いたまま唇を噛み締める。才人は彼女の小さな肩に手を置いた。
「それは違うよ、シャルロット。俺はお前の本当の気持ちが分かるから、こうやってここに来たんだ」

591 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:22:24 ID:+EkAIKRj

 タバサの肩の震えが、手の平を通じて伝わってくる。
「本当は苦しいんだろ。悔しいんだろ。今すぐにでも、両親の仇を討ってやりたいんだろ。だったら、俺の力を役に立ててくれ。
 俺は剣を振るうことしかできないけど、そうやってシャルロットを助けてやることが出来るんだ。
 お前一人じゃ無理でも、二人なら何か方法があるかもしれないだろ」
「止めて」
 タバサは才人の肩を振り払って叫んだ。感情を露わにした、激しい泣き声だった。
 タバサはベッドから立ち上がり、才人に背を向けた。部屋の外に飛び出していきそうな勢いに、
 才人も慌てて立ち上がりかけたが、タバサは部屋の真ん中辺りでぴたりと止まった。
 こちらに背を向けたまま、タバサは消え入りそうな声で言ってくる。
「わたしも、考えたことある。この人が一緒に戦ってくれたら、どんなに心強いだろうって」
「そうだろ。だったら」
「でも駄目」
 才人の声を遮ったタバサの拳は、真っ白になるほど強く握り締められていた。
「たった二人でどうにかできるほど、あいつは生易しい相手じゃない。
 最初から負けると分かってる無謀な戦いに、友達を巻き込むことなんてできない」
 タバサの背中が小さく震え出す。才人は、心の中でため息を吐いた。
(ああ、やっぱりこの子は、そういう覚悟で戦い続けてきたんだな)
 父親を殺され、母親を狂わされ、ただ復讐だけに縋って生きてきた少女。
 死んでも構わない。たとえ差し違えてでも仇を討ってみせるという悲壮な覚悟が、か細い背中から滲み出ているようだった。
 才人は静かに立ち上がり、小さく震えるタバサの肩を後ろからそっと抱きしめた。
 今は、そうするのが一番いい行動に思えた。タバサも抵抗せず、才人の抱擁を受け入れる。
 二人はしばらく、そうやって無言で立ち尽くしていた。
 腕の中のタバサの体はまだ少し硬いままだ。抱擁はともかく、自分の手助けを受けるつもりはやはりないらしい。
 だが、もしもここでタバサを助けなければ、一体どうなるだろう。
 これからも、ほとんど見返りが期待できない危険な任務を無遠慮に押し付けられ、
 家に帰っても迎えてくれる家族はおらず、仮に復讐が果たせたとしても、その先に待つものは孤独な死しかない。
 そんな、何の喜びもない生活を、こんな小さな体で何年も続けていくのだ。
(駄目だ。それだけは、絶対に駄目だ)
 タバサを抱きしめる両腕に力を込め、才人は強く強く目を瞑る。
 あと一つだけ、やれることがある。
 タバサ自身の口から本当の気持ちを聞き出せるかもしれない、たった一つの問いが。
(だけど、それは確実にこの子を傷つけちまう。俺にそんな権利があるのか)
 迷ったのは、たった数瞬の間だけだった。
 この部屋の窓を叩いたときから、既に覚悟は決まっていたのだから。
「シャルロット」
 心の悲鳴を敢えて無視しながら、才人は努めて平坦な口調で問いかける。
「まだ一つだけ、俺に聞かせてくれてないことがあるよな」
 彼女自身もその問いを恐れていたのだろう。腕の中のタバサの体が、一際大きく震えた。
 才人は逃がさないと宣言するかのように、タバサの体をさらに強く抱きしめる。
「お前が異質だと言った、女のこと」
 そして、躊躇いを振り切れるように、一息で言った。
「その宝玉を埋め込まれたときのことを」

592 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:23:08 ID:+EkAIKRj

 タバサから過去の事情を聞いていく中で、才人は何度か彼女の言葉に違和感を覚えていた。
 タバサの母親を狂わせた毒は、ジョゼフ派の貴族が仕込んだもの。キュルケはそう話していた。
 その黒幕が誰だか、キュルケはもちろん、彼女に打ち明けてくれたオルレアン家の執事ですら知らないのだ。
 だが、タバサはそのことを説明したとき、「あいつ」と言ったのだ。
 「あの女」ではないから、ミョズニトニルンのことではあるまい。
 「あいつ」とは、おそらくミョズニトニルンの主のことだ。
 タバサは、一連の事件の黒幕が誰なのか、知っているのだ。
 その人物こそが虚無の使い手であり、才人が倒すべき相手であるに違いない。
 そして、その人物の正体をタバサが初めて知ったのは、ミョズニトニルンに宝石を埋め込まれたとき以外にあり得ないのだ。

 才人がどういう意図でその質問をしたのか、頭のいいタバサはすぐに理解したらしい。
 彼女はしばらくの間躊躇うように沈黙を保っていたが、やがて無理矢理吐き出したような声で話し始めた。
「母様があんなことになってから、一ヶ月ぐらい経ったころ」
 その声音があまりにも苦痛に満ちていたため、才人は「やっぱりいい」と言いそうになった。
 しかし、結局止めなかった。ここで全てを聞いておかなければ、タバサはもう二度と何も打ち明けてくれないような気がしたのだ。
 新王に忠誠を誓うためという名目で宮廷に登城したタバサは、王座の前で新王であるジョゼフの前に跪き、彼に忠誠を誓うことを宣言した。
 このとき儀式を見ていたのは、当然ながら皆ジョゼフ派の貴族たちだった。
 彼らが皆一様に浮かべている薄ら笑いに怒りと屈辱を覚えながら、タバサが何とか宣誓の言葉を言い終えようとしていたとき、その女は現れた。
「真っ黒なローブで体を隠した、不気味な女だった」
 タバサがそう言うのを聞いて、才人は確信した。やはり、彼女に宝玉を埋め込んだのはミョズニトニルンだったのだ。
 突然の闖入者に驚いたのは、何故かタバサ一人だけだった。
 他の貴族たちは、その女が明らかに儀式の邪魔であることを知りながら、相変わらず薄ら笑いを浮かべて傍観しているだけだったという。
「おお、どうしたのだ、余のミューズ」
 王座に座った無能王が、嬉しそうに呼びかけるのを聞いて、タバサはようやくその女が王のお気に入りであることを悟った。
 だが、やはり儀式の邪魔であるのに変わりはない。
 それとも、この王は自分の都合で公の儀式を中断してもよいと思うほど、精神が病んでいるのだろうか。
 あれこれと考えるタバサに、女はゆっくりと近づいてきた。
 そのとき、背筋に震えが走ったのを、タバサは今でも覚えているという。

593 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:24:18 ID:+EkAIKRj

 女は口元に薄い笑みを、瞳に嗜虐的な色を浮かべて数秒もタバサのことを見下ろしたあと、不意に王座を振り返って提案した。
「シャルロットお嬢様は、ジョゼフ様に心からの忠誠を誓うと仰られております。
 しかし、陛下の側近である身としては、その言葉が偽りでないことを証明して頂きたいのですが」
「おおなるほど、確かにそれはいい考えだ。しかしどうするのだ、余のミューズよ」
 話が予期せぬ方向に転がっていくことにタバサは困惑したが、王の言葉を遮れるはずがない。
「それでは、少し背中を見せて頂けますか、シャルロットお嬢様」
 だから、黒ローブの女がそう言い出したときも、素直に従うしかなかった。
 多くの人が見ている中で礼服の背中をはだけるのは、さすがに少し躊躇いがあった。
 しかし、これも復讐のためだと覚悟を決めて服を下ろした瞬間、タバサの背中に焼けるような痛みが走った。
 焼きごてでも押し付けられたのかと想像したが、違った。
 痛みは一瞬後には止み、代わりにそれまで感じたことのなかった異様な欲求が、全身を駆け巡ったのだ。
「それが、この宝玉が効果を発揮した、最初の瞬間」
 タバサは震える声でそう言う。その後どうなったのかは、いちいち聞かなくても分かる。
 昂ぶる性衝動に耐え切れなくなったタバサは、王座の間から退出することを懇願した。
 しかし、ジョゼフはそんなタバサを楽しげに見下ろして「まだ儀式は終わっておらぬぞ」と言うばかり。
 そのくせ、一向に儀式を再開しようとしなかった。
 ただ、虫をいたぶる子供のような目つきで、苦しむタバサをじっと見下ろしていたのだ。
 そうして十数分経ったころ、ほとんど暴力のようなレベルにまで高まった性衝動に耐え切れなくなったタバサは、その場で自慰を始めてしまったのだ。
 遠いところから聞こえてくる観衆の嘲笑、手を叩いて喜ぶジョゼフの声、その傍らで嗜虐的な笑みを浮かべる黒ローブの女。
 意識が白濁に飲み込まれようとする中、タバサは必死に自分の生涯の敵の姿を脳に焼き付けたのだった。
「それで」
 もうこんな話は終わりにしたいという内心の欲求を無理矢理抑えつけて、才人はなおも問う。
「その後、どうなったんだ」
 最低な問いに、吐き気が出そうだった。そんなこと、いちいち聞かずとも予想はつくというのに。
 だが、返ってきた答えは才人の予想を遥かに超えるほど胸糞の悪いものだった。
「どうもされなかった」
「どういうことだよ」
 意味が分からずに才人が問い返すと、タバサはいよいよ耐え切れないというように顔を歪めながら、途切れ途切れに話を続けた。

594 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:25:07 ID:+EkAIKRj

 公の儀式の最中に、それも王座の間で痴態を演じたとして、タバサは地下牢に押し込められた。
 こうやって自分を処刑するつもりだったのかと、タバサはそのとき死すら覚悟したという。
 しかし、いつまで経っても判決は下らず、ただ悪戯に時だけが過ぎていった。
 その間も宝玉は効果を発揮し続け、タバサは日に数度ほど、抑え切れない性衝動に悩まされることになったという。
「そのタイミングを見計らうように、あいつはいつも数人の家来を引き連れてやってきた」
 才人の背筋を悪寒が這い回った。そんな状態のタバサの前に、男を連れてくるなどとは。
 快楽への誘惑に必死で耐えているタバサを、ジョゼフは上機嫌で見下ろしたという。
 そして、看守に命じて鍵を開けさせ、連れてきた男たちを全員牢に入らせたあと、また鍵を閉める。
「わたしは、そのたびに、耐えられなくなって、その男たちに」
「もういい」
 しゃくりあげながら告白を続けるタバサの声を、才人は大声で遮った。
 腕の中で、タバサが一際大きく体を震わせた。
 そんな彼女の体を、才人は力を込めて抱きしめる。
「辛かったな」
 タバサは返事をしない。
「よく頑張った」
 固く閉じられた唇の隙間から、押し殺された小さな声が漏れている。
「もう、我慢してなくていいんだぞ」
 大声で泣き出しそうになるのを必死で堪えているようだった。
「本当のことを言えよ、シャルロット」
 タバサの頭を撫でてやりながら、才人は言う。
「お前は頭のいい子だ。さっき話してたときだって、『あいつ』なんて言い方したら、
 お前が黒幕について知ってるって、俺が気付いちまうことは分かってたはずだ」
 にも関わらず、タバサは「あいつ」という言葉を使ったのだ。
 果たして、それが意識的なものだったのか無意識的なものだったのかは分からないし、今はどうでもいい。
 重要なのは、ただ一つの真実だけだ。
「シャルロット」
 才人はタバサの両肩をつかみ、彼女の体をこちらに向かせた。
 激しくしゃくりあげながら、それでも泣き声だけは漏らさずに、タバサは夜着の裾を強く握り締めたまま、俯いて肩を震わせている。
 その痛々しい姿を見ていると、才人自身の目にも涙が溢れてきて、止まらなくなった。
「もういいんだ、シャルロット」
 涙で声を詰まらせながら、才人は必死にシャルロットに呼びかける。
「無理するな。一人で背負い込むな。本当は苦しいんだろ。助けてほしいんだろ。
 頼むから、俺にお前のこと助けさせてくれよ。お前がそうやって一人で苦しんでるの、見てられないんだよ」
 タバサはゆっくりと面を上げた。小さな可愛らしい顔は真っ赤に染まり、涙と鼻水で汚れきっていた。

595 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:25:40 ID:+EkAIKRj

「シャルロット」
 もう一度、強く呼びかける。
 タバサの唇が、戦慄きながら少しずつ開いていく。才人は無理矢理口元に笑みを浮かべた。
「そうだ、言え、言っちまえ。苦しいことも辛いことも、全部この場で吐き出しちまえ」
 タバサは数回口を開いたり閉じたりした。その間、喉に引っかかったような小さな声が、わずかに聞こえてきていた。
「苦しい」
 ぐしゃぐしゃに顔を歪ませながら、タバサはようやくその言葉を絞り出した。その後は、堰を切ったように、次々と涙声が飛び出してきた。
「苦しいよ」
「そうか、苦しいか。それだけか」
 才人はタバサの両肩に手を置いて、ゆっくりと問いかける。
 タバサはとめどなく涙を流し、しゃくりあげながら、苦しそうに声を出す。
「辛い」
 タバサが才人の腰に手を回してきた。
「痛い」
 タバサが才人の胸に顔を埋めた。
「寂しい」
 タバサは才人の顔を見上げて、消え入りそうなほどにか細い声で、言った。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
 二人は、涙を流し続けたまま数秒も見詰め合った。
 涙に滲む視界の中で、タバサがぎゅっと目を瞑った。
 目の端に残っていた涙の粒が、押し出されるようにしてタバサの頬を滑り落ちる。
 そして、タバサの小さな唇が、ついにその言葉を紡ぎ出した。
「助けて」
 才人は大きく息を吸い込みながら、タバサの小さな体を抱きしめた。
 全身にタバサの震えが伝わってくるのを感じながら、力強く頷く。
「分かった」
 力を失ったタバサの体が床に落ちないように抱きとめながら、才人は強く奥歯を噛み締める。
(こんな)
 泣きじゃくるタバサの声が、鼓膜を静かに震わせている。
(こんなひどいことが、許されていいはずがねえ)
 才人はタバサを抱きとめる両腕に力を込めながら、窓の向こうの明け行く空を、睨みつけるように見据えた。
(ミョズニルトルン、無能王ジョゼフ)
 その名前を思い浮かべるだけで、心の中に嵐が吹き荒れるようだった。
(必ず殺してやる。俺がこの手で殺してやるぞ)
 部屋に差し込む薄明かりの中、タバサの泣き声だけがしばらくの間響き続けていた。

596 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/05(火) 02:26:22 ID:+EkAIKRj

(さて、相棒はどこまで行ったのかね)
 明け方になっても戻らない才人を、デルフリンガーは少しだけ気にかけていた。
 さすがにこのまま戻らないということはないだろうが、一体どこまで散歩に行っているのかという気分にはなる。
(もうすぐこの娘ッ子も目を覚ますんだ。そのときお前さんがいてくれなきゃ、また荒れるぜ)
 そしてまた自分は溶かされそうになるわけだ、とデルフリンガーは内心でため息を吐く。
 そのとき、不意に部屋のドアが静かに開かれた。
「おい遅いよ相」
 少し嫌味な口調で才人を出迎えかけたデルフリンガーは、途中で言葉を切った。
 部屋の外に佇む才人の様子は、昨夜出かけたときとはまるで違っていた。
 黒い瞳は獣のようにぎらぎらと輝き、眉間には傷のように深い縦皺がいくつも刻まれている。
 拳は今にも人に殴りかかりそうなほどに強く握り締められているし、
 強張った全身からは、陽炎が立ち昇っているかのような錯覚すら覚える。
 何も言えなくなってしまったデルフリンガーに、才人はゆっくりと近づいてきた。
 そして、朝焼けの光を浴びて輝く刀身を見下ろしながら、怒りに満ちた声で呟く。
「デルフ」
「なんだね」
「俺は決めた」
「何を」
「ミョズニルトルンとジョゼフを、殺す」
 一語一語に呪詛が込められているようなその声に、もはや迷いは一片も見られない。
 デルフリンガーは、驚嘆と共に理解した。
 平賀才人は、剣になったのだ。
 躊躇も容赦も迷いもなく、ただ敵を斬るためにだけ存在する、一振りの剣。
 怒りの槌で鍛えられたその刃に、断てぬものなど存在しない。
(こりゃ、マジでいけるかもしれねえな)
 人ならぬデルフリンガーの身が、戦慄に大きく打ち震えた。
223 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:40:06 ID:l5m3grWe

 真の意味で始業の鐘を聞くのは実に久方ぶりだと、『疾風』のギトーは思った。
 ヴェストリの広場に居並ぶ生徒たちを見回しながら、重々しく一言言う。
「では授業を始める」
 この台詞を口にするのも、やはり久しぶりだ。当然である。
 ギトーは教師という職業にありながら、つい先日まで戦争に参加していたのだ。
 アルビオンとの戦争が終わって駆りだされていた男子生徒たちも帰還し、ようやくちらほらとではあるが再開できる授業も出てきた。
 ギトーの受け持っている風魔法の講義も、そんな授業の中の一つであった。
(よく生きていられたものだ)
 ギトーはふと思う。
 彼は、戦争の終盤突如として反乱が起きた際、最初に吹き飛ばされた宿屋のすぐそばの建物の中にいたのである。
 飛び交う銃弾を風魔法の結界で逸らしながら、命からがら生き延びた訳だった。
 日頃から風系統こそ最強だと標榜している彼ではあったが、さすがに迫りくる敵軍に突撃してそれを証明する気にはなれなかったのだ。
(幸運だったな)
 しみじみと思ったあと、ふと広場の向こうに聳え立つ火の塔の方に目を向ける。
 その根元の辺りに、今にも崩れそうな掘っ立て小屋のようなものがある。
 今は亡き、コルベールの研究室であった。
(戦争に参加した私が生きていて、ミスタ・コルベールが死んでいるとはな)
 内心でため息を吐く。
 コルベールは、アルビオンとの戦争中に手薄になった魔法学院が襲撃された際、生徒たちを賊から守るために死亡したのだという。
 昔から間抜けな奴だとコルベールを笑っていたギトーだったが、今となってはそんな風にしていた自分が恥ずかしく感じられる。
 前までは気難しいと恐れられていたが、今なら亡きコルベールを見習って、少しは生徒に優しくなれそうな気がするギトーなのである。
 ギトーはふと我に返った。最初の一言を言ったきり何も言わない教師を、生徒たちが不思議そうな顔で見つめている。
 ギトーは気を取り直して一つ咳払いをして、自分の後ろに立ち並ぶ藁人形を手で指し示した。
「これは訓練用の藁人形だ。本日は、この人形に向かって風魔法を撃ってもらう」
 学院の倉庫の奥から引っ張り出してきた人形を見て、ギトーは感慨深い気持ちで数度頷く。
 訓練内容は地面に突き立てられたこの藁人形に、一定以上離れたところから風魔法をぶつけて倒すという実に単純なものである。
 風魔法が得意な者ならば鼻歌混じりに達成できる簡単な訓練だが、苦手な者はそうはいかない。
 うまく風が出せても藁人形に当たる前に拡散してしまったり、
 当たっても威力が弱すぎて藁人形を倒せなかったり、見当違いの方向に飛んで藁人形に当たらなかったり、など。
(懐かしいな)
 ギトーは思い出す。
 ずっと昔、魔法学院に入りたててでまだ上手く魔法が使えなかった頃、ギトーはなかなかこの訓練を成功させることが出来なかった。
 夕暮れになって他のクラスメイトが全員帰ってしまう時刻になっても、ギトーはまだ藁人形に向かって魔法を撃ち続けていたのである。
 自信を喪失するギトーに、担当の教師はずっと付き添っていてくれた。
 そして、ゆっくりとした口調で、風系統の特徴について詳しく解説してくれたのである。
 その教師への憧れが、ギトーが教師になった理由の大半を占めていた。
(だが、私は慢心してそれを忘れていた。愚かなことだ)
 コルベールの死に様を聞いて、ギトーは深く内省したのである。
 そして、出来の悪い生徒でもついてこれるような授業をしようと誓って、昨日この藁人形を引っ張り出してきた訳だった。
(確か、このクラスには特別出来の悪い生徒が一人いたはずだな)
 ギトーは立ち並ぶ生徒たちの列を見回し、桃色がかったブロンドの少女を見つけた。
 『ゼロ』のルイズである。非常な努力家という評判に反して、魔法の成功率はほとんどゼロに近いという何とも気の毒な少女であった。

