(帰ろうかしら)

 岩の館の大広間。右に左にゆらめく人影。紅緞子の垂れ幕と、色とりどりのクリスタルの器。
 トリスタニアのとある一角にある大貴族の邸宅。奢りのつきない夜宴のただなか。

 会釈と談笑のあいまあいまに、アンリエッタはひっそりとため息をついている。
 ピンクの華やかなドレスに身をつつんで出席し、ほかの客と挨拶を交わしながらあたりさわりのない笑みを浮かべているが、本音を言うと今すぐ帰って眠りたかった。

 一週間のうち、虚無の曜日とその次のユルの曜日は、国務顧問会議。
 エオーの曜日とオセルもしくはダエグの曜日が、財務顧問官会議。
 マンの曜日が、新顧問官会議。
 のこりの日には枢密顧問会議、また招聘した技術者や学者の献策を聞いたり、拝謁を求める客に会ったり、政庁の各部門や高等法院への視察を行う。
 緊急国事会議――今回は〈騒乱評議会〉と名づけられているが――は、ほんとうに緊急のときでもないかぎり開かれはしない。そして反乱のおきた今は緊急時であり、ひんぱんに会議は行われていた。

 それらの会議に出席する以前に、請願書や国王の押印が必要な書類などは、毎日のように机に山積みになる。講演や行事への出席要請までひんぱんにくる。

 (嫌になってしまう。一昨日のぶんの書類はようやく夕方に片付いたけれど、昨日持ち込まれたぶんと今日のぶんは完全な手付かずだもの。
 いま帰って寝ずにやっても今夜じゅうには終わらないし……朝にはまた新しい書類が積まれるのね) 

 それさえもマザリーニやデムリはじめ大臣、官僚によりわけてもらった最低限の重要な部類なのである。
 反乱被害をうけた各地からの訴えをさばき、政府購入を調整することなどで通常の国務が量を増したことにくわえ、さらに騒乱評議会に通いづめである。
 いまのアンリエッタに休日などは無縁だった。
 アルビオン遠征が終わった直後のような、いや、それを上回るほどの激務なのである。

 それもこれも反乱が起きたことに対して、アンリエッタが責任を感じていたためだった。

 ほんとうだったら、国務会議の大半は廷臣たちに丸投げしてもかまわないのである。顔見せくらいでも問題はないのだ。
 出席したところで、どうせまだ若く経験があさい女王である。王政府の各部門の仕事について同年代の平均よりはむろん知識があるが、官僚や大臣などの専門家以上に役に立つアドバイスができるわけでもない。
 平和なときにアンリエッタが国務会議に出席していたのは、新女王の勉強の意味合いが強かったのである。
 現に、これまでアンリエッタが王都を一時はなれたときでも国は運営できている。

 それでも今回は休む気になれない。結果としてアンリエッタは無理をしがちになってしまったのだった。

 しかし、けんめいに仕事をこなそうとする彼女でも、こうしたイベントへの出席などはスケジュールから丸ごと削りたい、とたまに思うのだった。

(やっぱり退出させてもらいましょう)

 アンリエッタはぐったりしつつ内心でそう決意した。
 卓の上に並んだ山海の珍味も、洗練された機知あふれる会話も、嬌羞をふくんだ男女の優雅な笑い声も……典型的な貴族の宴にあるものすべてに少女は飽いている。

 たまった心身の疲労のため食欲はわかないし、いつ緊急の報告が入るかわからない以上、酒で思考を濁らせているわけにもいかない。
 ダンスは嫌いではないが、(悠長に踊っている時ではないのに)と感じてしまう。
 招待された手前、社交辞令として顔見せていどに舞踏会に出席はしたものの、はやばやと切りあげる決心を彼女が固めたのは無理なかった。

 が、退出を伝えるべく侍従を呼ぼうと歩きだしたアンリエッタは、一組のカップルとはちあわせした。

「あ、姫さま……」

 つぶやいた才人は、珍しく魔法学院の制服などを着ている。どうやらせめてもの正装として誰かに借りたらしい。
 そのかたわらに立つルイズは、髪をバレッタにまとめていた。そのドレスはひかえめなレモン色の地に金糸銀糸の花模様が刺繍され、華雅にして愛らしい。

 ルイズの顔を見て、アンリエッタはとある理由で気まずさを覚えた。
 それはお互いさまのようで、ラ・ヴァリエール公爵家の三女もまたうつむき加減になり、目を合わせてこない。
 「おい、ルイズ」と連れに発言をうながす才人に視線を戻したとき、アンリエッタの心情は別方向にはっきりと揺れた。
 どちらの動揺もおもてに出さないようつとめながら、アンリエッタはなるべくにこやかに話しかけた。

「……あなたたちも出席していたのですね。ルイズ、よく似合っていますわ」

「ええ、ありがとうございます、このパーティの主催者が父の知り合いなもので招待状をいただき……」

 “父”。
 その単語が出たとき、ますます少女たちの間の雰囲気はぎこちなくなった。
 狼狽ぎみで顔にありありと困惑を浮かべている才人も、なにを口に出せばいいのかわからないようで押しだまっている。

…………………………
………………
……

 帰るタイミングを逃した。
 いつのまにかダンスの時間がはじまってしまっている。

 女王は、ダンスを申しこんでくる希望者のひとりとやむなく手をとりあって、優美な身ごなしで踊りながらちらりと広間の離れたところに目をやった。
 ルイズと才人は、何か言い合いながら踊っている。

 はた目に見ても才人はあらたまった場でのダンスに慣れていないらしく不器用で、ルイズはそれに細かく文句をつけているようだった。
 手をつないでリードしてやり、才人の弁解を聞き流し、ときに小声で罵りあい、それでも間近にぴったりと添いながら。

 怒った顔でいてさえ、幸せそうなルイズの姿。
 それを空虚に見やるアンリエッタの胸で、からからと想いの糸車がまわった。

 踊りを完璧にこなせるパートナーと組むよりも、楽しくダンスできる相手のほうがいい。
 なめらかなステップができなくてもいい。足を踏まれてもかまわない。
 風雅な会話でなくていい。飾らず、偽りのない態度を取れる相手のほうがいい。
 立場を気にせず寄りそっていられれば――……

 アンリエッタは首をふった。ダンスの相手がけげんな顔をする。

(やめましょう……むなしいのはもう嫌だわ。ルイズをうらやんでもしかたない)

 いつのまにか未練がましく才人を見つめてしまっていたのだった。
 ルイズの使い魔であるあの黒髪の少年に、何度も迷惑をかけてきた。公のことだけでなく個人的にも、疲れているときにすがりつき、優しさに甘えてきた。
 そのため今も、してはならない期待をしてしまっていたのだろう。

 だがこのままひそかに見ていても、才人はたぶん気づいてもくれないだろう。
 いまあの二人の目に入っているのはお互いだけなのだろうから。

(この一曲が終わったら、今度こそ帰りましょう)

 きっと、山積みの仕事と時が忘れさせてくれる。
 ちろちろ燃える想いの火も、いずれは消えて灰と化し、記憶の隅にしまわれて冷えていくだろう。
 それを暗く望みながら、荘重な音楽に合わせてアンリエッタはゆるかに輪舞していった。

 けれど、物思いにただ沈むというわけにはいかなかった。
 女王の憂愁の雰囲気は、目の前のダンスパートナーに気づかれずにはすまないものだったらしい。
 アンリエッタの相手をつとめているその青年貴族は、かれなりに気をつかったのであろう。積極的に話しかけてきたのである。

「陛下、いかがしました? もしかしてご気分がすぐれませんか?」

「え……いえ、そういうわけでは。お気になさらないで」

「そうですか……そうだ、新しい香水に興味はおありですか?
 わが領地には広い猟場があってですね、そこに咲きほこる春の花々を集めて……」

 気負いがあるのか、その貴族はなまなかなことでは引き下がってくれなかった。
 ほかにもその猟地で巨大な獲物をしとめた話やら、群生する白百合のみごとさゆえ景勝地にもなっているという話やら、今夜の宴席にだされた料理の批評やらをけんめいに語りだした。

 が、上の空のアンリエッタは「あら」「ええ」「ほんとうに」など、ひとことふたこと相づちをうつばかりであり、それらの話題は発展せずつぎつぎ終わっていく。
 ふだんなら社交の基本として、興味がうすい話でも笑みをうかべて傾聴するし、たいていの話題で無難に会話をつなげられるだけの教養はある。
 けれども今夜の彼女は疲れてぼんやりしていた。さらに傷心で精神の活力を失っている。

 そういう理由でのアンリエッタの反応の鈍さに、その青年貴族は落胆した様子だった。
 自分の話術で女王の興味をひけないことに誇りが傷ついたらしい彼は、苦悩しつつもっと刺激的な話題をさがし――他の貴族のゴシップにたどりついたようだった。

「マントノン公の話はもう耳に入れておられますか、陛下」

「はい……?」

「ガリアとの国境沿いに領地をもつマントノン公爵ですよ。ほら、西への街道を扼している。
 よかった、この話はまだお知りでないようですね。すこし前からマントノン公は目の色を変えて『商売』にはげんでいるのですよ。
 トリステインの東側で反乱が起こっているこの機をのがすまいとして、街道をとおる商人たちから金を一スゥでも多く巻きあげようとしているのです」

 領地が近い貴族同士が仲がいいとは限らない。告げ口する青年貴族の顔はにわかに生き生きとしはじめた。
 ぽかんとしていたアンリエッタは、この話にかくされた重大な意味に気がついて顔をひきしめた。

「……その話、うかがわせていただけますか」

「たわいもないことですよ。さきに述べたように彼の領地内には、西の国境へ通じる街道があります。
 街道をとおってガリア方面へ行き来する商人たちに、マントノン公は自分のところで作った工芸品などを売りつけているそうで」

