Funny Bunny 2 [[205]]氏

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(特別な人間になれば、サイトさまとも少しはお近づきになれるでしょうか)
 わけの分からない理屈だと思いつつも、心は勝手に楽観的な想像を弾き出す。
「分かりました。ここに来るときは、必ず一人で来ますから」
「うん、そうしてくれ。いやあ、楽しみだなあ」
 上機嫌に頷いているワイルダーを見ていると、ケティもまた楽しい気分になってきた。
思えば今日は彼に驚かされっぱなしだったから、最後に少し仕返しをしてやろうと、いつになく愉快なことを考える。
「それでは失礼いたします、ミスタ・ワイルダー」
 ケティはスカートのポケットに入っていた自分の杖を取り出した。手の平に収まる程度の大きさのそれを振り上げ、小さく詠唱する。ワイルダーは怪訝そうに眉をひそめていたが、ケティの体がふわりと浮き上がるのを見て、大きく目を見開いた。
「こりゃ凄い! おいスペンダー、記録しているか? ……ああ、喋ってもいいぞ」
「イエス、キャプテン。全て記録しております。驚くべき現象です」
「ああ。これが魔法というものなんだなあ」
 深く感動しているらしいワイルダーを見ながら、ケティは出来る限り優雅にお辞儀をした。
「それではミスタ・ワイルダー、ごきげんよう。良い夢を」
「ああ、お休みケティ。次に君が来るのを楽しみに待っているよ」
 大きく手を振るワイルダーに背を向けて、ケティは空に舞い上がった。少し飛んでから振り返ってみると、あの大きなロケットは跡形もなく消えている。確かに、これならば自分以外の人間は気付きもしないだろう。
(そう。あの船のことは、わたしだけの秘密)
 胸中で呟きながら、ケティは今までにないほど軽やかに空を飛び、学院に戻った。
 その日の夜、再び集まった友人たちと話している最中も、その顔には絶えず微笑が浮かんでいた。

 翌日以降、それまでの憂鬱さから一転して、ケティは楽しい毎日を送るようになった。
 とは言え、昼間の生活にはさして変化がない。相変わらずあまり楽しくない授業を受けて適当に課題をこなしつつ、友人たちとお喋りをしたりして、ひたすら放課後になるのを待つ。
「なんかさ、ケティ、最近やけに楽しそうだよね」
「いえ、そんなことありませんよ。わたし、至って普通ですわ」
 今はもう試験管を振るのを止めたコゼットが疑わしそうに言うのに対し、すまし顔で答えるのが楽しくてたまらない。
 授業が終わると、ケティは人目を避けてこっそりと学院を抜け出し、森の道を足早に駆けてワイルダーのところに向かう。ロケットは、ケティがあの広場に姿を見せると同時に擬装を解き、入り口を開けて迎えてくれる。
「やあ、いらっしゃいケティ。待っていたよ」
 ワイルダーはいつも、入り口の階段の上に立ち、両手を広げてケティを歓迎してくれた。
 彼の格好は毎日違うものになった。最初の日は魔法学院の教員が着ているようなローブ姿で、次の日は商人風だった。三日目に着ていた騎士風の衣装が一番似合っていたのでそう言ってやると、その日以降はずっとその服で迎えてくれるようになった。
「ところで、その服はどうやって調達いたしましたの?」
「スペンダーが用意してくれるのさ」
「まあ、彼はそんなことも出来ますのね」
「イエス、ミス・ロッタ。ベッドメイクから調理、裁縫に至るまで、何なりと私にお申し付け下さい」

 平坦ながらもどこか得意げなスペンダーの声を聞いて笑いながら、ケティはあれこれと取りとめもないことを話す。生まれ育った領地のことや、賑やかな領地のこと、魔法学院での少々退屈な生活のことや風変わりな友人たちのことも話した。中には自分で話していてあまり面白くないなと思うことも多かったが、ワイルダーは退屈そうな様子を見せることもなく、どんな話でもとても興味深そうに聞いてくれる。ただ、才人に関することだけは一切話さなかった。想い人に似たところのある目の前の男性に、自分のうじうじしたところを知られたくなかったのだ。
 それはそれとして、ケティの方でも、様々なことをワイルダーから聞いた。そのおかげで、ロケットのことやスペンダーのことも、ある程度は理解できるようになった。
「観測ユニット、でしたっけ。最初の日にわたしが驚かされた、蜘蛛のような形をしたものは」
「ああ、そうだ。今は外装をこの惑星の生き物のものに張り替えて、近くの町や村に潜り込ませているよ。ひょっとしたら、君の学院に迷い込む野良犬の中にも、僕の放った観測ユニットが紛れ込んでいるかもしれないね」
 そう言いながら、ワイルダーはその観測ユニットの内の一体を見せてくれた。抱き上げた子犬には体温すらあったが、皮膚一枚隔てた向こう側には、確かに金属の感触がある。
だが傍目には本物にしか見えず、抱き上げたケティの臭いをふんふんと嗅ぎまわる仕草も子犬そのものだ。これでは誰も気付かないだろう。
「よく出来ていますのね」
「イエス、ミス・ロッタ。この通り精密な作業もお手の物、アシモフ式第7世代型陽電子頭脳、スペンダーをどうぞよろしく」
「調子に乗りすぎだぞ、スペンダー」
 たしなめるワイルダーの声にくすりと笑いながら、ケティはテーブルの上の紅茶を啜る。
対面に座ったワイルダーはあの黒い飲み物……コーヒーを飲んでいるが、ケティはあの苦さを思い出すと未だに顔をしかめてしまう。
「よくそんな苦い飲み物を平気で飲めますわね」
「苦みばしった大人の味さ。なに、君にもその内分かるようになるよ」
 ワイルダーは何やら深みのある笑みを浮かべて、今日も美味そうにコーヒーを啜っていた。

 空の向こうからやって来た旅人たちとの出会いから、もう二週間ほどの時間が過ぎていた。
 その日ケティは、コゼットの薬草採取に付き合って森に足を踏み入れていた。何やら上の空で考え込んでいる様子のアメリィと、いつも通り歩きながら手鏡を覗き込むエリアの姿もある。
「コゼっち、あんまり奥に入りすぎると、学院に戻るのが遅くなっちゃいますよー?」
 手鏡をしまいこみながら、エリアが不満げな声を上げる。コゼットは木の根元を覗き込みながら、気のない返事を返した。
「大丈夫だって、ちょっと薬草探すだけなんだからさ。でもこの辺にはなさそうだなあ」
 ぼやくように言いながら、コゼットはどんどん森の奥に進んでいく。エリアが可愛らしく唇を尖らせる。
「もう。最近この辺りではぐれワイバーンが目撃されたって話もあるんですよ? 危ないです」
「大丈夫だって。そんなもん、出てきたって氷付けにしてやっからさ」
 気安く請け負うコゼットは、止まる気配など微塵も見せない。ケティは少し不安になってきた。
(このまま進んでいくと、あの広場まで着いてしまいそうなんですけど)
 その不安は的中し、コゼットはとうとう、あの広場に足を踏み入れてしまった。もちろん、ロケットは影も形も見当たらない。あちらではケティを確認しているはずだが、他にも人がいるから姿を現せないのだろう。
「ねえコゼット、早く戻りましょう。そろそろ日が落ちてきますわ」
「そんな心配すんなよ。いざとなったらフライで帰ればいいじゃん」
「それはそうですけど」
 ケティは口ごもった。コゼットをこの広場から追い出すための、上手い言い訳が思い浮かばない。だが、姿を消したロケットが鎮座しているであろう辺りを見ていると、ほんの少しだけわくわくするような、楽しい気持ちになるのも事実だった。

