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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:53:49 (5651d)

白い姫とワルツを〈一・ワインの乱〉  (白い百合の下で4)  ボルボX

 

「水の国なるトリステイン、古い小さなこの王国」

 青い空の下。
 柔らかい春の日の光が、空気とともに震えるようだった。
 巨大なゴーレムのこぶしが堤防を打つたびに、大砲を撃ちこむような震動と音が生じる。
 “固定化”の魔法がかかっているため、その土塁と煉瓦をつみあげた堤防は容易にくずれない――だが、もっとも薄い箇所に人目を気にせず攻撃を加えられ、時間が経つうちにひびが入りはじめていた。

「国土面積およそ七万平方キロメイル。
 人口はガリアの数分の一、国土面積が同じ程度のアルビオンよりも少数」
【PerfectBookの記述などより推察】

 大河の河口沿い。ガヴローシュ侯爵家の領地。
 トリステイン北東沿岸部の低地地帯は、網の目のようにめぐらされた水路と、沿岸の堤防によって水を制御している。
 どの国家でも水治は重要だが、ことにトリステインでは王政府が責任をもって堤防を管理下においている。
 堤防がなければ、増水のたびたちまち水びたしとなって地面が使えなくなるのだ。この一帯ではところによっては、海抜より低い土地さえあるのだから。

 その土地を守る堤防が、破壊されていく。

「鉄鉱石と硫黄と硝石と油、銅と鉛と完成した武器、木材に毛織物に羊毛に染料、小麦と塩と塩漬けと……
 そしてワインを運ぶ水の道」

 唄うように並べたてられたそれらの商品は、ハルケギニアの河川から大洋をかけめぐる平民の商船で、主にあつかわれるものだった。
 むろん空をゆくフネでもあつかわれるのだが、重い商品になるほど空のフネでは風石を余分に消費するため、保存のきくものは水上を帆船ではこばれることも多いのである。
 その水上交易によって平民なりの栄華を勝ちえてきた都市の商人たちが、今、この「水の道」を武力で占領しようとしているのだった。

「湖、ダム、川、支流と運河、
 大河は動脈、水路は毛細血管……」

 楽しげに口ずさんでいる彼女は、ゴーレムから少し離れたところに、白昼堂々と姿をさらして立っている。
 一人ではない。周囲にはゴーレムの操り手をはじめとするメイジ兵と騎獣たちが同行している。
 大河の上では大砲をそろえた船団が運航している。それらは河川都市連合の武装商船、通称『水乞食』船団である。

 そして彼女の眼前には、住民の通報をうけて来たガヴローシュ領の警備隊がひきすえられていた。
 河川都市のメイジ兵たちに拘束され、地面にひざをつかされて彼女を見上げる警備隊員たちは、怯えや憤怒をそれぞれに表情にやどしている。一人だけが、混乱しきった表情だった。
 彼らの数人からは「何てことをするんだ! このあたり一帯が冠水しちまう」と決死の罵り声があがりつづけている。なかなかに骨のある警備隊だった。

「俺たちの船を燃やしやがって!
 やめろ、堤防まで壊したら、貴様らは王政府の名でかならず縛り首にされるんだぞ」

 彼女は薄く笑って、その声に応える。

「そうとも。
 王権の象徴のひとつである堤防を破壊されることを、トリステイン王政府は河川都市連合からの宣戦布告とみなすだろう」

 宣戦布告というその言葉に動揺したのは、警備隊員たちのみではなかったらしい。
 彼女と同陣営であるはずの周囲のメイジ兵も、覚悟はしていたとはいえ表情を目に見えて硬くしている。

 彼女の顔は意外なほどに幼い。
 歳のころは十三、四。栗色の髪、青い瞳。黒いローブを身にまとっている。
 ――幼さの強い外見と裏腹に、まとう雰囲気は陰々冥々としていた。

「女王陛下?」

 その顔を見てずっと黙っていた一人の警備隊員が、口を開いてそう呼びかけた。
 「賊」たちと、一緒に捕らえられている同僚の視線が集中するなかで、その初老の男は彼女を食い入るように凝視している。
 彼女はうれしげに目を細めた。

「そうか、私は似ているか? おまえたちの女王に似ているか?
 それは似ているだろう、あいつの髪の毛をもとに造られたのだから」

「では……やはり別人だな?」

「〈人体の設計図〉が同じだけのね」

 それを聞いた瞬間、いきなりその男が動いた。
 地面にひざをつかされた体勢から、ななめ前方の地面に飛びこむように転がり、後頭部につきつけられていた杖の狙いをはずす。
 明らかに特別な訓練を受けた者の動きで地面を蹴ってはねおきると、ブーツに隠していた杖をひきぬいている。

 もと王都勤務の衛士隊だったと言われても信じられそうな動きだった。
 周囲のメイジ兵の反応がとっさに遅れたところで、すばやく詠唱しながら踊りかかって彼女につきつけ、もう片方の腕を細首にまわそうとする。

 そこで彼の目算は狂った。
 黒いローブの彼女があっさりと手をかざし、青白く光って突きつけられた杖をずぶりと自分の手のひらに突き通したのである。
 なんのためらいも見えなかった。
 ゆっくりと彼女は杖の根元まで手のひらを押しこみ、杖をにぎる男の手のところまで下ろし、血をあふれさせながら握りしめた。

「拘束されたふりで近寄り、私を捕らえようとはなかなか判断がいいじゃないか」

 痛覚と無縁の愉快そうな表情をたたえて、固まっている男の目を下からのぞきこむ。
 男の腕が抱き寄せるように彼女の首にまわされているが、それを意に介した様子もない。

「だが精神は別でも、この流した血は女王の血と同じだぞ。さっき言っただろう。
 不可侵の玉体を傷つけたと同じことなのだから、オリジナルに代わって私が報いを受けさせてやる」

 血にまみれてべっとりと赤い杖が、たおやかな手の甲から生えている。

「黙れ! 口を閉じてろ」

 明らかに尋常の人間のものではない反応のまえで、顔色を青ざめさせながらも、杖を突きつけた男が鋭く警告した。
 それは詠唱を警戒してのことだったが、次の瞬間に鼓膜を打ったのは破裂音だった。
 男が目を丸くし、それからぐらりと体をよろめかせ、叫んで左脚の付け根をかかえるように横転した。
 骨盤左下あたりの銃創から、おびただしい血があふれ出している。
 上空からおりてきて彼女の肩にとまった緑色の小鳥が、血を見おろして「rot」と鳴く。

 彼女は左手に男の杖を刺したまま、右手で取りだして撃った拳銃をほうり出し、ふところから今度は自分の杖を取りだした。
 詠唱とともに、左足の股関節を弾丸に砕かれて地面で呻吟する男の頭部を、水のかたまりがかぶさって包んだ。

「肺を水で満たされてみろ」

 平然と手のひらから男の杖を引き抜き、言い捨てたその少女を、味方のはずのメイジ兵たちも遠巻きにしている。
 しばらくささやきかわしたあと、ややあってメイジ兵の一人が、前にふみ出して声を発した。

「い、いまのうちに貴下に尋ねたいのだが、よろしいか? その……任務に口をはさむべきではないのだろうが、解せない。
 上から聞いたところでは、われわれは貴下の魔法を封じこめる手法をもって、メイジの多い王政府との戦力差を生めるということだった。
 なぜそうしないうちに、王政府への挑発のような真似を? 危険ではないかと……」

 怯えの入ったその質問に彼女は答えるかどうか考えているようだった――水魔法で自分の手のひらを治療したあと、気まぐれにか、ややあって口を開く。
 落としていた拳銃を拾いあげて、三度目は新しい弾薬と装填のための道具を取り出しつつ。

「〈解呪石(ディスペルストーン)〉は『大気中での魔法の発動を封じる』が、『すでに発動が終わっており、半永久的に効果を及ぼしている魔法』は完全には駆逐できない。
 城壁やこの堤防にかけられている“固定化”の魔法はその代表だ。
 しかるに、その魔法をかけられた頑丈な壁をうちやぶるためには、結局はこうして力まかせに破壊するしかない。ゴーレムや大砲を使ってな」

 話しながら、先ごめ装填していく。

「〈解呪石〉を使うまえに、魔法でやれるだけのことはやっておくということだ。
 そう恐怖することはない。これは奇襲だから反撃にはタイムラグがある。
 王政府にわれわれを討伐しようとする動きが見えた時点で、〈解呪石〉を使ってもなんら問題はない。
 むしろ直前であればあるほど、状況の変化に敵が対応する余裕をあたえないことになる。落差というのはけっこう重用だぞ」

 装填を終える。地面の上で溺れて血をまきちらし暴れまわっている警備隊員の男の、腹を撃ちぬく。

「わ……わかった。
 ところで貴下をど、どう呼べば?」

 はねる魚のような警備隊員の断末魔の動きが、徐々に弱々しくなっていった。
 その横に立ち、面倒そうに肩をすくめて、数年前のアンリエッタの姿を持つ彼女は答える。
 不気味な諧謔をこめて。

「好きなように……なんなら陛下とでも呼んでみるか」

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 トリステインの王都トリスタニア。
 王宮の広間において、ガヴローシュ侯爵は女王に訴えた。
 緊急の知らせを、彼は領地から持ってきたのである。

「賊は大河沿いにゴーレムを歩かせ、砲をのせた船団を進め、多くの橋を落としました。帆船とボートを焼き払いました、自分たちのもの以外の。
 そして堤防さえも決壊させました。
 わが領地の半分が水に浸され、泥沼同然となってしまいました。今年は畑で麦も豆も作れないでしょう。
 わが庇護下にある領民たち、漁民と農民の嘆きを代表してわたしはここに来たのです、陛下」

 父である老いた前侯爵から、家督を譲られてまだ数年の青年貴族は、若さゆえか義憤を隠すことができないようだった。
 彼の眼前のさらに若い主君――アンリエッタは玉座につき、静かに訴えを聞いている。

「通報を受け、破壊行為をとどめようとしたガヴローシュ家の忠良なる兵たちが、その賊に殺されたのです。
 賊が誰かは見当がついています。目撃者たちは言っています、その帆船団は上流から来たと。そして貴族御用達のフネ、飛ぶこともできる水空両用のタイプでは『なかった』と。
 トライェクトゥムを筆頭とする大河沿いの都市連合をのぞき、強力な武装船団をそなえた平民勢力はいません!」

 ガヴローシュ候の怒気はじける声が、広間にいならぶ廷臣たちをおのずと粛然とさせた。
 続いてかれらの視線が、いっせいに女王に向けられた。
 アンリエッタは左右からの視線には応えず、ガヴローシュ候にのみ目を向けている。
 その唇がひらいて声を発した。