 ――マントノン公はティーカップなどの高級磁器の製造に手をだしていました。それを自領の名産物にして稼ごうと以前から試行錯誤していたのです――
 ――ですがかれが作れたものは、素人目に見ても二束三文のがらくたばかりです。形をつくって釉薬を塗って火メイジが熱を通せばできあがり、と口でいうほど簡単なものじゃないですからね――
 ――商人たちにとってもいい迷惑というものですね。あんなもの買わされた値段の半額でも売れやしませんよ。重いしかさばるし荷馬車につむと壊れやすいし、実際捨てたほうがましかもしれませんね――

 青年貴族の話を聞きながら、アンリエッタの肩が震えた。
 ひとつひとつ状況への理解が深まるたびに、胸中で火の粉が散る。

 もともと豊かな穀倉地帯であるガリア方面からは、国境をこえて商人がトリステインに物資を売りにくる。
 空路の場合、船賃がかかるため、小規模の行商人ならば陸路を選んで国境越えすることも多い。
 そしていまは、トリステイン東部で起きた反乱のため、ゲルマニア方面との流通がとどこおっている。反動で反対側、つまり西のガリア方面との取引は活発になっているはずだ。

 マントノン公爵は街道を通過する行商人を足どめし、あまっていた陶磁器を不相応な値で強引に買いとらせ、それを通行許可証同然にしている。
 この話が真実なら、公爵がやっていることは実質的に、関税をとりたてているのと変わらない。

(関税権は、王政府しか持ってはならないのに!
 それに、そんなことをすれば、行商人たちがトリスタニアに着くころには物の値は上がってしまうわ。そのくらいはわたくしにもわかるわ)

 街道を通るときに余計な出費を強いられるとなれば……商人たちはそのぶんをとりもどすため、あとから商品をより高く売るだろう。
 かれらとて利益を出さねばならないのだ。
 それでも王都トリスタニアをはじめとして、トリステインの民は商品、ことに麦類を求める――当たり前である、高くても買って食べなくては生きていけないのだ。
 トリステインでもむろん穀物は作っているが、国産物の値は輸入穀物よりさらに上がっているのが現状だった。

「ああ、それだけでなく、こんどは瓶詰めの聖水とやらまで売ろうとしているそうです」

 うつむいたアンリエッタの顔色に気づかず、青年貴族は得々としゃべっている。

「陛下にまず話そうとしたのはこの話ですよ。わが家はマントノン領と領地を接しているからよく知っているのでしてね。
 その水がまた傑作でして、数千年前に聖者が足を洗ったという泉の水をびんに詰めたしろものですが、要はただの水ですよ。そんなものをワイン並みの値段で売りつけようとしてるんですから。
 いやもう、強欲にもほどがあると、心ある者たちは眉をひそめておりま――陛下……?」

 その貴族はようやく女王の様子にただならぬものを感じ、笑みをひっこめて青くなった。かれがもたらしたゴシップは、予想以上の反応を引きだしたのである。
 アンリエッタはダンスのステップを打ち切り、立ちどまって口を引きむすんでいる。

 ただならぬ雰囲気に気づいて周囲の視線が彼女に集中し、音楽までが止まった。
 静まりかえった大広間に、怒りをはらんだ女王の声が、つぶやくように、しかしはっきりと流れた。

「……パンをはじめ、トリスタニアで物の値がはねあがっているのはそのせいもあったのですね。
 教えてくれてありがとうございました、わたくしは今夜はこれで」

 情報をもたらした貴族に礼を述べると、アンリエッタはくるりと身をひるがえした。
 あぜんと見ている客たちにかまわず、広間の入り口をめざす。
 ハイヒールの足音高く、優美さを失わない程度に急ぎ足で。

 あわてて寄ってきた侍従に「馬車を、それと銃士隊長を呼んで。帰ります」と告げる。
 なにか落ち度があったのかとびくびくしつつ現れた城館の主にも、丁重な礼を述べて、アンリエッタは退席した。
 夜会に出てよかった。早期のうちに処理しておくべき問題を見つけたのだから。

(これは許せない。下劣すぎるわ)

 大貴族が、立場を悪用して私欲をむさぼっているのである。国の危機と民の弱みにつけこんで。
 嫌悪の情はもとより、国の理に照らしても見逃せるものではない。マザリーニに伝えて、今夜のうちにでも処置を決めるべきだろう。

 灰色の石づくりの玄関をでて庭を歩き、鉄格子の門から街路に踏みだす。
 けれどアンリエッタが馬車に乗りこむ前に、ハイヒールで石畳を走る音と必死な少女の声が、背に追いすがってきた。

「姫さま、待ってください、姫さま!」

 耳に入ったときはすでに、それが誰の声かわかっていた。一瞬ためらってから、アンリエッタはふりかえった。
 人目を気にせず走ったのか、ルイズは髪を乱して息を切らせていた。
 館前で明るく燃えるかがり火のわきで足をとめ、ひざに手をあててあえぎながら彼女は言葉を発した。

「は、話が……姫さま、話したいことがあったのです。宴が、終わったら、話そうと」

「……なにかしら?」

「お父さまは……ラ・ヴァリエール公爵は……世のわからずやたちはいろいろ言っておりますけど、でも違います!」

 ルイズは呼吸をととのえてから、背をまっすぐに伸ばした。青い顔だったが、ルイズはしっかりとアンリエッタの目を見てきた。

「姫さま、父や母は……もしかしたら批判はしているかもしれません。けれど姫さまを裏切るようなことはしません、絶対に!
 わたしは王政府の臣としてできることならなんでもします。どうか、わたしになにか命じてください」

 アンリエッタは気がついた――王家とラ・ヴァリエール家の間が微妙なものとなっていることは、ルイズの心をずっと穏やかならざるものにしていたのだろう。
 自分のように。あるいは自分にもまして。
 ふと共感がわきおこり、女王はルイズに歩み寄った。その手をそっととって、ぬくもりを共有するようにアンリエッタは両手で包みこんだ。

「ルイズ、わたくしもそう思っているわ。
 あの方たちが誇り高い真の貴族であることはよく知っているもの」

 女王は本当にそう思っている。
 ラ・ヴァリエール家ならば、たとえば同じ公爵家とはいえ、マントノン公が手を染めている『実質関税』のやり口などは侮蔑もあらわに唾棄するだろう。

 にぎられた手にルイズは視線をおとした。それから強い決意を瞳にやどして再度顔をあげ、アンリエッタに言った。

「姫さま……じつは、希望したいことがあったのです。
 ラ・ヴァリエール公家に使者を派遣すると聞きましたわ。
 おねがいです。わたしをその使節のひとりにくわえて、実家に戻らせてください」

「ルイズ」

「父さまたちと話します。こっちの事情を説明して、王政府に協力するよう説得します。
 おねがいします。ラ・ヴァリエール家は不忠者だなんて、もう誰にも言わせたくありません!」

「……ありがとう。本当はわたくしから、いずれあなたにそれを頼むつもりだったの」

 救われた表情でアンリエッタは感謝をのべた。
 この話をなかなかルイズに切り出せず迷っていたのは、重圧がかかっている彼女の立場を利用することになりはしまいかと考えたからだった。
 けれど王都や学院で後ろ指をさされているよりは、ルイズのためにもこのほうがいいだろう。

 ルイズの後方、館の玄関口に、ほっとした様子で円柱に背をあずけた才人の姿がある。気になって見にきていたのだろう。
 今はそちらのほうを見ないようにアンリエッタはつとめた。

…………………………
………………
……

 館の前からすこし離れた街路樹の枝に、緑の小鳥がとまっていた。
 それは見る。つるりとした黒塗りのガラス玉をおもわせる眼で見ている。
 路上で手をとりあう少女たちの姿が映され、その人工の眼球の奥に消えおちていく。

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 日は落ち、残照が空の雲を赤く染めていた。

 執務室をたずねてきた男にうながされ、ベルナール・ギィは街角を歩いている。
 どこかの裏庭から逃げだしてきたニワトリを追いかける子供たちの声、鍛冶屋の徒弟が一心にふるう槌の音、ニレの並木にはさまれた道をかけぬけてくる川風。
 夕暮れどきの都市のなか、レンガで舗装された道が、二人の男の足音を無骨にひびかせる。

 都市トライェクトゥムをかこむ防壁にくっついている、ひとつの古い砦。
 その内部に築かれた地下への階段をおりる。鋲を打った冷たい鉄のドアをあける。
 もとは武器倉庫ででもあったのだろうか、石の地下室はわりあいに大きな空間である。幅と奥行きは二十メイルをくだらない。

 ベルナール・ギィが訪れたのは、みずからの都市の片隅である。
 だがこの場所で、その表情は冷然とひきしまり、瞳は油断とは無縁の色をうかべていた。

 彼は実質上、河川都市連合の指導的地位にあり、トリステイン王政府からは「ワインの乱」を引きおこした政治犯代表格と見なされている。いまさら、なまなかなことで動じはしない。
 それにもかかわらず、彼はこの地下の石の広間にひそむ何かに対し、警戒をおこたっていない。

 手燭を持つ同行者が、背後で虫一匹さえ這いだせないほどきっちりドアを閉じると、たちまち闇が戻ってこようとする。手燭の火のみがそれを拒絶し、暗黒を部屋の隅に押しとどめつづける。
 しかし、そのささやかだが確かな手燭の光も、大きな地下室の半ばから先へは進めない。
 まるでカーテンをひいたかのように、巨大な赤い泡の膜が張られている。泡は完全に地下室を仕切っている。

 ほんとうに暗い地下室だった。
 ベルナール・ギィには、この不気味な泡の内部から血なまぐさい暗黒がしみ出してくるように感じられた。
 遠く思いだす修道院の図書室も暗かったが、あれとは全くことなる、濁り沼のような冷たくよどむ闇なのである。

 横手のぶあつい壁はじめじめしていた。壁の石組みの隙間から、冷たい水がしみだしてくる気がする。壁の向こうがわは川の中だ。
 この砦のある城壁は、濠として川を活用しており、ここは地下なのだから。