224 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:40:56 ID:l5m3grWe

(よし、今日はとことん彼女に付き合ってやろう。そして初歩の初歩でもいいから、必ず風魔法を習得させてやるのだ)
 ギトーの胸の奥に、静かな情熱が蘇りつつあった。早口に説明を終えて、ギトーは首を巡らせる。
「さて、まず誰か一人にやってもらおうか」
 口ではそう言いつつ、まずはルイズの実力を見てやろうと決めているギトーは、ゆっくりと腕を上げてルイズを指差しかけた。
 しかしそれよりも早く、列の中から一本の腕が上がる。見ると、青い髪の小柄な少女が無表情で手を上げていた。
 もちろんルイズではない。ギトーの記憶が確かならば、タバサという変わった名前の生徒のはずだった。
 ドットメイジという触れ込みのくせに、ラインメイジよりも上手くフライの魔法を使ってみせたのを覚えている。
(確か、彼女は風魔法が得意だったはずだが)
 思わぬ事態に、ギトーは顔をしかめかけた。しかし、すぐに思い直す。
(先に、風魔法を得意とする者に手本を見せてもらった方がいいかもしれん)
 それに、もしも皆の前に立ったルイズが失敗してしまったら、彼女はますます自信を失ってしまうに違いない。
 ギトーはルイズに向けかけた指先を、タバサに向け直した。
「よし、ではお前がやってみろ。タバサだったな」
 タバサは一つ頷いて、無言のまま足早にクラスメイトたちの前に歩み出てくる。
「その辺りで止まれ。そこから藁人形に向かって好きな風魔法を撃ってみろ。なに、もし壊しても予備はあるから安心して」
 ギトーが言いかけたとき、不意にタバサが顔を上げた。その表情を見て、ギトーは眉をひそめる。
 前まであまり生徒に興味を抱かなかったギトーだから、タバサのこともそれほど詳しくは知らない。
 そんな彼ですらも、今のタバサには違和感を持った。
 確かに同世代の少女と比べて表情の変化に乏しい娘ではあったが、こんな風に触れただけで切れそうなほど鋭い目をしていただろうか。
 そんな、殺気すら感じさせる瞳で眼鏡の奥から見据えられて、ギトーは慌てて手を上げた。
「では、私が手を振り下ろしたら撃て」
 いいから早くしろと言わんばかりに、タバサが小さく頷く。背丈よりも長い杖を構えて詠唱を始める彼女を見て、ギトーは勢いよく手を振り下ろした。
 その瞬間、凄まじい突風が広場に吹き荒れた。
 あまりの風圧に目を閉じそうになりながら、ギトーはかろうじて薄目を開いて状況を把握しようとする。そして、ぎょっとした。
 ほとんどの生徒が風に吹き飛ばされるかしゃがみ込むかしている中で、一人タバサだけが真っ直ぐに立って、杖を前に向けている。
 嵐と表現してもいいほどの勢いで渦巻く風の中心は、ギトーが広場に並べて立てた藁人形だった。
 竜巻のように渦を巻く風の中で、藁人形が次々と舞い上げられ、細切れにされていく。
 よく見ると、後ろに寝かせてあった予備の藁人形まで巻き込まれていた。
 呆然とするギトーの前で風はじょじょに収まっていき、広場は再び元の静寂を取り戻した。
 後に残ったのはこわごわと立ち上がって周囲を見回す生徒たちと、相変わらず静かに立っているタバサ、そして切り刻まれた藁人形の残骸だけ。
 口を半開きにして何も言えないでいるギトーに、タバサは小さく問いかけてきた。
「人形はこれで全部」
 実際そのとおりなので、頷くしかない。するとタバサは「じゃあこれで授業は終わり」と呟き、踵を返して歩き始めた。
 確かにそのとおりだと言わんばかりに、他の生徒たちも歓声を上げて駆け出していく。
 その瞬間ようやく我に返って、ギトーは慌てて手を伸ばした。
「こら待てお前たち、まだ授業は終わっては」
 しかし、そう言った頃には生徒たちは既に広場から出て行ってしまっていた。伸ばされた手が空しく宙をつかむ。
 ギトーは歯軋りしながら地団太を踏んだ。
「人が折角やる気になっているのに、可愛くない奴等め」
 恨みをこめてそう呟いたとき、ギトーはふと気がついた。まだ一人だけ生徒が残っている。
 小太りな生徒だ。途方に暮れた表情で周囲を見回している。
「お前は確か、かぜっぴきのマリコルヌだったか」
「風上ですミスタ・ギトー」
 鼻息も荒く抗議するマリコルヌに、ギトーは笑顔で歩み寄った。
「そうか、風上のマリコルヌか。お前はやる気があるな。皆がサボってるのに一人だけ残るとは」
「いえ、ただ逃げるタイミングを逃しただけで」
「そんなにやる気があるお前を見込んで特別に個人授業をしてやる。ありがたく思え」
「いえいえ私もここまでで」
「逃げるなよ」
 つかまれた肩を思い切り握り締められて、マリコルヌは悲鳴を上げた。

225 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:41:27 ID:l5m3grWe

「なんか前より間抜けになってたわねえ、あの先生」
 完全に逃げおおせたと判断して、キュルケはほっと息を吐いた。少し前を、タバサが悠然と歩いている。
 少し足を速めてタバサの隣に並びながら、キュルケは含み笑いを漏らす。
「まさか、あなたがあんな愉快なことやらかしてくれるなんて思ってもみなかったわ。ねえ見た、あのときのギトーの顔」
 そんな風に話しかけるのだが、タバサは返事もしなければこちらを振り向きもしない。キュルケは眉をひそめた。
 返事がないのはいつものことだが、歩く速さを合わせようとすらしないとは。
 それどころか、タバサはますます足を速め、まるでこちらから離れようとしているかのようである。
「ねえ、どうしたのよタバサ」
「ついてこないで」
 足を止めないまま、タバサが冷たい声で言ってくる。こうもはっきり拒絶されるのは久しぶりで、キュルケは驚くよりも早く困惑してしまった。
「どうしたの急に」
「話した」
「なに」
「サイトに話した」
 それだけで説明が終わったと言わんばかりに、タバサは早足で歩き去ってしまった。
 立ち止まって小さな背中を見送りながら、キュルケは顎に手をやって考える。
「つまり、サイトに事情をばらしちゃったから怒ってると、こう言いたかった訳ね」
 まるでこちらから逃げるように去っていくタバサを見て、キュルケは小さく吹き出した。
「分かりにくいようでいて分かりやすい嘘を吐くわねあの子も」
 タバサの怒りの表現方法をよく知っているキュルケは、少し残念に思いながら肩を竦める。
「避けられてる、か。今回は本気で仲間にいれてくれないつもりなのね、タバサ」
 キュルケとしては無理にでも仲間に入りたいところだが、今回ばかりは遠慮しなければならないようだった。
 やはり自分に出来る形で助けになるしかないか、と考えたとき、キュルケは視界の片隅に見知った顔を二つとらえた。
 金髪の美男子ながらどこか間抜けで親しみやすい雰囲気を漂わせる少年と、
 いかにも高慢そうで刺々しい顔立ちの中に、繊細な優しさを感じさせる金髪巻き毛の少女。
 ギーシュとモンモランシーである。最近、前にも増して距離が近くなってきたと噂の二人だった。
 何やら夢中で捲くし立てているギーシュ、それを澄まし顔で聞きながらも口元が緩むのを隠せていないモンモランシー。
 いつもどおりの二人の姿をしばらくじっと眺めていたキュルケは、やがて一つ頷いた。

226 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:43:11 ID:l5m3grWe

 出発はタバサが才人に助けを求めた日から数えて、ちょうど一ヵ月後に決まった。
 目的地はガリア王城、ヴェルサルテイル宮殿である。
 王を暗殺するのが目的である以上当然ながら他の人間に知られる訳にはいかず、移動する間も姿を見られるのを避けねばならない。
 故に、タバサの使い魔であるウインドドラゴンのシルフィードは、今回は学院に置いていくことになった。
 移動方法は、徒歩である。と言ってもタバサと並んでトコトコ歩いていたのではあまりに時間がかかりすぎる。
 故に、ルーンを光らせっぱなしにした才人が、タバサを抱きかかえて走ることになった。
 途中いくつかある関所も避けねばならないため、ほとんど人が踏み入らないような森や山を踏破するコースを選ぶことになった。
 ルートはタバサが調べてくれた。彼女が溜め込んだ膨大な知識は、こういう場面でも役に立ったのである。
 こうして、計画は順調に練り上げられていった。
 才人は剣の訓練や持久力向上に精を出し、タバサは極力精神力を温存しつつ、旅の準備に余念がない。
 ルイズやシエスタに最近の行動について問い詰められはしないかという心配はあったが、、
 ルイズの方は特に不審がるような様子も見せずにいつもどおり才人に接していたし、シエスタとは不思議なほど顔を合わせなかった。
 タバサのほうもうまくキュルケを誤魔化したと言っていたし、ギーシュやモンモランシーともほとんど会話する機会がなかった。
 そうして拍子抜けするほど順調に、何事もなく一ヶ月間が経過したのであった。
 
 木の幹にもたれかかって俯きがちに座っているタバサの青い髪を、夜風がかすかに揺らしていく。
 空は雲一つない晴天で、銀に瞬く星が全天を覆っていた。
 木にもたれかかったまま目を細めてそれを見上げながら、才人はぽつりと呟く。
「明日だな」
 視界の隅で、タバサが小さく頷いた。
 この一ヶ月間、二人は毎晩こうして密会していた。ガリア王ジョゼフ暗殺のための打ち合わせを行うためだった。
 タバサ自身、こうなる前からそのための計画を考えてきてはいたらしい。
 だからこそ、たった一ヶ月で十分準備を整えることができたのである。
 相手からの妨害や予想外の問題が全くないと仮定すれば、往復にかかる日数はおよそ二十日。
 当たり前の話だが、馬車で街道を進んだりシルフィードで飛んでいくよりは遥かに時間がかかる。
 それでも普通に街道を歩いていくよりはかなり速いのだ。それに何より、人に見られる可能性はゼロと言ってもいい。
 道筋はタバサが綿密に調べ上げているため、こちらもほとんど問題ない。
 食事などはかなり制限されることになるだろうが、これは致し方ない問題である。
 保存の効く携帯食などを、出来る限り袋に詰め込んで才人の体にくくりつけていく予定だった。
 準備は万端である。後は、ヴェルサルテイルに辿りついた後にミョズニトニルンとジョゼフを倒せるかどうかだけだ。
 タバサ自身もそのことに思いを馳せているのだろう。二人はしばらく、ただ無言でじっとしていた。

227 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:44:07 ID:l5m3grWe

「お兄ちゃん」
 膝を抱え込んで目を伏せたまま、タバサが小さく呼びかけてくる。
「なんだ」
「本当に、いいの」
 才人は苦笑しながら、タバサと同じように木に背を預けて腰を下ろした。右手を伸ばして、彼女の頭を軽く撫でてやる。
「いいんだよ」
 タバサは何も言わず、眉間に皺を寄せて唇を噛む。
 今更、止めようなどと考えている訳ではあるまい。躊躇いがあるはずもない。
 タバサとて、ずっと心に秘めて研ぎ澄ましてきた怨讐の刃を、ようやく鞘から抜き放ったところなのだ。
 どんなに強い自制心を持っていようとも、敵を切らずに元の場所に収めることなど出来るはずがない。
 それでも、才人を巻き込んでしまったという負い目は消えないらしかった。根が優しい少女だから当然と言えば当然である。
 様々な感情がタバサの横顔に浮かんでは消えていくのをじっと見つめていると、やりきれない思いが才人の胸に広がった。
 タバサはまだ十五歳のはずである。自分はまだまだガキだという自覚がある才人よりも、さらに一回り年下なのだ。
 芸能人に夢中になったり、ちょっと背伸びして化粧を始めてみたり、友達と恋の話に興じたり。
 それが、才人が知っているその年頃の少女の普通の姿だった。
 この世界でだってそういうことにさして違いはあるまい。そうする権利はタバサにも当然あるはずだった。
 だというのに、何故こんなところでこんな風に苦しそうな顔をしていなければならないのか。
(早く、何の悩みもなく笑えるようにしてやりてえな)
 見ていられずにふと頭上に目を移したとき、視界に映ったのは満天の星空だった。
 そういえば、一ヶ月前もこんな風に夜空を見上げたものだ。才人は微笑を浮かべて、タバサの肩を叩く。
「シャルロット。空、見てみろよ」
 そんな気分ではないかもしれないと危惧しながら言った台詞だったが、
 タバサはゆっくりと星空を見上げて、口元に淡い微笑を浮かべてみせた。
「きれい」
 小さな呟きを聞いて、才人の胸が不意にじんわりと温かくなった。
 タバサが安らいだ表情を見せたのは、実に久しぶりのことだった。
 少なくとも、この一ヶ月はいつ見ても思いつめたような深刻な顔をしていたのだ。
 不安や苦悩から少しでも意識をそらしてやろうと思い、才人は無駄にはしゃぎながら立ち上がる。
「なあ、こっちの星座ってどうなってんの」
 闇雲に腕を振り回して、次々と適当に星を指差す。
「あれはオリオン座か。ああ、あれは小熊座じゃないのかな」
 タバサがおかしそうに微笑んだ。
「そんなの初めて聞いた」
「あ、やっぱこっちだと違うのか」
 タバサはスカートを手で払いながら立ち上がり、おもむろに腕を伸ばして星を指差し始めた。
「あれが始祖座、あっちは蛙座。あれは風竜座で、隣が火蜥蜴座。下にあるのがモグラ座」
 言いながら次々といくつかの星を囲んでみせるのだが、もちろん才人にはどれがどれだか見分けがつかない。
「どれとどれが、なんだって」
 混乱する才人の顔をじっと見つめていたタバサは、やがて小さく舌を出した。
「嘘」
「あ、騙したなこの野郎」
 頭を軽く小突いてやると、タバサは小さく笑ってから懐かしむように目を閉じた。
「わたしも騙された」
「誰に」
「父様」
 才人は目を見張った。タバサの微笑の向こうに、今よりももっと幼い彼女の姿が見えた気がしたのだ。
 いつも忙しい父親がこっそりと連れ出してくれた夜の森。無限に広がる星空を映して、小さな瞳は無邪気に輝く。
 悪戯っぽく笑いながら嘘の星座を教える父と、罪のない嘘に頬を膨らませる娘。
 そして父親は小さな娘を肩車してやり、少しでも星がよく見えるようにしてやるのだ。
 はしゃいだ娘は一生懸命に手を伸ばし、届くはずもないのに星をつかもうとする。
 世界の違いなど関係なく、どこにでもいそうな親子。今はもう、どこにもいない親子。

228 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:44:39 ID:l5m3grWe

 才人が無意識に拳を握り締めたとき、不意にタバサが小さな声を漏らした。
「どうした」
 慌てて駆け寄ろうとする才人を、タバサは手の平で制する。
 顔がかすかに赤らんでいた。宝玉の効果が今発現したのに違いなかった。
 どうしてやることもできず、才人はタバサが少しずつ離れていくのをただ見ているしかない。
「それじゃ明日、夜明け前に」
「大丈夫か」
「平気。部屋までなら持つ」
 たまらずに声をかけた才人に、タバサは闇の中で小さく頭を下げた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 タバサはフライの魔法を唱えて、自分の部屋の窓に直接飛んでいく。
 彼女の姿が完全に見えなくなったあと、才人はおもむろに背中のデルフリンガーを鞘から引き抜いた。
「いよう相棒、もうお邪魔じゃないかい俺」
 いつもどおりのとぼけた声を上げるデルフリンガーには答えず、才人は無言で雑木林の奥に進む。
 少し開けた場所で屈み、地面に落ちている小枝を拾い上げる。それをじっと見ながら問うた。
「デルフ」
「なんだね」
「ガンダールヴの強さは、心の震えで決まる。そうだったよな」
「そうだよ」
「なら、いけるな」
 才人はゆっくりと小枝を放り上げる。そしてそれが一番高く上がった瞬間を見計らって、一息にデルフリンガーを引き抜いた。
 左手のルーンの輝きが闇の中に眩い軌跡を描く。小枝は一瞬空中で静止したあと、細切れになって地面に落下した。
「今なら、負ける気がしねえ」
「そりゃま、肉弾戦で相棒に勝てる奴はいねえだろうよ」
 デルフリンガーはため息をつくように言った。
「そうそう相棒、一つ忘れてないかい。いや、あえて目をそらしてるのかもしんねえけど」
「なんだよ」
「明日出発だってのに、未だにご主人様に何も言ってねえじゃねえの」
 才人は言葉に詰まった。どうにも切り出すことができずまたルイズも何も言ってこないので、結局この一ヶ月間事情を話していない。
「また黙って行く気かね」
「そうなっちまうかな」
「傷つくだろうなああの娘っ子。使い魔が何も言わずに他の女の子と二人きりで出てっちまうんだ、自信なくして自殺しちゃうかもね」
「おいおい、嫌なこと言わないでくれよ」
「俺は事実を話してるつもりなんだがね」
 才人は肩を落とした。
「そりゃ、こういうのがあまり良くないことだってぐらい、俺も分かってるけど。
 ルイズに話したら『あたしもついていく』とか言い出しかねないし」
 そう言い訳しつつも脳裏に浮かぶルイズの泣き顔に、才人の胸の内の罪悪感が膨れ上がっていく。
「そうだな。やっぱ、話さねえとな」
 打ち明けたときのルイズの反応を想像すると、いろいろな意味で気が重くなりはしたが。

229 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:45:17 ID:l5m3grWe

 閉じた目蓋の向こうに夜明けの薄明かりを感じて、才人はため息混じりに目を開けた。
 すぐ目の前に、穏やかな寝息を立てているルイズの背中が見える。
 結局、事情を話せずじまいで夜が明けてしまった。
「俺って駄目な奴だな」
 小さく自嘲しながら、ルイズを起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
 壁に立てかけてあるデルフリンガーを手に取り、何気なく周囲を見回した。
 才人が荷物を準備してはルイズに疑われるので、旅装は全てタバサが用意してくれているはずだった。持っていくのは剣だけでいい。
 だから、才人がやるべきことはあと一つだけだ。
 ルイズの学習机からメモ用の紙を取り出し、机の上に置く。
 インク瓶の蓋を開けて羽ペンを浸し、短くメッセージを残す。
「怒るだろうなあ、ルイズ」
 だが、仕方のないことである。
 そもそも、事情を打ち明けようが打ち明けまいが、他の女の子のために何かしているという時点で、ルイズは怒るに違いない。
 そんな風に考えても、やはり罪悪感は消えてくれない。
「ごめんな、ルイズ」
 消えない罪悪感を抱えたまま、才人は静かに部屋を抜け出した。

 昨夜の晴天が嘘のように、空はどんよりとした雲に覆われていた。
 いつものこの時刻と比べるとかなり暗い上、冷たい霧に覆われて視界も悪い。
 数分ほど霧をかき分けて、才人はようやくタバサを発見した。
 タバサは、いつだったかアンリエッタの馬車を出迎えた正門の柱によりかかっていた。
 足元にはぱんぱんに膨らんだ大きな袋が置いてあった。旅の荷物に違いなかった。
「悪い、遅くなった」
 タバサは小さく首を振る。才人は正門の隣にある詰め所をちらりと見やる。
「当直の先生はいないのか」
「いない。多分、さぼり」
 相変わらず警備がずさんだな、と才人は顔をしかめる。こんなだからフーケに宝を盗まれたりするのだ。
 同時に、不安になった。こんなところにルイズを一人で置いていって大丈夫だろうか。
 何せ虚無の使い手である。自分がいない間にガリア王が放った刺客が襲ってこないとも限らないのだ。
 今更その可能性に気がついて、才人は後悔した。
 せめてアニエスに連絡を取るなりキュルケに事情を全て打ち明けるなりして、ルイズをガードしてもらえばよかった。
「どうしたの」
 タバサの問いかけに、才人は首を振った。
 こうなったら仕方がない。出来る限り早く事を終わらせて、さっさと帰還するだけである。
 才人はタバサの足元の袋を持ち上げようとして、顔をしかめた。
「予想より重いなこれ」
「出来る限り軽くしたけど、それが限界。ここまでもフライで運んできた」
 さすがに移動中ずっと魔法を唱えさせることはできないので、嫌でも才人が体にくくりつけて運ばなければならないのだ。
 こりゃ思った以上に重労働だ、とため息をつきながら才人が袋を持ち上げたとき、不意に霧の中から声が聞こえてきた。