「……わたくしになにを求めるのですか、侯爵?」

 即座に、青年貴族はさっと広間の床にひざまずき、懇請した。

「陛下、どうかあなたの御名において、わが領地に甚大な被害をもたらした都市民どもに裁きを宣告してください。
 かれらは公共物の破壊と殺人を犯し、あきらかに国法をふみにじっております」

 朗々と、彼は「王の正義」を訴える。

「都市民どもに相応の罰を科し、わが領民へのつぐないを支払わせてください。
 もしもかれらが反抗するなら討伐軍を編成し、わたしにそれを先導させてください。
 じつはすでに自衛のため、わたしは近隣の諸侯と連携して、わが領地に軍を集めさせております。あとは陛下のおぼしめしのままに」

 女王は沈黙する。玉座の肘かけを、知らずのうちに握りしめていた。
 それは議論の余地もなく、正当な訴えだった。
 彼女に左右から突きささる視線には、「陛下がいかに平民に甘くとも、この期におよべば都市民どもをかばおうとはなさるまい」という辛辣な予測がかなり含まれている。

 アンリエッタは苦渋の色を浮かべた瞳を、片手でおおった。

…………………………
………………
……

「トライェクトゥムの市参事会は何を考えているの!」

 謁見が終わり、みずからの執務室に入ったとたん、アンリエッタはくるりと向き直ってマザリーニに憤懣をぶちまけた。
 女王にうながされてついてきた宰相は、ドアを閉めて目を細め、あごを撫でている。
 第一の重臣であり師でもあるマザリーニに対し、少女はやりきれない思いを言葉にしてつぎつぎ投げつけた。

「ついに、このような破壊行為まで!
 ラ・トゥール伯爵を殺害し、それについて嘘をついていたのは……許しがたいけれど、まだわかります。
 伯爵に市の大権をゆだねるというわたくしたちの決定が、性急にすぎたのかもしれません。だから、これまでならまだ情状酌量の余地があったと言えなくもないわ」

 もっともトライェクトゥムの嘘つきたちには、みな我慢に我慢を重ねていたのだけれど……とアンリエッタは少し皮肉をこめてつぶやき、そしてふたたび激語した。

「けれど今回のこれにどんな意味があるというの! どこに情けをかけろというの?
 これで完全に、わたくしは彼らを罰さねばならなくなったのよ」

 彼女は、トリステインの国土と国民と国法の守護者たる王であり、義務が存在するのだった。
 いまや裁きは王政府の威信にかけて、かならず下さねばならない。

「不満があったのなら、これまで話し合いの機会は何度もあったでしょうに!
 彼らはなぜ――」

 アンリエッタは言葉を切り、悔しげに横を向く。

 ――二週間ほど前のことである。
 トライェクトゥムの市参事会内部でクーデターが起こり、アルマン・ド・ラ・トゥール伯爵が棺おけに詰めこまれて生きたまま大河に沈められた。
 その報がトリスタニアに届いたとき、アンリエッタはまず自分の耳をうたがい、それから情報の真偽をうたがった。

 まがりなりにもラ・トゥール卿は、王政府の許可をえて都市領主の実権を回復したばかりだったのである。
 余人ではなく、王政府が支持を与えた者が殺害された。そのことはただの殺人の罪ではなく、国家に対する挑戦とさえとれる。
 即座にトライェクトゥムに対してアンリエッタは、王都に人をよこして説明することを求めた。女王がみずから喚問せざるをえないほどの、重大な事件だったのだ。

 しかしこの時点ではアンリエッタに、ことを大きくする気はまったくなかった。
 事の発端となったラ・トゥールに力を与えたこと自体が、彼女には気があまり乗らないことだったのだ。そのために追いつめられた都市民にすまなささえ覚えたくらいである。
 また都市は大きな経済力をほこっており、実利だけを考えても敵意を買いたくはなかった。遺恨をこれ以上双方に残したくない。

 だから、可能なかぎり女王は穏便にすませるつもりだったのである。
 実行犯数名の逮捕と、市参事会に罰金などなんらかのペナルティを課すくらいにとどめるつもりだった。
 貴族たちが「陛下は、平民勢力の強い都市に甘くするのではあるまいか」と注視しているのでさえなければ、口頭での厳重な叱責のみでもいいくらいであった。

 だが……事態はあっさり予想を超えた。
 おそれおののいているはずのトライェクトゥムの市参事会からは、数日にわたり音沙汰なし。ようやくの連絡でも使者はついに来ず、手紙のみがアンリエッタ宛に届けられた。
 いわく、「ラ・トゥール卿の行方に関し、当方にいささかもあずかり知るところはない。彼は出奔したまま戻っていない」と。

 アンリエッタの困惑が怒りに変わったのはこの瞬間だった。
 そんなはずはないのだ。確かに「ラ・トゥール伯爵の遺体」という証拠こそまだ川底から上がっていないが、トライェクトゥムに潜伏する複数の情報筋は、すべて同じことを語っているのである。
 その都市でクーデターが起こったこと。帰りついたラ・トゥール伯爵が、その場で市民に殺害されたこと。その二つを。

 堂々と見えすいた嘘をつかれたことにいきどおり、アンリエッタは最初よりも語気はるかに強く、王都に使者をよこすことを求めた。
 そしてそれは今度こそ完全に無視された。
 この時点でなんらかの懲罰をくわえることを、廷臣たちが次々と口にしはじめたのである。

 アンリエッタが懸命にそれを抑えなだめている間に、今度こそラ・トゥール卿の遺体が上がった。
 トライェクトゥムの下流のほうで、大河の底から。ふたを釘付けされて、おもりとして砲弾をくくりつけられた棺のなかに入って。
 棺の意匠はトライェクトゥム市内の棺おけ屋のもの、との確認も得られた。

「本気で言い逃れられると思っていたのかしら」

 女王はあらためてきりっと歯を食いしばった。
 王権は自国内でさえかならずしも絶対ではない――都市や諸侯の領地では、十分に王威がいきわたらないことがある。
 それでもここまでなめた態度をとられ、露骨に反抗されることは、普通は無い。

 ラ・トゥール伯爵殺害からすでに二週間。アンリエッタが最初に都市に呼びかけたときから、それだけの時がたっている。
 物証があがっても、都市からはなんの反応も無い。ふてぶてしく沈黙しつづけていた。
 いや……ガヴローシュ侯爵の領地にもたらされた破壊行為が答えだとすれば。

(まさか、でも、もう確実に『それ』としか)

 不吉な想像が急速に固まっていく。
 いつしか立ち尽くしていたアンリエッタに対し、マザリーニが「陛下」と穏やかならない声音で呼びかけた。

「なんの意味が、とおおせられましたな。彼らにとって今回の行為には、おそらく明白な意味があるのです。
 余分な橋と船を破壊することは、防備戦のときの常道です。陸からの敵軍が川を渡って攻めこみにくくなりますからな。
 堤防が壊されることで、もともと低地である北東部のあのあたりは、広範囲にわたり土地が泥沼と化しました。これまた、大軍の展開には不向きです。
 自分たちにさしむけられる討伐軍への備えでしょう」

 一呼吸おいてから、宰相は断固として言い切った。

「彼らは大河を支配下に置くつもりです。じっさいにこれで川向こう、ゲルマニア方面の国土とは、空路以外の通商が妨げられました。
 これは計画された『反乱』です」

 アンリエッタは宰相の顔を見ず、横を向いたままぎゅっと目をつぶった。
 直視しなければならない現実が、目くらみと頭痛をよびおこしそうになる。
 彼女はようやくのことで、息を吐いた。

「この二週間は時間かせぎだったのね。彼らなりに用意をととのえるための」

 苦くマザリーニがつぶやいた。

「わたしの失敗ですな。読みちがえました。
 あのラ・トゥール卿がここまで憎まれていたことだけでなく、都市民がまさか暴発するとは。
 彼らの一時の不満は、時間をかけてなだめていけばよいと思っていたのですが」

 首をふってアンリエッタは否定する。

「暴発についてはだれも予想できなかったでしょう。だってどう考えても無謀だわ」

 この反乱が成功するはずがない。
 王軍や諸侯の軍と、豊かとはいえ平民主導の河川都市の防備軍では、メイジ兵の数が違いすぎる。
 改革を進めようとするアンリエッタも、戦闘分野ではメイジが圧倒的な優位にたっていることを疑っていないのである。

(討伐の令を発すれば、あっというまにかたがつくわ)

 ……アンリエッタならずとも、だれもがそう考えるだろう。それが常識的な見方というものだった。
 だから彼女がいま悩んでいるのは、反乱への恐怖ではない。
 自分の口から討伐の命を出し、戦後に都市民たちへ下す裁きを決めなければならないことだった。

 憂鬱げに椅子に座りこんで頬杖をついたアンリエッタに、マザリーニがそっと呼びかける。

「……いかがしますか、陛下? 
 王軍を動かしたくなければ、ガヴローシュ侯爵に軍事費を融通し、彼が集めているという諸侯軍の指揮を、あらためて公式に認めるという手もあります。
 これなら王家が直接手をくだすよりは、戦後に都市民から悪印象をもたれますまい」

 しかしその後で、彼はつけくわえた。

「『王政府は不始末の尻ぬぐいを他人にさせた』とささやかれるでしょうが……」

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 昼下がり、トリスタニアのシャン・ド・マルス錬兵場。
 だだっ広い錬兵場にはこの日、人影がほとんどなかったが、それでも四十人ばかりが集まっている。

「アニエスさん、この銃だめですよ。命中率が悪すぎます」

 銃口から硝煙をただよわせるマスケット銃を手に、才人が文句をつけた。
 何度も面倒な弾ごめ作業をくりかえし、数発を撃ったが、一弾たりとて五十メイル先の大きめの的にはかすりもしていない。
 ガンダールヴの力を使っての射撃なので、問題があるのはまちがいなく銃のほうだった。

「む……そのようだな。なにげなく試射に選んだ一丁なのだが、ハズレを引いたな。しかし程度の差はあれ、銃などそんなものだ。
 いいか新兵ども。百メイル先に敵がいて、貴様らがそれを一対一で撃ったとき、相手は心おだやかに鼻歌を流しながら立ち小便してられるくらい安全だと思え。まず当たらん。
 いまサイトがやって見せたとおり、銃は弾ごめに時間がかかり、その間は無防備だ。しかも下手すると弓矢より命中率が悪い」