 そして部屋内を満たすのは、むせかえるような血のにおい――

 彼は横目でザミュエル・カーンを見た。手燭をかかげて彼をここまで先導してきたゲルマニアの傭兵隊長は、この陰惨な雰囲気のただなかにあってみじんも動揺がない。
 それも道理だ、とベルナール・ギィは考える。なぜならその傭兵隊長の着こんだ鎧の隙間からも、忌まわしい臭いがしみだしている。
 この泡の障壁の向こうにあるものと同じ臭いが。

(そういえばあの娘は、この傭兵隊長を〈カラカル〉と呼んでいた)

 カラカルという名の獰猛な獣は、狼の眷属とも、大山猫の一種とも言われ、エルフたちのいるサハラやその近辺に住むという。たしか人間の死骸を食べるとも言われていた。
 ザミュエル・カーンについて言われていることを思い出して、ベルナール・ギィは目をすがめ、さりげなく僧衣の袖で鼻を覆った。
 傭兵には悪評がつきものだが、この傭兵隊長には討ちとった敵メイジの心臓を食べたといううわさまでがあった。

 泡が強く揺れた。

 二人の男が黙って見つめる前で、泡の表面ににゅっと細い手首が生えた――むろんそう見えたのは錯覚で、泡の内側から誰かが手を伸ばしたのである。
 手につづいて腕が、肩が現れ、そして頭と脚が……
 出ようとしていた者が通過し終えても、泡は割れはしなかった。ただ表面に波紋を伝えて揺れただけである。

 裸の少女の姿を惜しげもなくさらした〈黒い女王〉に、ザミュエル・カーンが床にあった紫のローブをほうり投げる。
 宙でそれをつかみ、濡れた白い裸にローブを羽織った彼女は、開口一番に「つぎの素材がそろそろ欲しい」とベルナール・ギィに向けて言った。

「新鮮な生きた人間、できれば若い女がもっと必要だ。死刑囚に適当なやつはもういないのか」

 ベルナール・ギィはトリステイン女王の外見を模した少女に答える。

「そう何人も簡単に融通できるものか。都市参事会は都市内の法をつかさどる立場でもあるのだぞ。
 死刑囚とて本来は法にのっとって刑を執行されるべきなのだ。彼らを貴君に引き渡すことを、わたしがどれだけ良心を殺しておこなっているか知るまい」

「頭が固いな。公にならなければいいではないか。
 目を転じてみろ。売春婦ならば街にあふれているぞ。そして、いなくなってもさほど追求はされない」

「念を押させてもらうが、わたしの断りなく都市民になにかしようと思うな」

 ベルナール・ギィは細めた目を〈黒い女王〉にひた当てた。
 その強い警告に対し、彼女はあっさりとひきさがった。

「しかたない。なら、都市民以外でこっちで適当に調達するさ。戦場で捕虜を得てくるなりなんなり。
 まさかそれまで止めはしないだろうな」

「……ガヴローシュ侯爵の妻と娘を『素材』とやらにしたのはやりすぎだぞ。
 今後はたとえ敵であろうとも、身分の高い者はけっして無意味に殺すな」

 必要以上の敵意を買ってはならなかった。
 けっしてこの少女に言ったことはないが、適当な時期がきたら王政府と講和することをベルナール・ギィは考えている。
 ただし、こっちに有利な条件での講和でなければならない。そこに持ちこむまでの戦いのなかでは、この少女の存在はまだ役に立つはずだった。
 〈黒い女王〉が微笑む。

「それは残念。大貴族の女というのが好みなのだが。
 ならば農民にしておこう。連中はたくさんいるから」

 その言い方は、野ウサギの数について猟師が語るのと変わらなかった。
 ベルナール・ギィは嫌悪を顔にはっきり浮かべはしなかった。無表情のまま口をかたく引きむすんだだけである。

 この泡の内部にこもるとき彼女が何をしているか、彼は知らない。
 ただこの地下室に運びこまれた囚人は、ひとりたりとも出てきていないということを知っている。そして何かの残骸が夜の闇にまぎれて運びだされ、ひそかに郊外に掘った穴に捨てられているということも。
 囚人の調達も生ごみを入れる手押し車も、どちらも彼が手配しているのだから。

 そしてこの幼いトリステイン女王の外見をした怪物は、本物のアンリエッタとおなじく水系統の魔法を得意としていた。技の応用には相当の違いがあるようだったが。
 たとえばこの泡だが、これは一種の結界のような役目をはたしているらしい。
 『解呪石〈ディスペルストーン〉』の働きによって大河流域は魔法断絶圏となっているが、前もって張っておいたこの泡の結界のなかでは魔法が使えるとのことである。
 大気中に飛散した『解呪石』の目に見えないかけらを、泡の膜が通さないのだという。肌についたかけらは泡を通りぬけるとき、ほこりと共に泡表面にくっついてぬぐわれるらしい。だから内部に入るときは裸なのだろう。

 泡の結界は一枚ではなく、この奥にさらに何重も張られているとのことだった。
 見透かすことはできないが、それでけっこうである。どんなことになっているにせよ、人が見たいと思う光景であるはずがない。

「ところで会議の顔ぶれはだれだれなのだ」

 〈黒い女王〉に唐突に訊かれて、ベルナール・ギィは一瞬みがまえた。どういう意図の質問なのかがわからない。
 裏をさぐりかけてやめた。この程度のことなら隠しても意味がない。

「市参事会員をはじめ、いまだトライェクトゥムにとどまっている各都市の代表。そんなところだ」

「全員の忠誠は確認したのか? 誓約文書はあるか」

「各代表の名のサインと血判により、われわれ河川都市連合は反・王政府でかたくむすびついた。その書状はトライェクトゥム市参事会があずかっている。
 これなら、おじけづいたどこかの都市がいまさらながらに無関係をきめこもうとしても不可能というものだ。ただし代表がさっさと帰ってしまった都市ガンをのぞくが」

 〈黒い女王〉はそれを聞くと「ふむ」と下唇に触れ、謎めいた沈黙に入った。
 その沈黙に、ベルナール・ギィは長く付き合うつもりはなかった。この暗い部屋が忌まわしかったし、この少女と向き合っていることそのものにいやな感じを覚えていた。
 だから彼は、言うべきことをさっさと口にした。

「ついに王軍が来る。こちらの倍となる一万余の兵をそろえてな。
 それも農民主体の諸侯軍とはわけがちがう。王軍を構成するのは、戦に慣れた傭兵たちだ」

「ほう。王軍はどんなふうに攻めてくるかな」

「冠水した土地をさけつつも、なるべく直進してくるだろう。
 王政府は財政上の問題で、小細工する余裕がおそらくない。はやいうちにこちらと決着をつけようとするはずだ」

「ああ、それをわたしに止めさせようと?」

「まさか。王軍の相手は市民軍がする。王政府の空海軍は、『水乞食』が相手する。
 貴君に頼みたいことはむしろ、残ったそれ以外の道をつぶすことだ」

「残ったそれ以外の道?」

 おうむ返しの形の質問に、ベルナール・ギィは答えた。

「山地だ。ゲルマニアに近い山地のあたりを押さえられたくはない、大河上流域も押さえられてしまうからな。
 ただ王政府も、それをやると軍事費がさらにかかるから多分そうはしないだろうが、絶対にないとはいいきれない」

 予想に反し、王政府が大量の兵を大河の上流域に送りこんできた場合、やっかいなことになる。
 そのまま川にそって下流まで攻めこまれずとも、たくみに大河とその支流の上流域を封鎖されてしまえば、こちらの喉元はじわじわ締め上げられているも同然だ。
 ゲルマニア側の都市が送りこんでくれるひそかな物資の流れが絶えていくのだから。

「幸いなことに、はやいうちならその戦略の芽をつぶせる。
 現地の畑をだめにしてしまえば、王軍はたとえ上流域をとっても山地をながく保持できない。糧秣を調達できないのだから」

 上流域は山がちの地形であり、大河の両岸は崖がつらなる。山地を抜けて大砲を移動させることは困難だった。
 さらに山地では荷馬車も通りにくい。つまり補給を後方からおくりこむことがますますむずかしくなる。大軍の維持のためには、食料を現地調達しなければおぼつかない。
 だからこちらは先に上流域に兵をおくり、もともと平野にくらべて乏しい食糧を刈りつくしてしまえばいいのだ。

 ただ、その地の農民には残酷なことになるだろう。やっと山あいの畑に初夏の収穫があるころなのだ。それを奪われれば、かれらにとって餓死はそう非現実的な話ではなくなる。

 しかたない。ベルナール・ギィは思った。
 山地の農民には飢えてもらうしかない。都市の命運をおびやかす可能性のあることは、ささいなことでも消しておきたかった。
 それでもこういう任務に、市民軍を使う気はさらさらない。王軍が来ようとしている今そんな余裕もないし、余裕があっても汚い任務をさせる気はない。
 汚名をかぶったまま消えていくにふさわしい連中は、すでに用意していた。目の前に。

「貴君の連れてきた傭兵隊にそれを任せたい。できれば、ゲルマニアから流入してきた共和主義者たちとやらも連れて行ってもらいたい」

…………………………
………………
……

 ベルナール・ギィが一人で去り、階段の足音の余響が消えてしばらくしてから、〈カラカル〉が口を開いた。

「いいのか、あの男はこちらを汚れ仕事に使いつぶそうとしているぞ」

 傭兵隊長は、白く幼い裸身にタオルのみをはおった〈黒い女王〉に指摘する。

「これまでのところ、黒狼隊が食糧や弾薬の補充を求めて断られたことはない。報酬もさまざまな形で支払われている。
 だがあいつは、俺たちと契約文書をとりかわして正規の雇用関係を結ぼうとはしていないのだぞ。あくまで俺たち黒狼隊はあんたの私兵あつかいだ」

