貴族社会において、平民が貴族の屋敷で暮らす方法がいくつかある。
ひとつは功績を上げ成り上がり、末端の一貴族として名を連ねる事。
ひとつは妾として貴族の寵愛を受け、屋敷に囲われる事。
そしてもう一つ、最もポピュラーなものとして挙げられる方法が、雇われてその貴族の屋敷に住み込むことである。
このクルデンホルフ公国大公邸でも、そうして雇われて働いている平民が何人もいる。
その中に、タニアはいた。
アルビオンの小村出身で、孤児であり身寄りのない少女が、大貴族であるクルデンホルフ大公家に仕える事になったのには、理由がある。
トリステイン魔法学院で学んでいた、クルデンホルフ大公姫、ベアトリスに見初められ、卒業と同時にベアトリス付のメイドとして雇われたのである。
もちろん大公姫直属のメイドなので収入はそんじょそこらの商人なんぞ目ではない。
他の平民たちから見れば輝かしいシンデレラ・ストーリーといえたが、タニアは心底不幸であった。

今でも時々夢に見る。
それは、午後の風の心地よい魔法学院の中庭。
卒業式の済んだ後、タニアは洗濯物を取り込んでいる最中、ベアトリスの訪問を受けていた。

『あっ、あのっ、タニアさんっ』

今にも泣き出しそうな顔。普段の高慢ちきな顔からは想像もつかないほどの弱気な表情。

『お?なんだベアちゃん。お別れの挨拶でもしにきたか。大変殊勝でよろしい。その調子で故郷に帰っても頑張るんだぞ』
『わっ、私っ、あなたやお姉さまと出会えて、とても幸せでしたっ』

それが彼女の言いたいことではないことは、タニアにはわかっていた。
言った後、スカートの裾を指先でつまんでいる。彼女が隠し事をしている時の癖だと、タニアはこの数年で理解していた。

『おー、なんだなんだ?目ぇウルウルさせちゃってまあ。もう逢えなくなるわけじゃないんだしさ、泣くなよー』
『い、いえ、そうじゃなくて、あのっ』
『用件早く言いなよ。私だってヒマじゃないんだしさ』

言いにくそうにしているベアトリスの後を、タニアは押してやる。

『わ、私のっ、メイドになってくださいましっ!』
『ほえ?』

そして突き出された書類には、とんでもない額の年俸と、もしメイドの件を受けるなら、タニアの身柄をクルデンホルフ大公家が預かる旨が書いてあった。
計算高いタニアはそれを承諾し。
以来五年間、タニアはクルデンホルフ大公家で、メイドとして働いている。

タニアの朝は早い。
日が昇る前に起きださないと、とんでもないことになるからだ。

「ふふ。起きてくださいまし、お・ね・ぼ・う・さ・ん♪」

ふぅっ。

「うわひゃぁぅっ!?」

まだ真っ暗なタニアの個室。
毛布を跳ね上げ、タニアは飛び起きた。
寝ている最中いきなり耳にあっつぅい吐息を吹きかけられれば当然である。

「いきなり何すんだベアちゃんっ!!」

寝ているタニアの耳に熱いため息を吹きかけたのは。
豪奢なドレスに身を包んだ、金髪のツインテールの、妙齢の美女。
ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフ。
タニアの直接の雇い主にして、長年付き添ってきた友人。
だったが、最近、ちょぉっとその立場が変わりつつある。

「あんまり可愛い寝顔だったから。つい♪」
「『つい♪』じゃねー!この変態!つーか今何時だと思ってんだ!まだ日も昇ってないじゃんか!」

タニアの言うとおり部屋は真っ暗で、まだ夜明け前の体だった。
しかし。

「あら。もうとっくに日は昇っていましてよ」

いつの間にかベアトリスが手にしていた杖を振るうと。
ぱきぱきぱきん、と音をたて、鎧戸が魔法の力で開いていく。
そこから指す日の光。
空は見事に晴れ渡り、朝日は既に昇りきっていた。
ベアトリスは知っていた。
タニアが、窓から指す日の光や、鶏の鳴き声を合図に起きている事を。
だから、彼女の部屋の窓を締め切り、外壁に『サイレンス』をかけ、タニアを寝坊させたのである。
当然こんな時間まで寝ていてはメイドの仕事は勤まらない。
主人より早く起きだし、一日の準備をするのが、タニアの朝の仕事である。

「やりやがったなベアちゃん…!」

もちろんタニアには犯人の目星はついていた。
目の前の雇い主がこれをやったのである。
証拠はもちろん、動機もある。
ベアトリスがこういうことをする理由。それは。

「ほらほら急いで。大遅刻ですわよー♪」
「言われなくても!」

慌てて寝巻きのままベッドから飛び降り、箪笥からメイド服一式を取り出し。
真後ろで期待満面でわくわくしているベアトリスに、タニアは言った。

「いつまでそこにいんのよ」
「やん♪そんな遠慮なさらず、ぱぱーっとお着替えになって。
 いえむしろゆっくりじっくりねっとりと…♪」
「出てけっつってんだこの変態!」

