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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:52:41 (5646d)
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不幸せな友人たち 彼女の選択(エピローグ)
ティファニアはルイズの葬儀には参列しなかった。自分にはその資格がないと思っていたので、町中の大通りにあるベンチに一人腰掛けて、大通りを埋め尽くす人々を眺めていた。
やはりルイズは自らの死を予期しており、葬儀の準備は既に整えられていた。だから、死の翌日、城の住人で一人生き残っているジュリアンが、町の教会から司祭を呼び、ささやかな葬式を挙げる。
それだけのはずだったのだが、元男爵が死んだと知るや否や、町中から喪服を纏った人々が城に押しかけ、とてもささやかな葬儀どころの騒ぎではなくなってしまったのだという。
ジュリアンは止む無く日程を一日ずらして新たに準備を整え、ルイズが死んでから二日後の日に葬儀を執り行うこととなった。
(人、多いな)
ベンチに座って黒い人だかりを見つめながら、ティファニアは驚いていた。人の数はあまりに多く、どう見ても町の住民だけではない。最新式と思しき空船が町の上空に停泊しているのを見る限り、どうやら町の外からも大量に人が訪れているらしかった。外界に情報が伝わる速度はもちろん、それだけ多くの人がルイズを慕っていたという事実が、ティファニアには信じられなかった。
(ルイズさんは、ずっとこの領地にいて、外界の人と会う機会なんてほとんどなかったはずなのに)
「もし、そこの方」
不意に声をかけられて、ティファニアはびくりとしながら振り向いた。人だかりから抜け出してきたと思しき黒い喪服の老婆が、ヴェールの下からティファニアを見つめていた。
「わたしに何かご用ですか」
動揺を抑えながら問うと、老婆はティファニアの姿をしげしげと眺めて、首を傾げた。
「旅の途中か何かですか? こんな街道から離れた町に立ち寄られるとは、珍しい」
ティファニアは自分の格好を見下ろした。あの日着ていた緑色のワンピースそのままだ。当然、ほぼ黒一色の人々の中では目立っている。それで声をかけられたのだろう。
「ええ、まあ、そんなところです」
頷くと、老婆は「そうですかそうですか」と嬉しそうに頷いた。
「この町も、わたしが生まれたころは本当に貧しいところでねえ……外から人がやってくることなんて滅多になかったのに。本当に、男爵様が来られてから、何もかもがいい方向に変わりました」
老婆は懐かしむように大通りを見回している。ティファニアもそれに習い、ここに来た当時の記憶を思い起こした。あのころ、ここには一本狭い道が通っているだけで、陰気な人々が狭そうに肩を寄せ合って細々と生活していたものだ。それが今や、様々な店が立ち並び、屋根の隙間から教会の尖塔が垣間見える、賑やかで美しい通りに変わっていた。
「あの方のご指導があって、村は町になり、わたしたちは豊かになりました。男爵様はその頃から滅多に町に下りてこられなくなりましたが、商売のためにやって来た人や、穏やかな生活を求めて越してきた人たちは、みな男爵様に会われて『なんて尊いお方だろう』と喜ばれたものですよ。男爵様から助言や励ましを受けて、人生をやり直せたという方も少なくありません。だから、こんな辺鄙な町に、こんなにも人が集まったんですよ」
「そうなんですか……男爵様、という方は、とても慕われておいでだったのですね」
「ええ、ええ、そうですとも」
老婆の皺だらけの瞳から涙が一粒零れ落ちる。
「よろしければ、あなたも男爵様の冥福をお祈りください。本当に、とても立派な方でございました」
手を組んで祈る老婆の前から、ティファニアはそっと立ち去った。ルイズの冥福を祈る資格は、自分にはない。そう思った。