 少女は、傭兵隊長からすれば不可解に思える笑みを浮かべた。

「なんだ〈カラカル〉、おまえみたいなクズでもやっぱり安定した職を望んでいたか? たしかに魅力的だものな、専属傭兵となることで定期的に払われる俸給は。
 残念ながらこの都市は、都市の民自身からなる『市民軍』という奇怪なものを考えだしたのだ。ほとんどの傭兵は戦が終わればお払い箱さ」

「おい、俺はいま忍耐心を試されているのか? 話がそれている、そんな問題じゃない。
 このままだと、王政府と都市連合のどっちが勝っても俺たちに先はないと言っているのだ。
 今でさえあの男は、あんたと俺をうとんじている。俺たちを始末しようと考えだすのも、そう遠い未来ではあるまい」

「悲観的な未来予想だな。だが真に悲しむべきことに、お前の言葉が正しいようだ。
 わたしだって、あいつに愛されていると思っていたわけじゃない」

 〈黒い女王〉は傭兵隊長の予測を肯定した。
 だったらこれからどうするのだと言いたげな〈カラカル〉に対し、彼女はぴんと指を立てた。

「たしかに技術屋、便利屋あつかいされるのは嫌気がさした。使い捨てならなおさらだ。そろそろ独自に立ち回る時期に来たようだ、わたしたちも。
 〈カラカル〉、とりあえずはもう一度だけ、望まれた役割を果たしておこうか。ただし、ここはいっそ期待された水準をはるかに上回って。
 言ったとおり、傭兵どもにはいつでも出られる用意をさせているな。じゃあ、明日にでも兵を出そうか」

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 二日後。トリスタニアちかくのとある人工池。
 ただの池ではなかった。王政府御用達の、水空両用のフネの発着場である。
 ラ・ロシェールなどの大型の港にくらべればとるに足りないもので、港と呼べるかさえ怪しい。
 なにしろ収容できるフネの数は小型船なら二、三隻、大型のフネならただ一隻である。

 それでもこのような発着場は必要とされていた。緊急時などで急行しなければならない事情のあるフネのためである。
 いまも、間近に出帆をひかえた小型の快速艇が一隻、停泊している。百合の紋がはいったそのフネは、王家の連絡船の一隻なのだった。

 その甲板にたたずみながら、ルイズははるか東のかなたを見ていた。
 トリスタニアから東のラ・ヴァリエール領へ、これから空路で向かう。
 まっすぐ進めば途中で反乱地域の上空に入ってしまうが、もちろんそこは迂回する。大きく南に半月弧をえがき、ゲルマニアとの国境ぎりぎりを航行して、実家をめざすのである。

 航路を頭のなかにえがいてから、ふとルイズは髪をそよがす風のなかにつぶやきをもらした。

「先に帰った姉さまとおなじ航路だわね」

 エレオノール・ド・ラ・ヴァリエールが王立魔法研究所を離れ、父公爵の領地へとフネで飛んで帰ったのは先々週のことだった。
 傍のものがひきとめる間もないほどのあわただしい帰郷に、“父公爵から指示がきたにちがいない”と世人はささやきかわしていた。

(それがただの根も葉もない陰口ならどんなにましだったかしら。
 最低の気分だわ、なんたって事実なんだから)

 ルイズは先々週、姉が王都を出ていく前にひそかに自分を訪ねてきたときのことを思い返して、苦さを噛み締めた。
 王宮まできたエレオノールは、ルイズの滞在している一室に踏み入るなり言ったのである。
 姉はすぐ発てるようにした簡素な旅装で、椅子に座りもせず帽子を手でおさえながら言った。『おちび、あなたも来るのよ。しばらく家のほうにいることになるわ』

 そのとき、むろんルイズは抗った。こんなときに無断で王都を離れていいとは思えなかったのである。

『陛下に……姫さまに申し訳がたたないではありませんか、姉さま! それに、ラ・ヴァリエール家の体面はどうなるんです』

『あんたがそんなことを気にしなくていいの! とにかく、お父さまは帰ってこいと言っているんですからね』

 叱りつけられても、ルイズはあとに退かなかった。
 彼女は幼いころの彼女ではなく、その心にいだく貴族としての理念は、彼女なりに成熟して固まりつつあった。

『いいえ、気にしないわけにはいきません! わたしはラ・ヴァリエール家の娘ですけど、王政府の臣下でもあるのですから。
 ……姉さまだってそうよ、お父さまだってそうでしょう? 国がこんな混乱にあるときこそ、お父さまは、トリステインの玉座に忠誠を誓ったすべての貴族の模範となるべきなのに!』

 正面から逆らわれて、エレオノールは驚いたようだった。これまで家内では、自分の前ですら萎縮しがちだった末の妹が、やや興奮ぎみとはいえ父公爵への批判を口にしたのである。
 怒ろうとして思いなおしたらしく、すこしの沈黙のあとで姉は抑えた声で妹をさとしはじめた。

『ちびルイズ、あなただって大貴族の一員なんだからわかるでしょう。こんなときだからこそ、家長が判断したことにはあれこれ口をさしはさむべきじゃないのよ』

『納得できませんわ! いまでさえラ・ヴァリエール家が宮廷貴族たちになんと言われているかご存知でしょう!?
 帰るにしてもせめて姫さまに事情を話して、きちんと領地に帰る許可をいただいてでなければ、ますますわたしたちは……!』

『……それはしないわ。べつに帰郷のたびごとに直接、陛下の許可を得なければならないわけじゃないし』

 長姉は苦渋の表情でかぶりをふった。
 彼女はけっして言わなかったが、いまから思えば、父から来た指示の手紙に《引き止められぬよう宮廷人との余計な接触は避けて、すみやかに戻ってこい》くらいのことは書いてあったのかもしれない。

 そこから先は堂々めぐりとなり、折り合いがつくどころではなかった。
 エレオノールは最初こそ、彼女にはめずらしく温和にルイズを諭そうと試みていたが、けっきょく忍耐力が蒸発するまでそうはかからなかった。
 もともと高慢で激しやすい性格である。

『わたしが喜んでると思うの、ルイズ! ことあるごとにうしろ指をさされて何とも思わないわけがないじゃない、お腹のなかはあんたが想像できないくらい煮えくり返ってるわよ。
 けれどね、もう一度だけ言うけど、お父さまが決めたことなのよ! たぶんお母さまとも話しあってね。あの人たちがいろいろ考えなかったわけがないでしょう。
 大人が決めたことにあれこれ反発して危険に手をつっこもうとする馬鹿な子供よ、あんたは。あんたが少しは大きくなったことは認めてあげる、けどおあいにくさま、それでもまだ子供なのよ。
 黙ってわたしといっしょに帰ってきなさい!』

『いやです!』

『こ……この、頑固なちび!』

 いつしかたがいに興奮して声が大きくなりすぎていた。
 人がどんどん集まってくる気配にエレオノールははっとわれに返った様子で、ルイズの腕をとろうとした。
 引きずってでもつれて行こうとしたのだろうが、ルイズはつかまれる前にぱっととびのいてそれを避けた。
 その直後、戸口にアニエスがあらわれて一喝した。

『王宮内だぞ、なんの騒ぎだ!』

 エレオノールは開け放された部屋の入り口に立った銃士隊長をふりむいた。動揺がその後ろすがたから伝わった。
 彼女は一度だけ顔をもどしてルイズを見た。ルイズが固まったままでついてくる意思を見せないのを確認すると、その目に怒りのほかに悲しみがよぎった。
 それからエレオノールはぐいと婦人用帽子を目深にかぶって歩きだし、足早に戸口から出ていった。
 戸口のアニエスは、すれちがうときに彼女を引き止めようとしたらしかったが、ふと室内で唇をかみしめてうつむくルイズを見て、思いとどまったようだった。

『……姉君の身柄を拘束しておいたほうがいいか?』

 その問いに、ルイズは視線を落としたまま弱々しく首をふった……

 ……――現在のアニエスの声が、ルイズを現実にひきもどした。

「フネが飛べなくなった空域を避けるとなると、やはり航路がゲルマニア側にはみ出てしまうな。
 いちおう同盟国だし、通行することをちゃんと伝えれば一隻くらいうるさく言われはすまいが、あちらも内乱状況なので注意が必要だろう。
 ところで、サイト?」

「あ、はい」

 ルイズと並んでぼうっと横に立っていた才人が、呼びかけられてアニエスに向いた。

「辛気くさい顔をしてどうしたんだ」

 それはルイズも気になっていたところだった。朝から少年はめずらしく、沈思の表情になっていたのである。
 心配を覚えたルイズは、長姉のことはひとまず頭のすみに押しやって声をかけた。

「サイト。なにか気にかかる事でもあるの?」

「いや、とくにどうってわけじゃないんだけど……うーん……
 アニエスさん、ルイズの護衛は俺でじゅうぶんじゃないんですか?」

「しかたあるまい、わたしは監視役もかねて付いているのだ。むろん建前だが。
 『使節団の代表をラ・ヴァリエール家の身内だけで構成するわけにはいかない、不安だ』と言いたてる輩が宮廷内にいないではないのだ。不愉快だろうが我慢してもらおう。
 いちおうわたしも近衛の隊長だ、公爵の前にでるのに身分に不足はない」

「でも、姫さまの護衛のほうは」

「なるほど、無理もない心配だな。だが問題はあるまい、マンティコア隊ががっちり固めている。しばらく陛下の護衛は銃士隊でなく、ほかの近衛隊にまかせることになりそうだ。
 われわれ銃士隊はおそらく、戦場近くに派遣されて任務をこなすことになる。メイジと違い、魔法断絶圏でも戦闘力が変わらない部隊だからな。
 そういうわけでよろしく頼むぞ」