230 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:46:06 ID:l5m3grWe

「やっぱりこうなったわね」
 才人は硬直した。聞き覚えのある声である。聞き覚えのありすぎる声である。
 まさか、と思って恐る恐る振り返ると、予想どおり小柄な人影が霧の向こうから歩み出てきたところであった。
 ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールその人である。怒りに柳眉を逆立て、口元を引き結んでいる。
 久々のご主人様のお怒りに、才人は腰を抜かした。最近大人しかったから忘れかけていたが、怒ったルイズはやっぱり恐い。
 ミョズニトニルンとガリア王をまとめて一人で相手にする方が、幾分かマシに思えてくるほどである。
 恐怖に震える才人に、ルイズはゆっくりと歩み寄ってくる。タバサはどうしていいか分からないようで、何も言わずにルイズを見守っていた。
「どどどどど」
「何が言いたいのかしら。はっきり言いなさい、この馬鹿犬」
「どうしてルイズがこんなところに」
「どうして。今どうしてって言ったのかしらサイトったら」
 ルイズは顔を歪ませた。笑ったつもりらしいが、口元が引きつっただけでちっとも笑っているように見えなかった。
「それはわたしが聞きたいわねサイト。どうしてあんた、この一ヶ月間ご主人様であるこのわたしに何も説明しなかったのかしら。
 不思議だわサイト。不思議すぎて頭が混乱して、思わずエクスプロージョン撃っちゃうかも」
「やめてくださいお願いしますご主人様」
 サイトは悲鳴を上げて土下座した。タバサが無言で、才人の背中のデルフリンガーを引き抜く。
「あれま、やっぱりこうなったか」
 鞘から抜かれた瞬間、デルフリンガーは呆れたように言った。才人は肩越しにデルフリンガーを見やる。
「おいデルフ、一体どうなってるんだよ。やっぱりってことは知ってたんだろお前」
「そりゃ知ってたよ。この一ヶ月間、貴族の娘っ子がずーっと夜に寝た振りしてたことぐらい」
 才人はルイズを見上げた。図星だったらしく、ルイズの顔に赤みが差している。
「あんたってば、このわたしがいつ事情を説明するかと待ってんのに、結局何も言わずに出て行こうとするんだものねえ」
「いや、それは」
「おまけに何これ」
 そう言って、ルイズは怒りに震えながら腕を突き出す。その手には、先程才人がしたためた置手紙が握られていた。
「『ちょっと出かけてくる。必ず戻るから心配しないでくれ』ですって。
 ええ、ええ、心配しませんとも。ご主人様に一言の断りもなく出て行っちゃう馬鹿犬のことなんか、誰が心配してやるもんですか」
 喋ってる内にルイズの怒りのボルテージがぐんぐん上昇していくのが、才人にはよく分かった。しかしどうすることもできない。
 背中からどす黒いオーラを立ち上らせて爆発寸前のルイズが大きく口を開きかけたとき、霧の中から苦笑混じりの声が聞こえてきた。
「その辺にしときなさいよ」
 またも、聞き覚えのある声だった。今度はタバサが驚きに目を見張る。彼女の眼前で、背の高い人影が霧の中から歩み出てきた。
 キュルケだった。口に手を当てて大欠伸をしながら、気だるそうにこちらに歩いてくる。
 だが、歩み出てきたのはキュルケだけではなかった。
「そうですよ。ミス・ヴァリエールはもっとサイトさんの気持ちを考えてあげるべきです」
 少し怒った口調で言うのは、手に何かの包みを持ったシエスタだ。
「まあ、いつもどおりと言えばいつもどおりで安心するがね」
 肩を竦めるのは、手に白銀色の薔薇を持ったギーシュ。
「ホント、いつまで経っても進歩がないわよねえ、あんたたちって」
 呆れた声で言うのは、目の下に隈を作ったモンモランシーだ。
 霧の中から新たに歩み出てきた四人は、ルイズの近くに並んで才人とタバサを取り囲む。

231 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:47:09 ID:l5m3grWe

 予想もしなかった事態に、才人はもちろんのことタバサも呆気に取られて何も言えなくなってしまった。
 それを見て、キュルケが吹き出した。
「そうそう、その顔よその顔。その顔が見たくてこの一ヶ月間ずっと黙ってたのよ」
「少々趣味が悪いとは思うがね」
 ギーシュが苦笑する。その辺りでようやく立ち直った才人は、立ち上がりながら叫んだ。
「お前ら、なんで」
「気持ちは分からなくはないけど、静かにした方がいいわよ」
 モンモランシーが本塔の方をちらりと見ながら、唇に指を当てる。
「ここまできてわたしたち以外にばれたら、それこそ台無しでしょう」
 才人は慌てて自分の口を手で塞ぐ。しかし、やはり驚きは消せなかった。
「誰にも言ってないのに」
「浮気しちゃいけないタイプよねサイトって。嘘が下手だもの」
 キュルケがからかうように笑いながら、何気なく杖を振った。
「風魔法って便利よねー。空気の流れをコントロールすれば、盗み聞きだって自由自在だし」
 要するに、この一ヶ月夜中に密会していた才人とタバサの会話は、全てキュルケに盗聴されていたらしい。
 振り返ると、タバサが珍しく動揺した様子で目を見開いていた。
「気付かなかった」
「気をつけてやったもの。さ、種明かしはここまでにしておきましょうか。時間もないんだし」
 キュルケの台詞に危機感を覚え、才人は慌てて手を振った。
「いや、駄目だ。今回ばっかりはお前らを連れて行く訳には」
「勘違いしないの。誰もついていくなんて言ってないでしょう」
 才人の唇に指を押し当てて、キュルケは悪戯っぽく微笑んだ。
「わたしたちは、ただ贈り物を渡しにきただけよ」
「贈り物だって」
「そ。餞別ってやつよ」
 キュルケがそう言ったとき、待ちかねたような勢いでシエスタが飛び出してきた。
 シエスタは才人の目の前で立ち止まると、正面から顔を覗き込んでくる。
「サイトさん」
 その瞳が潤んでいるのを見て、才人は危機感を抱く。ある意味ルイズ以上に危険なのがシエスタである。
 才人に対する愛情表現が素直な分、どんなに止めてもついていくと言いかねない。
 しかし、何とか思いとどまらせようと才人が口を開くよりも前に、シエスタ自身がそれを止めた。
「何も言わないでください。大丈夫です、わたしも止めるつもりはありませんから」
「そうなのか」
 少し驚いて言うと、シエスタは罰の悪そうな表情でちらりとルイズを振り返った。
「最初に事情を聞いたときはそうしようと思ったんですけど、ミス・ヴァリエールに言われたんです」
「ルイズに。何を」
「『あんたはサイトを信用してないの』って。『七万の大軍に突撃しても戻ってきたのよ。
 今回だって絶対に戻ってくるわ。少しは信用してあげたらどう』」
 ルイズの口真似をしたあと、シエスタは悔しげに唇を噛み締めた。
「前はそういうことを言うのはわたしの方だったはずなんですけど」
 その表情の歪み具合は、悔しいどころかほとんど恨みがましいものですらある。
 才人の方はシエスタの表情に恐れ入るよりも、ルイズがそこまで自分を信頼してくれていたことに素直に感動していた。
 しかし、数秒感動したあと、ふと疑問に思う。
(あれ、でもさっきは凄い勢いで怒ってなかったか)
 ルイズの方を見ると、彼女は赤い顔でそっぽを向いている。何やら、恥じ入るような表情である。
 不思議に思った才人が首を傾げたとき、デルフリンガーが口もないのに吹き出した。
「おい、お前なんか知ってんだろデルフ」
「さて、何の話だかね」

232 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:48:30 ID:l5m3grWe

 二人の会話を横目に、シエスタはタバサの足元に置いてある袋に飛びつくと、無言で紐を解いて中を漁り始めた。
 その表情のあまりの真剣さに、才人もタバサも何も言わずにシエスタを見守るしかない。
「ひどいです」
 突然、シエスタが金切り声を上げた。その場の全員が反射的に肩を竦めるほどの声である。
「ちょ、シエスタ、もうちょい静かに」
「ミス・タバサ」
 才人が止めるのを尻目に、シエスタはタバサに食ってかかる。
 ほとんど顔を突きつけるような勢いのシエスタに、さすがのタバサも驚いたように身をのけぞらせた。
「なに」
「これはなんですか」
 シエスタは袋の中身を示してみせる。タバサは目だけでちらりとそれを見て、珍しく自信なさげな声で答えた。
「携帯食料と、水」
「サイトさんに何日間もこんなものばっかり食べさせるつもりなんですか」
「シエスタ、何もそんなに怒ら」
「サイトさんは黙っててください」
「ごめんなさい」
 シエスタに怒鳴られた才人と食って掛かられたタバサが、同時に謝る。
 シエスタは「ホントにもう」と怒ったように呟きながら、次々と袋の中身を取り出し始めた。
 貴族であるタバサにああも激しく食って掛かるとは、さすがに才人がらみのときのシエスタは普段とは一味も二足も違う。
 呆然とする才人の肩を、誰かが叩いた。振り向くと、からかうような苦笑を浮かべたギーシュが立っている。
「君もなかなかやるじゃないか」
「そういう言い方はよせよ」
「照れるなよ。僕から見てもなかなかの色男ぶりだよ」
「お前から見てってのがなんか嫌だな」
「つれないなあ。まあいい。それより、僕からも餞別があるんだ」
 ギーシュはさっきから手に持っていた白銀色の薔薇を差し出してきた。才人は顔をしかめる。
「俺には男に口説かれて喜ぶ趣味はないぞ」
「僕も男を口説く趣味はない。ついでに言うと、どうしても口説かなければならないとしても、もう少し美形の男を選ぶ」
「嫌味が餞別かよ」
「違うよ。いいからこの薔薇を受け取りたまえ」
 今ひとつギーシュの意図がつかめないまま、才人は渋々白銀色の薔薇を受け取る。
 その瞬間、予想外のことが起きた。武器として作られたものにしか反応しないはずの、左手のルーンが輝き出したのだ。
「これ、武器なのか」
「ご名答」
 驚く才人に、ギーシュは悪戯っぽく笑ってみせる。才人は手の中の薔薇をしげしげと眺めた。
「確かに薔薇だから棘棘がついてるけど。まさかこれ投げつけろってんじゃないよな」
「違うよ。薔薇の外見をしているのは、何と言うか僕の趣味さ」
「お前の趣味はロクなもんじゃないな」
「ひどいなあ。それより、使い方を教えるよ。いや、教えなくても君なら分かるんだったか」
 そう言われたとき、才人の頭の中にその薔薇の使い方が流れ込んできた。
「念じればいいのか」
「そう。たとえば、槍になれという風にね」
「こうか」
 言われたとおりにすると、手の中の白銀色の薔薇がスライムのように形を変え始めた。
 驚く才人の前で白銀色の塊は真っ直ぐ長く伸び、念じたとおり一本の槍と化す。
 鋭い穂や長い柄には、凝った意匠などは少しもない。だがそれ故に透徹された美しさを持つ長槍である。長さは才人の背丈ほどだろうか。
 手の平に伝わる冷たい触感は明らかに金属のそれなのだが、重量は重すぎず軽すぎず、繊細にも感じるほどの奇跡的なバランスを保っている。
 突然手の中に現れた槍を呆然と見つめる才人を満足げに眺めながら、ギーシュは詩を読み上げた。

233 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:49:19 ID:l5m3grWe

「神の左手ガンダールヴ。勇猛果敢な神の盾。左に握った大剣と、右に掴んだ長槍で、導きし我を守りきる」
 突然聞き覚えのある詩が出てきて驚く才人に、ギーシュは肩を竦めてみせる。
「どうだい。君にぴったりの武器だと思うのだがね」
「こんなもん、一体どこから持ってきたんだ」
 ギーシュは片目を瞑って人差し指を立てる。
「持ってきたんじゃない。作ったのさ。いや、正確には作らせたと言ったほうがいいかな。グラモン家、モンモランシ家、それにヴァリエール家。
 こんなにたくさんの貴族の家名を並べ立てたのは、この僕でさえ初めてだ。魔法研究所は実にいい仕事をしてくれたよ」
 要するに、名門貴族のコネを使ってゴリ押ししたらしい。さすがに呆れた顔をする才人に、ギーシュは苦笑を浮かべる。
「そんな顔をしないでくれたまえ。全ては君のためにやったことだし、それに研究所の一部門を借りただけで、料金はちゃんと支払っている」
「嘘吐け。貧乏だろお前ら」
「僕らじゃない。キュルケが払ったんだ」
「キュルケが」
 才人が見ると、キュルケは悪戯っぽくウインクして小さく片手を振ってきた。
「過去に男たちからもらった宝石やら服やらを、全部売り払ったらしいよ。それでも少し足りなかったが、研究者たちは喜んで引き受けてくれた」
「なんでだよ」
「材料を持っていったからさ」
 材料、と言われて、才人はまた手の中の槍に目を戻す。薔薇の形だった頃と変わらず、槍は穂から柄まで同一の白銀色である。
 塗装してある訳でなく、初めからそういう色をしているらしい。これほど見た目が美しい金属を、才人は地球ですら一度も見たことがなかった。
「魔銀だよ」
 ギーシュの話によると、魔銀というのはメイジの錬金でしか得られない貴重な金属らしい。
 銀を最も多く含むその金属は、錬金する際に貴重な触媒が多種必要である上、
 組成が複雑でかなり高等な技術を持つメイジにしか練成できないとのことだった。
 得がたいだけにその用途は多種多様で、特に魔法を内部に固定させるのに最も適しているのだという。
「それにも魔法がかけてあってね、頭で念じるだけで様々な形に変化させることができるのさ」
「長槍、短槍、短剣、鞭、球。それと、薔薇か」
 頭の中に浮かぶ知識を口に出して呟きながら、才人は顔をしかめる。
「薔薇はいらねえだろ」
「僕の趣味だよ。薔薇は最も美しい花だからね」
「相変わらずだなお前も」
「メイジならばもっと自由自在に形を変えられるが、今回は魔法が使えない君のために作らせたから、多少制限がつく。
 それでも長短硬軟自由自在だから、アイデア次第でいろいろな使い方ができるはずだよ」
 才人は試しに槍を伸ばしたり、逆に短くしたり、鞭にしてしならせたりしてみた。
「剣にはならねえんだな」
「左手の大剣はもうあるじゃないか」
「それとも俺じゃご不満かい、相棒」
 デルフリンガーが少し拗ねたような声で言ったので、才人とギーシュは顔を見合わせて吹き出した。
 そして、才人はふと気がつく。ギーシュの説明によると、この魔銀というのはかなり作りにくい金属らしい。
「なあ、こいつの材料になった魔銀は誰が作ったんだ」
 そういうことができそうな人物は、才人の知る限り一人しかいない。
「ひょっとしてコルベール先生か。でもあの人今はまだ帰ってきてないんだろ」
 そう言われたとき、ギーシュは一瞬目を伏せた。そして、笑って首を振った。
「いや、違う。先生の研究室は勝手に使わせてもらったけどね」
「おいおい、勝手に弄繰り回したら怒るぜ、先生」
 コルベールが禿げ上がった頭を真っ赤にして怒るのを想像して、才人は笑った。
 ギーシュは何故か少しだけ悲しそうに目を細めた。
「そうだね。だが時間がなかったし、そういう器材はあの人の研究室が一番揃っていたんだ」
「まあ、何があるんだか分かったもんじゃないからな、あそこ」
「それに、才人のためだって言えば許してくれるはずだよ」
 それもそうか、と頷いてから、才人は首を傾げる。
「でも、先生じゃないなら一体誰が」

234 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:50:18 ID:l5m3grWe

 するとギーシュは、誇らしげに胸を張った。
「僕さ」
「お前が?」
 才人は目を剥くほどに仰天した。それから、じろじろとギーシュの体を眺め回し、ずばり言う。
「嘘だろ」
「ひどい奴だな君は」
「だって、確かドットとかいう最下級のメイジなんだろお前」
 友人に向かってこの言い草はひどいと自分でも思うが、事実だから仕方がない。
 するとギーシュは少しだけ自嘲的な笑みを浮かべてみせた。
「そうだ。だから僕も、自分にはきっと出来ないと最初は思ったさ」
「そうだろうな」
「だがね、君がまた命を賭けて危険な場所に赴こうとしていると聞いて、たまらなくなったんだ。
 僕にも何か出来ることはないかってね。それで、先生の研究室を漁っている内に、虚無について語った詩を見つけたんだ」
「ああ、先生の研究室にもあったのか、あれ」
「虚無やガンダールヴの事を、随分熱心に研究していたらしいね。そして、右手に掴んだ長槍という記述を見て僕は閃いたんだ。
 君のために武器を作ってやるのが、僕に出来る中で一番いいことなんじゃないかってね」
 ギーシュは肩を竦める。
「それから先は授業もさぼって来る日も来る日も錬金の日々さ。
 自分には出来ないんじゃないかと何度も疑いつつ、寝る間も惜しんで魔銀精製に没頭した。
 正直、ここまで何かに夢中になったのは初めてだよ。それも男のためになんてね。
 そして、二週間ほど前に、ようやく手の平に握れる程度の魔銀を作るのに成功したんだ」
 そのときのことを思い出すように、ギーシュは微笑を浮かべてじっと手の平を見下ろした。
「自分にそんなことが出来るだなんて、その瞬間まで信じられなかったよ。
 だが、僕は確かにやり遂げて、どうにか君にその槍を届けることができたんだ。
 実を言うと、自分でも未だに信じられないんだがね。
 だけど、一度作り方が分かれば、集中さえすれば一日に微量は精製できるようになったんだよ」
 ギーシュの言葉に反して、才人は妙に納得していた。
 ギーシュだって、名門と名高いらしいグラモン家の息子なのだ。
 今までは女の尻を追い掛け回してばかりで埋もれていた才能が、真剣に自分と向き合うことで開花したと考えても何ら不思議はない。
 アニエスとの修行を経て素のままでも少しは強くなれた才人だから、すんなりとその事実を受け入れることができた。
 才人は左手でギーシュの肩を叩き、笑った。
「すげえじゃん、お前」
「いや、なに」
 ギーシュは照れ笑いを浮かべたあとで不意に真顔になった。
「君に比べれば大したことはないさ。また死ぬかもしれない大冒険に挑もうとしているんだろう」
 その口ぶりからするとあまり詳しく事情を聞いてはいないらしかった。
 だというのに、授業をサボって連日徹夜してまで才人のために武器を作ってくれたのだ。
 じんわりと目頭が熱くなってくると同時に、才人は少し心配になった。