(やっぱり、わたしだけ特別なんだわ)
 周辺に生えている木の根元を探っているコゼットは、すぐそばに自分の想像の範疇を超える乗り物が存在していることになど、少しも気がついていないだろう。広場の入り口辺りで談笑しているアメリィとエリアも同様だ。今この場において、ロケットのことを知っているのはケティだけだ。その優越感に満足げな笑みを浮かべていると、不意にエリアが驚いたような声を上げた。
「まあ、本当なんですかそれ」
「うん」
 振り向くと、アメリィが恥ずかしそうに頷いているのが見えた。口許を隠す左手の人差し指で、青い宝石をはめ込んだ指輪がきらりと光っている。「わたしはブスだから」が口癖で、装身具の類を収集はしても決して身につけはしないアメリィにしては、珍しいことだ。アメリィは青白い頬をかすかに染めて、ぼそぼそと喋っている。
「それで、どうしたらいいのか、分からなくて」
「それはもちろん、ちゃんと答えてあげるべきですよ。嫌いではないんでしょう?」
「うん。活発だけど優しくて、むしろ好感を持ってるぐらい」
「それはなによりです。帰ったら早速おめかししましょうね」
「でも、ちょっと怖い」
「大丈夫ですよ、アメりんはとっても可愛らしいお顔なんですから、ちょっと髪型を変えれば」
「あの」
 楽しげに話しこんでいる二人の間に、ケティは遠慮がちに割り込んだ。
「お二人とも、何の話をなさってるんですの?」
「ああケッちゃん。実は、アメりんがですね」
 とエリアが話し出したところで、「いってーっ!」という叫びが後ろから聞こえてきた。
はっとして振り向くと、いつの間にか広場の中央付近に移動していたコゼットが、頭を押さえてしゃがみ込んでいる。
(まずい……!)
 あの辺りは、ワイルダーたちのロケットがあるはずの場所である。焦るケティの横を通
り過ぎて、アメリィとエリアがコゼットに駆け寄る。
「どうしたの、コゼット」
「なにが痛いんですの、コゼっち。自分の存在?」
「ちげーよバカ! 今、何かに思いっきりぶつかったんだよ!」
「何かって、なんですか? 何もありませんけど」
 不思議そうに周囲を見回すアメリィとエリアのそばで、コゼットも立ち上がりながら首を傾げた。
「っかしーな。確かに、なんかスゲー硬いものに頭ぶつけたんだけど……この辺りだったかな?」
 コゼットが何もない空間に向かって怪訝そうに手を伸ばす。その辺りが、ちょうどロケットの外壁のある場所だ。ケティが叫び声を上げそうになったとき、突然野太い咆哮が轟いた。驚き、立ちすくむ四人の前に、森の奥から大きな影が進み出てくる。人間より一回りも二回りも大きく、薄汚れた体。ぎょろりとした赤い瞳と、豚のような醜い顔。オーク鬼と呼ばれる亜人だった。
「なんでこんなとこにぃ!?」
 悲鳴を上げるコゼットの前で、オーク鬼は再度咆哮を響かせながら、持っていた棍棒を大きく振り上げた。その近くに立っていた三人が、慌てて逃げ出す。一瞬後、振り下ろされた棍棒が、凄まじい轟音と共に広場の地面を抉り取った。
「コゼっち、氷づけにするんじゃなかったんですかー!?」
「アホ、んなこと言ってる場合か!」
「早く逃げないと」
 三人は各々杖を取り出して口早に詠唱すると、ふわりと空に舞い上がった。一人残されたケティは、恐ろしいオーク鬼を前に棒立ちしていた。動かないのではなくて、足が竦んで動けないのだ。オーク鬼は、そんな彼女の前にゆっくりと歩いてきて、醜く大きな鼻をひくつかせながら、涎の滴る口を開いた。
「ご友人方の後を追った方がいいのではないですか、ミス・ロッタ」
「……え?」
 突然オーク鬼の口から吐き出された理性的な言葉に、一瞬ケティの頭が真っ白になる。
だが、すぐに正気を取り戻して、驚きと共に叫んだ。

「もしかして、スペンダー!?」
「しっ! 声が大きいですよ、ミス・ロッタ」
 言われて、ケティは慌てて口を塞ぐ。だが、胸の動悸は治まらなかった。目の前にいるのはどう見ても凶暴なオーク鬼なのに、何故スペンダーの声で話しているのだろう。少し考えて、答えに思い当たる。
「もしかして、これも擬装した観測ユニットの内の一体、とかですか?」
「さすがに聡明でいらっしゃいますね、ミス・ロッタ。そう、こんな風に人が近づいてきたとき、驚かして追い払うつもりで製作していたのです。よく出来ているでしょう」
 オーク鬼は涎を垂れ流しながら、口が裂けたような笑みを浮かべる。荒っぽい息遣いといい立ち上る臭いといい、どう見ても本物にしか見えない。今さらながら、常識を超えた技術力に感心してしまう。
「さ、怪しまれない内に早くお行きなさい、ミス・ロッタ」
「ええ。ありがとう、スペンダー」
「いえ。ただ、出来るならばこんな物を秘密で作っていたことをキャプテンに叱咤されるとき、私を庇っていただけるとありがたいのですが」
「分かりましたわ」
 スペンダーの平坦ながらも冗談めかした言葉に笑って頷きながら、ケティもまた友人たちを追って空に浮かび上がった。
 木々の上まで飛んだとき、物凄い勢いで降下してきたコゼットとぶつかりそうになって、慌ててその場に静止する。コゼットはほんの少しだけ行き過ぎてしまってから、抱きつかんばかりにケティのところに戻ってきた。
「大丈夫か、ケティ!? 怪我してないか、貞操は守られているか!」
「興奮しすぎですわ、コゼット、言葉が意味不明になってます」
 落ち着かせるように言うと、コゼットはようやく少し冷静さを取り戻したようだった。
厳しい顔つきでケティの体を上から下までじっくりと眺め、ほっと息をつく。
「良かった、あの豚野郎にヤられちまったのかと思ったよ。可愛いケティの顔に傷でもついたらどうしようかと思った」
「コゼっち、その言葉はなんだかちょっとあやしいですわー」
 ふざけ半分に身をくねらせながら、エリアも下りてくる。その隣に浮かんだアメリィが、長い前髪の隙間から、じっと広場の方を見つめていた。
「こんなところにオーク鬼が出るなんて」
「どうしましょうねえ。学院の先生方に話したほうがいいんでしょうか」
 ちょこんと首を傾げるエリアに、ケティはまたも焦った。そんなことをしてこの辺りを兵隊がうろつくようになったら、ロケットが発見されてしまうかもしれない。
 幸いにも、その危惧は「ダメだ!」と叫んだコゼットによって払われた。
「この辺、結構穴場もあるんだぜ! 人が入るようになったら、レアな薬草根こそぎ採られちまうかもしんねーじゃん」
「コゼっちほどの薬草マニアなんて、それほどたくさんはいないと思いますけれど」
 エリアが苦笑する。
「でも、確かに話さないほうがいいかもしれませんね。変に騒ぎが大きくなって、事情聴取とかで時間をとられるのも嫌ですし」
「面倒なのは嫌」
 アメリィもぼそりと同意する。コゼットが赤い髪を乱暴に掻いて、フケを風に吹き散らさせた。
「とは言えあんなのがいるんじゃ、しばらくは森に入らない方がいいかもな。どうせ群からはぐれただけだろうから、すぐいなくなるだろうけど」
 ケティはほっと胸を撫で下ろした。同時に、また少し嬉しくなる。
(あのオーク鬼が偽物だと知っているのも、やっぱりわたしだけ)
 先ほどのオーク鬼の恐ろしさ、醜さについて口々に語っている友人たちに取り囲まれながら、ケティはまたも優越感に浸った。
 だから、広場でアメリィとエリアが話していたことについては、翌日になるまですっかり忘れてしまっていた。