 そう言ってアニエスは、出港の用意をしている水夫たちをさけて船首のほうへ歩いていった。
 才人はその後ろ姿を黙然と見送っている。その才人を見てルイズは、ちょっとむくれた。

「ふーん、あんたずっと姫さまのこと考えてたのね」

「え? ルイズ?」

 きょとんと見てくる才人に背を向ける。
 本来、アンリエッタが心配なのはルイズも同じである。傍から見て、あきらかにいまの女王は根のつめすぎと思えた。
 しかし、それはそれとして、才人がほかの少女のことを思案することには心おだやかではいられない。

「静かだったと思ったら、そういうことなんだ」

 これではただのやきもちだと自分でもうすうす感じながらも、ルイズは続けて言ってしまった。
 たぶん才人はむっとしてなにか言い返してくるだろう。喧嘩などしたいわけがないが、嫉妬の虫はどうも抑えられないのである。
 だがルイズの予測ははずれ、背後の才人から声がかかることはなかった。不安になり、彼女はふりむいて「怒ったの?」と訊いた。

 才人は首をふった。

「そうじゃねえよ、怒ってない。
 でも、いまはほんとに姫さまのことを考えてたわけじゃねえから。……いや、ある意味それも考えたかもだけど……」

 要領をえないことをもごもごと口中でつぶやいてから、ルイズの使い魔である少年はためらいがちに言った。

「なんだかわかんねえけど落ち着かない。ほんとにそれだけだ」

…………………………
………………
……

 その頭上。
 すみわたる青い空を背景に飛んできた緑の小鳥が、白い帆にとまり、きょろきょろ動く黒い目で甲板の人々をながめはじめた。

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 昼時、魔法学院のすぐ近くの草原だった。
 使い魔召喚など野外授業にも使われる場所である。

 野をつらぬく道路には、数人の廷臣たちと多くの護衛がならんで待っていた。
 そのまえで、馬車をひいていたユニコーンが足を休め、車輪が回転をとめ、そして王家の馬車は止まった。
 なかから白よそおいの少女が下りてくる。

「お帰りなさい、陛下。マントノン公爵への説得はうまくいきましたようで、まずは喜ばしいかぎりです」

 マザリーニが、言葉ともに出迎えてきた。
 言祝ぎに対して、アンリエッタはふわふわした肩掛けを脱いで侍従に渡しつつやや不機嫌な声で応じた。

「説得などというものではありません。拍子抜けするくらいあっさりと応じてくれましたわ。
 書簡で詰問したときにはのらりくらりと逃げようとしていたのに」

 夜会から帰ってすぐ宰相にマントノン公爵のことを伝えようとした女王だったが、偶然にもその前に、マザリーニのほうからも同じ件を報告してきたのである。商人たちが訴え出てきていた。
 むろんまず書簡で叱責した。街道を通行する商人にむりやり物を買いとらせる行為は、即座にやめるよう命じた。

 それに帰ってきた返事は、文面だけはぎょうぎょうしく敬語をふんだんにつかいながらも、あいまいに言葉をぼかしてあるものだった。
 自分は公爵家の当主であり、トリステイン貴族でも高位にあるため、体面をたもつための出費が馬鹿にならない――そのような愚痴めいた言い訳が並んでいるだけである。
 それ以外には、反省はもとより、なんの中身もない文だった。

 その返事を見て、アンリエッタは怒りにかられたのだった。関税権を犯しておきながら、謝るでもなく、逆に大貴族であることを強調する。そこには、ことをうやむやにしてもらうつもりが透けて見えた。
 女王はみずからマントノン領を訪れることを決め、その日のうちに出立したのだった。
 彼女の姿を見たとたん、マントノン公はうろたえきって一も二もなく謝罪し、慈悲を求めてきたのである。

 アンリエッタの後ろにつき従いながら、慇懃にマザリーニが評する。

「ふだん玉座から遠くはなれた自分の領地にいるときは大胆にふるまっていても、いざ王その人を眼前にすれば怖れにとらわれる。そんな領主はめずらしくないものです。
 ただ陛下、権威を利用するこうした手法はたしかに有効ですが、今後はあまり多用してはなりませんぞ。危険におちいることもありますから」

「うまくやりますわ。それより、なぜ魔法学院で待ち合わせなの? わたくしが王都にいてはだめなのかしら」

 アンリエッタの不機嫌の主因はそれだった。
 枢機卿のよこした急使によって、マントノン領から王都に帰ろうとした彼女は、予定していた帰路をまげて魔法学院に直行したのである。
 忙しいのである。無駄な手間をとらされたくはなかった。

「枢機卿、わざわざこちらへ呼んだのはなぜか説明していただけませんか。わたくしは王都に急いで帰りたいの。やらねばならない政務がたまっているのですよ」

「それです、陛下」

 主君のその質問を予期していた口ぶりでマザリーニは言った。

「しばし仕事から離れ、王都ではなくこちらに滞在してお休みください。学院長オスマン氏にはすでに話を通してあります。
 そのあいだ、政務はわたしが責任をもちましょう」

 息を呑み、アンリエッタは声を少し高めた。

「まってください、枢機卿。宮廷でも戦場でも臣下が駆け回っているのに、いまわたくし一人を休ませようというのですか」

「そうです、陛下にはご自愛いただきたい。これは侍従長ラ・ポルトも同意見です。この場に銃士隊長がいてもおそらく賛同を得られましょう。
 もちろん状況しだいです。心苦しいのですが、場合によってはまたすぐ陛下をわずらわせることになるでしょう」

「それでいいのです、休みなどいりませぬ。いまは働いていたいの、わたくしは。
 ……魔法学院にとどまっているなど」

 横をむいてトリステイン魔法学院の火の塔だか風の塔だかを一度見あげ、唇をかみしめてうつむく。
 血を流しているのは自分の王国なのだ。
 それに、頭を休めれば、ルイズ主従のことを考えてしまう。ましてここはあの二人がふだん生活している場所だった。考えたくなくてもいやでも思い出さざるをえない。
 戦ははやく終わらせたかったし、報われない想いはもう重かった。

 マザリーニが首を振った。

「臣の身にして不遜ではありますが、あとはわたしにお任せいただきたいと申し上げます。陛下は動かないでいただきたい」

「そんな、一方的すぎるわ。
 反乱鎮圧はこれからが肝心だとあなたは言っていたではありませんか。いまは都市ガンの攻略にかかっているのでしょう。
 兵士たちが命をかけて戦うというときに、かれらに命令を出したわたくしには休めと?」

 アンリエッタの抗議に、さらりと返ってきた答えは予想しなかったものだった。

「ご心配なく、緒戦はすでに終わりました。人は一人も死にませんでした。都市ガンは王軍に抵抗することなく城門を開いたのです」

 女王はあっけにとられた顔でマザリーニを見た。
 説明をうながされる前に、宰相は弟子に対し口を開いた。

「ガンは反乱を起こした河川都市連合から離脱して、王政府がわについたのです。ほんの先刻、報せがとどきましてな。
 これで、もっとも近い水路と倉庫にいたる道の安全は確保できました。時間と兵、弾薬の節約になりましたな」

「それは……吉報ですわ、とびきりの吉報ですけれど……
 でも、あの、いきなりなぜ彼らはこっちについたのでしょう?」

「戦は見える軍の力と、見えない政治の力の双方で戦います。見えないほうを使ったまでです」

「順序だてて、細部まで話してください」

「ガンの代表が死んでいたことが大きかった。
 その男は、故ガヴローシュ侯がひきいていた最初の諸侯軍と遭遇し、戦死をとげています。かれはもともと河川都市連合の盟主である都市トライェクトゥムに対し、反感をあらわにしていたそうです。
 指導者が急に消えたばかりの組織というのはそれだけでも混乱しがちですが、ましてガン代表の死の状況にはいくつか怪しむべき『偶然』がありました」

 ガンの代表は、まとまった軍と戦うには少なすぎ、発見されやすい程度には大きい規模の護衛をともなっていたという。
 おそらくその護衛はトライェクトゥムから提供されたものだろうが、それで進軍する諸侯軍の前方をのこのこ横切ろうとしたというのは出来すぎていた。進路があらかじめ仕組まれていたのかもしれない。
 しかもその一団を発見し、彼を討ち取った諸侯軍の傭兵隊長は、そののち諸侯軍をすみやかに裏切って反乱軍に加わっている。
 最初から密約があったと考えてもおかしくはない。

「『都市連合内部で逆らってくる者が邪魔だ』というトライェクトゥムの意向によって、ガンの代表は謀殺された。そう人々がうたがえるだけの余地があります」

 説明を切って息をつき、マザリーニは締めくくりに入った。

「あんのじょう、ガンの市当局は内紛に突入していました。都市連合寄りの『都市派』と、われわれ寄りの『王党派』に分かれて、どちらに味方するべきか言い争っていたそうです。
 その情報がもたらされてすぐ、この枢機卿の名において使節を送り、『王軍がガンの城壁に砲弾を撃ちこむ前に、すみやかに降伏するならば』との条件で彼らに約束を与えておきました」

 約束とは、まず大逆の罪状を完全に赦免すること。
 それからトライェクトゥムにかわってガンが都市連合の領袖になる、と王政府が指名すること。ただし、王政府が完全に反乱を打倒できた場合にかぎる。
 甘い飴をちらつかせる一方で、マザリーニは武力と時間制限によって重圧をかけたのである。

「昨日夕刻、都市ガンの市当局は城門をひらいて王政府に降りました。
 彼らは軍資金や糧秣の提供などで積極的に王軍に協力するでしょう、いまやわれわれの勝利は彼らの利益と結びついたのですから」

 経緯の理解とともに、アンリエッタの心に喜びが追いついてきた。
 表情をかがやかせ、少女は思わず枢機卿の首に腕をまわして飛びついた。
 自分の娘のような年若い主君に親愛の抱擁をうけて、マザリーニの顔に苦笑があらわれる。