叫んでタニアはベアトリスの尻を蹴っ飛ばした。
そんなベアトリスがタニアを寝坊させた理由、それは。
もちろんタニアの寝起きを襲うためである。

ベアトリス・イヴォンヌ・フォン・クルデンホルフ。
クルデンホルフ大公姫にして、社交界では『月光蝶』の二つ名を誇るほどの美女。
当年とって二十二になる彼女は、未だに未婚である。
その最大の理由。それは。
彼女には愛する人がいるのである。
それは、大貴族の子弟でも、無敵の騎士でも、平民出の英雄でもなかった。
こともあろうに、彼女の愛しているのは一人の『女性』。
それも、平民出の、孤児の、アルビオンの片田舎出身の、ブルネットのメイド。
常に彼女の傍らにいる、一人のメイドを、彼女は愛していたのである。
そして、この年になっても結婚をしない娘を心配し、クルデンホルフ大公は、娘に婚約者をあてがった。

が、しかし。

朝食の席で、主人の今日の予定を、傍仕えのメイドが読み上げる。

「ご主人様。ギム・ナンガ伯爵長兄、アルフレド様が本日もおいでになります」
「あら。暇なんですか?あの人」

焼きたてのクロワッサンを頬張った後、ベアトリスはそっけなくそう言ってのけた。
タニアの目が半眼になる。
クルデンホルフ公国どころか、トリスタニアでベアトリス大公姫殿下にガンをつけて許されるのは彼女だけである。

「…てかあんたの婚約者だろう。ちょっとは構ってやれよ」

そして、そんな彼女にタメ口を聞いて無事でいられるのもタニアだけである。

「まあ男性として素敵な方ですわね。将来の伯爵様ですしなにより美男子。私より年下っていうのもポイント高いですわね」
「そーね。行き後れのアンタがすがれる最後の藁だ。全力で掴め。逃すな。ってーかさっさと結婚しなさい」
「そうねえ。タニアさんが私の愛を受け入れてくれたら考えてもよろしくてよ」
「いっぺん氏ねこの変態」

にっこり笑顔でどぎつい侮蔑の言葉を吐くタニア。
そしてはっとなる。
しまった!と思った時には遅かった。
はっとして傍らの主人を見下ろすと。
朱に染まった頬で、期待に満ちたまなざしで己がメイドを見上げている。
それはまるで。
尻尾を振り、餌をねだる仔犬のよう。

「あ、あの、今の、おかわりよろしいかしら?」

指をぴん、と立てておかわりを要求するベアトリス。
彼女の要求するそれは、焼きたてのクロワッサンではない。
タニアからの、自分に対する再度の侮蔑の言葉を要求しているのである。
最初は、侮蔑の言葉に普通の反応を返していたベアトリスだったのだが。
いつしか、侮蔑の言葉をかけるたび、身をよじって紅い顔をするようになった。
そしてそのうち、あからさまに侮蔑の言葉を悦ぶようになってしまった。
タニアと共に暮らし、調教を受けるうちに、ベアトリスは『目覚めて』しまったのである。
ここに、興味深いレポートがある。
『タニア女史の発声に拠る、快楽衝動の発起について』。
通称『蹴られたい教会』の著したその研究レポートには、彼女の侮蔑の言葉には、被虐趣味の人間の快楽中枢をダイレクトに刺激するという研究結果がある。
ベアトリスは長い時間をタニアと暮らすうち、その声に犯されて被虐趣味に目覚めてしまったのである。
もともとそのケはあったのであるが。
まあそれはともかく、主人のそんなたわけた要求に素直に応じるタニアではない。

「…ほれ、おかわりだ」

そっけない振りで、ベアトリスの目の前のパン皿に、手にした籠からおかわりのクロワッサンを置く。
そのクロワッサンを見たベアトリスは、きゅ〜ん、とでも啼きそうな顔で恨めしげにクロワッサンを見つめ。
そして急にぱぁっ、と明るい顔つきになって、ぱん、と手を叩いた。

「なるほど!これって最近流行の『放置プレイ』ってやつですのね!」
「朝からトばしすぎだこの変態っ!」

ごっすん、と勢いよく振り下ろしたタニアの拳が、ベアトリスを朝食のテーブルに沈めた。
不意の一撃に完全に気を失うベアトリス。
もちろん大公姫殿下にそんなことをして無事でいられるのはタニア一人だけで。
もちろんその後しかたなく介抱して『もう一回』をせがまれる羽目になるのである。

来客を待たせるのは無礼に値するので、タニアは仕方なく主人の代わりに伯爵長兄の相手をしに、応接間に向かう準備をする。
ベアトリスが今この屋敷にいないからだ。
ベアトリスは『タニアさんがいじってくれないから会う気になれませんわ〜』とか言いながら、今日の彼女の仕事である領地の監査に行ってしまった。
変態であることを除けばベアトリスは非常に優秀な領主で、領民からの信奉も厚い。タニアのおかげで彼女は平民に対する余計な偏見を持っていないのである。
領民たちからの言葉にも真摯に耳を傾け、必要ならばすぐに手を打つその姿は、まさに公国を継ぐに相応しい人物の姿であった。
そして、タニアは、この館で、ベアトリスの代わりの接客を許されている、稀有な人物でもある。
もちろんベアトリスが周囲に『私がいない時は、タニアさんに伝えてください』と言っているからだ。
そして今日も、タニアは足しげくベアトリスの元へ通ってくる優男の大貴族の相手をする羽目になる。
『今日も』。そう、『今日も』である。
ベアトリスが優男の婚約者の相手をしたのは最初の二回だけで、あとはタニアに代役をまかせている。