 森で偽物のオーク鬼と遭遇した翌日、いつものようにワイルダーのロケットで話しこんだあと、ケティは日が落ちる少し前に学院に帰還した。寮の自室に戻ろうとしてヴェストリの広場に差し掛かったとき、遠くから聞こえてきた歓声に足を止める。その方向を見やると、ベンチが置いてある辺りに、何やら大きな人だかりが出来ていた。彼らは全員魔法学院の生徒のようで、絶え間なくざわつきながらも、時折一際高い歓声を上げている。
(なんでしょう?)
 首を傾げながら、ケティは群集に近づいた。近づくにつれて、人だかりの中心が少しだけ高くなり、そこから眩い光が放たれているのが分かった。もっとよく見ようと「レビテーション」の魔法で空に浮かび上がり、ぎょっとする。人だかりの中心にいたのは、よく見知った人物だった。
「アメリィ!?」
 叫び声が、群衆の上げた歓声にかき消される。その中心で、アメリィはきらびやかな光を放っていた。土魔法によるものか、台のように隆起した地面の上に立ち、周囲の生徒達に向かって笑顔を振りまいている。眩い光は服から放たれていた。よく見ると、魔法学院の制服に、彼女のコレクションと思われる宝石が無数に縫い付けられている。その一つを無理矢理もぎ取って、アメリィは歌うように叫んだ。
「幸せをおすそ分けーっ!」
 先ほどの宝石が、アメリィの手から空に向かって高々と放り投げられる。彼女を取り囲んでいた群集が歓声を上げ、落ちてくる光の粒を追いかける。酔っ払ったような笑いと共にそれを見下ろしながら、アメリィはまた宝石を一つもぎ取り、心底楽しそうに叫んだ。
「皆さんも、わたしみたいに幸せになっちゃってくださーい!」
 彼女が叫ぶたび、煌く宝石が次々と夕暮れの空に舞い踊る。それを追って右往左往する群衆の頭上に浮かびながら、ケティは呆然とアメリィを見下ろしていた。
 ケティの知るアメリィは、内気で大人しい少女である。いつも泣いているように潤む黒い瞳が可愛らしいが、本人は自信のなさから長い黒髪でそれを隠してしまっていた。「わたし、ブスだから」が口癖であり、気心の知れた友人の中にあってさえ、いつも遠慮がちにぼそりと発言するような臆病な人間だったはずだ。
 その彼女が長い黒髪を勢いよく躍らせ、夕暮れの空に向かって高らかに笑い声を響かせながら、景気よく宝石を投げまくっている。頭のネジが外れてしまったようにしか思えな
いその行動は、冷静に見るとかなり痛々しい。しかし、内から溢れ出さんばかりの歓喜と生命力に満ちているのも確かで、見ている者に不思議な高揚をもたらすものでもあった。
 そのアメリィが、上空に浮いているケティに気付いて、にっこりと笑いかけてきた。どきりとするほど魅力的な笑顔だった。入学して以来、長い間友人として付き合ってきたつもりだったが、アメリィのそんな表情を見るのは初めてのことだ。
「ケティーッ!」
 アメリィが叫ぶ。服に縫い付けられていた宝石の中でも一番大きなものをもぎ取り、大きく腕を振りかぶった。
「あなたも、怖がらないでーっ!」
 力強い叫びが、ケティの胸に突き刺さる。呆然とする彼女の前に、山なりの軌道を描きながら宝石が飛んできた。ケティは慌ててそれを掴み取る。手を開くと、数日前にアメリィが見せていた、青く大きな宝石が零れんばかりの輝きを放っていた。驚いて彼女の方を見ると、コゼット顔負けの満面の笑みが返ってくる。
「一緒に頑張ろうね、ケティ!」
 アメリィは楽しそうに叫んで、また宝石をばらまき始める。校舎の方からミセス・シュヴルーズが顎の肉を揺らしながら走ってきて、「あ、あなたたち、これは一体何の騒ぎですか!?」だのと喚いていたが、いよいよ熱狂が頂点に達した群集に飲み込まれ、もみくちゃにされてしまった。
 そうして日が完全に落ちかける頃、アメリィはようやく全ての宝石をばら撒き終わった。
一礼した彼女を、群集の盛大な拍手が包み込む。その中から一人の少年が歩み出て、大きく両手を広げてアメリィに近づいた。

「とても素敵だったよ、僕のアメリィ!」
「ありがとう、アルテュール! あなたが見守っていてくれたおかげよ!」
 アメリィは台状に隆起した地面を蹴って空中に身を躍らせ、勢いよく男子生徒の胸に飛び込んだ。二人は抱き合ったままくるくると回り、止まったかと思うと何度も何度も音高くキスを交し合う。人だかりの中から、無数の口笛と煽るような拍手が飛び出した。本当にここは魔法学院の敷地内なのか、と疑ってしまうほどの馬鹿騒ぎだ。まるで場末の酒場の中のようである。
 こうして、ケティには全くわけが分からないまま騒ぎは終わりを告げ、群衆の中でもみくちゃにされたミセス・シュヴルーズは、全治一週間の怪我を負った。