やがて剣の城の城門が開かれた。黒い人の列は少しずつその中に飲み込まれ、偉大な女男爵との短い別れを済ませて、また山を下りてくる。
ルイズの亡骸は、森の奥深くにある才人の墓に、彼と一緒に葬られることとなった。あとでジュリアンから聞いたところによると、シエスタがそう指示したらしい。自分の死体は町の共同墓地に一人で葬り、ルイズの亡骸は才人の隣に一緒に眠らせるようにと、ジュリアンに頼んだそうだ。
棺を担いだ葬列が、ジュリアンの案内で深い森の中を抜け、粗末な小屋のそばを通りすぎ、あの森の中の小さな広場、突き立てられた剣の下にルイズの亡骸を埋葬する。その光景を、ティファニアは町の片隅で静かに思い浮かべた。
葬列が通るときに出来る限り草木を刈り取って道を作ったらしく、その夜、小屋に戻るのは、この六十年間で一番楽だった。
(そうよね。ルイズさんが死んでしまって、この小屋やサイトのお墓を隠す必要はなくなったんだもの。これからは多くの人たちが、あの道を通り抜けて、二人のお墓に花を供えることになるんだわ)
そういう道のそばに、こんな牢獄が存在していいはずはない。ティファニアは部屋の隅に置いてある長櫃をじっと見つめながら、明日にはこの小屋を出て行こうと心に決めた。
翌朝目覚めたティファニアは、帽子を目深に被り、小屋の中を見回した。
(何か、持っていくものはあるだろうか)
少し考えて、何もないと首を振る。友人たちから託された品を自分が持っていく資格は、もうない。
(ギーシュさん。わたしは、ルイズさんに真実を教えることを選択したつもりでした。ですが、あなたのように、最後までその思いを貫くことができなかった。タバサさん、約束を果たせず、ごめんなさい。ルイズさんは、本当のことを知らないままに逝ってしまいました。あなたのナイフを託されてもなお、わたしは間違った道を選んでしまったようです。キュルケさん、ハンカチを下さったことには感謝しています。ですが、やはりわたしは自分を許すことができません。この後は一所に留まらず、死ぬまで罰を受けながら生きようと思っています。それで、自分の罪が許されるとは思っていませんが、わたしはもう、そうする他に自分が生きながらえている意味を感じられないのです)
三つの品をテーブルの上に置き、ティファニアはそれに向かって深々と頭を下げた。
「さようなら、皆さん。皆さんの尊い想いと共に、わたしの幸せな思い出を、ここに置いて行きます」
言い置いて、ティファニアは小屋を出た。外は小雨がぱらつき、陰気な空模様だった。罪人である自分が旅立つ朝としては、ちょうどいい天気だ。
町に下りるために昨日作られたばかりの道を歩いていると、向こう側に誰かが立っているのが見えた。
「やあ、やはりおいでになりましたね、ティファニアさん」
ジュリアンだった。白髭を生やした腰の曲がった老人が、目を細めてティファニアを待ち構えていた。身を硬くしながら、彼に歩み寄る。
「おはようございます、ジュリアンさん。昨日は何のお手伝いも出来ずに、すみませんでした」
「いえ、それは大丈夫です。たくさんの人たちが手伝いを申し出てくださいましたから。おかげさまで、なんとか葬儀の準備を終えることができたのです。奥様が立派な方だと知っていたつもりでしたが、昨日改めて、それを思い知った気分ですよ」
ジュリアンはじっとティファニアの顔を見上げた。
「ですがそれも、ティファニアさんが作り上げた嘘が生み出した結果です。ですからわたしは」
「ありがとう、ジュリアンさん。でも、どれだけ多くの人に幸をもたらしたところで、わたしが犯した罪の重さには何の変わりもありません。だからわたしは、やはりここを出てゆきます。わたしがルイズさんたちのそばにいる資格があるとは、とても思えませんから。では、失礼します」
一方的に決め付けて、ティファニアはジュリアンの脇を通り過ぎようとした。老人は驚くほどの力で彼女の袖をつかみ、引き止めた。