 アニエスと才人の二人は、新設軍のなかでも先日入隊したばかりの新兵の一団に、銃の扱いを教導しているところなのだった。
 新設軍でも専門の教官がいるはずなのだが、たまにアニエスたち「平民部隊の先輩」である銃士隊が面倒を見ることもあるらしい。
 才人は単に、アンリエッタに呼ばれたルイズにしたがって魔法学院から出てきただけだが、成り行きでこうなっている。

「だから命中に関しては、いきおい質より量なのだ。いちどきに数撃って当てる、戦場での銃はそういう武器だ。
 いつも貴様らが直属の教官から『敵との距離がつまってから合図で撃て』としつこく言われるのは、そういうわけだ。
 一斉射撃のあとは、阿呆面ならべて弾ごめする貴様らは、敵の突撃から守られねばならん。城や土塁などの防壁があれば言うことはない。
 しかし移動しながらの野戦ではむろん壁などないのが普通だ。そこで、味方の騎兵や短槍兵が前に出て、銃兵を守る」

 基本のことをアニエスが述べているのは、おそらく新兵にまじらされているギーシュのためであろう。
 水精霊騎士隊をあずかるギーシュは「陛下はきっとぼくにも声をかけるだろうからな」ということでついてきていた。ただしモンモランシーも同道してギーシュを監視しているが。
 ルイズたち一同は多忙な女王に「折をみて夕食会を設けましょう。そこで」と言い渡され、数日前から王都に滞在していた。
 今日はモンモランシーの調合する新薬の材料をみつくろいがてら、全員で王都をぶらつこうとしたのだが、アニエスに捕まってこうして付き合わされているわけである。

 降ってわいた災難に、思いきりウンザリした表情になっているギーシュが、このとき「ちょっといいかね」と手をあげた。

「ぼくはメイジだから、銃を使わないんだが。サイトは残していくから、あっちに行っていいか?」

「貴様は本当にグラモン元帥のご子息か?」

「な、なんだと?」

「この新設軍はいつか、ギーシュ殿に任されるかもしれんのだぞ」

 ギーシュが絶句した。
 王軍は、貴族の将帥のもとに傭兵が統率されるという構成だった。
 だから、末っ子とはいえ軍の名門グラモン家のギーシュが将来、王軍で重要なポストを任されないともかぎらない。
 が、これはほぼ平民一色の新設軍である。

「まっ、待て、新設軍は士官も平民で占めるんじゃなかったのか!?」

「下士官や参謀までならともかく、トップまでいきなり平民出身にできるか。トリステインはまだ平民が大っぴらに公務員になることもできないのだぞ。
 平民軍に理解がある貴族に任されるのが妥当だろう。
 そこへいくとギーシュ殿ならうってつけ、先のアルビオン戦役で銃歩兵の中隊をまかされて手柄をあげたし、現時点では陛下肝いりの騎士隊をあずかっており、その副官はもと平民のサイトだ。未来の話としてはじゅうぶんありえると思うが。
 ……という思いつきを、陛下にこの前意見を訊かれたときに具申してみた」

 あぐあぐとうめいているギーシュに、マスケット銃をかついだ才人が「出世おめでとうよ」と茶々を入れた。
 取っ組みあいを開始した二人に、新兵たちの面白いものを見る目が集中する。
 呆れた表情で目頭を押さえながら、アニエスが続けた。

「だいたい普通の軍でだって、貴族は自分で火器を使わなくとも、戦場の指揮はするんだぞ。
 銃や大砲の使い方や戦術を、軍人一門の子息が知らないわけにもいくまいが。
 どうせそのうち学ばされるのだ、この機に予習しておくのだな」

…………………………
………………
……

「はぁ……なにしてんのかしらね」

 ちなみに、錬兵場の隅。
 地面にシートがしかれて、ティーポットとお菓子の入った藤蔓編みの籠が中央に置かれている。
 新兵の訓練に参加する少年たちを見ながら、ティーカップを手にしたモンモランシーがつぶやいた。
 その横ではおなじくシートに座ったルイズが、ふわふわとあくびしながら、空になったカップをシエスタに突き出している。

「メイド、お茶」

 同じくほわんと眠げなシエスタが、ポットを持ち上げてとぽとぽと紅茶をそそぐ。

「はい、どうぞー。
 ええと、ミス・ヴァリエール、このケーキいただいても?」

「食べたければ勝手に食べなさいよ。
 ……待った、これお酒使ってるわ。シエスタ、あんた酔っ払うとタチ悪いから駄目。
 こっちのお菓子にしときなさい」

 春の陽気にほんわりゆるんだ表情の貴族と平民であった。
 シエスタは親戚筋の〈魅惑の妖精亭〉を訪れたあと、お茶の用意をしてついてきた。

 そういうわけで、ほとんど王都でのピクニック気分だが、ルイズは気を抜いたわけではない。
 トリステイン北東部で反乱が起こったことが気にかかっている。反乱都市トライェクトゥムとはそれなりに縁があるのだ。
 亡きトライェクトゥムの都市領主アルマン・ド・ラ・トゥール伯爵とは数週間前のアルビオンの事件のときに顔を合わせている。
 それに実家ラ・ヴァリエール家の領地も、反乱が起こった北東部のほうにあるのだ。大河の向こうである。

(姫さまに呼ばれたのも、やっぱり都市の反乱のことと関係あるのかしら)

…………………………
………………
……

 才人とギーシュは、基礎訓練にもみっちりつきあわされる羽目になっていた。
 昔アルビオンの森のなかで才人がアニエスにやらされたような、ランニングや筋力トレーニングである。そこに射撃訓練が加わっている。
 重さも反動も馬鹿にならないマスケット銃の射撃動作の一連は、意外に重労働なのである。

 簡略らしいとはいえ軍隊のメニューに、継続的に鍛えている才人でさえ肩で息をする羽目になっている。
 ギーシュにいたっては膝が笑って、ひっくり返りそうになっていた。

「せっかくだから剣の稽古でもつけてやりたかったが、今回はあまり時間がないのでここまでとしよう」

 日の傾き具合を見て、アニエスがいささか残念そうに新兵たちに告げる。
 あからさまにほっとした空気が一団の上にただよったのを見て、さもありなんと才人はこっそりうなずいた。
 はじめて彼女に剣を教わったときからずっとそうだが、稽古で相手をしごくときのアニエスは、微妙に目の輝きが違うのである。
 鬼教官に木剣でしごかれて打ち傷だらけにならずにすんだのだから、息をつくのもわかろうというものだ。

 解散し、そそくさと数十名ばかりの新兵たちが兵舎のほうへ引き上げていく。
 今日はほんとうは訓練がない日だったらしい。この少数の連中は、街へ遊びに行くのも面倒とばかりに兵舎に残ってだらけていたところを、運悪くアニエスに引っ張りだされたようだった。
 道理で、錬兵場ががらがらに空いているわけである。

 才人の横でギーシュは息も絶え絶えだったが、新兵たちを見送りながら、なにやら覚悟をきめたような言葉をもらした。

「……ま、ぼくは末っ子だしな。落ち着き先としてはそう悪くないか……」

 もし新設軍をあずかるとなると、ギーシュは二番目や三番目の兄のように、軍に居所を見出すことになる。
 たしかに新設軍は、アンリエッタの気まぐれの産物とみなされていることもあって、いろいろと政治的に不安定な立場にあるし、戦場でほんとうに役にたつのか未知数ではあったが。

 以前に、銃をもった平民の傭兵たちのおかげで手柄をたてたことのあるギーシュは、多くの貴族が「陛下の気まぐれの産物」と呼ぶ新設軍にそれほど反発は覚えなかった。
 そういう意味ではアニエスの読みは外れてはいない……が、彼女からはすかさずギーシュに対し厳しい言葉が投げられる。

「べつに決まっている人事でもないのだぞ。有望な候補ならほかにもいる。
 あくまで将来、考慮の余地があるというだけだ。
 衛士隊長をやめさせられ、軍でも出世しない貧乏貴族として食いつめたくなければ、ここらでそろそろ軽佻浮薄な心身をひきしめ、グラモン家の名にふさわしい立派な軍人をめざして努力してはどうだ」

「せ、説教はたくさんだね」

「アニエスさん、それは無理ってもんですよ。こいつから浮ついた部分を抜いたら影しか残りません」

「君は横から言いたいだけのことを言うね!」

 ギーシュの文句を流して、才人はアニエスに続ける。

「だいたいこいつが一軍をまかされて、水精霊騎士隊長を降りたりしたら、だれが代わりに隊長やるんですか」

「その場合は自動的に、副隊長であるおまえだろうサイト」

「うへえ……別にやりたくはねえや……」

 いや、将来のことならさすがに俺も騎士隊から引退してるよな、と才人はうなずく。
 彼らはこのとき、まさに人事において異常な状況が近く成立することをまったく予想していない。

 ……ギーシュがふらつきながら、長い午後の茶会をしている女の子たちのほうへ歩いていく。
 その後をついていきかけて、才人はふと振り返った。

「アニエスさん、すぐ用事がないのなら、茶でも飲んでいきませんか」

「ああ、それもたまにはいい。だがそろそろ宮廷では会議が終わるころなので、陛下のおそばにいったん戻らねばならん。茶はまた機会があればそのときにもらおう。
 おまえたちもそのうち呼ばれると思うが、声がかかるまではのんびり空を見上げてアルビオンでも探しているんだな」

「……なぜアルビオン」

「いや、あのふわふわ浮かれた万年迷子大陸が、そろそろまたハルケギニアの上空に来るころだからな」

「アニエスさん……この前の事件で、アルビオン嫌いにでもなったんですか……?
 最近、どんどん口が悪くなってますよ」

「いまのは半分冗談だが、元敵国だぞ、このくらいの悪態はかわいいほうだ。町の酒場で悪罵を集めてみろ、小国の民のトリステイン人がおとなしいとは思えなくなるから。
 おまえの言うとおりこの前の『王の森の塔』の事件で、げっそりさせられたこともたしかに忘れていないがな。
 それに……アルビオンが上空に来ると陛下の元気が失われるのでな」

「……あ。そうか」

 浮遊大陸が上空に来ると、ハルケギニアには雨が降るのである【2巻】。
 いつかの木賃宿の夜を思いだす。
 夜半の王宮の寝室、ひとりきりで雨音を聞くアンリエッタの姿が想像できて、才人はなんとなく黙った。

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 都市トライェクトゥムの煉瓦づくりの市庁舎の中、大会議室。
 年に何度かある河川都市連合の会議が招集されていた。