「……で、なんで反省文書かされてんの、あたしたち」
「そりゃ、悪いことしたわけですから」
 憮然とした表情で机に向かっているコゼットに、エリアが愉快そうに笑いながら答えを返す。彼女の細い指先で、黒く長い髪が様々な形に束ねられては、また解かれていく。
「あの薬、効きすぎ」
 その髪の主、いつも以上に青白い顔で呟くアメリィもまた、部屋の中にあるテーブルに向かって一生懸命反省文を書いているところだった。もちろん、夕方の騒ぎの後始末である。
 あれから、まださほど時間は経っていない。だが、騒ぎを起こした張本人であるアメリィはすぐに学院長室に連行されて事情を聞かれ、連鎖的にコゼットも呼び出されてこってり絞られたらしい。結果的には反省文を書くだけで許されることになったので、まあ寛大な処置と言えるだろう。
「学院長を説得するのなんて楽勝ですよー。ちょっとこう、胸元をはだけさせて片目を瞑ればイチコロです」
 何故か同行したエリアは、そのときのことを実演しながら気楽に笑っていた。
 今、四人がいるのはコゼットの部屋だ。とても年頃の少女の居室とは思えないほどに散らかっており、特に得体の知れない薬やら薬草の束やらがなんとも言えぬ不気味な雰囲気を醸し出している。
「やっぱ、シュヴルーズのババアを怪我させたのがまずかったんだろうなー」
「そもそもあんな騒ぎを起こしたこと自体、よくないことでしょうに」
 悔しそうなコゼットのぼやきに、ケティは呆れて溜息をついた。
 アメリィがあんな風になってしまったのは、コゼットが作った薬を飲んだのが原因らしい。二週間ほど前、コゼットが絶えず試験管の中で振り混ぜていた、あの薬である。
「いやー、栄養剤作ったつもりだったんだけど、体だけじゃなくて心の方にまで過剰に栄養がいっちゃったみたいでさー。ほんと、やっちゃったぜって感じだよな!」
 コゼットはそんな風に笑って誤魔化そうとしたが、罰からは逃れられなかった。
 だが、彼女以上にケティを驚かせたのは、アメリィが薬を飲んだその理由であった。
「実は、ちょっと前に、アルテュールから求愛されていたの」
 学院長室から帰ってきて、薬の効果もようやく消えたアメリィは、いつもどおりのか細い声で、恥ずかしそうに告白した。アルテュールというのは夕暮れの広場でアメリィと抱き合っていたあの男子生徒である。彼の気さくな人柄は内気なアメリィの心を強く惹きつけたが、その求愛を受けるかどうかについては迷いがあったという。
「わたし、ブスだし暗いし、彼に何かしてあげられるとは思えなかったし」
「そんな風にいつも通りのネガティヴ思考を繰り広げてたアメりんに、コゼっちが例の薬を一発盛ったわけですよ」
「で、身も心もスゲー元気になったアメリィは、見事アルテュールの告白を受けて、幸せ一杯夢一杯でみんなに宝石をばらまきだしたってわけだな」
「あの薬、効きすぎ」
 アメリィは少し気持ち悪そうに口を押さえていたが、青白いその顔には嬉しそうな微笑が浮かんでいた。
「でもありがとう、コゼット。あれがなかったら、きっとアルテュールの言葉に応えられなかったと思う」
「なに、いいってことさ。あたしの方も、自分の薬の程度がよく分かったしね」
 終わりの見えない反省文をだらだらと書き進めながら、それでもコゼットは上機嫌な様子だった。
「自分があんだけいい薬作れるってわかったからさ。なんか、自信湧いてきたよ」
「コゼっちったら、あれをいい薬と言い張るのは乱暴すぎますよー」
「いや、いい薬だ! なにせアメリィを幸せにしたんだしな。これからも頑張って無茶な薬を作るぞー、おー!」
 一人で勝手に盛り上がったあと、「……なんて、冗談は置いといて」と、コゼットは少しだけ声を落とした。

「真面目な話、今回のことで本当に自信ついたんだよ、あたし。入学してから初めて作った薬飲んでシュヴルーズのババアがぶっ倒れて以来、いまいち自分の才能に自信が持てなかったんだけど」
「ああ、あれは大惨事でしたよね。ミセス・シュヴルーズ、泡吹いて白目剥いてましたもの」
「あの事件のせいで『劇薬』の二つ名がついた」
 しみじみと当時を振り返るエリアとアメリィの声に、「しかぁし!」というコゼットの声が重なった。
「ついに、あたしはやり遂げたぞ! 挫折に次ぐ挫折の上にさらなる努力を重ね、ついに夢の尻尾を捕まえたんだ! そこで、決心した!」
「何を?」
「学院を卒業したら、アカデミーとかには進まないで故郷に帰る!」
 コゼットが椅子に片足を乗せながら断言する。豪快な動作でスカート捲れ上がり、思い切り下着が見えてしまっているが、お構いなしだ。ケティは驚いて問うた。
「どうしてそうなるんですの?」
「元々、母様の体を治すための薬を作るってのが目標だったからね。今回の栄養剤の成分をちょいと調整すれば、きっとそういう薬ができるはずさ」
「でも、アカデミーに進んだほうがよりよい設備で研究が進められるのでは?」
「そうかもしれないけど、やっぱり母様のそばについててあげたいしね。できれば領地の運営だってあたしが変わりたいぐらいだったし。今回のことでようやっと決心がついたよ。
アカデミーなんかに進まなくても、あたしは十分にやれるってさ」
 コゼットは歯を見せて力強く笑う。その笑顔が、なんだか妙に眩しい。
「わたしも」
 不意に、アメリィがいった。か細いが、芯の通った確かな声音だ。
「わたしも、今回のことで、少しだけ前を向けた気がする。こんな自分でも、あんな風に明るく、楽しく振舞えるんだって」
「かなり痛々しかったですけど」
「それでもいいの」
 茶化すようなエリアの声に、アメリィは一生懸命な口調で答えた。
「頑張れば、きっと出来ることがあるって、分かったから。きっと、アルテュールをもっと喜ばせられる女になれるって、思えるようになったから。だから、いいの」
 アメリィの口許に微笑が浮かぶ。エリアがにっこり笑って、アメリィの前髪をかき分けた。潤んだ黒い瞳が露わになり、嬉しそうに細められる。
「じゃあもっと綺麗になりませんとね、アメりんは。とりあえずこの前髪は素敵な形にカットしちゃいましょう」
「エリア、お願いできる?」
「任せてください。アメりんの愛しいアルちゅーが欲情するぐらい、セクシーに仕上げてみせますよー」
「アルちゅーってお前、そのあだ名はねーよ。酒飲みか」
 即座にコゼットの突っ込みが入り、三人が楽しげに笑い合う。その輪から一人外れて窓際に佇み、ケティは顔を伏せた。友人たちが一歩ずつ前に進みつつあるのだから、喜ばしいことのはずだ。喜ぶべきなのだ。そう思ってみても、胸の奥から湧き上がってくる孤独感が、抑えようもないほどに膨れ上がっていく。
「ねえ、ケッちゃん」
 不意に、エリアが静かな声で呼びかけてきた。顔を上げると、穏やかに問いかけるような瞳が、じっとこちらを見つめていた。
「わたしたちは、みんなこの先のことを決めましたよ」
 アメリィの髪を弄りながら、エリアが気遣うような柔らかい声で語りかける。
「ケッちゃんは、どうするんですか?」
 静かながらも鋭い問いかけに、ケティは答えられなかった。コゼットとアメリィも、反省文の紙面に向かいながら、息を潜めてこちらの様子を窺っているようだ。耐え難い沈黙に、ケティはついに顔を伏せる。近頃の楽しい生活の中で忘れかけていた惨めな感情が、一息に噴出してくる。一枚の絵画のように美しい才人とルイズの姿が、強く脳裏に浮かびあがる。
「分かりません。まだ」
 ようやく絞り出した声のあまりの情けなさに、ケティはそのまま消えてしまいたくなる。
 エリアは「そうですか」とだけ呟き、また無言でアメリィの髪を弄り出した。他の二人も黙々と反省文を書き続け、四人が集まった部屋には、いつまでも不慣れな沈黙が垂れ込めていた。