「まったく。誰の婚約者なんだってぇの」

ぶつくさ言いながら、ワゴンにてきぱきと応接用のティーセットを並べていく。
ベアトリスの婚約者、アルフレドをもてなすための準備である。
応接間につく頃ちょうど葉が蒸しあがるよう蒸し器に熱湯を注ぎ、タニアは応接間へ向かう。
厨房から応接間は比較的近いのですぐに到着する。
すると、内側から勝手に扉が開いた。
扉を開けたのは。
金髪碧眼の優男、伯爵長兄アルフレド。

「あ、いらっしゃいタニアさん」

どちらがもてなす側なのか、アルフレドはそう言ってにっこりと笑う。
彼もまた、タニアに対して貴族風を吹かせない。
その原因となったのが、彼の婚約者であるベアトリス。
クルデンホルフ公国を訪れていた彼の前で、目の前で転んだ平民の子供を、笑顔であやすベアトリスを見て、彼は感銘と共にベアトリスに一目ぼれをする。
元々貴族、平民の垣根を嫌っていた彼はそれを機に、平民に対しても等しく接するようになっていた。
それはタニアとて例外ではない。
しかし、タニアはクルデンホルフ大公家に仕える一介のメイドである。

「申し訳ありませんアルフレド様。お手を煩わせてしまって」

きちんと貴族に対する礼を通し、ワゴンを応接間に入れる。
そしてワゴンを固定すると、即座にアルフレドのために椅子を引く。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

彼が席に着いたのを確認すると、ワゴンへ戻りタニアはお茶の準備をする。
そして、お茶の準備がてら、主人の非礼をアルフレドに詫びる。

「すいません、ウチのバ…主人、今日もその、仕事で」

思わず『ウチのバカ』と言いそうになり、慌てて言い直す。
しかしアルフレドは笑顔で。

「いいえ構いません。姫殿下も忙しいのでしょう」

いいひとだなあ、とタニアは思う。
これだけいい性格で平民に対しても分け隔てなく、しかも伯爵家。
正直自分が貴族だったら問答無用で落としにかかっている。
実際、貴族の子女の間でもアルフレドの人気は高く、クルデンホルフのお手付でなければ引く手数多のはずである。
そんなアルフレドが、どうして逢えもしない婚約者の下へ足しげくやってくるのか、タニアには謎だった。
タニアは淹れた紅茶と自ずから焼いたスコーンを、アルフレドに供する。
スコーンとジャムの乗った皿を手渡したとき、それは起こった。
皿を受け取ろうと手を出したアルフレドの指と、タニアの指が絡む。

「あ」
「あっ、す、すいません!」

謝って手を引っ込めたのはアルフレドのほう。
タニアはそのままスコーンの皿を置き、何事もなかったかのようにアルフレドの対面に立つ。

「お口に合えばよろしいのですが」

定型の言葉を口にしたタニアに。

「は、はひ!あ、合います!」

真っ赤になって応えるアルフレド。

アルェ?

タニアのアンテナにビビビ、と妙な電波が受信される。
このアルフレドの態度。まさか。
そしてその疑問は、即座に解明される。

「あっ、あのっ、タニアさんっ!」

興奮に紅く染まった頬。潤んだ瞳。
ああ、男の人も告白するときってあんま変わんないんだよなぁ、などと軽く逃避しながら。
アルフレドの手が椅子の脇に置いてあった真っ赤なバラの花束に伸びるのを確認する。

しまった。もっと早く気づくべきだった。
この貴族のぼんぼんは、二回しか逢ってないあの変態に逢いに来てたんじゃなかったんだ。

真っ赤な顔で真っ赤なバラの花束を構えるアルフレド。
そして。

「あのっ、そのですねっ、た、タニアさんっ!」
「は、はひ!」

真剣な声で詰め寄ってこられるとタニアだって緊張する。
全身全霊で身構え、思わず私もこれで玉の輿かしらなんて余計な事を思わず思って。

「ぼ、僕も踏んでくださいっ!」

世界が凍りついた。

それから半年もしない間に、ベアトリスはアルフレドと結婚する。
クルデンホルフ大公は非常に喜び、贅の限りを尽くした盛大な結婚式を挙げる。
そして、クルデンホルフ公国は永い繁栄を迎えることになるのだが。

歴史の裏で、主人とその婿を踏み続ける羽目になった、悲劇の女性がいたことは、あまり知られていなかったという。

「変態の一番タチの悪いところってね、自分の趣味を隠すのが何より巧いってことなのよね…」

〜fin


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