235 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:51:36 ID:l5m3grWe

「大丈夫なのか」
「何がだね」
「俺とシャ、いやタバサがやろうとしてることはさ、何ていうか、ちょっと問題があることなんだ」
 もしも失敗したり、あるいは成功しても犯行が明るみに出た場合、協力者としてギーシュたちにも咎が及びはしないかという危惧がある。
 しかしギーシュは笑って首を振ってみせた。
「大丈夫だよ。僕らはただ、『所用で出かけるタバサの護衛』を頼まれた君が心配で、
 お節介にも武器なんかを贈ってやっただけなんだ。後で君がどんな大問題を起こそうが、
 『な、なんだってー、ちくしょう、あの使い魔に騙された』って驚けばいいだけさ」
「いや、そんなので済ませられる問題じゃ」
「それにな、サイト」
 ギーシュは才人の肩に手を置いて、笑みを浮かべた。
 それは、自分のしたことの正しさを確信している者だけが浮かべられる、爽やかな笑顔だった。
「君はいい男だ。いい男のすることに、間違いはない」
 揺るぎや迷いなど微塵も感じさせずに、ギーシュははっきりとそう言い切った。
 その言葉は才人の胸を重く、そして何よりも熱く揺さぶった。
 才人はギーシュのくれた槍を強く握り締め、水平に掲げた。
「分かった。ありがとうよ。遠慮なく使わせてもらうぜ」
「ああ。是非とも役に立ててくれ」
 ギーシュは笑って言ったあと、おもむろに懐から何かを取り出しじっと眺め始めた。
 何かと思って覗いてみると、それは白い毛の縁飾りがついた勲章だった。
「なんだそれ」
「杖付白毛精霊勲章さ。戦争のとき、シティオブサウスゴータへの一番槍を果たしたときに賜ったものだ」
「へえ、すげえな」
 勲章をもらうというのが名誉なことだというぐらいは、才人も知っていた。
 だから素直に賞賛したのだが、何故かギーシュは自嘲気味な笑みを浮かべて、自分の目の前に勲章をぶら下げた。
「最近、これを見ていると恥ずかしくなってくるんだ」
「なんでだよ」
「君にだから話すが、僕は戦争中ほとんど突っ立っていただけで、指揮なんか部下に任せきりだったんだよ。
 オーク鬼の群れを見ただけでパニックを起こしそうになったほどさ。情けないことこの上ない」
 自嘲気味にそう言ってから、ギーシュはじっと勲章を見つめて呟いた。
「僕は、この勲章に見合うような立派な人間じゃないんだよ」
 彼らしからぬ真摯な表情に、才人は戸惑いながらも苦笑する。
「まあ、そりゃ仕方ないだろ。軍人としての訓練なんかまともに受けてねえんだし」
「でも君は七万の大軍に突撃したそうじゃないか。臆病な僕には絶対にそんな真似は出来ない」
「俺だって好きでやった訳じゃないぞ」
「それでも君はやってのけた。正直、憧れるよ。僕も君のように勇気のある人間になってみたい」
 ギーシュの言葉は女を口説くときと同様、照れというものが全くなかった。
 そのストレートな賞賛に才人の方が照れていると、ギーシュは彼に似合わぬほどに真面目な顔で才人を見つめてきた。
「死ぬなよ、サイト。僕はもう二度と、友人を失う悲しみなんて味わいたくない」
 才人もまた真っ直ぐにギーシュの瞳を見つめ返し、生還を約束した。

236 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:52:37 ID:l5m3grWe

 才人がギーシュから槍を託されている横で、タバサもまたモンモランシーから小さな瓶をいくつか受け取っていた。
「香水じゃないわよ」
 冗談めかしてそう言ったあと、モンモランシーは瓶の一つを指で軽く弾いてみせる。
「これはね、秘薬よ。治癒魔法を使うときに役に立ってくれる、秘薬。まああなたには説明なんていらないわよね」
 タバサは頷いた。彼女自身は風系統の魔法を得意とするメイジだが、水系統の魔法も多少ならば扱えるのだ。
 普通に使えば水魔法を得意とするモンモランシーに及ぶべくもないだろうが、秘薬の助けを借りればそれなりの深手を癒すことが出来る。
 モンモランシーは欠伸をして目を擦った。
「全く、そんな量の秘薬調合するのは大変だったわよ。出来るだけたくさん必要だと思ったから、
 この一ヶ月間必死に材料探し回って睡眠時間削ってまで作ったんだから。
 おかげで、ご覧のとおり肌は荒れるは髪はぱさぱさになるわ」
 自分でそう言っているとおり、モンモランシーの目は充血し、目の下には隈が出来ていた。
 少し頬がこけたようにも見え、傍目にも少し顔色が悪い。
 だが、その表情はどことなく晴れやかで、達成感に満ちているように見える。
 タバサは自分の手に納まった、小さな瓶をじっと見つめた。この助けはありがたかったが、それ故に疑問だった。
「どうして」
「なに」
「どうして、ここまでしてくれるの」
 不思議に思い、モンモランシーの顔を見上げて問う。モンモランシーは何故か顔を赤くしてそっぽを向いた。
「別に、あなたのためじゃないわ。ただ、わたしはもう人が傷つくのを黙って見ているのが嫌なだけ」
 その言葉の意味は、タバサにもよく分かった。
 魔法学院が襲撃された日、コルベールを助けられなかったことを後悔しているのは、何もモンモランシーだけではないのだ。
「それにね」
 と、モンモランシーは不意に軽くかがみこむと、タバサの瞳を覗き込んできた。
 タバサはいつもどおりの無表情を作って、モンモランシーの突然の行動をやり過ごそうとした。
 にも関わらず、モンモランシーは何故か寂しげな微笑を浮かべた。
「やっぱり。あなたの目、なんだかとても悲しそうだわ。どうして今まで気付かなかったのか、不思議なくらい」
 モンモランシーはタバサの肩に手を置き、普段とは打って変わって穏やかな口調で囁きかける。
「あなたたちが何をしようとしているのかはよく分からないけど、頑張ってね。
 あなたの悲しみを癒す手助けが出来るなら、これほど嬉しいことはないわ。
 でも、無理はしないこと。あなたたちが死ぬと悲しむ人がいるってこと、絶対に忘れないようにね」
 優しい声音は、渇いた喉を潤す冷たい水のように、じわりとタバサの胸に染み渡っていった。
 なんと言っていいか分からずに俯いてしまうタバサに微笑みかけ、モンモランシーは踵を返してルイズのそばに歩いていった。
 そして、自分をほったらしてギーシュと話している才人に苛立っているルイズを、笑いながらなだめ始めた。

237 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:53:21 ID:l5m3grWe

 そのとき、キュルケがタバサの前に歩いてきた。タバサはまた目を伏せる。
 一ヶ月ほど前、キュルケを遠ざけるためにあえて拒絶して以来一度も会っていない。
 あの選択が間違っていたとは思っていないが、さすがのタバサもあんな風に別れたキュルケにどうやって接したらいいかがよく分からない。
 そうやって黙っていると、キュルケが不意に呟くような声で言った。
「いよいよ、出発って訳ね」
 タバサは小さく頷く。まだ、キュルケの顔が見れなかった。
「結局、わたしには少しも話してくれなかったわね。まあ、風魔法で盗み聞きしといて言う台詞じゃないけど
 ああそうそう、ギーシュたちにはあなたのお家のこととか今回の旅の目的とか、
 そういう詳しいところまでは話してないから、安心してね」
 普段と何も変わらない調子で苦笑混じりに言うキュルケに、タバサはとうとう黙っていることができなくなった。
 ちらりとキュルケの顔を見上げて、短く問う。
「怒ってる」
 キュルケは数秒無言だったが、やがてため息混じりに言ってきた。
「タバサ」
 タバサが顔を上げた途端、キュルケが両頬をつねってきた。
「怒ってるに決まってるでしょうが」
 そのまま好き勝手にタバサの頬を引っ張りまわして、終わりに勢いよく離す。
 かなり力を込めて引っ張りまわされたので、両頬がひりひりと痛くなった。慣れない痛みに、目に涙が滲んでくる。
「痛い」
「わたしの心の痛みだと思ってちょうだい。ま、これでおあいこね」
 陽気に笑いながら、キュルケはタバサの頭を撫でる。タバサは未だに痛む頬を押さえて恨めしげにキュルケを見上げた。
 キュルケは、そんなタバサを何故か眩しそうに目を細めて見下ろしてきた。
「なんだか少しだけ表情が豊かになったみたいね、あなた。恋のせいかしら」
 ずばりと言い当てられて、タバサはまだギーシュと話している才人をちらりと見る。
 それを目ざとく見つけて、キュルケはからかうような口調で言ってきた。
「サイトったら悪い男よね。いつの間にやらタバサまで虜にしちゃうんだから」
「そんなのじゃ、ない」
 タバサは自分でも分かるほどに歯切れ悪く反論する。キュルケはにやにやと笑いながらタバサの耳元に囁いた。
「お兄ちゃん、だっけ」
 タバサの顔が急に熱くなった。
 盗み聞きされていたということは、当然ながら才人をお兄ちゃんなどと呼んでいたことも知られているのである。
 さすがに無表情を保っていられずに、それでも何とか反論しようと、タバサはひよこのようにじたばたしながら口をぱくぱくさせる。
 しかし、頭が熱くなりすぎていてまともな言葉が浮かんでこない。
 キュルケはしばらく堪えていたが、やがて耐え切れなくなったように大きく吹き出した。
「ああもう、最高。本当に表情豊かになったわ、あなた。サイトに感謝しなくちゃ」
 キュルケがいちいち才人を引き合いに出してからかうので、さすがのタバサも少々ムッとした。
「キュルケ、嫌い」
 そっぽを向いてそう言ってやるが、その動作すらもキュルケにはおかしく見えたらしい。
 彼女はしばらくの間タバサの肩を叩いて笑っていたが、ふと気遣うような声音で囁いてきた。

238 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:54:26 ID:l5m3grWe

「お兄ちゃん、でいいの」
 タバサは驚きに目を見開いて、キュルケに顔を向ける。
 キュルケは、先程まで馬鹿笑いしていたのが嘘のような、優しい微笑を浮かべてこちらを見ていた。
「お兄ちゃんって呼び方、サイトにこれ以上心を惹かれないようにっていう自分への戒めみたいに見えるわ」
 タバサは、今は少し離れたところでルイズと話している才人を見やって、小さく首を振った。
「サイトは、ルイズのことが好きだから」
「ずいぶん物分りがいいのね。わたしの故郷じゃ、恋は奪うものっていうのが常識なんだけど」
「生涯の伴侶は一人だけ。父様は母様を愛してた。母様もそう」
 仲睦まじい夫婦の姿を思い出し、タバサはそっと目を閉じた。
「愛し合う二人の間に割って入るのは、駄目」
「あの二人はまだ愛し合うって段階までいってないと思うけど」
「まだ素直になれないだけ。二人とも、心の底からお互いを大切に思ってる」
 タバサは目を開けて、無理に微笑を作った。
「だから、いい」
 キュルケは無言でタバサを抱きしめる。そして、服越しに背中の宝玉に触れてきた。
「ごめんね、気付けなくて。友達失格だわ、わたし」
「そんなことない。隠してたから、気付けないの当たり前」
「ありがとう。わたしも出来る限りサポートさせてもらうつもりよ」
 キュルケはそう言ったが、旅に直接ついてくる気はないだろうに、どうするつもりなのだろう。
 タバサが首を傾げたとき、荷物の袋を漁っていたシエスタが不意に声をかけてきた。
「ミス・タバサ。兎の皮を剥いだり鳥を焼いたり、できますか」
 突然の質問だったが、タバサは動じずに頷いた。
 彼女とて、王家から理不尽なほどに厳しい任務を命ぜられ、幾度もこなしてきた身である。
 貴族の娘だからといって、自分の食事も用意できないような箱入りとは違うのであった。
 シエスタは胸に手を当ててほっと息を吐いた。
「それなら大丈夫ですね。サイトさんなら罠なんかなくても手づかみで獲物を捕まえられるでしょうから。
 荷物から、携帯食料はほんの少しだけ残して抜いておきます。少しでも軽くしておいた方がサイトさんも走りやすいでしょうし」
「あ、それならついでにこれいれておいてくれる」
 言いつつ、キュルケは腰に下げていた袋の中から、奇妙な装置を取り出した。
 円筒形の装置である。キュルケは使い方を説明するように、円筒の上部を外してみせる。
「ここから雨水や川の水なんかをいれて、下の部分に火をつけるの。
 そうすれば、下からゴミとかが排出されて、ちゃんと飲める水になるんだって」
 要するに魔法を用いた小型の蒸留装置らしい。シエスタが目を丸くした。
「便利なものがあるんですねえ」
「コルベール先生の研究室に、こういうのの設計図がたくさん残ってたの。それを組み立てただけよ。
 ま、慣れない作業でやたらと時間喰っちゃったんだけどね」
 欠伸をしながら、キュルケはシエスタに装置を放り渡す。
「水の浄化自体は水魔法でも出来るけど、出来る限り精神力は温存したいでしょ」
 確かにその通りである。タバサは頷いて、キュルケとシエスタに頭を下げた。
「二人とも、ありがとう」
 そのタバサを見たシエスタが、「まあ」と口に手を当てて呆けたように呟いてから、不意にタバサを抱きしめてきた。
 タバサは唐突にそんなことをされて驚いたが、とりあえず何も言わずに抱きしめられていた。
 が、その内シエスタの豊かな胸に圧迫されて息が苦しくなってきた。
 じたばたしていると、キュルケが苦笑混じりにシエスタを嗜めた。
「こらこら、タバサが苦しいって言ってるわよ」
「あ、ごめんなさい」
 謝りながら、シエスタが体を離す。
「とにかく、いろいろと旅のお手伝いをさせてもらいますからね、わたしも」
 顔を赤くしてそう言うシエスタに、タバサは困惑しながら頷いた。
 何故急に抱きしめられたのかは、結局分からずじまいだった。

239 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:55:10 ID:l5m3grWe

「全くあんたって使い魔は、ご主人様に事情を説明しないまんまギーシュと馬鹿話ばっかり」
「いや、別にさっきまでは馬鹿話してた訳じゃ」
「黙りなさい」
「はい」
 ギーシュとの話が終わるや否や、ルイズは有無を言わさずに才人を引っ張って皆と離れたところに連れてきた。
 そして、才人を無理矢理地べたに正座させて説教タイムの開始である。
「それで」
 と、ルイズは不意に顔を曇らせた。
「結局、あんたはどこに何をしに行くのかしら。ミョズニトニルンが関わってるってことは、
 他の虚無の担い手とも対峙することになるかもしれないんでしょう」
 その口ぶりからして、ルイズは少なくともギーシュより詳しく事情を知っているらしい。
 どちらにしても、ちゃんと全てを打ち明けなければルイズは納得しないだろう。才人は覚悟を決めて、全てを説明することにした。
 ガリア王ジョゼフがミョズニトニルンの主人であり、虚無の担い手であるらしいこと。
 ジョゼフがタバサの両親の仇であり、彼を殺さない限りタバサも苦しみから解放されないこと。
 そういった事情を知り、タバサを救うためにガリア王ジョゼフを暗殺することを決意したこと。
 さすがにタバサがどういう種類の責め苦を味わっているのかとか、一度タバサと交わってしまったことなどは話せなかったが。
「もちろん、お前に迷惑をかけるつもりはない。どんなことになっても、俺の身元は絶対に明かさないようにする。
 だから、許せないかもしれないけど、それでも黙って俺を行かせてほしいんだ。頼む」
 話をそう締めくくって、才人は頭を下げた。ルイズはしばらく黙考したあと、静かな声で問いかけてきた。
「サイト。今から一つだけ質問をするわ。正直に答えなさい」
「なんだ」
「あんたが一国の王を暗殺しようとしてまであの子を助けたいと思うのは、あの子が好きだから?」
 予想外の質問に、才人は驚いて顔を上げた。
 ルイズは黙ったまま、真剣な目で才人を見つめている。
 才人は首を振った。
「それは違う。何度も言ってるけど、俺が好きのはお前だけだよ」
 ストレートにそう言ってやると、ルイズは顔を赤くして目をそらしながらも、文句を言うような口調でぶつぶつと呟いた。
「じゃあなんでご主人様ほっぽりだしてまで行こうとしてるのよ」
「放っておけないからだよ。単純にそれだけだ。
 それともお前、凄く苦しんでる女の子を放っておくようなロクデナシが使い魔でもいいのかよ」
「じゃああんた、逆に聞くけど」
 と、ルイズはじろりと才人を睨みつけた。
「たとえばわたしがあの子と同じぐらい苦しんでて、どちらか一人しか助けられないとしたらどっちを助けるのよ」
 それは凄まじく意地の悪い質問だった。
 タバサを助けるとは答えられないが、かと言ってルイズを助けると選択してタバサを見捨てるのも問題がある。
 才人が苦悩していると、ルイズは呆れたようにため息をついた。
「全くあんたって奴は、そうやって誰にでもいい顔するんだから」
「そう言うけどさ。あ、そうだ、すっごい頑張って二人とも助けるってのはどうだ」
「はいはい。とってもあんたらしい答えだと思うわ」
 「とっても」の部分にやたらと力を込めつつ、ルイズが嫌味ったらしく言う。
 こんなつもりじゃなかったんだけどなあ、と才人は内心ため息を吐いた。
 出発前にご主人様の機嫌を損ねたまま暗澹たる思いで旅立たなければならないとは、先が思いやられるというものである。

240 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:56:30 ID:l5m3grWe

 そのとき、急にルイズが笑い出した。
「なんてね。安心しなさい。別に怒っちゃいないわ」
 予想もしないルイズの変化に、才人は目を瞬いた。
 そんな才人を数秒ほども楽しそうに見つめたあと、ルイズは不意に表情を引き締めた。
「サイト」
「なんだ」
「あんた、さっき言ったわね。お前に迷惑はかけないって」
「ああ。安心しろ、たとえ拷問されたって絶対にお前の名前は」
 言いかけた才人を、ルイズは手で制した。
「逆よ。才人、隠す必要なんてどこにもないわ」
「なんだって」
 才人は目を剥いた。ルイズは腰に両手を当てて胸を張った。
「誰かに尋ねられたら、堂々と自分はルイズ・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔だって名乗りなさい」
「いやお前、さすがにそれは」
「気にすることないわ。ひどい男じゃない、無能王ジョゼフは。
 そんな奴が王なんてやってたら絶対によくないことが起きるわ。
 大丈夫、自信を持ちなさい。あんたは正しいことをしようとしてるの。
 もしもあんたのために処刑されることになったとしても、わたしは絶対に後悔なんかしないわ。
 それどころか、立派な使い魔を持ったっていう誇りを抱いて死んでいける。だから、あんたも胸を張って行きなさい」
 ルイズは力強い瞳で才人を見据えながら、一片の迷いもなくそう言い切った。
 才人の胸に不思議な感情が溢れ出した。愛しさとはまた別種の熱さを持ったなにかだ。
 その感情の正体を計りかねる才人の前で、ルイズは不意に力強い表情を崩した。
 後に残ったのは不安と危惧に押しつぶされそうな、か弱い少女の顔だった。
「でも、一つだけ約束して」
「なんだ」
「絶対に帰ってくること。ご主人様を置いて死ぬなんて、今度は絶対に許さないからね」
 薄らと目を潤ませて、ルイズは気丈にそう言った。
 それは、直前までの台詞から考えると、明らかに矛盾した言葉だった。
 理性と感情、それぞれの要求。だが、完全に本音を吐き出した訳でもあるまい。
 不意に体の奥底から湧き上がった衝動に駆られ、気付くと才人はルイズの細い体を強く抱きしめていた。
「ルイズ。俺がタバサを助けようと思ったのは、あいつが苦しんでるからってだけじゃないんだ」
「他にどんな理由があるのよ」
 困惑交じりの声に、才人は目を瞑りながら囁き返す。
「お前のこと、凄いって思うからだ。誇りに思うからだよ。
 そんな凄いご主人様の使い魔なんだ。俺自身も、出来る限り凄い奴になりたいと思う。
 そういう気持ちが嘘になるような真似だけは絶対にしたくない。だから、俺は行くんだ」
 才人の胸の中で鼻をすすり上げながら、ルイズは笑った。
「馬鹿。あんた、前はあんなに名誉のために死ぬのはくだらないって言ってたじゃないの」
「そりゃ今だって変わらないよ。俺は名誉のために死ぬんじゃない。誇りを抱いて生きるんだ。
 大丈夫だ。絶対にここに帰ってくる。約束するよ。お前一人残して、死んだりはしない」
「本当」
 胸の中のルイズが、不安げな表情で才人の顔を見上げてくる。才人は笑って頷いた。
「本当だよ。何なら、指きりしたっていい」
「指きりってなに」
 不思議そうに聞いてくるルイズの体を一旦離し、才人は右手の小指をルイズに向かって立ててみせた。