 息苦しい夜が明けて、次の日は休日だった。ケティはその日も変わらず森の道を歩いていたが、昨日までの弾むような足取りとは打って変わって、その歩みは重かった。
(勘違い、していました)
 胸中で呟き、溜息をつく。
 結局のところ、ケティは何も変わっていないのだった。ワイルダーと知り合い、自分一人だけの秘密を持つことで、みんなと同じように何か特別なものになれたつもりでいた。
だが、実際には彼女自身は何も変わってはいないのだと、昨日の夜思い知らされた。
 自信に満ちたコゼットの笑顔、嬉しそうに細められたアメリィの瞳、静かに問いかけるエリアの声が、代わる代わる頭に浮かんでくる。
(ケッちゃんは、どうするんですか?)
「分かりません。まだ」
 昨日の答えを、もう一度繰り返してみる。この言葉は嘘だ。本当は、自分の将来など分かりきっている。このまま何事もなく卒業して、自分の新たな未来など欠片も見えないまま故郷に帰り、親の選んだ好きでもない相手と結婚して、必死に体面を守りながら子供を生み、何の楽しみもない根暗な夫人として死ぬまで生きるのだ。二週間ほど前に思い描いた未来と、何ら変わっていない。おそらく、自分の存在は想い人の人生にかすりもしないだろう。
 ワイルダーたちに出会い、未知の世界をほんの少し垣間見ただけで有頂天になっていた自分が、今ではとても恥ずかしく思える。涙で視界が滲んだ。
(ギーシュ様に捨てられたときも、こんな風に過去の自分が恥ずかしく思えたっけ)
 つまり、あのころから少しも成長していないということだった。打ちのめされた惨めな気分のまま、ケティはとぼとぼと歩き続ける。それでも、乱暴に涙を拭った。善人のワイルダーに要らぬ心配をかけるのは、できるならば避けたかった。
(そう、せめて、あの人には笑顔で会わないと)
 心に言い聞かせて顔を上げたとき、ふと、耳慣れない音が聞こえてきた。頭上から響く、大きな羽音。
(巡回中の竜騎士……?)
 それにしてはやけに羽音が近い気がする。頭上に目を向けた瞬間、物凄い勢いでこちらに迫ってくる黒い影が見えた。驚きのあまり尻餅をついてしまったのは、むしろ幸いだった。黒い影は先ほどまでケティが立っていた場所を、暴風のような勢いで通り過ぎていった。立っていたらずたずたに切り裂かれていただろう。背中を冷たい汗が流れ落ちる。
 追い詰めた獲物を嬲って楽しもうとでも言うのか、黒い影はゆっくりとケティの眼前に舞い降りてきた。長い二本脚や、腕と一体化した翼が特に目を引く空の怪物。
(ワイバーン……! どうしてこんなところに!?)
 ワイバーンは獰猛に息を吐き出しながら地面すれすれを滞空している。ケティとの距離は十メイルもない。その気になれば、息をつく暇すら与えずに飛びかかれるだろう。
 一瞬、またスペンダーが凝った観測ユニットを作ったのではないか、という儚い希望が芽生えかける。だが、人間の言葉を吐き出す気配など微塵も見せずにかぎ爪を振り上げる怪物を前にして、望みはあっさりと砕け散った。
「いや……!」
 か細い悲鳴を絞り出しながら、ケティは尻餅を突いたままじりじりと後ずさる。腰が抜けて立てないのだ。立てたところでほとんど違いはなかっただろうが。
 ケティの情けない姿を見て満足したのか、ワイバーンは見せつけるように大きく翼を広げた。振り上げられた鉤爪が、日差しを照り返して物騒な光を放つ。ケティは瞬きすることすらなく、ただそれを見つめることしかできない。
「いや……いや!」
 木の幹に背中がぶつかり、退路は完全に断たれてしまった。
「助けて……助けて!」
 無駄と知りつつも、ケティは全身の力を振り絞って絶叫した。
「助けて、サイトさま!」
 叫ぶと同時に、信じられないことが起きた。森の奥から一条の光が迸ったかと思うと、ワイバーンの頭を跡形もなく消し飛ばしたのだ。突如として頭脳を失った翼が羽ばたくのを止め、首のないワイバーンの体がどさりと地面に落ちる。
 何が起きたのか全く分からないまま、呆然として怪物の死体を見つめていたケティの耳に、こちらへ急ぐ靴音が聞こえてきた。

(サイトさま?)
 立ち上がることすらできず、激しい動悸を感じながら靴音の主を待つ。
「無事か、ケティ!」
 息を切らして駆けてきたのは、才人ではなくワイルダーだった。汗の滴る顔に、今まで見たこともない厳しい表情が浮かんでいる。彼は呆然と座り込むケティのそばに駆け寄ってくると、その肩をつかんでじっと顔を覗き込んだ。
「大丈夫か、ケティ? 僕が分かるか?」
「……ミスタ・ワイルダー?」
「そうだ、僕だ。すまない、またセンサーが不調とかで、あの怪物を発見するのが遅れてしまったんだ。あんな物騒なのが飛び回っているんじゃ、おちおち出かけてもいられないな」
 軽口を叩きつつも、ワイルダーは鋭い目で周囲を見回している。その瞳に背筋を粟立たせる何かを感じてしまい、ケティはわずかに後ずさる。だが、次にこちらを向いたとき、彼の顔にはいつもの温和な笑みが浮かんでいた。
「どうやら、他にはいないようだな。君が無事で本当に良かった」
「……あなたが、助けてくださったんですか?」
 ようやくそれだけ聞いてから、ケティは不意に気がついた。ワイルダーの背中に、大きな白い筒が背負われている。その視線に気付いてか、彼はどことなく気まずそうに、ごまかすように笑った。
「ああ、これはレーザーライフルだ。護身用として、ロケットに積み込んであるんだよ」
「そうですか」
 レーザーライフル、というのが何なのかはよく分からなかったが、ケティはぼんやりと頷いた。とにかく彼が助けてくれたのは事実なのだ。お礼を言いたがったが、舌が上手く回らない。その内意識が遠のいてきて、体から力が抜けた。慌てて呼びかけているワイルダーの声を聞きながら、ケティは深い闇の中に落ちていった。