「陛下がいない間の勝手な判断を、どうかお許しください。
 彼らが動揺しているあいだに、機をのがさず迅速な手を打つ必要があると思いましたので」

「だれが責めるというの、枢機卿、あなたは最高よ!」

 そのまま宰相の手をとってダンスしかねないはしゃぎようのアンリエッタだったが、マザリーニに誇る様子はなかった。

「じっさい難しいことではなかったのです。都市ガンは代表を暗殺されたとみてトライェクトゥムへ反感をいだいていました。
 そのうえ王軍の攻撃が真っ先に集中する以上、あの都市はどのみち陥落していたのです。ガン市当局のとれる賢明な行動は早期降伏のみでした。
 こちらはタイミングを見はからって、それをかれらに突きつけてやったにすぎません」

「いいえ、そうだとしても素晴らしいことですわ」

 ひとりの犠牲者もなく一つの都市を降すことができた。それはここ最近のうちでもっとも明るい知らせだった。
 それもただの無血勝利ではなく、いわば反乱都市に対する攻勢の拠点を手にいれたとみていい。
 弟子が体を離すと、枢機卿は僧服のしわを軽くのばしながら言った。

「これは第一歩にすぎません。さらなる効果を引き出すためには、ひきつづき手を打つ必要があります。
 われわれの軍が進んでいくのに先んじて、まずは都市ガンの周囲から、目に見えない力が反乱地域一帯に広がっていきます。人の心に作用する力です。
 雌伏している諸侯の心にも火はついたことでしょう。
 その火をさらに言葉であおり、炎と燃え上がらせましょう。うまく呼びかければ、反乱地域内の領主たちをいっせいに蜂起させることができます」

「でも、そんなにうまくいくのですか?
 魔法が使えなくなった地域の諸侯は、反乱軍に目をつけられまいとしているとの話だったではありませんか。
 かれらには王家への協力要請を断る口実もありますし」

 アンリエッタの心配はもっとものことだった。
 魔法断絶圏外でも、“王家の私戦には協力しない。中立を保つ”という名目で、じっさいに協力を拒む大貴族が続出していたのである。ラ・ヴァリエール家のように沈黙している諸侯も多かった。
 王家の私戦というのは河川都市連合が裏から宣伝していることだが、それの成果は着実にあがっていることになる。
 マザリーニは首をふった。

「勢いというものをガン攻略でわれわれはつかみかけています。なるべく冷静狡猾であろうとしても、人は勢いに押し流されがちなものです。
 戦わず沈黙していた諸侯のうち、今こそ王軍に呼応すべきではないかと考える者たちがかならず出てくるでしょう。
 もともと王軍を待っていた者、または王政府に忠義を見せておこうと計算する者、あるいはただ熱狂と王軍の威風にのせられた者、かれらは王軍支援にはしります」

 野にちらばる諸侯は生きのびるために身を伏せていても、けっして望んで反乱軍に屈服していたわけではない。
 トリステイン王政府が、繰り出した王軍の力をたしかな背景として呼びかければ、諸侯は時が来たと思うだろう。
 かれらを焚きつけ、ドミノを倒すように王政府になびかせるためには、今がまさに好機だった。

 魔法断絶圏内の領主たちを一斉蜂起させることに成功すれば効果は大きい。
 河川都市連合の市民軍は、突然そこかしこにひるがえる百合紋の旗に移動を邪魔され、四方八方をおびやかされ、うち払いながら必死で駆けずり回ることになる。
 これまでの記録を見れば、市民軍はたしかに強い。散らばって噛みついてくるひとつひとつの諸侯の軍を、各個に撃破するのは簡単だろう。
 だが、いまは王軍が参戦しているのだ。市民軍が諸侯の旗すべてを焼き尽くそうとしているあいだに、数で倍する王軍が肉薄していく。

 まして蜂起した諸侯すべてが、子や孫を殺されたガヴローシュ老公の戦い方をみならって、けっして正面からぶつからず小規模な襲撃をくりかえせば……

「成功すれば、諸侯に手間どる反乱軍を、王軍が野で追いつめていく戦いになるでしょう。
 河川都市連合は『水路を制した自分たちの軍に移動スピードの利がある』と計算しているでしょうから、そのスピードを殺ぐために地元諸侯に戦わせるのです。
 そして会議でも言ったとおり、王軍が反乱勢の野戦のための軍を壊滅したときに、われわれはかれらに勝利します。
 ただこの戦い方のためには、どれだけ多くの諸侯を王政府の忠実な手足にできるかが重要になります」

 軍役免除税をはらっても兵の供出を拒むという貴族が続出すれば、まずい事態である。
 いま説かれた戦略は、なるべく広い地域にわたって地元諸侯の兵をいちどきに動員できなければ失敗するのだ。

(でも、こういった駆け引きなら、枢機卿のよく知った分野になるわ)

 マザリーニは政治力で勝つつもりなのだ、ということがアンリエッタにも理解できた。

「わかりましたわ。あなたの手腕をたのんだほうがよさそうですね。
 でも……やはりそんな重要なときに、わたくしのみは動くなとおっしゃられるのは釈然としませぬ」

「重ねて申しますが、休んでいただきたい。
 申し上げにくいのですが、この反乱の前後の事情で陛下は『貴族層に厳しい』というイメージを持たれてしまいました。
 実務の面で、一時的に陛下ではなくわたしが前面に出ていたほうが、彼らをより安心させるかもしれません。
 マントノン公のごとく明らかに国への害が大きい例なら罰してもやむをえませんが、本来ならいまはささいな不祥事を見逃してでも貴族たちの機嫌をとりむすぶべき時期なのです」

「……はい」

 厳しく押さえつけるような言葉に、アンリエッタはしゅんとうつむいた。
 ただ、萎縮させられはしても、マザリーニに対する反発は湧かない。
 もっともらしいことを言っていても、ほんとうはこの処置は、過労ぎみの自分を無理にでも休ませようという配慮だと気づいたのである。

…………………………
………………
……

 女王と宰相のいる場所から数百メイルほどへだたった、魔法学院内の一室。
 キュルケは長椅子の上で器用に寝返りをうった。

「ねえタバサ。二日も読み返してるけど、なんなのよそれ」

 腹ばいにねそべりながら、暖炉の前に椅子をおいて座っている青髪の少女に声をかける。
 タバサは誰かからの手紙を読んでいるのだった。
 じっくりと読み、文章の終わりまでくるとまた上のほうから読みかえす。ときどき視線が移動しなくなるのは、おそらく考えているのだろう。
 それにしても長かった。授業にも出ず、ずっと考えているようなのだ。

 ずいぶん煮詰まってるみたいね、と思いながらキュルケは軽く揺さぶってみた。

「あんた、ルイズたちについていきたかったんじゃないの?」

 才人のこともにおわせたつもりだったが、返答はなかった。
 ただタバサがわずかに身じろぎしたのが見えただけである。心は揺れたようだったが、彼女の視線は手紙から離れない。
 それでも、キュルケには読みとれた。手紙の内容をではない。タバサには、その手紙がそれだけ重要な意味を持っているということである。

 キュルケは問いかけるのをやめにした。話さないものを無理にききだす気はない。ただ、なにかの手紙のことはいちおう覚えておく。
 またごろりと仰向けにもどり、話題を転じた。

「どうなるのかしらね。うちの国は大貴族の反乱、こっちは平民の反乱。
 でもトリステインにはあの枢機卿猊下がいるか。それなりの手腕があるみたいだから、案外すぐにも反乱をおさめられるかもね」

 と、前ぶれなくタバサが手紙を火にくべた。
 軽く目を見ひらいたキュルケのところに、ぽつりとタバサのもらした声がとどいた。
 「智者がかならず勝つなら」眼鏡にうつる火がちらちら踊っている。「この世はずっと簡単になる」
 ととのった小さな顔はいつもの無表情だったが、わずかに苦悩の色と決意があった。

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「貴様らに給料は支払われない」

 トリステイン東南部のゲルマニア国境に近い山地地帯、大河から遠くない一盆地の村。白昼のことだった。
 彼ら襲撃者たちは何艘もの小船で川をさかのぼり、上流域の山地に分けいったのだった。
 マスケット銃や火縄銃、ピストル、短槍などで武装した服装もばらばらなこの一団は、岸に上陸してからすぐさまもっとも近い距離にあった村に踏みこんだのである。

 ただ働きを通告された共和主義者の義勇兵たちは、周囲の状況を受け入れたくないのか、石像のごとく固まっている。
 村の広場に密集して並ばされた二百人ほどの彼らを前にして、〈カラカル〉は「そのかわり」と続けた。

「トライェクトゥムの市参事会からは徴発権を……まあ、黙認された。
 貴様らは飢えずにすむ。――きちんと任務を果たしているかぎりはな。
 運がよければ、普通に給料を払われるだけの時よりずっと懐があたたまる。ほかにも楽しみはあるぞ、楽しもうと思うならいくらでも」

「任務?」

 おうむがえしに聞いたのは、最前列にいる若者だった。
 表情を完全に蒼白にして、視線を傭兵隊長だけにあて、周囲には向けようとしない。

「任務だ。非常に簡単だ、要は『残すな』、それだけだ」

 煙のにおいが傭兵隊長の背後からただよってくる。
 わら束と薪と油で火をつけられた教会の鐘の音が、リンドン、リンドンと叫ぶように響いている。
 本物の叫び声も家々の中や物陰からひっきりなしに起こり、良心ある者をさいなむ。
 村中へ警告するつもりだったのか鐘楼に上って鐘を鳴らしていた神父は、のどを短刀で掻き切られてとうに教会の前に投げ落とされていた。