241 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:57:12 ID:l5m3grWe

「こうやって、お互いの小指をからめるんだ。俺の故郷で、絶対に約束を破らないっていう印なんだよ」
 言いつつ、才人は強引にルイズの手を引き寄せて、自分の小指にルイズの小指を絡めさせた。
 そして、今や懐かしさすら感じる文句を口にしながら、小さく腕を上下させる。
「指きりげんまん、嘘吐いたら針千本飲〜ます、指切った」
 言い切って指を離そうとしたが、何故かルイズは顔を赤くして小指を離そうとしない。才人は苦笑した。
「いや違うよルイズ」
「え、なにが」
「これ、最後に指切ったって言ったら指を離すんだよ。それで確かに約束しましたってことになるの」
「あ、そうなんだ」
 眉尻を下げながら、ルイズが名残惜しそうに指を離す。才人は満足して数度頷いた。
「よし、これで大丈夫だ。俺は絶対生きて帰ってくるからな」
「うん」
 それでもまだ多少不安げな顔をしていたルイズは、不意に何かを思いついたようにちょっと目を見開き、
 それから顔を赤くしてもじもじと歯切れ悪く言い出した。
「あのね、サイト」
「どうした」
「さっきの、あんたの故郷での約束の印なんでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ、今度はわたしの故郷での約束の印、してくれる」
「ああ、いいけど。どんなのなんだ」
 するとルイズは無言で目を瞑り、唇を突き出した。あまりの事態に、才人は硬直してしまう。
「なにやってるの、早くして」
 焦れたように、ルイズが言ってくる。才人はぎくしゃくした動きでルイズの肩に手をかけつつ、それでもやはり躊躇った。
「あのご主人様。ホントによろしいんでございますか」
「勘違いしないでくださる。あくまで約束の印なんであって、他の感情なんて一切ありませんから」
 何故かお互いに変な敬語になっている。
 明らかに雰囲気がおかしいことに気付きつつも、才人はほとんど衝動的にルイズの唇に自分のそれを押し付けた。
 甘い匂いと感触が唇に伝わってくる。この異世界に最初に来たとき味わった、懐かしい感触だ。
 とは言え約束の印であるから長い間味わっている訳にもいかず、才人は一秒もしないうちにルイズから体を離した。
「ご主人様。終わりましてございまする」
「そうですか。それはいい塩梅でございましたね」
 意味不明な会話をしつつ、二人は互いに目を逸らしあったまましばし無言であった。
 その沈黙を破ったのは才人でもなければルイズでもなかった。
「ふーん」
 嫌味ったらしい声でそう言う、剣。それを聞いて、ルイズは大きく体を震わせた。
「ちょっと、サイト」
「え、なに」
「そのボロ剣に話があるの。ちょっとそれ置いてあっち行っててくれる」
「いいけど、いったいなに」
「いいから早く行く」
 歯を剥いて怒鳴るルイズに気圧されて、才人はデルフリンガーを地面に放り出してすたこらさっさと駆け出した。

242 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:58:05 ID:l5m3grWe

 未だに袋の中を整理しているシエスタに向かって駆けていく才人の背中を見ながら、ルイズは無言で剣を拾い上げる。
 さっきの一言以降、デルフリンガーは何も言ってこない。
 その沈黙がまた嫌味ったらしく思えて、ルイズは顔を引きつらせた。
「ねえちょっとボロ剣。何か言いなさいよ。それとも溶かされたいのかしら」
「いやいや、別に他意があって黙ってた訳じゃねえよお嬢様」
 デルフリンガーの口調は露骨にこちらをからかっているものだった。
 人間ならば間違いなくにやにや笑いを浮かべているであろう声音のまま、デルフリンガーが言う。
「いやあ、長生きはしてみるもんだね。まさか数千年も生きてて今初めて知ることがあるなんて思わなかったよ俺。
 約束の印がキスか。いやあ、俺が知らない間にハルケギニアの風習もずいぶん変わったもんだよ、うん。
 男同士の約束とかのときはどうなんのかねこの場合。いやん、デルフ困っちゃう」
 ルイズは無言で始祖の祈祷書を開いた。
「いやだからマジ止めてちょうだいよそれは。何でも力で解決しようとするのは悪い癖だぜ。暴力はいけない」
「あんたがいちいち嫌味を言うのが悪いんでしょうが」
 怒鳴りつけてから剣を地面に放り投げる。デルフは「いてっ」とわざとらしく抗議した。
「もうちょっと優しく扱ってよ。年寄りは大事にするもんだぜお嬢ちゃん」
「都合のいいときだけ年寄りぶらないで」
「カーッ、聞いたかい今の台詞。鬼嫁。鬼嫁があたしをいじめるんだよ相棒」
 このボロ剣の言うことをいちいち真に受けていたら身が持たない。
 ルイズはため息を吐いて、尚も何かを喚き続けているデルフリンガーの声を黙殺した。
「しかし、相変わらず素直じゃないねえ」
 不意に声の調子を変えて、デルフリンガーが言ってきた。
「キスしてほしいんならそう言えばいいじゃないの。相棒なら喜んでいくらでもぶちゅぶちゅやってくれるぜ」
「別にキスしてもらいたかった訳じゃないわよ」
「ふーん」
「あれはね、別にハルケギニア全土の風習じゃないの。わたしの家に代々伝わるおまじないでね」
「ふーん」
「だから、約束の印以外の意味は全くないの。全部あんたの勘違いなの」
「ふーん」
 明らかに信用していない。とは言え、自分でもさすがに下手な嘘だと思ったので、文句は言わなかった。
「そうか、俺の勘違いか」
「そうよ、勘違いよ」
「でも嬢ちゃん、いいのかい」
「何がよ」
「相棒も勘違いしたまんまだぜ」
「それがどうしたの」
「その状態で、あのメイドに『約束してください』なんて言われたら」
 ルイズはデルフリンガーをほっぽり出したまま全速力で駆け出した。

243 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:58:43 ID:l5m3grWe

 そうして、三十分もする頃には準備は全て整っていた。
 正門の前に立った才人とタバサを、ルイズたち五人が正門の内側から見守っている。
 才人の背中にくくりつけられた袋は最初よりもずっと軽くなり、今や最低限の必需品だけが詰まっている状態だ。
「いやあ、それにしても気付かなかった。そうだよな、森とか山とか通っていくんだし、食料は現地調達すりゃいいんだよな」
「盲点」
 才人の言葉にタバサが頷く。そんな二人を見て、キュルケが苦笑を浮かべた。
「なんか、心配になるわね。遊びに行く子供を送り出す母親の心境だわ」
「おいおい、そりゃひでえよ。最低限迷子にはならないつもりだぜ」
 言いつつ、才人は右手に持った槍に向かって「球になれ」と念じる。
 槍は瞬時に小さくなり、才人の手の平に収まるサイズの球になった。
 この状態でも武器として認識されるらしく、左手のルーンは光ったままだ。
「確かに、この状態ならこのまま走っても大した問題にはならねえな」
「というより、君はまさか剣を握ったまま走っていくつもりだったのかね」
 ギーシュが呆れたように言う。才人は大真面目に頷いた。
「そのつもりだったけど」
「準備がいいようで全然良くないじゃないの」
「全くそのとおりだな」
 モンモランシーの台詞に、才人とタバサは顔を見合わせて苦笑した。
 確かに敵を倒すということにだけ捕われすぎて、細かい点をぽつぽつ見落としていたようである。
 それを指摘しフォローしてくれる友人たちがいたのは、実に幸運なことだった。
「サイトさん」
 シエスタが目を潤ませて歩み出てきた。手には最初現れたときに持っていた包みをぶら下げている。
「本当に、行っちゃうんですね」
「ああ。大丈夫、絶対戻ってくるよ」
「はい。わたし、信じてますから。これ持っていってください」
 そう言って、シエスタは包みを差し出してくる。
「お弁当です。今日の分だけですけど、一生懸命作りました。
 しばらくは味気ない食事ばっかりになるでしょうから、せめて今日だけでもおいしいもの食べてください」
「ああ、ありがとう。そうだよな、シエスタの料理もしばらく食べられなくなるんだよな」
 まだ温かさを保っている包みを見下ろしながらそう言うと、シエスタは不意に堪えきれなくなったように泣き出してしまった。
「え、ちょっと、シエスタ。いきなりどうしたんだよ」
 慌てて才人がなだめにかかると、シエスタはしゃくりあげながら「だって」と声を詰まらせた。
「皆さん凄い品物でサイトさんのお役に立ってるのに、わたしだけこんなことしかできないのが悔しくて」
 何ともいじらしい言葉である。才人の目頭もじんと熱くなった。
「そんなことないよ。旅の準備だっていろいろと整えくれたし、他の皆に負けないぐらいにありがたいよ」
「本当ですか」
「本当だって。ああでもさ、欲を言えば、見送りは笑顔でしてほしいな。もちろん、出迎えもね」
 シエスタはようやく涙を拭い、赤い顔で「はい」と笑ってくれた。

244 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:59:18 ID:l5m3grWe

 そのとき、モンモランシーが気遣わしげに本塔の方を振り返った。
「そろそろ行かないと、誰かに見られるかもしれないわ」
「ああ、そうだな。ちょっと名残惜しいけど、出発するか」
 才人は傍らのタバサを見やる。タバサは小さく頷き返してきた。
 そして、才人は改めて正門の向こうにいる五人の顔を見回し、頭を下げた。
「皆、本当にありがとう。正直、皆がきてくれなきゃ、こんないい気分で出発できなかったと思う」
 五人は、それぞれに違った表情を浮かべて答えを返してきた。
「気にしないの。こっちだって好きでやってるんだしね」
 穏やかな微笑を浮かべるキュルケ。
「そうだ。僕らは友人なんだからね」
 目を細めて笑うギーシュ。
「そんなことより、元気で帰ってきなさいよね」
 澄まし顔で片目を瞑るモンモランシー。
「わたし、信じてますから」
 胸に両手を置き、強い瞳でこちらを見つめるシエスタ。
「いいから、さっさと行ってさっさと帰ってきなさいよ」
 うつむき加減で唇を尖らせるルイズ。
 才人はもう一度だけ全員の顔を見回した。出来る限り、今の皆の姿を記憶に留めておきたかった。
 そのとき、魔法学院内から重々しい鐘の音が聞こえてきた。
 起床の鐘。一日の始まりの合図である。
「それじゃあ、行ってくる。必ず二人で帰ってくるよ。約束だ」
 そう言い残して、才人は踵を返した。タバサも無言で五人に向かって頭を下げてから、それに従う。
 行く手で、厚い雲の切れ間から淡い朝日が差し込んできているのが見えた。

 鳴り響く鐘の音の中、才人とタバサの背中が少しずつ遠ざかっていく。
(ああ)
 ルイズは心の中で小さな吐息を零した。
 数ヶ月前、意識を失う直前に見た淡い微笑と、今小さくなっていく背中が重なり合う。
 このまま行かせていいのか。あのときと同じように、もう戻ってこないのではないか。
 胸が不安に押しつぶされそうになる。本当は行ってほしくなどない。
 それでも、止めることなどできない。
 誇りと決意を抱いて旅立とうとしている大切な人を、自分の我がままで引き留めることは、絶対にしてはならない。
 しかしどんなに理性で打ち消そうとしても、心を埋め尽くす重苦しい不安は消えてくれないのだ。
 才人の背中はどんどん遠ざかっていく。あともう少しで、完全に見えなくなってしまうだろう。
 そのとき、誰かがルイズの背中を押した。
 それはキュルケだったかもしれないし、モンモランシーだったかもしれないし、シエスタだったかもしれない。
 鳴り響く鐘を背に、ルイズは弾かれたように駆け出していた。

「サイト」
 涙混じりの声で後方から呼びかけられて、才人は驚きと共に振り返った。
 ルイズが走ってくる。風に涙を千切らせながら、真っ直ぐに。
 自分に向かって飛び込んでくる小柄な体を、才人は危なげなく受け止めた。
「どうした、ルイズ」
 ルイズは才人の胸に顔を埋めたまま激しく泣きじゃくっていたが、やがて涙に濡れた顔を上げて途切れ途切れに言った。
「絶対帰ってきてね。わたし、ひとりぼっちはもういや」
 珍しく素直に自分の願いを表現するルイズを、才人は強く抱きしめた。
「ああ。必ずだ」

245 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 12:59:56 ID:l5m3grWe

 タバサと才人が去っていった方向をじっと見つめたまま、五人はしばらくの間正門の傍に立ち尽くしていた。
「それにしても」
 不意に、シエスタが苦笑混じりに呟く。
「ミス・タバサって、あんなに可愛らしいお方だったんですねえ」
 頬に手を添えて、シエスタは悩ましげなため息をついた。隣でモンモランシーも苦笑した。
「ホント。わたしも真っ直ぐ見上げられたときに、思わず胸がきゅんとしちゃったわ」
「ま、当然ね。わたしの親友だもの」
 何故か誇らしげに胸を張ったあと、キュルケは「さて」と両手を打ち鳴らした。
「そろそろ戻りましょう。わたしたちが見られて不審がられてちゃ世話ないわ」
「そうだな。部屋に戻ってゆっくり休むとしよう」
 体をほぐすように伸びをしながら、ギーシュが言う。モンモランシーが呆れた顔で両手を腰に当てた。
「あんた、授業はどうすんのよ」
「いいじゃないか。どうせ今日はミスタ・ギトーの授業だけだ。
 彼は最近何故かマリコルヌの指導に熱心で、他の生徒の扱いがぞんざいだからね」
「確かにね。一体何があったのかしらあの人」
「何なら一つのベッドで眠ろうじゃないかモンモラ」
「さて、帰りますか」
 ギーシュの口説き文句を軽く受け流しつつ、モンモランシーは眠たげに歩き出す。ギーシュも慌ててその後を追った。
 未だに才人が去っていた方向をみたまま瞳を潤ませているルイズの肩に、シエスタがそっと手を添えた。
「さあ、わたしたちも戻りましょう、ミス・ヴァリエール」
 小さく頷きつつも、ルイズは歩き出そうとしない。シエスタが怒ったように言った。
「もう、どうしたんですかミス・ヴァリエール。サイトさんは絶対に帰ってくるって言ったんです、何も心配ありませんよ」
 ルイズはまた頷いたが、やはり歩き出す気配はない。
 シエスタはその様子を見て眉をひそめていたが、やがて口に手を添えて意地悪く笑った。
「まあいいですけどね。そこに突っ立ってぼうっとしてくれてた方が、わたしにとってはありがたいです。
 不健康にげっそりやつれたミス・ヴァリエールと、健康的な笑顔のわたし。サイトさんはどっちが魅力的だと思うかしら」
 そう言った瞬間、ルイズは柳眉を逆立てて大きく足音を立てながら本塔の方に歩き出していた。
 その背中を見送りながら、シエスタはおかしそうに笑う。
「ホント、分かりやすい人ですね」
「あなたも言うようになったわねえ」
 呆れ半分にキュルケが言うと、シエスタははにかんだように微笑んで「最近なんだか慣れちゃって」と呟いた。それから、丁寧に頭を下げた。
「それでは、わたしも失礼しますね」
 頷くキュルケにもう一度礼をして、シエスタもゆっくりと本塔のほうに向かっていった。
 雲と霧を払いながら地上に降りてくる薄い陽光の中で、キュルケはかすかに目を細める。
 才人とタバサの姿は、もうとっくの昔に見えなくなっている。聞こえないと知りつつ、キュルケは小さく囁いた。
「今度会うときは、わたしにもシャルロットと呼ばせてもらいたいものね、タバサ」

246 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 13:00:51 ID:l5m3grWe

 その日の朝早く着替えを終えたばかりのアンリエッタの寝室を訪れたのは、いつもの鎧に身を纏ったアニエスであった。
 アンリエッタは女王付きの侍女を下がらせて、アニエスを部屋に招き入れる。
 アニエスはアンリエッタの自戒のためにすっかり殺風景になった寝室に通されると、まずは跪いて非礼を詫びた。
「このような時刻にお目通りを願った無礼をお許しください。緊急にお伝えしなければならないと判断いたしました故に」
「いいのです、わたくしの隊長どの。あなたが礼儀に目を瞑ってまで伝えようとすることなのです。
 よほど深刻な事態なのでしょう。報告をお願いします」
 アニエスは一つ頷き、魔法学院を監視していた銃士隊員からの報告内容をアンリエッタに伝えた。
 先の戦争中に襲撃されて以来、魔法学院周辺で数名の銃士隊が常に巡回を行うようになっていた。
 再び魔法学院が狙われることを恐れたアンリエッタが秘密裏にアニエスに命じたことで、
 学院長のオールド・オスマンの許可は取ってあるものの、他の誰にも察知されていないはずである。
「ルイズの使い魔さんが、女生徒の一人と共にどこかへ旅立った、と」
「はい。途中で森に入ってしまい、その上ガンダールヴの力で疾走したために見失ってしまったようですが」
「一緒にいた女生徒というのは」
「シャルロット・ド・ラ・オルレアン」
 アンリエッタは目を見張った。
「確か、ガリアの今は亡き王弟殿下のご息女でしたね」
 思い出すように呟く。タバサと名乗っている少女の素性はとっくに調べ上げられていた。
 政争争いに敗れたとは言え、仮にも王族である娘がトリステインに留学してきているのである。
 これで何の関心も払われない方が不思議というものであった。
「一体、何のために」
「分かりませぬ。ただ、平賀才人は明らかに旅姿だったということで、かなりの遠出になることは間違いありません」
「ガリア王家から何か任務が伝えられたのかしら。でも、それで使い魔さんが同行するのは不自然だわ」
 アンリエッタは親指の爪を噛みながら数秒黙考した。
「ガンダールヴの神速で移動している二人を発見するのは、まず不可能でしょう。それに、二人は森に入ったのでしたね」
「はい。明らかに人目を避ける様子でした」
「それでは、様子を見るしかありませんね。ひょっとしたら、ガリア王ジョゼフの企てに何か関係しているのかもしれません」
 彼の無能王に何かただならぬものを感じたアンリエッタは、未だにその企ての尻尾を掴むため各地に間諜を潜ませていたのだ。
 だが、今になっても目立った成果は上がっていない。無能王は日々ヴェルサルテイルの奥で一人遊びに興じているとのことである。
 彼の考えを探るために、今は藁にでもすがりたい心境であった。
「それと、もう一つ」
 アニエスは懐から泥に塗れた人形のようなものを取り出した。手の平大の大きさで、人の体を模している。
 自身も優秀なメイジであるアンリエッタには、その人形の正体が一目で分かった。
「アルヴィーですね。あまり複雑なつくりではないようですが」
 魔法の力で動く操り人形である。アニエスは頷いて、慎重な口調で言った。
「数日前、魔法学院周辺の森で、土から顔を出しているのを銃士隊員が発見したものです」
「そうですか。それでは、魔法学院の誰かが失敗作を廃棄したとかではないのですか」
「それならば良かったのですが」
 アニエスは眉をひそめてアルヴィーを見つめた。
「これと同一の人形が、他にも数体発見されております。それも全て土に埋もれた状態で」
「つまり、どういうことなのですか」
「それらは全て、魔法学院の方角を向いて埋められていたのです。それも、学院を取り囲むようにして」
 アンリエッタは目を見開いた。アニエスは淡々と説明を続ける。

247 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 13:01:52 ID:l5m3grWe

「魔法研究所に調査を依頼したところ、魔法が発動すれば成人男性より一回り小さなサイズにまで巨大化することが判明致しました。
 おそらく、少なく見積もっても同じ人形が数百は埋められていると推測されます。
 術者が魔法を発動させれば、これらの人形が一斉に魔法学院に向けて進撃するように配置されているのでしょう。
 それほど多くの人形を、一度に操れる者は一人しか存在しません。即ち、神の頭脳、ミョズニトニルン」
 アニエスがアルビオンで才人とミョズニトニルンの戦いに巻き込まれて以来、
 トリステイン王国でも密かに虚無の情報が集められていた。
 アニエスは才人やルイズからも情報を得ており、その使い魔の能力に警戒心を抱いていたのである。
「狙いはやはり」
「ええ。虚無の担い手、ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールと見て間違いないかと」
「人形を全て発見して取り除くことはできないのですか」
「発見できたものは、全て土から顔を出した状態で埋まっておりました。
 ですが、本来ならばもっと深いところまで潜行するような仕組みになっているとのこと」
「つまり、事前に駆除することは不可能なのですね」
「残念ながら」
 つまり、ミョズニトニルンは自分の意思次第で数百、ひょっとしたら数千の軍勢に魔法学院を包囲させることができるわけだった。
 それも、今すぐにでも。
「ルイズを他の場所に避難させるのは」
「護送中に大量のアルヴィーに包囲されては手の打ちようがありません」
「どうしたら良いのでしょう」
 アンリエッタは女王であるが、軍事のことは専門外である。アニエスは跪いたまま真っ直ぐに女王を見上げた。
「私にお任せください、女王陛下」
「どうするつもりなのですか」
「簡単なことです。護送が不可能ならば、魔法学院に立てこもってアルヴィーを撃退すればいいまでのこと。
 一度この人形を無理矢理発動させてみましたが、単体の実力は大したことがありません。
 また強度もさほど高くはなく、剣や銃でも撃破は可能。一定のダメージでただの土くれと化します。
 つまり、平民にも十分に対処可能な相手ということです」
「しかし、あなたの銃士隊だけでは数が足りないでしょう」
「ええ。ですから、職にあぶれた傭兵たちを連れていきます」
 アニエスは肩をすくめた。
「アルビオンとの戦争が終わって、仕事のなくなった傭兵たちが下町をうろついて治安を悪化させていると聞きます。
 奴等を統制しつつ職を与えてやるのに、これほどいい機会はありますまい。
 魔法学院の警護ですから、多少は良識のある者たちを選ぶ必要があるでしょうが。
 それと、戦争が早期に終結したために大量に余っている銃と弾を持っていきます。
 魔法学院に務めている平民たちでも、訓練すれば少しは戦力の足しになりましょう。
 有事の際には学院の生徒にも手伝ってもらうことにしましょう。卵とは言え、メイジは戦力として当てになりますから」
 すらすらと説明するアニエスに、アンリエッタは深い信頼をこめて頷いた。
「あなたに全てお任せします、わたくしの隊長どの。すぐに書類を発行いたしますから、あなたは準備に取り掛かってください。
 わたくしの大切な友人と、わが国の未来の財産である学生たちの命を、どうかお守りくださいまし」
「この命に代えましても」
 アニエスは立ち上がって一礼し、寝室を退室しかけた。その背中に、アンリエッタはふと問いかける。