 目を覚ましたとき最初に見えたのは、白く丸い天井だった。見覚えのある場所だった。
(ミスタ・ワイルダーのロケットの中……?)
 ぼんやりそう考えると同時に、スペンダーの平坦な声が響いた。
「キャプテン、ミス・ロッタがお目覚めになりました」
「おお、そうか。大丈夫かい、ケティ」
 ワイルダーが心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。ケティは「はい、大丈夫です」
と答えながら体を起こした。まだ少し頭が痛かったが、動くのに問題はない。そこはやはりロケットの中で、ケティは低いベッドの上に寝かされていた。これも、テーブルや椅子同様、必要なときだけ床からせり出してくる仕組みらしい。
「本当に良かった。ケティが倒れたときは、ひどい怪我をしたのかと思って冷や汗が出たよ」
「脳の自己防衛機能が働いたものと考えられます。ミス・ロッタの体に外傷はありません」
「ああ、そのようだな。いや、本当に良かった」
 ワイルダーは心底安堵した様子で、ベッドのそばに置いてあった椅子にどっかりと腰を下ろした。その姿を見ていて、ケティは彼が助けてくれたことをようやく思い出した。慌てて頭を下げる。
「すみません、お礼を申し上げるのを忘れていました。危ないところを助けていただいて、本当にありがとうございました、ミスタ・ワイルダー」
「ああいや、気にしないでくれ。友達を助けるのは当然のことさ」
 手を振るワイルダーの声に、スペンダーの平坦な声が重なった。
「キャプテンは、あなたが襲われているのをモニターで確認するや否や、レーザーライフルを片手に船の外に飛び出して行かれたのです。走っても絶対に間に合わないと推測されたので、仕方なくこの広場から狙撃を敢行いたしました」
「狙撃……つまり、ここからあのワイバーンを撃ったのですか?」
 ケティは驚いた。正確には覚えていないが、ワイバーンに襲われた場所は、ここからかなり離れていたはずである。銃のことはそれほどよくは知らないが、容易く命中させられるような距離でないことぐらいは一応分かる。
「ミスタ・ワイルダー。あなたは、銃の名人でしたのね」
「いや、別に、そんなことは」
 ワイルダーは気まずげに言葉を濁す。謙遜しているというよりは、その話題を避けたがっているような様子だった。どうしてだろう、とケティが考えていると、「そんなことより!」と、彼は無理に話題を変えた。

「ケティ、君に是非とも聞きたいことがあるんだが」
「なんでしょうか」
 ワイルダーは面白がるようににやにや笑いながら聞いてきた。
「サイト、というのは誰のことかな? 恋人かい?」
 彼としては、ここでケティが真っ赤になるとか、そういう反応を期待していたのだろう。
しかし、その質問はただ彼女の胸を重くしただけだった。
(『助けて、サイトさま!』ですって?)
 あのときの叫びの滑稽さに、ケティは自分で自分を嘲笑いたくなった。
(こちらの名前すら覚えていないであろうあの方に、あんな場所で助けを求めるなんて!)
 同時に、ケティは気がついてしまった。死の間際にあって、親や友人よりも先に助けを求めるほど、自分は彼に惹かれているのだと。
(本当に……馬鹿なわたし)
 ベッドの上で膝を抱えて、ケティはとうとう泣き出してしまった。どうしようもない胸の痛みに、止め処もなく涙が溢れ出してくる。慌てて謝ったり慰めたりしてくれているワイルダーに悪いと思いながら、ケティはどうしても、涙を止めることが出来なかった。

「いや、本当にすまなかった」
「キャプテンは最低の男です」
「まさか、君がそれほどまでに切ない恋心を抱いているとは思いもしなくて」
「キャプテンは人類史上最も劣った男です」
「配慮が足りなかった。どうか、許してほしい」
「キャプテンは全宇宙史上最も劣った最低の糞生命体です」
「決して君の……ってちょっと待て、お前にそこまで言われる筋合いはないぞ、スペンダー」
「キャプテンは最低の男です」
 しれっと平坦な声で繰り返すスペンダーに、ケティはつい笑ってしまった。泣きすぎてしまったせいでまだ目は痛いが、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がする。
 そんなケティを見てかすかに息をつきながら、ワイルダーはまた頭を下げた。
「本当にごめんよ。君のあのときの叫びを聞いて、この惑星の女の子も僕の故郷の女の子と同じように、恋に夢中になるものなのだなあと、少し嬉しくなってしまってね。そういうことについても楽しく話せるんじゃないかと、つい舞い上がってしまったんだな」
「キャプテンのようなクズ男に乙女の切ない恋心が理解できるとは到底思えませんが」
「分かった、お前は少し黙ってろ、スペンダー」
「了解しました、クズキャプテン」
「スペンダー!」
 怒鳴るワイルダーに、ケティはまた笑ってしまう。彼もまた、そんな彼女を見て頭を掻きながら椅子に座った。わずかに、沈黙が訪れる。
「ねえ、ミスタ・ワイルダー?」
「なんだい、ケティ」
「あなたも、恋をしたことがありますの?」
「キャプテンの乏しい人生経験に甘酸っぱさを求めるのは少々無謀」
「黙ってろと言ったろ、スペンダー」
「拗ねますよ、キャプテン」
 スペンダーが不服そうに黙り込んだあと、ワイルダーは無精髭の生えた顎をさすって、「恋か」と遠い目をした。
「自分では久しく忘れていた感情だね、それは」
「そうなのですか。でもあなたはハンサムですし、相手には不足しなさそうですけれど」
「僕が? まさかな」
 ワイルダーは肩をすくめた。
「人生で初めて書いたラブレターは、僕が好きだった女の子の失笑を誘ったらしくてね。
次の日には教室の黒板に大々的に張り出されていたよ」
「そんな、ひどいわ」
「そうだね、ひどい話だと思う。だが、僕の情けない女性遍歴はここで終わりじゃなくてね。告白したら泣かれたり、受け入れてもらえたと思ったらからかわれているだけだったり、ひどいときには名前すら覚えてもらえなかったりと、そんなことばっかりだったな」
 懐かしそうに話すワイルダーの口調は、内容の割にはひどく楽しそうだった。ケティから見れば、話すのも嫌な思い出にしか聞こえないのだが。
「でも、信じられませんわ。ミスタ・ワイルダーはこんなにたくましくて、素敵な人ですのに」
 面白い冗談を聞いたとでも言うように、ワイルダーがぷっと吹きだした。ケティの顔を見て、「すまない」と軽く詫びる。