 黒狼隊の大半とそれ以外の傭兵は、村中に散って駆け回り、「仕事」にかかっていた。
 粉引き場と小麦貯蔵庫と各家庭から、荷馬車に食料を移している者。畜舎に入って牛馬を斧で殺している者。
 絶え間ない殴打の音と悲鳴ともに「村内に金貨や銀食器をもっている家はあるのか? 上等な服は? 毛皮は、宝石は?」と尋ねる声。
 すでに嬉々として戸外に出て、奪った財貨や衣類を大きな布に包んでいる者。路上に転がって動かない村人のふところを念入りにまさぐっている者。

 〈カラカル〉の横で、広場の隅の井戸に腰かけて本を開いていた〈黒い女王〉が、ページをめくりながら朗読している。

「『昔ガリアの人、大地に向けて、“この世の災厄のうち、はなはだしいものは何ぞ”と問う。すると見るも恐ろしき怪物たち、こたえて地の底よりあらわれ出でたり。
 “われこそ〈罪業〉”と一匹が名乗る。“殺人、強盗、もろもろの罪咎、人のなすあらゆる悪行をつかさどる”と。
 〈火災〉〈疫病〉それにつぐ。〈飢餓〉が追いつき、押しのける。かれら大鎌をかざし“われわれは死なり”とこぞって叫ぶ。“多くの命を刈り取る”と。
 ガリアの王はこれらの怪物のはびこるを知り、すぐさま兵を出した。列なる災厄どよめきて、〈軍隊〉のまえに膝を折る。
 いわく“おお、汝こそわれらの領袖なり”と』」

 古書をぱたんと閉じ、つぶやく。

「この説話は、現実の軍の歴史そのままだな。
 ただ消費するだけの巨大な人間の群れが、物資や食料を吸いあげながら移動する。
 戦場や道端に打ち捨てられた死体は腐敗し、水を汚染し、疫病をもたらす。
 略奪、放火は黙認される。敵に対しては推奨される。敵国都市を陥落させたあと『略奪強姦は三日間に限る』と自軍をいましめれば、心優しい王の部類だ。
 これが輸送にあたってフネの力を存分に引きだせず、また国内各地に倉庫をもうけておく制度もなかった古い時代の、ハルケギニアの軍隊の姿だった」

 彼女は石だたみの上にすっと立ち上がった。

「〈カラカル〉、時代を逆行させてこい。
 おまえはこの連中を率いて、村々や町を食いつぶしつつ川下のほうへ戻ってこい。
 わたしはちょっと用事あって離れる。幻獣の騎兵を連れていくぞ、飛べるやつらを」

「なんだ、俺にこいつらの教育を押し付けるのか」

「とりあえず黒狼隊の一部、およびほかの傭兵どものすべてを引きつづき預けておく。
 おまえらと混じっているだけでも、素人どもの教育にはじゅうぶんだろう」

 そもそも農民相手の働きにたいした訓練は必要ない、本能のまま振る舞わせればいいだけだ――とひとりごちて、彼女は続ける。

「こいつらがおまえらに同化した時期をみはからって、残ってる共和主義者どもも追加で送りこむ。
 せいぜい新兵に反乱をおこされて殺されないように注意しろよ」

「いらん心配だ。
 戦闘員以外はどうする。従軍商人はともかくとして、社会にあぶれた屑どもまでそのうち寄ってきそうだが」

「黙認していい。流浪する人間の数が増えたほうが、収奪の規模が大きくなる。血を吸いつづけるヒルのようにこの『軍』をふくれあがらせて――」

「に、任務って……!」

 かぼそい声が彼らの会話をさえぎった。二人は頭をめぐらせてその声の主を見る。
 共和主義者たちのうち、最前列の若い男が思い切ったように顔を上げていた。勇気をこめてのどからふりしぼった声が出る。

「任務の具体的な内容って、い……家や畑に放火したり、食べるものや金を民から取り上げることなんですか」

 答えはない。が、冷ややかな沈黙のなかに否定は感じられなかった。
 何も言わない〈カラカル〉に向かい合って、若者は手に持たされた短槍を震えつつにぎりしめた。

「お……俺も農家の出です……戦う気持ちに偽りはありませんが、こんなのは……
 家はまたつくれます、さいわいに冬じゃないから今すぐ命にかかわったりは……でも農具が、この季節に農具をすべて燃やされてしまうと……農家にとって畑に必要な道具、それに牛馬やロバは命綱なんです。
 それに、それに、――王軍が進駐できないようにするためだけなら、村人を殺して服まで剥いだり、女子供に乱暴をはたらいたりする必要があるんでしょうか。
 俺たちが武器を向けたいのは王の軍隊であって、そこらで普通の生活をいとなむ民ではありません」

 若者が一息に言い終えたとき、前に踏みこんだ〈カラカル〉の腕が動いて騎兵用の湾曲した刃がかかげられ、しゃっと振り下ろされた。
 一呼吸のうちの早業に、若者が反応する暇もなかった。血しぶきを飛び散らせ、くずおれる死体の周囲で、悲鳴がおこって人の列が崩れる。
 抜き身のサーベルに血のりをべっとりつけて、傭兵隊長は横にいる黒狼隊の傭兵たちに声をかけた。

「隊の司法官は今はカールだったか。不服従の罪で裁判、一名処断とでも記せ」

 同志の死をあまりに簡単に見せられ、恐怖に凍っている共和主義者たちに、狼の兜がふたたび向いた。

「命じられたことに余計な疑問をさしはさむ者、上官の命令にすみやかに従わない者、脱走や反逆を計画する者、すべて今のように処断する。
 今並んでいるのはちょうど二個中隊規模だからして……とりあえず後で黒狼隊から中隊長を二名選出しておく。あとのことはそいつらが取り仕切るから、貴様らはそれに従うように」

 〈カラカル〉のぼそぼそと事務的な声が、低いながらも無慈悲さをこめて響き、静まりかえった一同の上を流れていく。
 このとき、雰囲気を感じとった傭兵たちの多くが略奪狼藉の手を止め、ぞろぞろと路地に出てきている。
 周囲の家々の窓や路地から銃をかまえ、包囲を見せつける形で広場に向けていた。

 ほとんどが刃物か短槍しか持たされていない共和主義者たちは、たとえ気圧されて立ち尽くしていなかったとしても動けるものではなかった。
 反抗すればそれが虐殺に直結する状況では。

 そばで行われている一幕を完全に無視して、〈黒い女王〉は巨大な焚き火のそばへ歩みよっていく。教会正面の階段をあがる。
 常人ならば何メイルも離れてさえ、燃える教会のただならない熱量を肌で感じとれるだろう。教会は、外壁につみあげられたわらと、枯らした枝と、油によって火柱と化していた。
 燃えて崩れた正面扉、信じがたいほどの火の至近で彼女は立ちどまり、手にした本の黒い革表紙をちょっと撫でた。教会の書庫にあったその黒い革表紙の本は相当な年代物であったろう。
 それから彼女は無造作に、本を火に投げこんだ。

「おまえらは、始祖ブリミルに唾を吐け」

 教会に背を向けて兵たちに向きなおった少女の低い声は、諧謔の風味をまじえている。「麦を刈りとって、家畜を殺せ。行く先々で小づかい稼ぎにはげめ。奪えないものはのこらず焼け」
 火炎の黄金、赤、オレンジ、青――競演のように噴きあがる明るい火のなかで、一枚一枚本のページがめくれ、文字と価値ともに瞬時に灰となっていく。
 飛びちる火の粉を浴びながら彼女は微笑する。その身にまとった優麗な黒のドレスは、もつれる煙を後ろにしてより濃い陰影となっていた。

「邪悪のかぎりを尽くしてこい」

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 王軍の行進する原野。
 羊雲のちらばる晴天の下、街道を本物の羊たちが追いたてられていく。
 変わっていることといえば、その羊群は長蛇の列をなす荷馬車や兵のあいだに混じっていることである。
 とりわけ大きな雄羊の一頭に、幼い男の子がしがみついて乗っていた。

 それを指さしてギーシュは文句をつけた。

「おい、ありゃなんだね。行軍だぞ、なんで急に羊や幼児が加わってきたんだ」

 けっして模範的な優等生ではない彼でも、この光景にはさすがに突っこまずにはいられない。
 この新設軍で組織された輜重部隊を取りしきっているニコラが、のんびりと答えた。

「いましがた、この近所の貴族が持ってきたんですよ。ほら、あそこにいる男です。羊で遊んでるのはその末息子だそうで。ま、しばらくしたら父親といっしょに帰るでしょ。
 いいじゃないですか、羊の焼肉が食えますぜ。ニワトリもくれましたよ。
 それにしても増えたもんですな、すりよってくる領主が」

 かれの言うとおり、近隣の貴族たちがぞくぞくと王軍に接近してくるようになっていた。
 都市ガンが降伏し、王軍がその前を無傷で通過した日からである。

「いやあ、ガンの城壁に手間どらずにすんだのはありがてえ。
 枢機卿猊下のおかげでさ。鳥の骨とか悪く呼ばれてますが、たいしたもんで。
 知恵者の采配ってのはときに一軍にまさりますな」

 ニコラが急に上機嫌でマザリーニを褒めちぎりだしたのは焼肉の存在が大きいにちがいない、と思いながらも、ギーシュもそれに異論はなかった。
 時間も弾薬も人命ひとつもそこなうことなく最初の勝利をあげたあと、時をむだにせずトリステイン宮廷は王軍に指示を与えてきた。

 アンリエッタが印を押したマザリーニの回状を、王軍の進路周辺の領主たちにすぐさま届けよとのことである。

 そこで回状を持った騎兵が先発したのだったが、その日が終わる前にさっそく三人の領主から糧秣と金と人夫がとどけられてきた。
 それらの代金は戦後に支払われるのだろう。それは最低限確実として、ほかにマザリーニがどのような文をしるしたのかは知らないが、提供されてくる物資は引きもきらない。
 いまではこの近辺の詳細な地形図および道案内までつけられている。王軍の道中はすこぶる快適といってよい。