248 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/10(日) 13:07:00 ID:l5m3grWe

「アニエス。本当に、敵は来るのでしょうか」
 アニエスは振り返り、きびきびと答える。
「間違いなく。ガリアの王弟殿下のご息女及び虚無の使い魔の失踪と、このアルヴィーが発見された時期が重なった。
 とても偶然とは思えませぬ。おそらく敵は何らかの手段で使い魔の不在を察知し、
 その隙を突いてルイズ嬢を亡き者にしようと企てたのでしょう。
 ですがご安心ください。非才なれども戦火を潜り抜けたこの身。そう易々と敵の思い通りにはさせませぬ。では」
 アニエスが退室した後静まり返った部屋の中で、アンリエッタは静かに自分の肩を抱いた。
 時代は動乱期を迎え、空気にすら硝煙の匂いが混じっているように思える。
 ウェールズ、ルイズ、シャルロット、そして自分。何故こんな時代に生まれついてしまったのだろう。
 平和な時代に生まれれば、皆が何の不安もなく笑っていられただろうに。
(今は自分の運命を嘆くときではないか。今も生きている友人のために、出来ることをしなければ)
 アンリエッタは弱気になりかける自分を奮い立たせると、執務室へ行く準備のために手を打ち鳴らして侍女を呼んだ。

(さて、陛下の手前大丈夫だと断言したが、これはなかなか厄介な仕事だな)
 一人廊下を歩きながら、アニエスは頭の中で目まぐるしく考えを巡らせていた。
 立てこもって防衛を行うと言っても、魔法学院は元来軍事用の施設でないだけに、そのままの状態で膨大な敵を食い止めるのは不可能だ。
 防壁の建造は学院にいるメイジたちにやらせればそれ程時間はかからないだろうが、問題は兵だ。
 自分の銃士隊は大丈夫だ。だが、傭兵の登用は慎重に行う必要がある。
 金のために働く連中である。それが困難な戦闘であると分かったとき、粘り強く戦場に留まるとは思えない。
 下手をすれば、彼らの逃亡で全軍の崩壊を招く危機すらあるのだ。
 その光景を想像するのは、あまり気分のいいものではない。
 それに何より、平民や学院の生徒たちを一応戦える程度に鍛えられるまで、敵が待っていてくれるかどうか。
(それ程時間はかけられんか)
 それでも、無理だと投げ出すことは絶対に出来ない。アニエスは重苦しい覚悟を固めて、靴音も高く廊下を歩いていった。

 この日、特に戦争中魔法学院の学徒兵と良好な関係を築いていた軍人や傭兵を中心に、ある命令が下された。
 命令内容は、「対メイジ用の新戦術の試験を魔法学院にて執り行うため、警護に同行されたし」。
 少々奇妙な命令であったが、職にあぶれていた多くの傭兵たちは喜んでこの仕事に飛びつき、軍人たちも奇妙な顔をしながら命令に従った。
 それ程遠くない未来に、想像を絶するほどの激戦が待ち受けているとも知らずに。
444 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/28(木) 00:06:50 ID:z9XCxUzz

「ほう。では、アルヴィーの配置は完了したのだな」
「はい、ジョゼフさま。あのお人形とガンダールヴがこちらに向かって出発したのも確認しております。
 ジョゼフさまのご命令あらば、今すぐにでも魔法学院を包囲し、一息で攻め落としてごらんにいれましょう」
 王座の正面、少し離れた場所に跪くミョズニトニルンの報告に、ジョゼフは上機嫌な表情で頷いた。
 まだ深夜と表現してもいい時刻である。昼は多くの貴族や使用人が行き来するヴェルサルテイル宮殿も、今はひっそりと静まり返っている。
 そんな中、宮殿の最奥である王座の間にだけは明かりが灯されていた。
 繊細な意匠が施された王座の間の壁際には、鈍く光る鋼の鎧で全身を固めた兵士たちがずらりと並んでいる。
 一見しただけでは分からないが、彼らは皆人間ではない。兵士の形をしたアルヴィーである。
 必要ないと言って笑うジョゼフを説得し、ミョズニトニルンが常に周辺を警護させている近衛兵である。
 ジョセフを王位につけて傀儡にしようとした貴族たちはともかく、
 今は亡き王弟オルレアン公を信奉している反ジョゼフ派の貴族たちが放った刺客が、どこに紛れ込んでいるとも限らないからだ。
 本当ならそんな連中は今すぐにでも無力化したいし、ミョズニトニルンの力を使えばそれはさほど難しいことではない。
 だが、そういうミョズニトニルンの進言を、ジョゼフはどうしても受け入れようとしない。そんなことをしても退屈なだけだ、と言って。
 この夜もそうであった。ジョゼフは、今すぐ魔法学院を落とそうというミョズニトニルンの提案に、王座にもたれかかったまま首を横に振ったのだ。
「それはならん」
「何故ですか」
 驚きに目を見開きながら、ミョズニトニルンは顔を上げる。ジョゼフは使い魔の驚愕を楽しむように目を細める。
「トリステインにも何やら動きがあるのであろう」
 美髯をしごきながら、ジョゼフが問う。ミョズニトニルンは頷きながら答えを返した。
「銃士隊や一部の部隊に召集がかかっているようです。戦争で使い損ねた銃をかき集めているという情報もございます」
「ということは、こちらが魔法学院を包囲しようとしていることは既に把握されているということではないかな、余のミューズよ」
「はい。魔法学院に軍を集結させ、防衛に当たらせるものと推測されます。ですから、今すぐにでもアルヴィーを」
 息巻くミョズニトニルンに、ジョゼフは首を振ってみせる。
「それはならんと言っておるのだ、余のミューズよ」
「しかし」
「それではつまらん」
 ジョゼフは子供のように唇を尖らせた。
「温室育ちのひよっこメイジと所詮は戦を知らぬ教師、魔法どころか戦う術すら知らぬ平民ども。
 こんな連中に万を超えるアルヴィーを差し向けたとて、結果は目に見えておる。
 どうせなら徹底的に抵抗してもらって、派手な戦を見物したいのだよ、余のミューズよ」
「つまり、相手の体制が整うまでは手を出すなと仰るのですか」

445 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/28(木) 00:07:24 ID:z9XCxUzz

「そうだ。怯える兎などを狩ったところでつまらぬだけだ。奴等を犬とするのだ、余のミューズ。牙を与えてやるのだよ。そして」
 不意に、ジョゼフの口角が大きく吊りあげられた。面立ちが端正なだけに、その微笑はより酷薄で、残忍なものに見える。
「ありったけの力を持って、その牙をへし折ってやるのだ。健気にも万を超えるアルヴィーに立ち向かってくるか弱い犬どもを、
 徹底的に追いたて、嬲り、一片の慈悲すら与えずに叩き潰す。想像しただけで背筋が震えるというものではないか、余のミューズ」
 ミョズニトニルンは一応頷いてから、しかしなおも食い下がった。
「ですが、ジョゼフさま。学院には虚無の担い手がいるのです」
「それがどうした。使い魔と引き離された虚無にどれだけのことができようか。
 おおそうだ、いいことを思いついたぞ余のミューズ。この宮殿まで辿りついたガンダールヴに、
 己の主が陵辱されるところを見せ付けてやるというのはどうだ。うむ、それがいい、そうしよう」
 自分の思いつきに手を叩いて喜ぶジョゼフに、ミョズニトニルンは内心焦りを感じた。
 ジョゼフには、オルレアン公の娘とガンダールヴが、この宮殿にたどり着くのを阻止するつもりは毛頭にないらしい。
 あちらの行動は常時監視しているのだ。どんなに人目を避けて移動しようとも、無駄なことだ。
 だから、ミョズニトニルンとしてはこの宮殿にたどり着く前に何としてでも排除しておきたい。
 無論、武器しか扱えぬガンダールヴと、優秀ではあるが所詮は普通のメイジに過ぎないオルレアン公の娘相手に、自分が負けるなどとは考えていない。
 だが、万一の可能性を考慮すれば、ジョゼフと敵を直接対峙させるのは愚行というものである。
 ほぼ無制限に魔法具を扱えるとは言っても、ミョズニトニルン自身には戦闘能力はほとんどないのだ。
 ガンダールヴが捨て身でジョゼフを狙ったりすれば、果たして止められるかどうかは分からない。
「恐れながら、ジョゼフさま」
「ミューズ」
 なおも食い下がろうとするミョズニトニルンを、ジョゼフは一声で黙らせた。
 その顔には、今も先程と変わらぬ微笑が浮かんでいる。だが、細められた瞳は冷たく底光りしていた。
 主の機嫌を損ねてしまったと気付き、ミョズニトニルンは慌てて頭を垂れた。捨てられるかもしれないという恐怖に、体が芯から震え出す。
「どうかお許しください、ジョゼフさま」
 震える声で懇願するミョズニトニルンに、ジョゼフは薄ら笑いを浮かべたまま首を振ってみせた。
「ならぬ。お前は主である余に口答えしたのだ。罰を与えねばならぬ」
 ジョゼフは軽く顎を上げて言った。
「服を脱げ」
 ミョズニトニルンは肺の奥から熱っぽい息を吐き出した。ローブが波打つのではないかと心配になるほどに、激しく心臓が高鳴り出す。
 わずかに顔を上げてそっと上目遣いに見上げると、ジョゼフは王座の肘掛に頬杖を突いてじっとこちらを見下ろしていた。

446 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/09/28(木) 00:08:02 ID:z9XCxUzz
「どうした、早くせぬか」
 ミョズニトニルンは大きく息を吸いながら立ち上がり、震える手をローブにかけた。
 目を瞑ったまま、一枚一枚服を剥ぎ取っていく。
 そうして靴まで脱ぎ捨てて裸になったミョズニトニルンだったが、やはり羞恥心が勝って胸と股を手で覆い隠してしまう。
「手を下げろ」
 容赦のない声で、ジョセフが端的に言う。ミョズニトニルンは観念して手を下げた。
 白い肌が夜気に晒され、形のいい乳房が小さく震える。
 ミョズニトニルンの他にこの場にいるのは、彼女の主と命持たぬ魔法人形だけである。
 それでも、広い王座の間に隠すものもなく裸で立たされては、羞恥心を感じるなという方が無理な話だった。
「来い」
 ジョゼフの命令に従って、ミョズニトニルンはゆっくりと歩き出した。
 一歩一歩と足を進めるたび、冷たい夜気が周囲を流れていく。しかし、体は芯から熱を発しているかのように火照っている。
 そうして王座のすぐ手前まで辿りついたミョズニトニルンを、ジョゼフは座ったまま丹念に眺め回した。
 ただ見られているだけだというのに、まるで撫で回されているように感じるようなねっとりとした視線だった。
 体の表面をジョゼフの視線がなぞるにつれて、ミョズニトニルンの体の奥から発する熱はますます昂ぶっていく。
 あまりの熱に頭がとろけたようにぼんやりしはじめたとき、ようやくジョゼフは次の指示を出した。
「座れ」
 素直に頷いて、ミョズニトニルンはジョゼフの体にしなだれかかる。服越しとは言え主の体温を感じたことで、体が大きく戦慄いた。
「ジョゼフさま、ジョゼフさま」
 体を包む熱狂に任せて主の名を呼びながら、彼のたくましい首筋に唇を寄せる。
 そのまま幾度か口付けすると、ジョゼフは呆れた口調で言ってきた。
「これ、はしたないではないか余のミューズよ。これでは盛りのついた牝犬の方がまだ慎みがあるというものだ」
 ジョゼフは自分の膝の上に収まっているミョズニトニルンの尻を軽く叩く。ミョズニトニルンは嬌声で喉を震わせた。
「ああ、申し訳ありませんジョゼフさま。どうか淫乱な私にお慈悲を下さいませ」
「おお情けない。そんな様で神の頭脳などと名乗ろうとはな。まあよい、そう言うならば慈悲をくれてやろうではないか」
 ジョゼフはゆっくりとミョズニトニルンの股に手を滑り込ませてくる。そして、わずかに眉をひそめた。
「おおミューズよ、心底まで淫らなのだな余の使い魔よ。この様はどうだ、大雨で氾濫した大河の方がまだ大人しいぞ」
 大げさな形容で言葉を飾り立てながら、ジョゼフはミョズニトニルンの体を愛撫し始める。
 彼の手は実に的確にミョズニトニルンの弱い部分を刺激し、焦らすようにゆっくりと快感を昂ぶらせていく。
 空を飛ぶような高揚感に身を委ねるミョズニトニルンの耳元で、ジョゼフがそっと囁いた。
「余のミューズよ、お前は以前言っていたな。自分こそが四の使い魔の中で一番強い能力を持っていると」
 混濁する意識を懸命に繋ぎとめながら、ミョズニトニルンは何とか頷く。すると、額に暖かい何かが触れた。
 ジョゼフが、ミョズニトニルンの額に刻まれたルーンに口づけしたらしかった。
「それを証明してみせよ、余のミューズよ。それほどの力でなければ、余を満足させることなどできぬ」
 主の声を遠くに聞きながら、ミョズニトニルンは幾度も大きく頷いた。
86 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/10/16(月) 23:07:51 ID:HXzZuVLB
 疲労に重くなった体を地面に投げ出したまま、才人は頭上に枝を広げる木々の隙間から、黄昏に染まった空を見上げていた。
 朝から夕方まで一日中走り通しである。ガンダールヴの力があろうとなかろうと、これで疲れないはずがない。
 才人は今、トリステインとガリアの間に横たわる広大な山脈の中にいる。
 ガリア王都に至るまで十日ほど、ほとんど人が踏み入らない深い山の中をひたすら走り抜けるのである。
 春先ということもあって、道とも言えぬ道は歩くことすら困難なほどにぬかるんでいた。
 そんな中を、才人は重い荷物とタバサの体を抱えて走ってきたのだ。
 暗くなる前に野営の準備をするべきだというタバサの勧めに従って立ち止まったときには、もうほとんど体力が残っていなかった。
 それでもかろうじて兎を二羽捕まえて、今に至る。タバサは焚き木を組んで野営の準備をしたあと姿を消していた。
「生きてるかい、相棒」
 デルフリンガーが声をかけてくる。才人は「なんとかな」と返して、ため息を吐いた。
「ここまでしんどいとは思ってなかった」
「ほとんど休んでねえからね。俺の見たところじゃ馬より長く走ってるぜ、相棒」
「明日はもうちょっと休みいれながら行こう」
 げんなりしながらそう言って、才人は周囲を見回した。
 山の中らしく、周囲は見渡す限り木々に覆われていた。そんな中で少しだけ開けた場所を見つけて、今日の寝床とした訳である。
 タバサの準備はこういった面でも完璧だった。
 一見すると、この場所の周囲には障害物など何もないように見える。しかし、実際には木々の間にロープが渡され、それに魔法の薄布がかけてあった。
 これは以前ギーシュが才人の銅像を隠しておくために用いた布と同じような品で、
周囲の景色に合わせて模様を変化させる布だった。つまり、ここは外からは見えなくなっているのだ。
 さらに、狼や熊などの獣が嫌がる臭いを発する香を微風に乗せて周囲に流しており、そういった危険な獣が近寄らないようにしてある。
 頭上には弱い風の結界が張ってあり、雨を防ぎ焚き火の煙を散らしてくれるようになっていた。
 タバサによるとこれらは全てドットレベルの魔法らしく、一晩寝れば精神力が回復する程度に計算して使っているとのことだった。
「全く、シャルロットは準備がいいよ」
 焚き火を見ながら才人が呟くと、デルフリンガーがからかうように言った。
「どっちかっつーと相棒が何も考えてないだけだけどね」
「うるせえ、今回の俺は肉体労働専門なんだよ」
 才人がそう言い訳したとき、不意に景色の一角が揺らいだ。魔法の薄布を小さくめくり上げて、タバサが戻ってきたのだ。
「どこ行ってたんだ」
 起き上がって迎える元気もなく、寝転がったまま才人が訊くと、タバサは黙って小さな籠を持ち上げた。
 籠の縁から、様々な種類の山菜が顔を覗かせていた。

87 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/10/16(月) 23:10:06 ID:HXzZuVLB

「今夜のご飯」
 才人は感嘆の息を吐いた。
「すげえなシャルロット、食べられる草の種類とかまで知ってるのか」
 さすがに読書家は違う、と感心する才人に、タバサは黙って首を振る。そして、紙束を放り投げてきた。
 慌ててそれを受け取った才人が紙面に目をやると、そこには様々な山菜の図と、その解説らしき文字がぎっしりと書き込まれていた。
「シエスタからの贈り物」
「シエスタから、か」
 紙束を一枚一枚めくりあげながら、才人は微笑を浮かべた。
 山中を踏破すると聞いて、才人の健康状態を心配したのだろう。
 精密な図とその脇にびっしり書き込まれた解説文から、シエスタの心遣いが滲み出しているようであった。
 最後の紙には「ヨシェナヴェ」のレシピらしき物が書いてあって、
 その隅にはデフォルメされたシエスタが人差し指を立ててウインクしている絵が描かれている。
「『疲れててもちゃんと食べなきゃ駄目ですよ、サイトさん』とか書いてあるぜ」
「やれやれ、お見通しって訳か」
 シエスタのこだわりに才人が苦笑しているのを横目に、タバサは無言で夕食の支度を始めていた。
 荷物袋に詰め込まれていた小型の鍋を取り出し、材料を準備し始める。
「手伝おうか」
 才人はそう申し出たが、タバサは首を振った。
「休んでて」
 こういう場面で女の子だけ働かせるのは何とも居心地の悪い気分だったが、実際疲れきっていたので、才人は結局タバサの言葉に従うことにした。
 任務の途上で野宿することも多かったのだろう、タバサはこういうことには慣れているらしかった。
 あっという間に兎の肉と山菜が詰まった鍋が用意され、焚き火の上にかけられる。
 鍋が煮立つくぐもった音と共に食欲をそそる匂いが漂い始める頃には、才人の疲労も幾分かはマシになっていた。
 走り通しで力が空になった体はほとんど暴力的な勢いで食物を求めており、才人はその欲求に任せるままに「ヨシェナヴェ」をかっ込んだ。
「ごちそうさまでした」
 空になった器を置いて、才人は地面に寝転がった。そうしてからふとタバサの方に目をやると、彼女はまだ最初に装った分も食べきっていなかった。
 あまりに腹が減っていたために、自分一人だけで食べてしまっていたらしい。才人は慌てて身を起こした。
「悪い、俺一人でほとんど食っちまったな」
「いい。あんまりお腹空いてないから」
 かすかな微笑を浮かべて、タバサが答える。才人はほっと息を吐いてから、からかうように笑った。
「駄目だぞちゃんと食わないと。そんなんじゃ育ちが悪くてルイズみたいに」
 そこまで言って、才人は口を噤んでこわごわ周囲を見回した。タバサが首を傾げる。

88 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/10/16(月) 23:11:21 ID:HXzZuVLB