「だけどねケティ。今の君と同じ年頃の僕を見たら、君だって『なんだこの情けない奴は』と思うに違いないよ」
「そんな」
「いや、紛れもない事実なんだよ、これは」
 ワイルダーは、どこか遠くを見るような目をして、自分の過去を語り始めた。
「僕は、ある貿易会社の社長として手広く商売してた親父の、三男坊として生まれたんだけどね。これがまた出来の悪い息子で、学校の成績は最悪、運動神経もからっきし、その上うじうじした性格で女の子にもモテないと、最悪なお坊ちゃんだったんだな。君ぐらいの年になってもその辺りは変わらなくて、自分の人生はきっと、こうやって何もないまま終わるんだろうなあって、漠然と考えながらただ生きていたんだ。でも、その頃かな。
『探検隊員募集!』なんてチラシを、そこかしこで見かけるようになったのは。その探検隊ってのは、報酬は少ない上に、未知の宙域に一隻きりのロケットで踏み込んでいくっていう、命知らずの馬鹿どもの集団さ。周りの連中はみんなせせら笑ってた。こんな探検隊に参加するのは、よほどの馬鹿か自殺志願者ぐらいのものだって。でも、僕にはそのチラシが、やけに魅力的に見えたんだ。まるで、未知の世界に自分を導いてくれる天使の囁きのように感じられたんだよ。今思えば単なる現実逃避に過ぎなかったのかもしれないけれど、ともかく僕は、思い切って探検隊事務所の扉を叩いた。もちろん楽しいことばかりじゃなくて、むしろ痛い思いや苦しい思いをしたときの方が多かった気もするけど、とにかく、あの日勇気を持って扉を叩いたおかげで、今の自分があるってわけさ」
 滔々と語るワイルダーの声を、ケティは黙ったまま聞いていた。話し終えた彼が、苦笑しながら頭を掻く。
「ごめん、元々は恋の話をしていたんだっけね。あー、まあ、一応ニ、三人ぐらい相手はいたけれど、その人たちとも当の昔に別れてしまってね。結局のところ、君にアドバイスをしてあげられるほどの経験はないってことになるのかな」
「当然ですね」
「黙れスペンダー」
「了解キャプテン」
 スペンダーが再度黙り込んだあと、ワイルダーはじっとケティの瞳を見つめてきた。深い眼差しだった。
「でもね、ケティ。案外、思い切って踏み出してみるのも悪くはないものだよ。君は、自分の前に絶対に乗り越えられない大きな壁が立ちふさがっていると思い込んでいるのかもしれないが、案外、壁に見えるだけで実は単なる大きな扉かもしれない。君はそれを叩いて誰かが開けてくれるのを待つことだってできるし、無理矢理蹴り開けようと脚を振り上げてみることだってできる。とにかく、なにかアクションを起こしてみることさ。一見無駄に思えても、君には分からないところで何かが変わっていくかもしれないからね」
 ワイルダーは肩をすくめた。
「結局説教臭くなってしまったな。分かりきったことを延々と聞かせてしまってすまない。なんだか、今の君を見ていると、失礼ながら昔の自分を思い出すようで、ついつい要らないおせっかいをしたくなるんだな。気を悪くしないでくれ」
「いえ、わたしは」
 その後に続ける言葉が見つからず、ケティは黙り込んでしまった。

 いつも通り、学院に帰り着いたのは夕暮れどきだった。寂しげに鳴き交わす鴉の群が、赤い空の彼方へ飛び去っていく。それを横目に、ケティは無言のまま歩き続けた。ヴェストリの広場の半ばに差し掛かり、その辺りに置いてあるベンチに腰を下ろす。俯いていると、自然と溜息が漏れ出した。
(分かりきったこと、か)
 確かに、ワイルダーの言うとおりだ。自分から動かなければ何も変わらないし、何も起こらない。ほんの小さな子供ならばいざ知らず、この年頃になれば誰もが理解する、世の理である。
(扉を叩く……わたしの場合は、サイトさまにこの想いを告げる、ということになるのでしょうけれど)
 それを想像すると、ただ憂鬱な感情だけが心に重く圧し掛かるのだった。上手くいくとは到底思えないし、そもそも、彼を前に一人立った自分が、まともに口をきけるとも思えない。

 奇跡的に想いを伝えることが出来たとして、思い浮かぶのは興味なさげな彼の顔だ。
『好きです、サイトさま!』
『ふーん。で、お前誰?』
 もちろんこの想像があまりにも悲観的過ぎるのは分かっている。だが、表に出すか否かの違いだけで、才人が抱く感想に大した違いはないのではないだろうか。つい、そんな風に考えてしまうのだ。
(ダメですね、わたし。長所なんて一つもないくせに、こんな風に暗くてうじうじしてて)
 ケティがまたも根暗な感情の渦にはまり込みそうになったとき、地面に誰かの影が落ちた。誰だろう、とぼんやり考えながら顔を上げて、息が止まりそうになった。
「なにやってんの、こんなところで」
「さ」
 ――サイトさま。
 という言葉は、もちろん声にはならなかった。ケティの目の前に、夕映えを背負った才人が立っていて、不思議そうな顔でこちらを見下ろしている。「さ?」と小さく首を傾げたあと、彼は何の気負いもなく、軽やかにケティの隣に腰を下ろした。(なにこれ、なんなんですかこれ)
 ケティの胸の中で、心臓が狂ったように暴れ始める。手の平といわず背中といわず、全身の至るところから汗が滲んできて、火でもつけられたかのように頭が熱くなった。まともにものが考えられない。
(落ち着くのよケティ。ありえないわこれは。誰かがアルヴィーで悪戯してるとかまたスペンダーの観測ユニットの一つとかそういう)
 自分でもわけの分からないことを頭の中で繰り返す内に、不意に才人が話しかけてきた。
「ケティ、でいいんだったよな」
「え?」
 誰のことだろう、と数秒ほど悩んで、唐突に自分の名前だと気付く。信じられなかった。
「わ」
「わ?」
 才人が眉をひそめる。ケティは一度息を飲み込んでから、わななく唇を押し開いた。
「わた、わたしの名前、覚えていてくださったんですか?」
「え? あれ、間違ってる?」
「いえ、いえいえいえ、間違ってないです。私ケティ・ド・ロッタと申しますので以後よろしくお願いいたします」
「ああ、こりゃご丁寧にどうも。俺は」
「サイトさま! サイトさまですよね! もちろん覚えております。覚えておりますとも!」
「あ、ああ、そりゃどうも」
 突然叫びだしたケティに驚いたのか、才人がベンチの上で若干体を引く。死にたくなるほどの恥ずかしさと踊り出したくなるほどの喜びとが、ケティの体を同時に駆け巡った。
(サイトさまが! サイトさまが、わたしの名前を覚えていてくださった! サイトさまが!)
 幸福感で痺れたようになる頭に、さらに信じられない言葉が飛び込んでくる。
「確か、前にビスケットもってきてくれたよな。手作りの」
 言って、才人は苦笑する。
「まあ、あんときはルイズに邪魔されて食えなかったけどさ」
「そ、そんなことまで、覚えててくださったんですか……!」
「そりゃ覚えてるよ。美味そうだったし。だからまあ」
 才人は肩をすくめた。
「今、そこ通りかかったときに、なんか落ち込んでるみたいに見えたから、気になってさ。
それで声かけたんだけど」
 申し訳なさそうに頭を掻く。
「よく考えりゃ、馴れ馴れしかったよな。ごめん」
「いえ、そんなことはありません!」
 気がつくと、ケティは立ち上がって叫んでいた。ほとんど絶叫だった。才人がぎょっとしたように目を剥いて、こちらを凝視している。
「わたし、凄く元気になりましたから! 本当、もう、今なら空だって飛べそうなぐらいです、はい!」
「そ、そうなのか。あー、まあ、そりゃ良かったな、うん」
 才人は少々ぎこちないながらも笑みを浮かべて、立ち上がった。