 人口二十万の最大の都市であり、反乱の盟主の地位にもあるトライェクトゥムの代表が上座につく。年齢三十代後半の、僧服を着た冷たい風貌の男。
 会議の主催者でもあるベルナール・ギィである。
 そのほかのトリステインの河川都市の代表団は向かって右側に、ゲルマニアの都市からの代表団は左側に。

「まずゲルマニアの大貴族の反乱について、ゲルマニア都市の同志たちがとるべき方針を伝えておこう。
 皇帝側への支持を表明し、資金を貸し付けるのが得策だ」

 ベルナール・ギィの淡々とした言葉に、参加者たちから疑問の声があがった。
 ゲルマニアの都市代表の一人が、はやばやと手をあげる。

「待っていただきたい。
 ゲルマニア内部で皇帝に反する勢力を『反乱の資金は融通する』と匂わせてひそかにたきつけ、蜂起させたのはわれわれですよ。
 そうしろと言ったのはあなたではありませんか」

「そうだ。だがわれわれの武力行使はトリステイン内部だけに限定する。
 ゲルマニアは平民の技術力を積極的にとりいれている。対してこの国では今なお何もかもメイジが主体だ……魔法を無効化したときの効果は、この国のほうがずっと大きい。
 ゲルマニア都市の代表たちに言っておくことがある。反乱をなるべく長期化させるよう努めてほしい。皇帝への戦争資金の貸し付けはあくまで小出しにする必要がある。
 そのかわり、トリステインでのわれわれの戦線には、あなたがたの戦費負担がそれだけ少なくなるようはからう」

 これは『王権同盟』への対策なのだ、と彼は議場を見わたして言う。

「アンリエッタ女王に条約を発効させ、ゲルマニアから援軍をよびこまれてはたまらない。だから皇帝がトリステイン方面にかかわる余裕がないよう、ゲルマニア内部で反乱を起こさせたのだ。
 そしてゲルマニア皇帝は、余裕があってもトリステイン王政府に援軍はよこせなくなるだろう。河川都市連合の支持を失いたくはあるまいから。
 自国での反乱が長引くほど、皇帝はますます都市からの戦争資金の貸し付けに依存するのだから」

 ゲルマニア都市の代表たちが、顔を見あわせながら黙りこんだのを皮切りに、ベルナール・ギィは手元においていた冊子を開いてさらに続ける。

「蜂起をつうじて達成するべき目的を、はっきりさせておこう。
 ひとまず目指すのは、われわれの水上交易を王政府がおびやかさないという保障だ。
 そして都市の自治権の大幅な強化。
 これらを王政府あての声明文にもりこんでおいた」

 続けて具体的な方針の説明に移る。
 冊子をめくりつつ矢継ぎ早に発せられるそれは、指示をともなっていた。

「われわれの軍の中心は傭兵ではなく、河川都市の市民兵におく。むろん傭兵も雇うが。
 忠実な市民を司令官として、思いきって権限をあたえ、これを率いさせよう。
 いま大河河口に停泊させてある『水乞食』船団を活用し、大河流域はなんとしても保持しなければならない」

「軍費はさしあたって心配ない。河川都市連合の富の蓄えは豊かだ、ことしの冬市も盛況であったし。
 くわえてロマリアの都市国家群の銀行から融資をひきだせれば、軍を長期間まかなえる」

「河川都市どうし以外に対しては、水上の物流を遮断する。トリステイン沿岸部の海港も奪えればもっともよいが、さしあたり大河を封鎖する。
 物価騰貴させて、王政府をその収拾に奔走させよう。
 とくに小麦とパンの物価を上げよ。王都トリスタニアをふくむ大河以西の民の不満を高めてやれ」

「トリステインの町々のそこかしこには、うわさ話を流す形でわれわれのために活動する口がまぎれこんでいる。
 またビラを大量に印刷して国中にまくこともやってみよう。
 さしあたっては、王政府の強欲と不当性をうったえさせる。女王が一方的に河川都市連合に保証されていた利権を奪おうとしたのだ、と」

 それはすでに会議というようなものではない。トライェクトゥム代表がすでに決定していたことを一方的に伝達する場であった。
 が、理路整然とした言葉の奔流に押し流されて、だれもが口をはさみかねている。

「まとめよう。
 戦場は、この大河流域にわれわれが作り出す『魔法を禁じられた区域』。
 戦う相手は王政府。諸侯たちが王政府から分離するようつとめ、最終的に王家のみを敵とする。
 基本戦略は、大河とその周辺を保持しつづけ、王政府から妥協を引きだすこと。トリステインの河川都市が戦闘を担当し、ゲルマニア内の河川都市は大河をつうじて後方から支援物資をおくりこむ」

 ベルナール・ギィが冊子を閉じると、室内がしんと静まりかえった。

 それも一瞬のことで、すぐに「……やれるかもしれないな」と誰かが言い、つづいて希望と興奮に満ちた声が上がった。
 「そうだ、魔法さえないなら貴族と俺たちは変わらないんだからな」と言う者があれば、「そうとも、それに王政府はトップがあんな小娘だ」と続ける者がいた。

 ほうっておけば、熱狂的な雰囲気になったかもしれなかった。
 そうはならなかったのは、ある男が立ち上がったためである。

「景気のいい話でしたが、一ついいですか?
 あなたがたが嘲っているあの小娘は、百合の玉座の主ですよ!」

 その男は、都市ガンの市長だった。
 トリステインの河川都市のなかで、いちばん西に位置しているのがガンである。
 つまり、距離で言えば王都にもっとも近いところにある都市なのだった。
 全員の視線をひきつけるように手をふり、彼は熱弁をふるう。

「最初の目的のところで、ひとつ言わせていただきましょう。
 われわれの目的は水上交易の利益を守ることのみにつとめるべきです。『自治権の強化』だとかの政治的な要求をだして、いたずらに王政府を追いこむことには反対です。
 王政府への支持をうしなわせ、王家イコール一国ではなく一介の貴族にする……ですか?
 ええ結構、その戦略が成功したとしましょう」

 都市ガンの市長は、全員を見わたした。
 最後に、ベルナール・ギィに挑戦的な視線をすえる。

「それでも王家の力は他の貴族を遠くひき離しています。古い血の権威からくる影響力、財力、そしてなにより軍事力で。
 いいですか、王家直属の軍だけで、諸侯の総合戦力を上まわるのです。
 女王を『一介の貴族』だと考えたとしても、あの小娘はトリステイン最強の家門の当主なのですよ!」

 それをお忘れでなければよいのですがね、と皮肉っぽく彼は言った。
 座った人々は息をのんで、対立するガンの代表とトライェクトゥムの代表を交互に見る。
 だがベルナール・ギィの声はわずかの変化もなく沈着だった。

「ああ、そのとおりだ。トライェクトゥム市参事会は、相手を甘く見てはいない。
 だが軍事的に決定的に勝つ必要はない。膠着状況にもちこめば十分だ。
 そうなれば和平の妥結にもちこめる、こちらの要求の少なくともいくつかを呑ませてな」

「ずいぶんと自信があるのですな。
 わたしはそこで合意に達するのがむずかしくなるかもしれない、と言っているのです。過度に政治的な要求をすればね。
 さんざん面子をつぶされたうえ大きく譲歩することを強いられた王政府は、どこまでも強硬な態度をくずさなくなるかもしれませんよ」

「その心配は無用だ。王政府の面子は彼らを戦争にひきずりこむだろうが、長引けば現実を見るだろう。
 まず戦うこと自体が王政府には体面として必要なのだ。そのあと長期化して国庫の支出が甚大なものになりそうであれば、ほどほどのところでやめざるをえまい。
 こっちも苦しいが大河をおさえているかぎり、あちらのほうがずっと大きい悲鳴をあげることになる。
 それに、いまはまだ明かせないが、奥の手もある」

「ほほう、それはけっこうです。ですがあくまで明かされないとあれば、不安を禁じえませんね。
 ところで、一度帰らせていただいてもよろしいですかな。わが都市ガンはもし王都から軍が来るなら、まっさきにぶつかる地にあるのですよ。
 防衛の用意をかためませんと……」

…………………………
………………
……

 ベルナール・ギィは厳密には、市参事会の正式な役員でさえない。
 都市の法律顧問官の相談役というポストを、長年にわたってつとめてきた。
 それでも、いまは彼がまぎれもなく都市トライェクトゥムの代表だった。

 それを象徴するように、かつてラ・トゥール伯爵が座っていた市庁舎のもっとも重要な一室におさまって彼は仕事をしている。
 〈解呪石〉の使用によって発生するさまざまな都市内部での弊害は、可能なかぎりやわらげなければならなかった。
 魔法によって支えられていた一部の都市インフラが破綻することは予想に入っている。
 すぐ思いつく重大なものはできるかぎり措置を講じているが、短期間ではじゅうぶんではないだろうし、思いもおよばなかった問題が新たに見つかりもするだろう。

「なんの仕事だ?」

 扉の開く音とともに、問いかけが聞こえた。
 顔を半分上げて、彼は答える。

「ハルケギニアの社会から魔法が消えると、どのようなことになるか想像する仕事だ」

「率直に言って不便だぞ。
 魔法の恩恵に間接的にしかあずかれない平民にとってさえな」

「そうだな。
 だが克服できないほどではないし、市民たちも受け入れるべきだ。利益を守り、自由を手に入れるためにはな」

 会話がとぎれる。
 寄木細工の机のまえに、黒いドレスをまとった少女が椅子をひいてきて座った。
 羽ペンを置いて、ベルナール・ギィは彼女に向き合う。

「貴君に同行していたメイジ兵たちから〈黒い女王〉と呼ばれだしているそうだな。
 変わった呼び名だが、そのままとも言えるな」

「連中からはほとんど妖怪に対するような扱いを受けたよ。失礼な奴らだ」

「正直、わたしもわからなくはない。
 ……これから反旗をひるがえす相手の顔が目の前にあって、しかも中身は女王どころか普通の子供ともまったく違うのだからな」

 この〈黒い女王〉がどのようなことをしているか、わかる範囲で逐一報告は受けている。
 市参事会が彼女に要求され、トライェクトゥムの片隅に与えた新しい「工房」には、生きた囚人たちがすでに何人か運びこまれ、誰も出てきていないという。
 彼女は屈託なく「そこを自分でも何度か考えてみたが」と気楽そうに言う。