「どうしたの」
「いや、あいつのことだからどこかで監視してるんじゃないか、なんて。いやまさかな。いる訳ないよな。いない、よな」
 何となくありえなくもないような気がして才人が周囲を見回し続けていたとき、不意にタバサが口を開いた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
 振り向くと、目が合った。タバサは、眼鏡の奥の瞳に真剣な色を浮かべて、まっすぐにこちらを見つめていた。
「訊いてもいい」
「ああ」
 タバサの雰囲気に押され、才人は居住まいを正した。タバサは一瞬だけ迷うような間を置いてから、一息に訊いてきた。
「ルイズのどこが好きなの」
 直球である。予想もしなかった質問に、才人の思考が一瞬停止する。
 「いきなり何だよ」と笑い飛ばそうとして、失敗した。タバサの表情は相変わらず真剣そのものだった。
「えっと」
 誤魔化すように顔を背けて頬を掻きながら、才人は横目でタバサの顔を盗み見る。静かな迫力を湛えた瞳は、少しも揺らいでいない。
 こういうときいつも茶化してくるデルフリンガーは、何故か沈黙を保っている。
(この野郎、楽しんでやがるな)
 後で岩にぶつけてやる、と固く心に誓いながら、才人はタバサに向き直る。
「ルイズのどこが好きか、か」
 タバサは無言で頷いた。才人がルイズを好いていることには、何の疑いも持っていないらしかった。
 まあ事実なのだから今更隠すこともないな、と思いつつ、才人は内心首を捻る。
(どこが、ねえ)
 唐突に、しかも他人にそんなことを訊かれて、才人は数秒ほども考え込んでしまった。
 ルイズのことが好きだというのは才人の中では既に分かりきったことで、何故好きなのかという理由など深く考えたこともなかった。
 しかし、折角だからこの機にルイズの魅力を再確認するのもまあ悪くはないと思い、才人は思いつくままに喋り始めた。
「ルイズな。こうやって改めて思い返してみるとさ、あの女ってばホントに性格悪いよな。
 我がまま、高慢ちき、人使い荒い、すぐに勘違いする、んでもって暴走する、
 雰囲気読めない、ヒス持ち、人の切ない部分を実に乱暴に扱う、その上」
 貧乳だし、という言葉を、才人は口から出る寸前で飲み込んだ。その辺りはルイズと大差ないタバサに気を遣ったのである。
 そのタバサはと言うと、好きなくせに欠点ばかりが口を突いて出る才人のことを、少々呆れた様子で見つめていた。
「でもなあ」
 才人は苦笑しながら頭を掻く。

89 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/10/16(月) 23:12:01 ID:HXzZuVLB

「そんな奴なのに、何でだか惹かれちまうんだよな」
「どうして」
 タバサが少し強い口調で訊いてくる。どうしてもその部分が知りたいらしい。
 前より親しくなったとは言え、あくまでも他人でしかない男の嗜好を何故そこまで聞きたがるのか、才人は少し不思議に思う。
(まあ、女の子ったらコイバナ大好きな生き物だしな)
 そうやって自分を納得させてから、才人は目を閉じてルイズの姿を思い浮かべた。
 見慣れた澄まし顔に、見慣れた怒り顔。ほとんど見たことがない素直な笑顔、そして、もう二度と見たくない泣き顔。
 今まで幾度も目にしてきたルイズの多彩な表情が、次々に浮かんでは消えていく。才人の口元に、自然と微笑みが浮かんできた。
「顔が可愛いとか、そういうのももちろん否定はしねえ。たまに、ほとんど気まぐれみたいに優しくなるのにどきどきすんのも確かだ。だけどさ」
 才人の目蓋の裏に、今まで以上に鮮明に浮かぶ像がある。
 それは、ルイズの背中だった。
 堂々と胸を張って、目の前の困難から目をそらすことなく、どんなときでも歯を食いしばって真っ直ぐに前を向いている、ルイズの背中だった。
 そんなルイズの姿を思い浮かべるだけで、才人の胸に熱い何かがこみ上げて来るのだ。
(ああ、これなんだな)
 その思いを噛み締めながら、才人はゆっくりと頷いた。
「ルイズは、魔法が使えない。よくそのことを馬鹿にされてるし、本人だって凄く嫌に思ってる。魔法学院なんて場所じゃなおさらだ。
 公爵家なんてお偉いさんの娘なんだ、魔法なんか使えなくたっていいって言って、家に引きこもってたって困りはしねえだろう。
 だけど、ルイズはそうしなかった。ヤケを起こして投げ出したりしねえし、自分には才能がないとか言い訳して、ふてくされたりもしねえ。
 何度やってもどれだけ頑張っても魔法が出来ないって現実に打ちのめされて、落ち込んで、それでもあいつは諦めなかった。
 正直、凄いって思うよ。ここまで一途に頑張れる奴を、俺は今まで見たことがない」
 そこに、何者にも侵しがたい誇りのようなものを感じたのだろうと、才人は今更ながらに実感した。
「まあ結局、俺はルイズの誇り高いところが好きなんだってことになるのかな」
 そうまとめた後で、才人は苦笑した。
「って、さっき高慢ちきだとか何とか言っといてこの結論じゃ、訳分かんないよな」
「そんなことない」
 タバサはゆっくりと首を振る。才人は笑った。
「そうか」
「うん。よく分かった」
 タバサは静かに目を閉じ、どこか寂しげにも感じられる微笑を浮かべて、もう一度言った。
「すごくよく、分かった」
214 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/26(日) 00:22:00 ID:cpHdCncf

 小さな音を立てて飛び爆ぜる火の粉が、才人と自分の間で舞い踊っている。
 その光景を、タバサはただ静かに見つめていた。
 ルイズへの思いを語ったあとほどなくして、才人は深い眠りに落ちた。
 一日中走り通しで溜まった疲労のためだろう、今はわずかな身じろぎもせずに泥のように眠り込んでいる。
 揺らぐ焚き火の向こうに見え隠れする才人の寝顔を見みつめていると、タバサの胸が小さく痛み出した。
(ごめんなさい)
 心の中で謝罪し、タバサは抱え込んだ膝の間に顔を埋めた。
 自分はなんて馬鹿なことをしているんだろう、という思いが、胸を圧迫せんばかりに膨れ上がってくる。
 国王暗殺などという途方もなく無謀な企てに、赤の他人を巻き込んでしまっている。
 失敗すればもちろんのこと、成功したとしてもその後どうなるかは分かったものではない。
 自分が暗殺を企てたのだということが知れようものなら、協力してくれた友人たちにも咎が及ぶ。
 たとえどれ程位の高い大貴族であろうとも、一国の国王暗殺に協力したとなれば無罪では済まされないだろう。
 それを知りつつも、タバサは友人たちに頼ってしまっているのだ。
 他人を巻き込んではいけないと、頭では理解しつている。
 しかし、もう耐えられないと感じていたのも事実だった。
 自分の背に埋め込まれた宝玉は、昼夜問わず体を芯から疼かせ、心を責め苛む。
 そのタイミングは不規則で、予測することなど到底不可能だ。
 だからタバサは、誰と一緒にいるときでも、常に気を張っていなければならなかった。
 二十四時間絶えることなく拷問にさらされているようなものだ。
 仮面のような無表情の下で、タバサの精神は徐々に磨り減らされ、疲弊の一途を辿っていた。
 この悪夢のような日常から一刻も早く逃れたいと、体と心が悲鳴を上げ始めていたのだ。
 その苦痛に拍車をかけたのが、故郷から時折届く手紙だった。
 心を狂わされ、今は屋敷に閉じ込められている母の近況を知らせる手紙である。
 いいことなど書いてあろうはずもないが、最近はそれがさらに悪化してきていた。
 一年ほど前から、タバサの母親はロクに食事も取らないようになってしまっていた。
 手紙には、徐々に痩せ細り衰弱していく母の様子が刻々と記されていたのだ。
 おそらく、母はもう長くはないのだろう。その事実が、タバサをますます焦らせた。
 せめて母が死んでしまう前に、復讐を果たさなければならない。
 そんな風に急いでいたからこそ、巻き込んでしまうと知りつつ友人たちの助力を受け入れてしまったのだ。

215 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/26(日) 00:22:56 ID:cpHdCncf

(それだけじゃない)
 タバサは焚き火の向こうの才人の寝顔に目を移す。
 今は疲れ果てて眠り込んでいる少年の顔を見ていると、どうしようもなく胸が高鳴ってくる。
 この胸の高鳴りこそが、自分がこうして愚かな行動ばかりしている一番の理由なのかもしれなかった。
 だから、差し伸べられた手を振り払うことができなかった。
 他の誰でもない、この人にこそ助けてもらいたいと、願ってしまったのだ。
(本当に、馬鹿なわたし)
 自虐的な感情が暴れ出してどうにもならなくなり、タバサは唇を噛んで傍らにあった道具袋を引っ掻き回し始める。
 特に意味のある行為ではない。だが、何かしていないと気が落ち込んで仕方がなかったのだ。
 そんなことをしていたとき、タバサはふと袋の底に妙な物を発見した。
 薄汚れた布に包まれた、固い物体である。
 出発の際シエスタが余分な物を取り除いてしまったはずなのに、何故こんな物が入っているのか。
 タバサは不思議に思いながら、その物体を手にとって布を取り去る。そして、布の下から出てきたものを見て息を呑んだ。
 それには一枚手紙が添付されていて、そこには見覚えのある字でその贈り物の効果が記されてあり、最後はこんな文章で結ばれていた。
「あなたの呪いを解くには至りませんが、あなたの心を守る最後の砦になってくれるはずです。
 こんな形でしか手助けができない無力なわたしを許してください。
 親愛なるタバサへ。キュルケ・フォン・ツェルプストー」
 タバサはキュルケの贈り物を複雑な心情と共に見つめた。
 親友の心遣いを有難いと思うと同時に、申し訳なくも感じてしまう。
 贈り物をそっと懐に収めて、タバサはこみ上げてくる自己嫌悪の念に顔を歪めた。
(わたしは、こんなことをしてもらえるような人間じゃないのに)
 そうしてタバサがため息を吐き出したとき、不意にのんびりとした声が聞こえてきた。
「悩んでるねえ」
 思わず顔を上げる。声は才人の方から聞こえたが、もちろん彼のものではない。
「俺だよ、デルフだよ」
「知ってる」
 一応そう答えてから、タバサはわずかに顔をしかめた。
 ずっと黙っていたせいで、この剣のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
 デルフリンガーは今まで喋らなかったのが嘘だったかのように、急に饒舌に喋り始めた。

216 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/26(日) 00:23:55 ID:cpHdCncf
「いいねえ、青春だねえ」
「何の話」
「相棒に惚れてんだろ、嬢ちゃんよう」
「だから、なに」
 否定するのは無駄だと思ったので、止めておいた。デルフリンガーは剣のくせに口笛のような音を鳴らしてみせる。
「こりゃ驚いた、相棒のご主人様とはえらく反応が違うねえ。ああ安心しなよ、相棒はニブチンだ、全然気付いてないぜ」
「知ってる」
 出来る限り素っ気なく答える。自分であれこれと思い悩んでいる問題を、この剣に茶化されるのはいかにも不愉快だった。
 そんなタバサの思いを知ってか知らずか、デルフリンガーはほんの少し声のトーンを落とした。
「まあなんだな、悩むのはそういう年相応の問題だけにとどめときなよ。
 その様子じゃまだ迷ってるんだろ。相棒や他の連中を自分の事情に巻き込んじまったんじゃないかって」
 まさに先程考えていたことを正確に言い当てられ、タバサは目を瞬いた。デルフリンガーは苦笑混じりに言う。
「そりゃ分かるさ、嬢ちゃんの表情見てりゃね。
 昼間相棒に抱えられてたときだって、ずっと同じことばっかりぐるぐる考えてたんだろうが」
「巻き込んでしまったのは、事実だから」
「そりゃ違うよ。あの連中は巻き込まれたんじゃなくて、自分から好きで首突っ込んできたのさ」
「それを拒まずに受け入れたのは、わたし」
「拒むことなんかできやしなかっただろ。強引だからね、相棒もあの連中も」
「でも」
「いいんだって。皆、好きでやってることなんだからよ。嬢ちゃんが気に病むことじゃねえさ」
 デルフリンガーの声はあくまでも陽気で、ついその優しさに甘えてしまいそうになる。タバサは唇を噛んだ。
「どうして、皆こんなに優しいの」
 それは罪悪感の発露とでも言うべき、ほとんど独り言に等しい言葉だった。だが、デルフリンガーは目ざとく問い返してきた。
「さて、何でだと思うね」
 そう言われて、タバサはちらりと才人の寝顔を見た。
「きっと、お兄ちゃんのため」
「相棒のため、かい」
「そう。お兄ちゃんがいい人だから、皆心配してる。わたしは、そんな人をこんなことに巻き込んで」
「いいや、それだけじゃないね」
 力強い否定の言葉に、俯きかけたタバサは思わず顔を上げる。
「確かに相棒がいい奴だってのもあるだろうが、あの連中が手を貸したのは、それだけが理由じゃないだろうさ」
「他に、どんな理由が」
「決まってんだろ。あんただよ、嬢ちゃん」
 予想だにしない答えだった。驚くタバサに、デルフリンガーは苦笑いするような口調で続ける。

217 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/26(日) 00:25:11 ID:cpHdCncf
「嬢ちゃんだっていい奴だよ。俺はずーっと相棒にくっついてたから、あんたのことだってちょっとは見てるつもりだぜ。
 嬢ちゃんが他人のことを考えて動いてるってことだって、ちゃんと知ってるのさ」
「そんなことない、わたしは」
「土くれのフーケ捕まえようとしたとき、微熱のねーちゃんや相棒のご主人様を心配してついてきたのは誰だ。
 アルビオンに行ったときだって、自分には大して得もねえのについてきたじゃねえか。
 宝探しにも付き合ったし、水の精霊退治しろって任務でも、自分の都合だけ優先したりはしなかっただろ。
 どうだい、こんだけ並べりゃちょっとは自分がお人よしだって自覚もつくってもんじゃないのかい」
 淡々と過去の事実を並べ立てるデルフリンガーの言葉に、タバサはうまく反論できなかった。
 確かに、客観的に見れば自分には特に利益もない選択ばかりしているように思える。
 かと言って自分は善人だなどと認める気にもなれず、タバサは小さく唸りながら何とか反論しようとする。
 デルフリンガーが口もないのに吹き出した。
「そんなに真面目に考えんなよ。とにかくだ、相棒もあの連中もいくらかは俺と同じように感じてるのさ。
 嬢ちゃんがいい奴だから、出来る限り助けてやりたいと思って協力してるんだろうよ」
 そう言ってから、デルフリンガーは少し真面目な口調で続けた。
「それに何より、嬢ちゃんがいい奴じゃなかったら、あの連中は確実に相棒を止めてただろうよ。
 そうしなかったってことは、結局のところ信頼されてるってことさ。相棒も、嬢ちゃんも。
 『あいつのすることだから、きっと間違ってはいないだろう』ってな」
 反論を重ねようとして、タバサはついに諦めた。
 この剣は何を言ったって自分の論を翻したりはしないだろうし、
 何よりもタバサ自身、デルフの言葉を聞いて胸の奥が熱くなっているのを自覚していた。
(嬉しい)
 タバサはそっと胸を押さえた。心臓が静かに、だが力強く脈打っているのを感じる。
 目蓋を閉じる。鼓動の高まりと共に、友人たちの顔が次々と浮かんでくる。
 その一つ一つが自分の体を温めてくれるように思えて、自然と頬が綻んだ。
 目蓋を開くと、疲れ果てて眠り込んでいる才人の姿が目に映った。
(巻き込んでしまってごめんなさい。助けてくれてありがとう)
 相反する二つの言葉を内心で呟きながら、タバサは目を細める。
 今更どう後悔しようが、ここまで来てしまったのは事実なのだ。
 こうなったら、後は少しでもいい結果に終わるように死力を尽くすしかない。
 それに、目の前で眠っている少年を見ていると、不思議な心強さが全身に満ちてくるのだ。
 どう考えても不可能に思えるこの企ても、彼と一緒ならば成功させられるような気すらしてくる。
(お兄ちゃんと一緒なら)
 才人の姿を見つめながら、タバサは微笑を浮かべた。
 そのとき、不意に背中が不自然に震え始めた。

218 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/26(日) 00:26:08 ID:cpHdCncf

 タバサは目を見開く。驚く暇もなく震えが全身に広がり、疼きに変わり始める。
 背中に埋め込まれた宝玉による、唐突な性衝動の昂ぶり。だが、今回の高揚感はいつもよりも段違いに大きい。
 タバサはうめき声を漏らしながら身をよじる。全身が火照り、息が上がる。
 ほとんど反射的に股に手を差し入れると、もう秘所から大量の蜜があふれ出していた。
 意識が混濁し、視界が歪む。タバサは半開きになった唇の隙間から熱い吐息と涎を垂らしながら、ぼんやりと才人を見た。
(繋がりたい)
 唾を飲み干し、ふらふらと才人に近寄る。デルフリンガーが何か喚いていたが、「サイレント」で即座に黙らせた。
 タバサは才人のそばに座り込み、彼の寝顔をじっと眺めながら自分の体を弄り出す。
 指先が弱い部分に触れるたびに、背筋に言いようのない快感が走る。
(お兄ちゃん、お兄ちゃん)
 夢中で体を弄り、タバサはすぐに一度絶頂に達した。
 しかし性衝動は治まるどころかますます昂ぶっていく。もうまともに思考できなくなった意識の片隅で、誰かが囁いた。
(犯せ)
 タバサの脳裏に、一ヶ月ほど前の光景が浮かび上がった。
 暮れゆく空の下、魔法学院の敷地の片隅で獣のようにまぐわった二人の姿。
(犯せ)
 あのときタバサは、一人で体を弄るだけでは絶対に味わえない、天にも昇る最高の快楽を味わったのだ。
(もう一度、あのときみたいに)
 自然と口元に笑みが浮かぶ。タバサは己の欲望の命ずるままに、才人に向かって手を伸ばした。
 あともう少しで才人の顔に指先が触れようというとき、タバサは弾かれたようにその手を引っ込めた。
 交わったときの光景を消し飛ばすほどの強さで、あるものが脳裏に浮かび上がったのだ。
 それは、先程ルイズのことを語っていたときの才人の横顔だった。
 嬉しそうな、あるいは誇らしげな表情を浮かべながら、愛する人のことを話してくれたときの、才人の横顔。
 タバサは砕けるほどの強さで歯を噛み締めながら、半ば無理矢理手を懐に向かって伸ばす。
 その手が、キュルケからの贈り物を思い切り握り締めた。
 すると、タバサの意志を完全に奪い去るほどの勢いで暴れ狂っていた性衝動が、ほんの少しだけ治まった。
 荒い息を吐きながら、タバサは才人を見つめた。
 まだ、彼を求めるように全身が昂ぶっている。性衝動は未だ治まっていないのだ。
 才人の体に抗い難い誘惑を感じながらも、タバサは無理に体を翻した。
 少し彼から離れて、一人でこの体の昂ぶりを治めなければならない。
 歩いていると、瞳の奥から勝手に涙が溢れ出してきた。
 性欲を満たすことができなかったという、単なる欲求不満によるものではない。
 どうしようもなく、胸が痛むのだ。締め付けられるように、あるいは切られるように。
(大丈夫)
 涙を拭う余裕もなく、ずるずると足を動かしながら、タバサは無理矢理笑みを浮かべた。
(きっと、全部この宝玉のせい。体が疼くのも、心が痛むのも。だから、これは恋なんかじゃない。
 だから、わたしは大丈夫。この宝玉さえなくなれば、この痛みも全部消えてなくなるはずだから)
 小さく嗚咽を漏らしながら、タバサは森の方に向かって歩いていった。

「残念だな嬢ちゃん、俺には魔法は効かんのさ」
 タバサの背中が完全に見えなくなったことを確認してから、デルフリンガーはぽつりと呟いた。
 喋る者が一人もいなくなり、野営場所には焚き火が爆ぜる音だけがわずかに響くのみとなった。
「あー」
 その沈黙を持て余すように、デルフリンガーはため息を吐く。
「なんてーのかな。俺としてはこういう根暗な旅もそこそこに盛り上げようとあれこれ頑張ってみるつもりだったんだけどよ」
 誰も聞くことのない声が、淡々と夜の山に響き渡る。
「こりゃダメだね。なんてーか、割と真面目に気に入らねえや」
 デルフリンガーは武者震いするようにかすかに刀身を震わせた。
「ちっとばかり真剣になってみるかねえ。いやあんま変わんねーっちゃ変わんねーんだけど」
309 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/28(火) 01:02:13 ID:o8uSz4jC