 ただ、本隊は先へ行ってしまい、荷馬車隊とともにあるギーシュの新設軍がそれらの提供物の整理をこなしている。
 行軍速度はさらに落ちていた。

「いいのかね、これ。領主たちが積極的に協力してくれるのはいいが、生きた家畜まで持ちこんでこられたらさすがに軍内が雑然としすぎだ。
 この補給部隊、ますます足が落ちてるぞ。ただでさえ父上の本隊にだいぶ遅れてしまったのに」

「まあ今のうちならさほど気にしなくとも大丈夫でしょうぜ。補給部隊の足が遅いのはいまにはじまったことじゃありませんやね。
 本隊はちょっと行ったあたりで追いつくのを待ってるのが通例です」

「ちょっとか? だいぶ離されたようなんだが」

「お父上は街道のこの先にある倉庫をさっさとおさえときたいんでしょ。この荷馬車隊がすぐに追いつかなくても、倉庫の備蓄で本隊をやしなえばいいですし。
 隊長どの、なにか懸念があるんで?」

「……あれだ、行軍で孤立してる補給部隊って敵に狙われやすいんじゃないのか。そう教えられたことがあるぞ」

「いやいや大げさでさ。こんなヘボ部隊ですがいちおう護衛がついてますし、本格的に攻められないかぎり大丈夫ですよ。それに周囲の諸侯は王政府寄りですぜ。反乱軍が接近してきたら報告がきますよ。
 で、本隊が先行してるったって、互いに孤立してるというほどの距離じゃねえです。半日あれば全軍合流できますし。
 だいいち、反乱軍はいまのところ王軍に近づくつもりはないでしょうぜ。おそらくですが」

 微妙に心細げなギーシュを安心させようとしてか、ニコラは流ちょうに説明しはじめた。
 市民軍は、王軍に数で劣るのだから、原野での正面からのぶつかりあいはなるべく避けようとするだろう。有利な地形に陣地をきずいて王軍を待つつもりかもしれない。
 王軍が市民軍を無視して反乱都市を包囲すれば、かれらは王軍の後背をおびやかすつもりだろう。都市のほうは要塞と化しているため、ちょっと王軍に包囲されたくらいですぐ落ちはしない。
 王軍が本腰をいれて反乱軍をおいつめようとするなら、時間がかかるかもしれない。あちらのほうが移動スピードがはやいのだ。

 「つまり、持久戦にもちこむことが反乱軍の狙いじゃないですかね。王軍の狙いが短期決戦なのとは逆で」とニコラは述べた。
 思いあたるところがあってギーシュもうなずく。

「そういえば父上も『反乱勢は時間をかせぐ策に出るかもしれぬ』と言ってたな。
 なんだ、じゃすぐに敵とまみえることもないわけか。しかし逃げまわって時間かせぎしたからってどうなるんだろうな」

「そうですな。時間かせぎの意味ですか……金が尽きるのはどっちが先か、という我慢くらべじゃねえですかね。
 王軍の傭兵に払われてる給料が尽きるのを待つとか」

 ニコラのさらりとした言葉のなかに底冷えのするものがある。ギーシュはつい固唾を呑んだ。

「給料?」

「戦争じゃときどきあるんですよ、払われるはずの給料がとどこおるって事態が。
 雇ってもらってなんですが、勘弁してほしいですよ。戦場で金がなくなったってのは、弾がなくなったときより危ない。
 場合によっちゃ命にかかわります。ほんとに」

「え、そこまでのことか」

「飢え死にの危険ですよ。ずっとうしろのほう見えます? パンやワインを売ろうって商人たちがついてきてるでしょ。
 連中のおかげで兵は補給が足りないときも食いつなげますがね、それだって手元にパンを買うための現金あってのことでさ。
 そして、軍の公式な補給なんて、フネなしだとちょちょ切れになるのがあたりまえです。この荷馬車隊につんだ食料だって、一見多く見えますが、そんなに長く持ちやしませんぜ」

 歴戦の傭兵は乾いた口調だった。

「お父上が倉庫の備蓄をはやく確保したがってるのも、しごくもっとものことでさ。
 そんなわけですから、このまんまフネが使えず、金も払えなくなったら王軍もやばいですぜ。もし飢えが広がれば軍内で反乱すら起きかねねえ。
 ……なりふり構わなければ、また別のやりようもあるんですがね。いまは地元に『自発的にご協力』いただいてますが、いざとなればこっちのほうから押しかけてちょっと借り……」

 そこまで言ってニコラは、引き気味に沈黙したギーシュの様子に気がついたらしく話題をもどした。

「まあ、とにかく、逃げる反乱軍をどうやって追いつめるかが当面の問題ってことで。
 その点でも、なんとか地元の諸侯をもういちど動かそうという枢機卿猊下のやり方は、なかなかいいとこついてますぜ。
 諸侯の軍は、それだけ見れば役に立たない。兵も装備も弱いうえ、兵力があちこちに薄く広く散らばっちまってる。けど王軍に呼応するんなら、奴らにも使いようはあります」

「あ、そうだな。かれらが反乱軍の足を止めてくれるだけでも大助かりってことか」

 金が尽きたばあいの話が深まらなかったことに、ギーシュはほっとした。
 なにしろ、最終的にいきつくところは王軍による現地からの略奪だと示唆されたのである。あまり考えたくなかった。

(だが、いつまでも考えないわけにはいくまいね。
 もしずるずる時間がかかったあげくそんな事態になれば、やはりまずいだろうなあ)

 いま地元の領主や民から王政府によせられている好感は確実に下がる。
 地元諸侯をあおりたてて利用し、河川都市連合の市民軍を追いつめたあとで一気に決戦にもちこむというマザリーニの戦略も、そこにいたれば破綻しかねない。
 金が潤沢にあるうえ市民兵が主体の反乱勢は、くらべれば長期間耐えきることができるのだ。そうさせないために、マザリーニは諸侯の説得を急いでいるのだろう。

(でもなあ。ほんとうに時間との勝負ってだけなのかな。都市の反乱した平民たちが考えているのはほんとうにそれだけなのかね)

 おかしなことに、敵の意図をそう結論してしまうのはどうしても気に入らなかった。
 論理が納得できなかったわけではない。ただひどく気に入らないという思いがあるのだ。
 それがなぜなのか考えてみる前に、横からニコラのいぶかる声が聞こえた。

「なんだありゃあ、いきなり来たぞ」

 顔をあげたとき、ギーシュにも見えた。
 街道を少しそれたところで、兵たちがざわめいて輪をつくっていた。輪の中心には、呼吸の荒い竜をかたわらに一人の竜騎士がいる。
 どう見ても、大急ぎで飛んできた伝令だった。

 馬を軽く走らせて、ギーシュは竜騎士の近くに寄った。

「やあご苦労。本隊のほうからかね」

 ギーシュの挨拶に、その竜騎士は肩を上下させながら「はい、そうです、そう」とあえぎ気味に答えた。
 かと思うと、わずかの間に呼吸をどうにか静め、彼は一息に言ってきた。

「この先によこたわる水路にかかった橋ですが、グラモン元帥の本隊がとおりすぎたあと、反乱勢によって破壊されてしまいました。
 あなたがたの部隊と本隊は切りはなされた状態です。一刻も早く橋を復旧させてください」

(あれ、いきなり雲行きがあやしいんだが)

 竜騎士の報告に、ギーシュの心に不安がきざした。その横でニコラがあわただしく詰問しはじめる。

「おいおい、どういうことだ。あんたらが見張ってたってえのに、こんな近くまで敵の工作部隊を近づけたんですかい?
 軍への直接襲撃じゃないにしても、こりゃ見おとしたじゃすみませんぜ」

「いえ、それとわかる形で敵の部隊が接近してきたのならば見おとさなかったのですが……
 橋を破壊したやつは、土地の住民に偽装していたのです。本隊が橋を通りすぎたあと、樽(タル)につめた爆薬を小舟で橋の下にはこんできて爆発させたしだいです」

「おいおい、貴族同士の戦いじゃあるまいし『正々堂々』と戦ってくれるわけがねえだろう」

 ニコラがうなり声をあげて呪いの言葉を吐きすてた。とはいえあまり強く言わなかったのは、さっきまで自分もつい気を抜いていたからかもしれない。
 ギーシュは声をついうわずらせた。

「ど、どうしたものだろう、ニコラ軍そ……でなくて、大隊長。兵だけなら水路を横ぎって向こう岸にわたれるとしても、砲や荷馬車はむりだぞ」

「そんなうろたえるこたありませんや、橋は工兵ですぐ復旧させられます。手際よくやれば一日もかかりやしません。
 水路の向こう岸で待ってるだろうお父上の本隊と、すぐに合流できまさ。
 しかしなんだってこんなとこで橋を破壊しにきやがったんだ? 行軍をちまちま足止めする気かねえ。だが時間かせぎにしてはどこか妙だ」

 首をかしげるニコラに対し、竜騎士がもどかしそうに焦った声で言った。

「意図はそのままでしょう。この部隊と本隊を分断することです」

 片眉をあげて、ニコラが竜騎士に言い返した。

「ですからね、たしかに分断されましたが、こんなとこで分断する意味はなんなんだってことですよ。まだ反乱地域にちょっと踏みこんだばかりなんですぜ。
 市民軍が近くにいるわけでもなし、分断されたっても一日あれば本隊と合流が――」

 竜騎士が強く首をふった。酸っぱいにおいのする汗が飛び散った。
 ギーシュはこのときはじめてまともに、かれの目を正面から見た。
 疲労とそれをはるかに上まわる恐慌があった。「いいえ――いいえ、違うんですよ、それが」毛細血管が浮きあがって奇妙に赤く……つまり目が血走っていた。

「敵の本隊も来ました、来たんです、もうすぐこちらの近くに来ます、総勢五千の市民軍が。
 逃げまわるどころか王軍めがけてまっしぐらに突き進んできていました。
 まちがいなく最初から会戦をいどむ気だったと思われます」



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