「まあ、よくわかんないけど元気になったのなら良かったよ。それじゃあな」
「はい、サイトさま!」
 片手を上げて去りかける才人の背中を、ケティは浮き上がるような幸福感に包まれたまま見送ろうとした。
(まさか、わたしなんかの名前を覚えていてくださるなんて……それに、今わたし物凄く変なのに、あんなに優しいお言葉をかけてくださるだなんて! やっぱり、サイトさまは素敵なお方だわ)
 夢見心地のまま立ち尽くすケティの前から、才人の背中がゆっくりと遠ざかっていく。
そのとき不意に、誰かが頭の中で問いかけてきた。
(それでいいの?)
 ケティははっと我に返った。痺れるような幸福感も、楽しい夢の中にいるようなうっとりとした感情も、一瞬にして消え去った。誰かの声は、また問いかけてくる。
(それでいいの? 名前を覚えてもらったから、それで満足? 本当に、それでいいの?)
 気がつけば、去り行く背中に向かって手を伸ばしていた。
「サイトさま!」
 自分でも信じられないほど、大きな声が出た。才人が驚いたように振り返り、「なに、どうした?」と近づいてくる。そのときケティは、初めて心の底から実感した。才人は絵の中の王子様などではなく、自分が声を出せば答えてくれる、現実の人間なのだと。自分だって、声を出せば、彼を呼び止めることぐらいは出来るのだと。
(ううん、もしも仮に、サイトさまが絵の中の王子様だったとしても、わたしだって、その絵の中に無理矢理押し入ることは出来るんじゃないのかしら?)
 わけの分からない想像が、頭の中を埋め尽くす。ケティは思い切って口を開いた。
「あの!」
「うん」
「あの」
「ああ」
「……あの」
「……なに?」
 どんどん声が萎んでいくケティを前にして、才人が困惑したように眉をひそめている。
これじゃダメだ、とケティは思った。
(やっぱり、わたしには無理だったんだわ。「なんでもないです」って笑えば、今でもまだ誤魔化しはきく……)
 そう考えたとき、不意に足元で何かが光った。黄昏の光を照り返すその物体に、自然と目が引き寄せられる。それは、小さな宝石だった。昨日の夕暮れに、アメリィがばらまいていた宝石。誰にも拾われなかったものが一粒、ここに落ちたらしい。
 自信に満ちたコゼットの笑顔と、嬉しそうに細められたアメリィの瞳と、静かに問いかけるエリアの声とが、頭の中で一斉に弾けた。
「好きです!」
 悲鳴のような叫び声。ぽかんと口を開けた才人の顔が見える。言葉は勝手に、次から次へとあふれ出してきた。
「好きです、サイトさま! わたしなんかにこんなこと言われたって迷惑なだけかもしれませんけど、好きで好きでどうしようもないんです。サイトさまを見ていると、胸が締め付けれるみたいに痛みます。サイトさまの夢だって何度も見ました、ビスケットを焼いてサイトさまがそれを食べてくださって、『おいしいよ』って言って喜んでくれるところを、もう覚えてないぐらいに何度も何度も何度も何度も想像しました。わたしなんてルイズさまに比べたら女王陛下とオーク鬼みたいなものでしょうけれども、そうと分かっていてもこの気持ちは押さえようがありません! 受け入れてくださいとは言いませんから、せめて覚えておいていただきたいんです。わたし、真剣です。サイトさまと話をしたことなんてほとんどありませんけど、でも大好きなんです! 嘘じゃありません、本当に、本当に大好きで、大好きで……!」
 ついに言葉が途切れた。言い尽くしたのだ。才人は最初こそ面食らっていたようだった
が、ケティが本気だと悟ってくれたのか、最後のほうは真剣な顔で聞き入ってくれた。

「そっか」
 ぽつりと呟く。ケティは何も言えず、息も出来ないまま立ち尽くしていた。夕暮れの風がもの悲しげに吹きすぎる中、才人は少し考え込んだあと、静かに切り出した。
「俺も、ちゃんとした返事もらえない辛さってのは知ってるからさ。ここは、嘘もごまかしもなく、真面目に答えなきゃいけないところなんだな」
 ケティは声も出せず、ただ震えながら頷くしかない。
 そんな彼女の前で、才人はただ小さく、目を伏せた。
「ごめん。その気持ちは受け取れない」
 ああ、やっぱり。溜息のような感情が、じわりと胸の中に広がった。
「ルイズさまのことが、好きだからですか」
 聞いても傷つくだけだと分かってはいたが、聞かずにはいられない。才人は深く頷いた。
「ああ、そうだ。だから、他の誰に、どんな風に言われたって、きっと同じ答えを返すと思う」
「そうですか。そう、ですよね」
 何かが胸からこみ上げてくる。ケティは拳を握り締めて、それがあふれ出すのを必死に堪えた。笑おうと思ったがどうしても表情が作れず、せめてこれだけは、と、才人に向かって大きく頭を下げる。
「真剣に応えてくださって、ありがとうございました! わたし、とても嬉しかったです。さようなら!」
 一方的に言い捨てて、ケティは夕闇の中へ駆け出した。才人が呼び止める声は聞こえてこない。こちらの気持ちを察してくれたのだろう、と思うと、少しだけ胸が温かくなった。

 もう夜の闇に覆われかけている森の中を夢中で駆け抜け、ケティはワイルダーのロケットを目指した。走っているうちに涙は乾き切り、ただ湿っぽい満足感だけが体を満たしていた。広場が見えてくる。ロケットは歓迎するように姿を現していて、入り口のところにワイルダーが立っているのが見えた。彼の目の前で立ち止まり、膝に手を突いて、ぜいぜいと息を整える。
「どうしたんだい、ケティ」
 困惑したような、労わるような声が、頭上から降ってくる。顔を上げると、優しい瞳がこちらを見下ろしていた。乾いたはずの涙が、目の奥から湧き出してくるのを感じる。ケティはほとんど体当たりするような勢いで、彼の胸に飛び込んだ。
「ケティ?」
「振られた」
 嗚咽混じりの情けない声が、口から漏れ出した。
「振られたの、わたし」
 それ以上は言葉にならず、ただ泣き叫ぶしかなかった。ワイルダーは黙って彼女の体を抱きしめ、無言のまま優しく背中を撫でてくれた。

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