「ではせめて、城の方へおいで下さい」
「城……剣の城へ? 何故ですか?」
「墓前で直接お別れを申し上げられないのでしたら、せめて奥様のお部屋で、出立の挨拶をしていってください。罪を犯したという自覚がありながら、何のけじめもなく逃げるように出て行くのは、それこそ許されないことなのではありませんか?」
ティファニアは否定できなかった。ルイズの部屋に入ることだって、自分にとっては十分許されないことではある。だが、どう言ってもジュリアンが引き下がるとは思えなかったし、彼の言葉が全て間違っているとも言いきれない。
「分かりました。では、最後に城に立ち寄らせていただきます」
結局、ティファニアは彼の言葉に従うこととなった。
ルイズの寝室は、あの日ティファニアが出て行ったときそのままに保たれていた。
「なにぶん、予想以上に忙しくなってしまいまして。片付ける暇が全くなかったものでございますから。まあ元々散らかっておりませんでしたから、掃除の必要はないも同然なのですが」
ジュリアンはそう言っていた。本当に、あのときのままだ。ティファニアがルイズの遺言を代筆するために持ってきたテーブルも、そのままの場所に置いてある。才人から届いた、とルイズが思い込んでいた手紙の山も、部屋の隅の長櫃にそのまましまいこまれていた。
その長櫃を複雑な思いと共に見つめていると、背後のジュリアンが静かに声をかけてきた。
「奥様は、あなたからの便りを本当に楽しみにしておられました。真相を知っていたはずの姉ですらそうです。何故そんなにも、サイト殿の意志をそのまま伝えるかのような手紙が書けるのか、姉はずっと不思議がっていましたが……わたしには、分かるような気がします」
振り向くと、ジュリアンはどこか必死な表情でティファニアの顔を見つめていた。
「それは、手紙を書いていたあなた自身が、奥様とサイト殿のことを深く愛しておられたからです。
深く愛し、生前の二人を優しい気持ちで見つめていたからこそ、サイト殿の思いをよく理解し、彼のように書くことが出来た……全ては、あなたがお二人に対して抱いていた、愛情の賜物なのです」
ジュリアンは祈るように手を組み合わせた。
「ですから、自分のことを罪人などと仰らないでください。六十年前、あなたが決断を下した場所にいなかったわたしに、何かを言う資格があるとも思えませんが、どうかこの言葉を聞き入れていただきたいのです。あなたはとても純粋に、心の底から奥様のことを案じられていた。だからこそ自分を
激しく責めながらもこの辛い務めを最後まで成し得たのだし、奥様に本当のことを告げることができなかったのです。どうか、ご自分のことを許してあげてください。あなたは醜くも卑劣でもありません。ただただ優しく、意志の強い人なのですから」
縋るように言い募るジュリアンに、ティファニアは微笑み返した。
「ありがとう、ジュリアンさん。でも、あなたの言葉を受け入れることは出来ません。間違いは間違いで、罪は罪。わたしは一生自分を許すことはないでしょう」
「そんな……奥様だって、真実を知ったら、きっとあなたのことをお許しになったでしょうに」
「いいえ、ルイズさんだって、絶対にわたしのことは許さなかったはずです」
ティファニアの脳裏に、若いルイズの血走った瞳が浮かび上がる。自分を責める怒りに満ちた叫び声もまた。遠い昔の、しかし鮮明に刻み付けられた記憶だ。
「いいんです、ジュリアンさん。あなたのお気遣いはとても嬉しいですけど、わたしにはそれを受ける資格がありません。そもそも、わたしを許すことができる人は、もうこの世には」
ティファニアはふと、そこで言葉を止めた。部屋の中の風景に、何か違和感を感じる。
(なんだろう?)
じっと目を凝らす。部屋の中は、ジュリアンの言葉どおり、ルイズが死んだ日と全く変わっていないはずだ。なのに違和感があるのはどういうことか。
(何かがあの日と違う……何が違うの?)