「私はアンリエッタ女王と、本当にまったく別かな?
 案外、オリジナルが持っていた因子が私に発現しているだけかもしれないぞ」

 そうかもしれん、とベルナール・ギィは冷ややかに〈黒い女王〉を見つめた。
 過去のハルケギニア諸王の系譜をひもとけば、なにがしかの狂気をはらんだ者はそこかしこに見られるのである。
 いずれにしても、彼女は自分自身が残酷さを好むことは自覚しているようだった。

 この者についてはそれでいい、とベルナール・ギィは考える。
 彼が同盟者として彼女に求めているのは、技術のほかに今回の破壊行為のような汚れ仕事でもあるのだから。
 いまは利用しつくすに越したことはない。
 だから、彼はさっそく持ちかけた。

「会議ではっきりした。都市ガンの市長が邪魔だ。
 彼にはこの先もトライェクトゥムに、つまりわたしに対抗しようという意思が見える。
 その手段としてさきほどの一幕のように、中途半端にまともなことを言うなら始末が悪い」

 ベルナール・ギィのその率直な話には、感情の色はなかった。
 苛立っての言葉ではなく、純粋に障害物を名指ししているのである。

「反乱を起こしながら、内部で角突きあわせている余裕はない。
 トライェクトゥム市参事会が熟慮のすえに決定した方針に、わかりきったことを蒸し返して異論をさしはさまれては困るのだ」

「……で? それを私に聞かせてどうしようというのだ?」

 〈黒い女王〉が尋ねた。
 ベルナール・ギィの凍るような目が、影の同盟者を見る。

「この件は貴君にまかせたい」

「ふん……」

 鼻で笑った〈黒い女王〉に、ベルナール・ギィはべつの話題を持ちかけた。
 
「ひとつ訊きたいのだが。〈永久薬〉なるものと組み合わせた〈解呪石〉のことだ。
 半永久に魔法が禁じられるというこの効果を、解除する方法はあるのか?」

「あるさ。あんなもの要するに〈解呪石〉を〈黄金の血〉に漬けこんだだけだ。
 黄金の血の力の大元、この〈ウォルター・クリザリングの黄金の心臓〉を破壊すればいい。
 たったそれだけだ」

 見た目だけは少女である者のほっそりした手が、椅子のかたわらから革袋を持ち上げた。
 ひもをとおして締めてある袋の口から、黄金の液体がひとすじ汚らしく垂れている。
 液体を満たしているらしきその袋は、中に入っているなにかの鼓動を表面に伝えていた。

「それをこちらに預かろう」

 ベルナール・ギィは即座に言う。
 反乱の本拠地トライェクトゥムに秘してあるかぎり、万が一にも王政府がこれを手に入れ、破壊してこの地方に魔法を取りもどすことはできないだろう。
 それをするためには、王政府の軍が反乱を完璧にたたきつぶしてトライェクトゥム市内に入城する必要があるが、そんな事態になっていればもう気にすることもない。

「どうぞ」

 あっさりと渡され、むしろベルナール・ギィは戸惑った。
 これを手放した瞬間、〈黒い女王〉が彼に対して持っている優位は消えるはずである。
 彼女にまだまだ利用価値はあるとはいえ、これでいざというときに彼女を切り捨てようとしても、ベルナール・ギィが思いとどまる材料はほぼなくなるのだ。
 つい袋を持ち上げて、ためつすがめつ見そうになる。

「本物だし、べつに裏があるわけでもない。だが、そうだな、ただで渡してやることはないな。
 ひとつくわしく教えてもらおうか、なぜ女王の政治にそこまで反発しているのかを。
 平民を守るための改革とはいっても、王政府が都市の利権にふれようとすることが気に入らない、だったかね?」

「むろんそれが主だ。
 ……だが他にもある。長い目でみれば、都市が中央権力に完全に従属することにつながるからだ」

 急激な改革を断行するために、王権を強くする。

 王権を強めるために、大貴族や都市の権益を奪う。

 ますます王権は強まり、それ以外の勢力は力を奪われて弱まっていく。

 強大になった王権の前で、そこそこの自由と力を持っていたはずの中小勢力は、気がつけば奴隷のようにひれ伏している。

 それが女王が今やろうとしていることだ、とベルナール・ギィは指摘した。

「その太陽にも似た中央権力のまえで、都市は小さな星となって輝きを失うだろう。
 それ以降の時代の人々は都市のことを、国のなかで人の多く住むところ、としか認識しなくなるだろう。
 自由を愛する都市の誇りも栄光も、歴史家の好き勝手な論評の対象でしかなくなる」

「要約すると、強すぎる国王はいらない、と」

「そうだ。都市の主は都市自身だ。都市や大貴族を簡単にひきずりおろせる絶対の君主など誕生させはしない。
 改革と王権の強化がはじまったばかりの今が、狙い目なのだ」

 今なら。
 武器税のため王家に貴族が反感をいだき、新設した平民主体の王軍がいまだ経験をつまず、河川都市の市民軍に比べて質で劣る今なら。
 打ち負かして王権の力をかえって弱め、逆に都市の力のほうはこれまでになく高めることができる。
 みずからを育てた都市への愛情を、かすかに冷たい声の奥ににじませ、ベルナール・ギィはつぶやいた。

「わたしの最終的な目標は『国中国』だ」

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「ゲルマニア東部での大貴族の反乱は、現皇帝に敵意をもつ貴族たちを巻きこんで拡大しているそうだ。
 消耗戦になっても地力の差で皇帝側が勝つだろうが、完全に鎮圧するとなると長引きそうだぞ」

「かのアルブレヒト三世は、親族や政敵を排除していまの地位にのぼりつめた御仁だからな。
 さぞ恨みを買っていようて、と以前から思っていましたが、こうまで予想が的中すると笑いさえこみあげますな」

「こっちでも一応、平民相手とはいえ反乱が起こっているんだ。
 同盟国だからって、あっちに介入している暇はない。トリステインとしては皇帝支持だけ宣言しておけばいいさ。
 ゲルマニア皇帝には自力で何とかしてもらおうじゃないか」

 トリステイン貴族たちの意地の悪いささやきが流れている。
 トリスタニア、王宮の大会議室。
 河川都市連合の代表会議が開かれているのとおなじく、王都でも会議がおこなわれていた。

 トライェクトゥム市参事会への最後の勧告がやはり無視されたあと、アンリエッタの名において招集された〈騒乱評議会〉は、すでに反乱勢力に対する方針を「武力鎮圧」で決定している。
 いまは中休みのようなもので、数日前に起こったゲルマニアでの反乱が話題にのぼっていたところである。
 そこに、だれかが新たな題材を放り込んだ。

「鎮圧の方策に話を戻しましょう。
 王軍を派遣するか、地元の諸侯軍を使うかが問題です」

 トリステインの軍の構成は王軍、諸侯軍(国軍)、空海軍である。
 鎮圧のばあい、補助役として空海軍が出動するのは決定していた。大河を占領している反乱軍の船団を片付けるなり、兵と補給をフネで輸送するなり、空海軍がやることは多いのである。
 主戦力としては、王軍と諸侯軍のどちらの派兵を優先させるかが問題となったが、そのときテーブル上座のアンリエッタに向けて問うた壮年の貴族がいる。

「新設軍はいかがでしょうか、陛下」

 毒をこめた提案をした男は、宮廷貴族ではなく、トリスタニアにかけつけた大領主の一人である。一般的な、つまりきわめて保守的な貴族だった。
 アンリエッタは表情を変えず、さらりと答えた。

「新設軍はまだ調練も足りておらず、経験不足です。確実性に欠けますわ」

「ええ、それにメイジがほとんどいない。これでは相手の河川都市連合の軍と同じですからな。
 陛下のおっしゃるとおり、徴募して日が浅いぶん相手の平民軍にも劣りますな。いや失礼、おろかな提案をしてしまった」

 かすかに閣僚がざわついたのは、高等法院長がアンリエッタにスパイの罪をあばかれて蹴落とされて以来、この少女の君主に面と向かって挑発的な態度をとる宮廷貴族は激減していたからである。
 しかし、その領主は少し前に地方から出てきて会議に参加したため、そのような空気を共有していなかったらしい。
 「生まれのよい者を重んじず卑しきものを優遇する」アンリエッタに対し、かねてよりの反感をぶつけたかったのであろう。

 その一幕は意識してすみやかに忘れられ、けんけんがくがくの議論が続いた。

 最終的に「強力なのは王軍だが、ガヴローシュ侯爵はじめとする地元の諸侯が軍をおこせば、敵地までの距離が近いため手間も軍費もはぶける」というまずまず説得力のある意見が通った。
 ――どうせ相手はメイジがほとんどいない平民軍であり、錬度の低い諸侯軍でもぶつかれば蹴散らせる……
 賛同する意見が多数を占め、また同席していたガヴローシュ候はじめ被害を訴えにきた諸侯が、復讐することに強い意欲を見せたため、諸侯軍を動員させることが決まった。

 そこまで来たとき、先ほど女王に嫌味を言った貴族が手をあげた。
 うずうずした表情になっているその男は、立ち上がるとすぐさま話し出した。

「それでは、いちばん重要なことを決めようではありませんか。
 河川都市連合の享受してきたさまざまな交易の権益ですが、今となってはかれらは、これを放棄するという証書にサインしたも同様です。
 われわれ諸侯も兵か資金を出す以上、王政府がその戦利品を独占することもありますまい」

 アンリエッタは絶句した。
 その貴族は、『河川都市の持っていた権益を取り上げたあと、どう分配するか』を題材に上げたのである。
 アンリエッタ自身、アルビオン戦役のあとの列王会議で、自国のため貪欲に勝利の果実をむさぼったが……反乱を起こしたとはいえ今度は国内の都市、それもまだ鎮圧してさえいないのに!