 澄み切った青い空を見上げて、シエスタは一つため息を吐いた。
 授業中という時間帯もあってか、ヴェストリの広場に人の姿はない。
 短い休憩を与えられて広場の隅のベンチに座っているのだが、口から出てくるのはため息ばかりだ。
 頭に思い浮かぶのは、愛しい黒髪の少年のことばかり。
(サイトさん)
 小さく胸が痛む。後悔という名の小さな棘は、未だにシエスタの心に突き刺さったまま抜けてくれない。
 才人とタバサを送り出してから、もう二日も経ってしまった。
 今回彼らが何をしにどこへ行ったのか、シエスタは何も聞いていない。
 ただ、協力を頼んできたキュルケが「絶対に誰にも喋らないでね」と言ったときの真剣な瞳から考えるに、
 少なくとも単なる小旅行に出かけた訳ではないようだった。
 だから、今頃どこにいるんだろう、とか危険な目に遭っていないだろうか、などと考えてみても、
 一向に答えは出ない。出るはずもない。
(わたしの今回の役目は、ただ黙っていること、ですもんね)
 シエスタはもう一度ため息を吐いた。
 一ヶ月間ほど出来る限り才人を避けるように、と言われた以外、シエスタに任せられた仕事は何もなかった。
 それでも彼女自身の意地で一日目のお弁当を拵え、
 自分が知る限り山菜や食べられる草などのリストを作り上げたが、果たしてそれがどれだけ役に立つものか。
(結局、わたしがサイトさんのために出来ることは何もない)
 大きな無力感が胸を痛む。勝手に涙がこみ上げてきて、シエスタは強く唇を噛んだ。
(駄目だわ、こんなことじゃ。笑顔で出迎えるって、サイトさんと約束したんだから)
 涙を拭って、無理に笑顔を作る。そうすると、ほんの少しだけ元気が湧いてきた。
 そろそろ休憩時間も終わる時刻である。ベンチから腰を上げて何気なく広場の隅を見やったシエスタは、目を見開いた。
 少年が一人、何気ない足取りで歩いていく。あまり見ない服装の、黒髪の少年。
「サイトさん」
 シエスタは叫びながら立ち上がり、才人に向かって駆け出した。
 才人はこちらに気付く様子もなく、校舎の影に消える。
 シエスタもその後を追ったが、校舎の角の向こうに飛び込んだとき、既に才人の背中はどこにも見当たらなかった。
 シエスタは困惑して周囲を見回す。隠れられるような場所もないし、曲がれるような小道もない。
(見間違い、かな。ううん、確かにあれはサイトさんだった)
 シエスタは大きく息を吐く。
 もしかしたら、才人会いたさに幻覚を見たのかもしれない。
 だとしたら自分も相当参っているな、とシエスタは自嘲の笑みを浮かべた。

310 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/28(火) 01:03:06 ID:o8uSz4jC

 夜、その日の仕事が終わって自室に帰ろうとしていたシエスタは、
 連れ立って広場を歩いてきたキュルケとモンモランシーに呼び止められた。
 二人とも魔法学院の制服姿だったが、モンモランシーは何やら小さな袋を持っていた。
 本来なら貴族に呼び止められたりしたら「何か気に入らないことでもしただろうか」と不安になるところだが、
 この二人ならば顔見知りだから、あまり緊張することもない。
 二人は少し難しそうな顔をして「とにかくついてきて」とシエスタの前を歩き始めた。
 寮の中に入って少し歩き、辿りついた先は見慣れた場所だった。
「ミス・ヴァリエールの部屋じゃないですか」
 どうしてこんなところに、と問うよりも早く、キュルケが扉をノックしていた。
「ルイズ、入るわよ」
 返事を待つこともなく、キュルケはアンロックの魔法で勝手に鍵を開けて部屋に侵入する。
 モンモランシーも躊躇なく後に続き、シエスタ自身も若干迷いつつルイズの部屋の中に踏み入った。
 才人が旅立って以来、この部屋の住人はルイズ一人になっているはずである。
 部屋の中はしんと静まり返っていた。
 窓から月明かりが差し込んでいるとはいえ、ランプすら灯されていないために部屋の中は随分と暗い。
 キュルケが慣れた様子でルイズの机に近づき、その上にあったランプを灯した。
 部屋がぼんやりとした光に照らされ、同時にどこかから甘い匂いが漂い始める。
 シエスタは息を呑んだ。
 ルイズがいた。ベッドの上で布団を被って蹲っている。
 しかし、彼女は二日前とは比べ物にならないぐらいひどい状態だった。
 吊りあがった目は真っ赤に充血してギラギラした光を放っており、
 その周囲に出来た隈は彼女がろくに寝ていないことを如実に示している。
(どうして)
 シエスタは声も出せず、ただルイズを見つめることしか出来なかった。
 ルイズがこんな風になってしまう理由など、一つしかない。才人の不在だ。
 だが、今回は前と違って才人が死んでしまったという訳ではないのだ。
 シエスタ自身彼の不在には気落ちしていたが、それはあくまでも不安というレベルに留まっている。
 何をどうしたら今のルイズのように追い詰められてしまうのか、見当もつかなかった。
 とにかく、こんな状態のルイズを放っておくわけにはいかない。
 シエスタはベッドに駆け寄ると、布団越しにルイズの肩に手をかけた。
「ミス・ヴァリエール、大丈夫ですか」
「別に、なんでもない」
 ルイズはかすれた声でそう答えた。
 間近で見ると唇も乾ききって荒れているのが分かり、さらに痛々しさが増した。
 シエスタはルイズの隣に腰掛けると、彼女の背中に手をやり、努めて穏やかな声で問いかけた。
「一体どうしたんですか、ミス・ヴァリエール」
「うるさいわね、なんでもないったら」
 疲れきった声でそう言ったきり、ルイズは目を見開いたまま黙り込んでしまう。
 いつもならもうシエスタの手など振り払っている頃である。そうしないところを見ると、かなり消耗しているらしい。
「見ての通り、この子ったらあれから少しも寝てないみたいなのよ。
 今日の授業中なんて、いつ倒れるかと心配になったぐらいよ」
 キュルケが呆れたように言う。
 確かに、今のルイズの様子は尋常ではない。このまま放っておいたら本当に衰弱死してしまいそうである。
「だけど、この子ったら少しも事情話さなくて」
 キュルケが肩をすくめる。そういう訳で自分が連れてこられたらしい。シエスタはルイズの顔を覗き込んだ。
「ね、ミス・ヴァリエール。何か悩み事があるなら、私に話してくださいませんか。
 お話し相手ぐらいにならなれると思いますから」
 しかしルイズは唇を引き結んだまま何も話そうとしない。
 これではどんなに話しかけても無駄なのではないだろうか。
 シエスタは困惑してキュルケの方を見る。そこで、おかしなことに気がついた。
 部屋に入ってから一言も発していなかったモンモランシーが、いつの間にやら床に何かを置いている。
 遠目に見るとそれは香炉のようで、ランプを灯すと同時に漂い始めた甘い匂いの出所は、どうやらその香炉らしかった。
 一体何のつもりなのかと問いかけようとしたとき、不意にシエスタの手に震えが伝わってきた。
 驚いて隣を見ると、先程まで厳しい顔をしていたルイズが、突然顔を歪めて泣き始めていた。

311 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/28(火) 01:03:51 ID:o8uSz4jC

「急にどうしたんですか、ミス・ヴァリエール」
 慌てて問いかけるが、ルイズは小さくしゃくり上げるばかりで何も答えない。
「凄い効き目ね」
 キュルケが呟いた。はっとしてそちらを見ると、キュルケは呆れ半分に傍らのモンモランシーを見ているところだった。
「違うわよ。これの効果が凄いんじゃなくて、ルイズがもう立っていられないぐらいに疲れ切ってたってだけの話」
 困惑するシエスタの視線に気付いたのか、モンモランシーは苦笑を返してきた。
「そんなに驚くようなことじゃないわ。ちょっと、心を落ち着かせる香を流しただけ」
「水魔法のお香なんでしょ」
 キュルケの呟きに、モンモランシーは肩をすくめた。
「言うほど強いものじゃないわ。でも疲れきった人になら十分効果があるはずよ。
 張り詰めていた精神が落ち着いて、素直に気持ちを現せるようになると思う」
 そう説明してから、「さてと」と言ってモンモランシーは背を向ける。
「あとはあなたに任せるわね」
「え、でも」
「わたしたちがいたら、話しにくいことがあるんじゃないかしら」
 キュルケもまた、悪戯っぽく片目を瞑って入り口に足を向ける。シエスタは何も言えなくなってしまった。
「そのお香、多分明日の朝ぐらいまでなら持つと思うから」
「しっかり慰めてあげなさいな。それじゃお休みなさい、お二人さん」
 それだけ言い残して、モンモランシーとキュルケは部屋を出て行ってしまった。
 途端に静かになった部屋に、ルイズがしゃくり上げる音だけが途切れ途切れに響き渡る。
 シエスタは迷いながらも微笑を浮かべ、ルイズの背中をさすってやった。
「さ、ミス・ヴァリエール。まずは眠りましょう。このままだと体壊しちゃいますよ」
 だが、ルイズは首を振った。鼻を啜り上げながら、かすれた声で呟く。
「寝るの、やだ」
「どうしてですか」
 急かす調子にならないように、シエスタはゆっくりと問いかける。何となく、故郷の弟や妹たちのことを思い出した。
 ルイズは真っ赤に充血した目から止め処なく涙を流しながら、途切れ途切れに話し出した。

312 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/28(火) 01:04:24 ID:o8uSz4jC

 夢を、見るのだという。
 その夢の中で、ルイズはそんなに遠くない過去の風景を見ている。
 アルビオンから撤退するトリステイン軍。その殿を命ぜられた自分。薄れてゆく意識と、その向こうにある才人の笑顔。
 本来なら、ルイズの意識はそこで途切れている。だというのに、夢はこの後まで続くのだという。

「サイトがね、怖い怖いって震えながら、でもたくさんの兵隊に向かって真っ直ぐに走っていくの。
 わたしはそれを後ろで見ていて、止めて、行かないでって叫ぶんだけど、サイトは少しも聞いてくれないの。
 サイトは剣を抜いてたくさんの兵隊を倒すんだけど、兵隊たちも弓矢や魔法をたくさん放って、サイトの体はどんどん傷ついていく。
 足を斬られて、手を焼かれて、それでもサイトは止まらないの。
 兵隊たちの指揮官を倒せば敵を足止めできて、それでわたしが生き残れるからって。
 わたしのことはいいから逃げてって、一生懸命叫んで、サイトの腕を引っ張っても、サイトは止まってくれない。
 どんどん傷が増えてどんどん血が出て、それでもサイトは止まらないの。
 だけど、兵隊たちの指揮官まで後一歩っていうところで、サイトは倒れて動かなくなるの。サイトは、死んじゃうの」
 何かに憑かれたように夢中でそこまで喋りとおしたあと、ルイズはまた物も言わずに泣き出してしまった。
 シエスタは黙ってルイズの背中を擦ってやりながら、囁くように問いかける。
「それで、また才人さんが死んじゃうんじゃないかって思って、怖くなるんですか」
「違うの。ううん、それもあるけど、でも違うの。サイトがあんな目に遭ったのは、全部わたしのせいなの。
 わたしが皆に認めてもらいたいなんて思ったから、サイトはあんなに頑張って、痛くて苦しい思いして、死んじゃって。
 全部わたしのせいなの。わたしのせいでサイトが死んじゃう。わたしがサイトを殺してしまう」
 ルイズは両手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。手と手の隙間から、耳を塞ぎたくなるような痛々しい泣き声が零れ出す。
 しかしシエスタは耳を塞がず、ただじっとその泣き声に耳を傾けていた。すっと目を閉じて、言う。
「そうですね。確かに、その通りかもしれませんね」
 ルイズの泣き声が更に大きくなる。シエスタはその泣き声を横目に立ち上がり、ルイズの前に跪いた。
 ゆっくりと両手を伸ばし、ルイズの頬を優しく包み込む。泣きはらした真っ赤な瞳と目が合った。
「でも、大丈夫ですよ」
 ルイズが小さく息を呑む。シエスタは笑って続けた。
「サイトさんは、絶対に死にません。今度もちゃんと無事で帰ってきてくれます」
「そんなの分からないわ」
「いいえ、わたしには分かります。サイトさんは絶対に死にません。今度だけじゃありません。この先も、ずっと」
「どうしてそんなにはっきりと言えるの。もっと怖いことが起きるかもしれないし、もっと危険な目に遭うかもしれないじゃない」
「それでもです。サイトさんは何があったって、どんなに危険な目に遭ったって、最後は必ずわたしたちのところへ帰ってきてくれます」
「どうして」
「だって」
 シエスタはそこまで言って躊躇った。目蓋を閉じ、眉根を寄せる。
 今から言おうとしていることは、間違いなく事実だ。変えようのない現実だ。
 だからこそ、口に出してしまえばきっと自分の心は深く傷つくだろう。
(それでも、ちゃんと認めなくちゃならないんだわ、わたしは)
 シエスタは細く、そして深く息を吸い込んだ。
 堂々と胸を張り、力強く顔を上げる。目蓋を押し上げ視線は真っ直ぐルイズの瞳に。そして、口元には深い笑みを。
 シエスタは切り裂かれるような胸の痛みに耐えながら、全身全霊の力を込めて、言った。
「サイトさんは、ミス・ヴァリエールのことを愛しているんですから」

313 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/28(火) 01:05:36 ID:o8uSz4jC

 ルイズの目が大きく見開かれた。シエスタは笑みが崩れてしまわないように、顔に力を込める。
 胸の奥で、様々な感情が荒れ狂っていた。
 怒りもある。悲しさもある。悔しさもある。寂しさもある。羨望、悲嘆、嫉妬、憎悪。
 ありとあらゆる感情が、笑みを形作る唇を無理矢理こじ開けてしまいそうなほどに強く荒れ狂っている。
 だが、決してそうはならない。穏やかな深い笑みは、決して崩れはしない。
 嵐のように渦巻く冷たい感情の中に、一つだけ温かい何かがあるのだ。
 それが何なのかは分からない。だが、その何かが今の自分を支えてくれているのだと、シエスタは知った。
(サイトさんはミス・ヴァリエールのことを愛している。
 わたしはサイトさんの気持ちを大切にしてあげたい。
 だからサイトさんが愛するミス・ヴァリエールを助けてみせる。
 だって、わたしはサイトさんのことを愛しているから)
 その瞬間、荒れ狂っていた感情がほんの少しだけ静かになった。
 まだ胸は痛む。しかし、言葉を紡げなくなるほどには痛くない。
 シエスタは目を見開いたまま固まっているルイズに、繰り返し言い聞かせた。
「大丈夫です。サイトさんは必ず帰ってきます。ミス・ヴァリエールのことを愛しているから。
 愛している人を一人残して死んでしまうような人じゃありませんよ、サイトさんは。
 本当はあなただって分かっているんでしょう。サイトさんが、どれだけあなたのことを大切に思っているのか」
 ルイズの顔が崩れ始めた。
 笑っていいのか泣いていいのか分からないような、複雑な表情。
「でも」
 戦慄く唇が、震える声を紡ぎ出す。
「わたしは、そんな風に思ってもらえるような人間じゃない」
 ルイズの瞳から、涙が一筋零れ落ちた。
「サイトにたくさんひどいことしたの。サイトにたくさん痛い思いさせたの。
 それなのに、ごめんなさいもありがとうも一度だって言ったことがないの。
 そんなわたしに、サイトの気持ちを受け入れる資格なんてあるはずない」
 固く閉じられたルイズの目から、次々に涙の筋が零れ落ちる。
 その全てを受け止めるように、シエスタは強くルイズを抱きしめた。
「大丈夫、きっと、全部笑って許してくれますよ」
「だけど、わたしは」
「だから涙を拭きましょう。だから明るく笑いましょう。
 才人さんが帰って来たとき、ごめんなさいって言えるように。才人さんが帰って来たとき、ありがとうって言えるように」
 ルイズは何も言わなかった。
 ただ、涙を拭うように、あるいは泣き声をかみ殺すように、シエスタの体に顔を押し付けて、小さく体を震わせるだけだ。
 シエスタは穏やかな笑みを浮かべたまま、しばらくそうやってルイズを抱きしめていた。
 ルイズはやはり何も言わなかったが、シエスタの胸の中で、一度だけ小さく頷いたような気がした。

314 名前:少女の苦悩、少年の怒り :2006/11/28(火) 01:07:41 ID:o8uSz4jC

 泣きはらしたルイズの顔を、窓から差し込む月明かりが仄かに浮かび上がらせている。
 ベッドの中、ルイズの隣に横たわりながら、シエスタは複雑な気持ちでその顔を眺めていた。
(この子は、とても弱い。一人ぼっちでいた時間が長すぎたせいなのかもしれないけど)
 自分を愛してくれる人を求める気持ちが、ルイズは人一倍強い。
 そんなルイズが一度才人と死に別れ、やっと会えたと思ったらまた離れ離れになってしまったのだ。
(可哀想なミス・ヴァリエール)
 シエスタは手を伸ばし、そっとルイズの髪を撫でる。
 一人では生きていけない、か弱い少女。
 だが、そんなルイズも、才人のために頑張ろうとしているのだ。
 出来る限り才人の気持ちに応えよう、彼の気持ちを大事にしようと思っている。
 だからこそ、不安に押しつぶされそうになりながらも才人を送り出したのだ。
 夜眠れないほどの恐怖を感じながら、それでも泣き言を言わずに頑張っていたのだ。
(わたしはこの子を支えてあげたい)
 シエスタは手を伸ばして、ルイズの小さな体をそっと抱きしめた。
(強くなりたいと、愛する人の思いを受け止めたいと思っているこの子の気持ちを、少しでも助けてあげたい)
 もちろん、シエスタ自身才人のことを諦めるつもりはない。
 だが、今は一度だけその気持ちを胸にしまってもいいと思っている。
 せめて、ルイズが何の気兼ねもなく自分の気持ちを素直に表現できるようになるまでは。
 シエスタが決意を新たにしたそのとき、不意にルイズが小さく呻いて薄らと目を開いた。
「あ、ごめんなさい、起こしちゃいましたか」
 慌ててそう言ったが、何故かルイズは何も答えず、目を細めてじっとある一点を凝視している様子だった。
 どこを見ているのだろう、と不思議に思ってその視線を追うと、自分の胸に行き当たった。
「あの、ミス・ヴァリエール」
「おっきい」
 何が、と問う暇もなく、ルイズは素早く腕を伸ばした。避ける間もなく、シエスタの胸がルイズの手に捕まれる。
「ちょ」
「おっきい」
 またも呻くように言いながら、ルイズはやたらと真剣な目つきでシエスタの胸を揉み始める。
 混乱するシエスタの耳に、その声はやたらと大きく響いた。
「いいなあ」
 溢れんばかりの羨望が込められた、怨嗟の声である。シエスタの背筋に悪寒が走った。
 もちろん声の出所はルイズで、相も変わらずやたらと真剣な目つきでシエスタの胸を揉みしだいている。
「いいなあ。おっきいおっぱい、いいなあ」
(え、ちょ、なんなんですかこの状況)
 混乱するシエスタを横目に、ルイズはそれからたっぷり数秒ほどもシエスタの胸を揉みまわしたあと、不意に顔を上げた。
「ねえシエスタ」
「え」
「どうすればこんなにおっきくなるの」
「どうすればって」
「なんてわたしの胸はこんなにちっちゃいの」
「いえ、そんなことは」
「うそつき。だってシエスタ前言ったもん、控えめに言って板だって」
 そんなこと言ったかなあ、と首を傾げるも、長く考えている暇はなかった。
 ルイズが今まで以上の勢いでシエスタの胸をこねくり回し始めたのである。
「ちょ、ミス・ヴァリエール、痛い、痛いですってば」
「いいなあ、ねえシエスタ、わたしにもちょっとちょうだい。おっぱい分けて、ねえ、おっぱい分けてってばあ」
 ほとんど半狂乱で叫ぶルイズに、シエスタは泣きそうになる。
 揺れる視界の片隅に、床に置かれた香炉が映る。
(ミス・モンモランシ)
 シエスタはルイズに胸を弄ばれながら、内心で絶叫した。
(この香、十分に効き目が強いんじゃあないでしょうか)
 しかしその問いに答えるものはなく、シエスタは明け方まで悲鳴を上げ続けることになったのであった。


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Last-modified: 2010-09-13 (月) 00:29:59 (4974d)

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