違和感の出所は、ベッドの隣に置いてあるテーブルだった。あの日、ティファニアがルイズの遺言を代筆するために持ってきたテーブル。その上に、何か黒い染みが広がっている。
(最期にルイズさんと話したときは、あんな染みはなかった)
記憶の中のテーブルは、多少傷はあったものの、よく磨かれていて汚れはなかったはずだ。その上にはインク瓶と羽ペンが置かれていた。羽ペンは黒い染みを避けるように置かれており、蓋の開いた
インク瓶は倒れて、零れ出した中身はすっかり乾いてしまっていた。
(インク瓶が倒れたのね)
近づいてしゃがんでみると、やはりテーブルの側面を黒いインクが流れ落ちた跡が残っており、それは床の上で小さく広がっていた。
だが、インク瓶は何故倒れたのか。ティファニアはジュリアンを振り返った。
「あの。ルイズさんが亡くなられたあと、お部屋の掃除をされましたか? さっきも同じことを教えていただきましたけど、もう一度よく思い出してみてほしいんです」
ジュリアンは怪訝そうに目を細め、首を振った。
「いえ。なにぶん葬儀の準備で忙しかったもので……ただ、奥様が枕元に置かれていた何通かの手紙だけは、なくしては困ると思って、元の場所に戻しておきましたが」
その瞬間、ティファニアの頭で鮮明な像が閃いた。
苦しげに顔を歪めながら、ベッドの上でなんとか上半身を起こすルイズ。震える腕を伸ばして羽ペンをつかみ、インク瓶の蓋を開けたものの、ペン先を浸した際にインク瓶が弾みで倒れてしまう。中身のこぼれたインク瓶を戻す体力もなく、ルイズは仕方なく羽ペンを使って何かを書きつけたあと、羽ペンだけをテーブルの隅に置いた。疲れ果ててベッドに戻り、そのまま目を閉じて永遠に開かない。
(何を書いたの? いえ、何に書いたの?)
考えるまでもなく、答えは明白だった。ティファニアは部屋の隅に置いてある大きな櫃に駆け寄った。鼓動が速くなっているのを感じながら蓋を持ち上げる。中は手紙で一杯だった。全て、ティファニアが才人の振りをして書き、ルイズに宛てた手紙だ。山の上の一枚に、自然と視線が引き寄せられる。
(これだ)
ティファニアはその手紙を手に取った。ルイズに宛てた、一番最後の手紙。最期に会話を交わしたとき、彼女が嬉しそうに口元を綻ばせて読んでいた手紙。その封筒に、「愛しいあなたへ」と書いてあった。ルイズの字だ。
(愛しいあなた……サイトのこと、よね。そう言えば、ルイズさんが亡くなった日、立ち去る直前に彼女が何か話していたような……)
――愛しい人のために、最後の一仕事をしなければならないの。
ティファニアは息を飲んだ。この中には、ルイズが死の直前、才人に宛てた言葉が記してあるに違いない。一人、心静かに、万感の想いを込めて書き記した言葉。
自分に、それを読む資格があるだろうか。
(ううん、読まなくちゃいけないんだわ、わたしは)
この中には、きっと才人への愛情に満ち溢れたメッセージが書き記されている。
それを見て、もう一度ルイズの愛情の深さと尊さを思い出し、自分が犯した罪の重さと汚らわしさを、強く心に刻み付けなければならない。
ティファニアはそう考え、選択した。
封筒のふたを開けて中の紙を取り出す。裏面に何か書いてあるのが分かった。
ティファニアは震える手で紙を広げる。予想に反して、記されていたのは短い一文だけだった。
「……え?」
そこに書いてある言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
何度も何度も読み返し、ようやくその意味を理解してから、ティファニアは幾度も首を横に振った。
ぎゅっと目を細めても涙が溢れそうになって、歯を食いしばる。絞り出した声は頼りなく震えていた。
「違う、違うの……!」
足から力が抜けて、床に膝を突く。堪えきれずに溢れた涙が、頬を流れ落ちた。
「わたし……わたしは……!」
突然泣き出したティファニアに驚いて、ジュリアンが駆け寄ってくる。彼は戸惑いながら彼女の手元にある手紙を覗き込むと、目を見開き、細めた。それから労わるような笑みを浮かべて、震える彼女の両肩にそっと手を置いた。
折りよく晴れた空から窓越しに日差しが降り注いで、部屋の中を淡い色に染める。その暖かさに抱かれながら、ティファニアはいつまでも声を上げて泣き続けた。
彼女が手に持つ手紙の裏面に、短い一文が書き記されている。
最期の力を振り絞って書いたのだろう。その文字は乱れに乱れ、か細く震えていた。それでも正確に、こう読むことができる。
―優しい嘘を ありがとう―
不幸せな友人たち
END.