 なんという恥知らずな、とにらみつけてから、女王は気づいた。
 周囲の廷臣たちは「露骨に言うな、田舎貴族」と侮蔑の目を投げてはいるものの……その目の光には、やはり富へのぬぐいがたい興味、あるいは渇望さえある。
 右手に座っていたマザリーニが、口を彼女の耳元に近づけてささやいた。

「向こうの席のデムリ卿からの言葉です。大貴族たちに遅れをとらぬよう、なるべく王政府の取り分を多くするよう努めてほしい、と。
 いくつかの権益、とくにワインなど鮮度が重要なものの取引を押さえてしまえば、ラ・トゥールの考えていたアルビオンとの空路交易事業は、われわれが引き継いで推進できるでしょう。
 ……ここは割り切りなさい、どのみち河川都市連合はペナルティを受けるべきです。そして国庫にはいくらでも金銀が必要なのです」

 虚脱するような感覚を、少女はおぼえた。
 目の前のテーブルでは、分け前についての議論がしだいに熱を帯びはじめている。

…………………………
………………
……

 会議のあとの晩、王宮の一室。
 落ちついた雰囲気のその部屋には、一見ささやかだが内実は料理人の腕をふるった料理の皿が並べられ、少人数での晩餐の用意がととのっている。
 アンリエッタは内輪での夕食会の日程を繰りあげて、先ほど使者を走らせたのである。

 少々重いバスケットを手にアンリエッタが入室したとき、ルイズがさっと椅子から立ち上がってひざまずき、臣下としての礼をとった。
 日々成長していくラ・ヴァリエール家の三女は、ごく自然な落ちついた挙措のなかに、大貴族の風格を漂わせだしている。
 ルイズにつづき、才人も立ち上がっている。シエスタは最初から立ってどぎまぎと盆をかかえていた。

「いやだルイズ、そんな他人行儀にかしこまらないで。
 皆さま方も、楽にしてくださってかまいませんから」

 バスケットを置き、友人の手をとってはしゃぐアンリエッタの表情には、心底からの歓待がある。
 ルイズがそっと尋ねた。

「姫さま、会議のほうはどうだったのですか?」

 そのとたん、きゅっとアンリエッタの眉がしかめられた。
 どうしようもないというように、不興げに口を開きかけて……けっきょく閉じた。
 その様子を見ていたルイズが、「……なにかあったのですか?」と気づかわしげにたずねる。女王はため息をついた。

「いいえ、会議の風景としては特別というほどのことはなかったわ。
 政治なんて、いつもあんなものよ」

「それにしてはお顔の色がすぐれませんわ。
 わたしも同席してなにか姫さまの手助けができればよかったのですが……あ、いえ、差し出がましいことでした」

 公爵家とはいえ、家長でもなくたかが三女が国政を決する会議に出られるものではない。
 だがアンリエッタは意を得たりとばかりにうなずいた。
 会議の席の面々とは毎日向かいあっており、変わりばえのしない顔ぶれにいいかげんうんざりしてきたところである。

「そうね、ルイズ……今ではあなたは、わたくしの片腕のようなものだもの。あの会議に出席してもらったほうがよかったかもしれないわ。
 あるいは、あなたのお父上に。そうだわ、お父上の公爵なら議会での発言権もあることだし、なにより今回の騒乱がおこった地域は、ラ・ヴァリエール家の領土とも近いのだし」

 反乱とラ・ヴァリエール家の話が出て、ルイズは背筋をただしてアンリエッタのつぎの言葉を待った。なにか重要な指示を与えられるかと思ったのである。
 けれど、女王は「それでは席につきましょうか」と言ったのみである。

「あら、ギーシュ殿は? 彼も来ていると聞いたのだけれど」

 ルイズのかわりに答えたのは才人である。

「それがあいつ、恋人が薬の材料を買いつけるのに付き合って、夕方から出ちゃってるんです。
 姫さまからの使者は、その後で来ましたから」

 珍しい薬の原料を積んだ馬車が今日かぎりで王都を出て次の市場に向かってしまい、それを知ったモンモランシーがあわててその馬車を追ったのである。
 ギーシュは泣き言をいいながらそれにお供する羽目になったのだった。
 アンリエッタは済まなさそうな表情になった。

「ごめんなさい、こんな急に呼んでしまって。
 ほんとうはもっとゆっくり会いたかったのだけれど」

「いいえ……」

「最近は時間がないのよ」

 ふたたび出た女王のため息には、精神的な疲労が色濃くこもっている。
 反乱のせいで急激に増えた仕事に忙殺されるのもさることながら、貴族たちに「それ見たことか、平民に肩入れしただけ馬鹿を見ることになった」と陰口をたたかれているのである。

 たしかに、アンリエッタはもともと、自らの子飼い以外のメイジはあまり信用していなかった。
 それが銃士隊創設や、平民のシュヴァリエ抜擢につながったわけだが、古い貴族であるメイジたちにそれが面白いはずがない。
 極めつけに彼女は、この冬からは平民の地位向上のための改革に本格的に手をつけている。
 といっても具体的なことは要するに、新設軍をつくり、軍全体の構成で平民の占める割合を増やそうとしただけであるが。
 ところが、これさえ貴族たちには不満なのだった。トリステインの軍隊におけるメイジの割合は、これまで周辺国に比して一番高かったのだから【3巻】。

 そして今回の都市民の反乱で、彼女の改革構想は打撃を受けた。少なくとも遅れるのは確実である。
 それに反乱を事前にふせげなかったことで、王政府はその責任を問われてもいる。
 つまり反乱そのものへの対応に加えて、アンリエッタには心労の種がまたしても一気に増えているのだった。

「だからねルイズ、トリスタニアに呼んだのはそばに待機していてほしいからで、今日はただあなたたちの顔を見たかっただけなの。
 そばにいてもらうと心強いし、なんといっても友達と会って楽しく語らうのは、会議でのしかめっ面をほぐしてくれるもの」

「そうだったのですか。てっきりなにかお手伝いできるかと」

「いいえ、今回はまだ。さしあたって今すぐ手を貸してほしいことはないわ。
 そのうちに政治の用向きで相談するかもしれないから、それに備えてそばにいてくれればよいのです。
 ……急に呼びつけたお詫びはしましょう。ほら、これ」

 アンリエッタは、手ずから持参した藤蔓編みのバスケットをちょっと重そうに持ち上げた。
 ワインの瓶が数本入っている。
 示されて手に取ったルイズが、はっと目の色をかえた。

「これは……ガリアとの国境沿いにあるブドウ畑からとれる、味わう芸術とも呼ばれる至高の白の年代物……、
 あ、こっちの赤はガリア東部の逸品だわ……年間で数本分しか収穫がないという名だたる畑の」

 それほど酒はたしなまないはずのルイズが真剣な眼をして瓶を見つめ、ごくりと固唾をのんでいる。
 シエスタが興味津々にのぞきこんで「そんなすごいものなんですか?」とたずねた。
 「まさに宝だわ。下手するとシエスタ、あんたの一生分の給料並みよ」とルイズが重々しくうなずく。

 アンリエッタは悪戯っぽく笑みを浮かべた。

「秘書官にたのんで、ワイン蔵からこっそり持ち出させてきたのよ」

「い、いいのですか姫さま? これ、他国からの使節や賓客との晩餐で供するべきものでは」

「気にしないで。先日、人から贈られたものです。せっかくだからここにいる皆で飲みましょう」

「え、そんな、いえ、ありがとうございます。ではお言葉に甘えさせていただきます。
 わたしが開けさせてもらいますわ。ふふ、昔は国王へワインをそそぐ役目も大貴族の特権だったそうですわね……
 あによサイト、そんな目をきらきらさせて見なくても、姫さまのおおせだからあんたにも飲ませてあげるわよ。そこのメイドもね」

「あ、あの……わたしはその、いいです、あまりにおそれ多いし、高いお酒の味がわからなくて」

 ふだん馴れ合っている公爵家の三女だけならともかく、女王陛下のお相伴にあずかることには腰が引ける。
 そうありありと面に出して尻ごみするシエスタに対し、にっこりとアンリエッタが微笑んだ。
 きっぱり許可を出す。

「かまいませぬ。このさい無礼講です」

…………………………
………………
……

 しばらく後。
 食べ終わった食器が、まだ下げられないままテーブル上に積み重ねられている。
 なぜなら給仕をするはずのメイドが、いつのまにか完全に自分も腰をおちつけているからだった。

 完全に酔っているシエスタが、ずいとワインの瓶を才人に突きだしている。

「まあ飲めサイト。今宵はぞんぶんに語ろうぞ」

 い、いただきます……とびくびくしつつ才人がささげ持ったグラスを差し出す。
 酔いすぎて口調までなんだかおかしいメイドに対し、態度が神妙になっていた。
 才人のグラスにワインをそそいだ後、瓶に口をつけて豪快にぐびぐびラッパ飲みしたシエスタが、口元を腕でぬぐいつつ可憐な花のごとき笑みを浮かべた。

「うふふー。サイトさぁん、メイドって好き?」

「き、嫌いじゃないです……」

「そうれすよねー、サイトさんメイド服似合いますもん。いま着たいれすかぁ?」

「着たくねえ!」

「着たいんりゃない? その反対となると、つまり脱がせたいんですね、それならどうぞ」

「あの、いや、そう言ってるわけでもなくてさ……」

「わがままですよ!」

「怒られた!? なんで!?」

 テーブルの端で、シエスタとわけがわからない会話をする羽目になっている才人である。
 泥酔メイドの論理は、微妙につながっているようでやはりぶっ飛んでいるのだった。

 一方で、反対側の端ではアンリエッタが同様の災難におちいっている。
 逃げ出したそうにおろおろしている女王に、横からくだを巻いているのはルイズである。

「姫さまにはいろいろと言いたかったのれす、この前のときから!」

 小さなこぶしでルイズがテーブルを打つ。
 眉が上がり、その下の鳶色の瞳がとろんと溶けていた。

「『勝負』する気はもうないと言ったじゃないですか。
 それなのに目をはなした隙に、き、ききき、キスしたり!
 やり方が卑怯ではありませんか、主君とはいえ没義道なふるまいには断固として抗議させてもらいましゅ!」

「い、いえ、あれはだから薬が効いていて」

「言い訳などきいておりません!」

 大貴族の弾劾にさらされる女王の図である。
 ワインを持ってきたのはしみじみ間違いだったわ、とアンリエッタは頭をかかえた。
 これまで何度かルイズを晩酌につきあわせたことがある。
 あまり強くないのは知っていたが、今夜のようなことになったのは初めてなのだった。
 ルイズはこの晩餐のどこかで限界酒量を突破したらしい。

「だいたい、なんであのバカなんれすか?
 あいつの何がいいっていうんですか。おそれながら、モノズキにもほどがあるかと」

 この話題にどう答えたものかわからず、適当にやりすごそうとしていたが、そう言われたときアンリエッタの心にふと不敵なものが入りこんだ。
 すっと顔を上げて、試すように口にする。

「それは……ルイズ、あなたのほうがよく知っているのではなくて?」

 ルイズは酔いに濁った目を手の中のワイングラスに落とし、「全然わかりませんわ」と小さくつぶやいた。
 彼女の背後から「落ちつこうシエスタ、瓶を置いてくれ」とメイドをなだめている才人の声が届いてくる。
 それをかき消すように、ルイズは声を高めた。

「あんなやつ、信じがたいほど鈍感ですしおそろしくヌケてますし、使い魔のくせに言いつけをこれっぽっちも従順に聞きませんし、
 調子いいこと言うくせによそ見しますし(わたしより大きな胸とかわたしより小さい胸とかで)、
 メイドに変な服着せますし、すぐ危ないことに首つっこみますし、そうかと思うと凹んだら暗いモグラですし」

 ぐっぐっと危険な飲み方でグラスをあおると、ルイズはそれをテーブル上に音をたてて置き、断言した。

「極めつけにすっごい変態ですわよ、あいつ。
 あいつがいままでわらひに要求したアレコレは、間違いなくどれかが法に触れてます。
 法に触れてなくても人の道から外れてます。まさにケダモノの仕業れすわ」

「そ、そう…………………………」

 どんな表情をしていいかわからないアンリエッタに対し、ルイズがちょっぴり優越感のこもった流し目をくれた。
 酒がますます回ったのか頬が上気して、妙に色っぽい。

「この前の夜にゃんか、わらひが寝ようとしてると、ふやかしたパスタとクリームをれすねー、厨房からもってきて……」

「ルイズ、ルイズ!
 あなたほんとに酔いすぎよ、そういうことははしたないから言わなくても……」

「そのわりには姫さま、止める声がどんどん小さくなりましゅわね。
 なにげに聞き耳まで立ててるりゃないの」

 ふん興味津々の顔しちゃって、と酔っ払いの目が語っている。
 ひっくと一つしゃっくりをしてから、理性のゆるんだルイズが得々と語りだした。

「べつの夜にはー、頭の沸いてりゅ服を何枚も買ってきてー、トランプを用意して」

 パスタとクリームは? とついアンリエッタが、飛ばされた話を尋ねかけたとき。
 ようやく状況に気づいた才人が、叫びをあげて背後からルイズの口をおおった。

「待てこら! な、なんつーことをしゃべってんだよお前!
 いや失礼しました姫さま、ほんっと気にしないでください、ほんとに……」

 才人はアンリエッタに向けてぎこちなく乾いた笑いを浮かべながら、ルイズをはがいじめにしてずるずると引きずり、離れていった。
 ちらりと一瞥して苦笑ぎみに首をふり、女王も椅子から立ちあがる。

 ベランダの夜風に当たりたくなったのである。

…………………………
………………
……

 星の夜だった。
 アンリエッタは両腕を頭上にあげて、んーっと背伸びをする。
 女王にふさわしからぬ振る舞いだが、若い娘のものとしては年相応だった。
 四六時中が公式の場のようだと、気が滅入るというものである。
 酒と歓談でかすかに火照った頬に、涼しい風がここちよい。

 それでも、ベランダの白木の桟に手をかけて遠くを眺めながら、気がつくと反乱のことを考えていた。
 復讐に燃える貴族たちがやりすぎませんようにとは願うが、破壊された堤防や船の修理費を河川都市連合に払わせるのは、アンリエッタにもまったく異存はない。

(防備戦の用意というけれど、本当にばかなことをしたものね。彼らには地元の諸侯の憎悪が集中しているわ。
 ……国の北東部の大河近くで被害を受けなかったのは、川向こうのラ・ヴァリエール領くらいのはず)

 ガヴローシュ侯爵は明日にも飛んで帰り、領地から進軍することになっている。
 集まっている近隣の諸侯の兵もあわせて、その諸侯軍は総数三千といったところであろう。

 さらにブリミル教の司教までが、自らがやとったメイジの傭兵隊を提供することで自己主張していた。
 その司教はトリステイン北東部に、広範囲の教会名義の土地を保有していた。
 いわゆる「聖なる領主」の一人である。
 司教の領地も、堤防を壊されたことによる水の被害を受けていたのだった。

 聖俗両派諸侯軍の殺到を受けて、河川都市連合の平民軍がまともに抵抗できるとも思えない。
 王軍が出動するまでもなく、たぶん初夏の光を見るまでに、この反乱は完全に終わるだろう。

「そうね、順当にいけば……」

 アンリエッタはそうつぶやいてから(でも)と、昨年の秋のことを思いだす。あのような「魔法が使用不能」な事態になれば、どうだろうか?
 ……それでも結果は変わらないはずだわ、と首をふる。
 メイジ兵が攻撃に参加できなくても、兵力がたかだか数千規模の河川都市連合軍と、王軍、諸侯軍、空海軍あわせて四万ちかくの兵を動員できる王政府では、戦力が比べものにならない。

 はず、である。

「あのー、姫さま」

 少年の声が横からかかった。
 よりかかっていたベランダの桟から少し身を離し、アンリエッタは横を見た。
 目を閉じてふらつくルイズを肩につかまらせ、シエスタを抱えた才人が立っている。

「こいつら酔いつぶれちゃいましたので、今夜はこれで退出してもいいですか?」

 少年のやつれた顔と、その腕に抱えられたメイドの少女の幸せそうな寝顔の対比に、つい女王はくすりとする。

「ええ、ご随意に。寝るところは空いた部屋をどれでもお使いいただいてけっこうです。
 それにしても先に酔われてしまうと、残されたほうはゆっくり味わうどころではありませんわね」

「ああ、まったくです……せっかくのいい酒だったのに」

 愚痴りかけた才人の横から手が伸びてきて、ぐにっと頬をつねった。
 いてててとうめきながら、才人が肩につかまるルイズに文句を言う。

「おい何する!」

「ひめさまのほうをみるんりゃないぃ、それに、なんれわたしじゃなくて、しえすたが抱っこなのよぉ。
 わたしを抱っこするべきれしょーが」

「こ、こいつはもう……他意なんかねえよ、シエスタは完全に寝ちまってるだろ。
 変なこと言うんじゃないってば、すぐベッドに入れてやるから」

「なによぅ、えっちなことするのー?」

「しねえよ! ここは王宮だっつの! シエスタといい今夜は酔いすぎだ!
 ……ええと姫さま、酔っ払いが失礼を……」

「いえ……」

 アンリエッタはうっすらまた赤くなった顔をそむけた。
 どうも、先ほどのルイズの話とあいまって、まともに目を見られない。
 才人のほうは羞恥に身の置きどころもないのか、そそくさと背を向けて立ち去ろうとしていたが、彼は最後に女王のほうをふりむいた。

「さっき悩んでたのは反乱騒ぎのことですか」

 アンリエッタは目をみはる。
 才人はあごをしゃくって、立ったまま目を閉じて肩にもたれかかっているルイズを示した。

「ルイズが気にしていました。俺もですけど。
 俺にとっても今じゃ、この国のことは他人事じゃありません。
 何かできることがあるなら手伝います」

 室内からの明かりにきらめく黒い瞳が、真摯さをたたえて女王を見つめている。

 以前にルイズから報告されたことがある。彼はとうとう、生まれ故郷に帰らずハルケギニアに骨を埋めることを決めたのだという。
 それがどのような重さの決意だったのか、アンリエッタには知るよしもない。
 けれど「サイトに済まないと思うのに、一方で嬉しさもあるのです。それがなおさら申し訳なくて……」と声をつまらせていたルイズの気持ちなら、少しはわかるつもりである。

 不思議なほど穏やかな気持ちで少年を見返し、アンリエッタはうなずいた。

「ええ、そのうちかならず話します。
 わたくしは常にあなたたち二人を頼りにしています、これからも助力をお願いいたしますわ」

 それを聞いて才人は、目と口の端に小さく笑みをうかべた。そのまま今度こそベランダから、そして部屋から出て歩み去っていく。
 彼にしがみついてよろよろ歩くルイズが「サイト、お水ほしい……」とうめいた。
 「あとで持ってきてやるから」という才人の声が、最後にアンリエッタの耳にとどいた。一緒に歩いている伴侶への、落ちついた情愛のこもった声だった。

 一人きりになった女王は、彼らの出て行った戸口を見ている。
 静かな寂しさのこもった目で、しばらくのあいだ。
 それからアンリエッタは体の向きをかえて、ベランダの桟にもう一度よりかかった。
 ふと思う。

(あの二人、いつ結婚するのかしら)

 そのときが来れば、自分が媒酌をしてもいい。
 けっきょく取りやめになったが、まだ女王ではなかったころの自分とゲルマニア皇帝の結婚式のときには、ルイズに式典の巫女をつとめてもらうところだったのである。そのお返しにもなる。
 もしルイズの実家や、頑迷な保守主義者たちが「大貴族の三女と平民出身の騎士の結婚」に反対をするならば、女王の口ぞえはあの二人にとって強力な味方になるだろう。

 アンリエッタ自身に才人のことをひきずる気持ちがないではないが、この前のときルイズに言ったとおり、今となってはどうなるものでもない。
 ルイズと才人の結びつきが崩れることは絶対にないだろう。
 ましてや自分はそれでなくとも国政に奔走せざるをえない。いまはその意思はないが、結婚だっていつかはきっと政事にのっとって決めなければならない。

 細い髪が春の夜風にふわりと散らばった。
 それを手で押さえながら、アンリエッタは眼下の夜景を見つめて、ぽつりとつぶやく。

「わたくしには、これがあるわ」

 ――王国が。

 生まれてからずっと彼女をしばる鎖であって、同時に存在の意味でもあった。
 現在はみずから治めている、彼女の重荷であり宝でもあるこの国。
 受け取るのはおもに重圧だったが、ときにはこうして慰めを見いだすこともある。

 かなたの教会やそのほかの尖塔は陰鬱な影となってそびえ立っている。
 一番大きな尖塔はこの王宮のものなのだが、自分がそこにいてはむろん景色として見られるわけではない。
 市街の道路には窓からもれる家々の明かりが満ち、大貴族の街屋敷の前には灯火が燃えさかっている。

 ブルドンネやチクトンネの街路では、居酒屋などの歓楽を売る店に人があつまる。
 春の夜、そこそこ治安が良好であるため人影は絶えない。
 あの街路のひとつひとつでは酒肴の匂いがただよい、パイプやヴィオルやリュートの楽の音が、小太鼓のリズムと混じりあいながら流れているだろう。
 これが王都トリスタニア。宮廷の所在地、ハルケギニア有数の古都であり、彼女の繁栄する王国の中心であり縮図である。

 アンリエッタは桟から手をはなし、きびすを返した。
 そろそろ寝なければならない。明日も通常の国務のほかに、会議がある。
 〈騒乱評議会〉は、反乱が鎮圧されるまで開かれて報告を受けつづけるのだ。
 一人きりでもう少しだけ安眠のための晩酌をしてから、ベッドに入るつもりだった。

 少女はかすかな足音をのこして、自分もベランダを後にする。
 金紗の夢もしめやかに、愁える夜に音が響く。
 どこかの部屋で籠に入れられたナイチンゲールが歌っていた。

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 夕暮れが近い、大河のほとりの原野。
 つい今しがたここが戦場となり、春の花々はあわれにも馬蹄と軍靴に踏みにじられた。
 火打石式のマスケット銃と火縄銃の硝煙のにおいが濃くただよっている。

 敵は逃げました、という報告に「見ればわかる」とガヴローシュ侯爵は不機嫌に答えた。

 行軍をはじめて数日で、移動していた反乱軍の一隊にはやばやと遭遇した。
 そして、戦闘はあっけなく終了した。
 河川都市連合の市民兵は、算をみだして逃走にかかっている。

 ただしガヴローシュ侯爵はじめ、諸侯の直接指揮下にある歩兵の手柄とはいいがたい。
 むしろきちんと隊列を組み、数で何倍もしていながら、まともに動けず押された感さえある。
 自軍歩兵のあまりの情けなさに、諸侯軍の司令官となった侯爵は舌打ちした。

(敵は歩兵だけ、銃兵と槍兵だけだった。騎兵も砲兵もいなかったのに……
 ……いや、こっちの歩兵は農民の徴募兵ばかりだ。武器は与えたからといって、彼らをあてにするほうが間違っている。
 もっと大きな問題は、メイジ兵が戦力にならないことだ!)

 それが最大の痛恨事だった。
 諸侯軍をひきいるため意気揚々と領地に帰ったところで、彼はそれに気づいた。
 魔法が使えなくなっていたのである。
 火の壁も竜巻も、巨大なゴーレムもない戦だった。

 こちらのメイジ兵が、役立たずと化している。
 そのような事件が以前に、女王陛下の近辺で起こったことは知っている。だが、それが自分の前に、このような形で現れるとは思わなかった。
 おもわずつぶやく。

「やはり王都に報告して、判断をあおがなければな……
 みっともないが、この先あの傭兵隊にばかり頼るわけにもいかん」

 けっきょく、先ほどの戦闘で勝負を決したのは騎兵だった。
 雇われて独立行動をしている傭兵隊が、タイミングをはかってななめ横から敵の銃兵の列に襲いかかったのである。

「閣下、傭兵隊がこちらに来ますが……
 討ちとった敵の検分をお願いしたいとのことで」

 衛兵の報告にガヴローシュ侯爵は顔をしかめたが、会わないわけにはもちろんいかない。相手は勝利の立役者である。
 そもそも軍がぶつかる数時間前に敵を発見してきたのも、傭兵隊の騎兵たちだった。
 報告はまるであらかじめ知っていたかのように詳細で、それに合わせて諸侯軍は陣形をなんとか整えることができた。それだけでも彼らの功労はなみなみならない。

 すぐに衛兵たちをかきわけるようにして、黒い一団があらわれた。
 黒いマントと黒い上着。烏をおもわせるこの隊は、ゲルマニアの傭兵隊である。「黒狼隊」と名乗っていた。
 その先頭にいるやはり黒ずくめの傭兵隊長は、部下にひきずらせていた死体を、司令官であるガヴローシュ侯爵の前に投げだした。

「さっきの敵軍の大将首らしい。検分してくれ、俺はトリステイン人の顔はあまり知らない」

 その傭兵隊長の声は大きいのに、奇妙に陰気だった。ザミュエル・カーンとか名乗られた覚えがある。
 狼の頭部をかたどった兜を脱ごうともしないため、顔はよくわからない。
 あらためてこの男に不快をおぼえながら、ガヴローシュ侯爵は投げ出された死体に歩み寄った。

 死体は弾丸をおそれてか、ごてごてと必要以上に鎧を着ている。
 たまたま見覚えがあった。

「これは……河川都市のひとつガンの市長だ、たしか」

 ガンは河川都市のなかでもっとも西に位置し、大河ではなく、いくつかある支流に沿っている。
 いま戦場となったこの場所は都市トライェクトゥムとガンの間に位置している。死んだこの市長は、トライェクトゥムからガンに戻る途中だったのかもしれなかった。
 その推測は傭兵隊長の声によって確信に近くなった。

「向こうにとっても遭遇戦だったようだ。あれはたぶん、この男の護衛としてつけられていた分隊だろう。ほとんど逃げたが」

「そうか……ご苦労だった」

「なんてことはない。それより話がある。
 俺たち黒狼隊は逃げたやつらを追いたい。この諸侯軍からしばらく俺たち騎兵隊が抜けて問題はないか?」

 ガヴローシュ候は、ザミュエル・カーンの声にあなどりを感じて顔をあげた。

(……まるで、おまえらがいなければこの軍は何もできないとばかりの言い草だな)

 そう言葉にしたかったが、すんでのところでこらえる。
 この男の雇い主はブリミル教の司教とのことである。
 教会名義の土地が水の被害にあったことをうけて、その司教は反乱した都市を「もとより新教徒が多い呪われの地」と呼び、諸侯軍に協力させるべく傭兵をよこしたのである。
 聖職者に雇われたこの傭兵たちはある意味で「聖軍」であり、それが厄介な側面をもたらしているのだった。

 この軍の最高権限は、王政府のさだめるところによってガヴローシュ侯爵のものであるはずだった。
 ところがそこに、独立性の強いブリミル教会の力が入りこむと話が複雑になる。
 軍内部での聖(教会)と俗(王政府、貴族)の対立というほど大げさなものではないが、指揮系統が微妙にはっきりしなくなるのだ。

 ガヴローシュ侯爵としては本音をいえば、この〈黒狼隊〉とかいう傭兵たちが邪魔だった。いちいち気をつかわなければならないのである。
 傭兵隊長のほうはそれをまったく気にかけていないらしいのが、また腹立たしい。
 腹の虫をおさえ、彼はせいぜいおだやかに口にした。

「ああ、心配には及ばん。抜けるならあえて止めはしない」

「そうか。ではな」

 しかし、そっけなくうなずいてさっさと身を返した傭兵隊長に、我慢の緒が切れた。
 彼は立ち去ろうとする背中に嫌味を返さずにはいられなくなる。

「本当にゲルマニア人は革新的なのだな。
 貴下も貴下の配下もメイジだと聞いたが、拳銃を何丁もそろえて軍刀を佩いているのは驚いた。使い方にも慣れているようだな。
 そのために助かったよ」

 傭兵隊長の足が止まった。
 くるりとその男がふりむく。ガヴローシュ侯爵は内心でたじろいだ。

「トリステイン人のメイジ傭兵では、白炎のメンヌヴィルという男を知っていたが――」

 ザミュエル・カーンはぼそぼそと低い声で話す。

「――焼き殺すのが好きな男だった。そんなふうに、たいがいのメイジは自分の魔法を使って殺すことを当然とするだけでなく、そうして殺すことにこだわりさえ覚える。
 あんたもおそらく、メイジとして生まれたからには魔法を使って堂々と戦うべきだと思っているのだろう。銃も剣も馬鹿にするのだろう。
 貴族としての名誉もくそもない傭兵となったメイジでさえ、その傾向があるのだからな」

「……なにが言いたいのか?」

「貴族のもっとも重要な義務は戦場に出ることだ。戦場で重要なのは殺すことだ。そして殺しはただ殺しだろ?
 俺たちは行く。プロとして忠告しておくが、この歩みののろい軍で遠くの敵を目標にしないほうがいいぞ。
 さいわいにも、反乱の中核であるトライェクトゥムはここからそう遠くないな」

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「『われわれが武器を取ったのは、このたびの王政府の暴慢に対して立ち上がったものであり、始祖の恩寵によりわれわれが先祖より受け継いだ権利を守るためである。
 王政府に以下二つのことを要求する。

 第一に、不当にも都市の交易の利益を横取りしようとする試みは永久に放棄すること。あらたに計画している空路交易から王家は手をひき、他の貴族にもこれを禁じるべし。

 第二に、都市内部での公務員の任命権、立法権および裁判権は、以降は都市自身に完全にゆだねられること。なお都市裁判での判決にたいし王政府への上訴権は、都市内部では今後いっさい認めないものとしている』」

 いくつかの報告書を手に、マザリーニが立ち上がって読みあげていた。
 先日、河川都市連合を代表して、トライェクトゥム市参事会がついに声明を発したのである。
 枢機卿の読みあげているのはその声明文だった。
 内容は、王政府の非を鳴らし、都市民の水路交易を保障することを求めるものであった。
 王政府は空路交易への転換に関与することで「河川都市の生計の道」を奪おうとした、と強硬に非難しているのである。

 居丈高といってよいその文に、枢機卿がいったん口を閉じたとたんたちまち怒号が会議場に飛び交った。
 じろりと〈騒乱評議会〉の顔ぶれを見回して、マザリーニは続きを読む。

「『長年にわたり都市へ行われてきた、国の支配階級からの悪行はとうてい忘れがたいものがある。
 われわれに対して債務を負い、これを返済する義務を長年にわたって果たさない貴族たちの名を以下にあげる。まず……』」

 一瞬で口をとざした者たちがいた。
 その多さに、内心で舌打ちしたであろう枢機卿が、名前を読み上げることはせずに低くつぶやいた。

「そういう事情があったなら、前もって正直に言っておいてくれれば対策のしようもあったものを。
 むざむざ相手のかかげる大義名分に、説得力をよけいに与えることになってしまった」

 金融も大きく手がけている河川都市から借金し、返せず踏み倒しかけていたらしい貴族がかなりいたのである。
 今回で都市が反逆者になったことにより、その借金がうやむやになったとほくそ笑んで黙っていたのであろう。
 だが「都市民に対する非道」を強調するための道具に使われてしまった。少なくない国民がこのことでそれらの貴族を批判するだろう。
 発端となった王政府の交易事業関与も、似たような悪行と受け止められそうだった。

 上座のアンリエッタも青ざめている。
 銃士隊やルイズたちから彼女につたえられる情報では、国民のあいだからは反乱都市への同情の声がすでに上がっているという。
 王宮おひざもとのトリスタニア市内でも、「河川都市の勇気ある蜂起は、王政府がワインなどの交易の権利を都市からとりあげようとしたのが原因だ」とささやかれているらしい。
 おそらく河川都市の協力者が故意に流したうわさなのだろうが、もう取り返しがつかなかった。

 宮廷書記官の一部でさえこの河川都市の反乱を、諧謔的にではあるが〈ワインの乱〉と呼びはじめている。
 あえて禁じないかぎり、この名称がトリステインの年代記に残りそうだった。

 低くおさえたマザリーニの声が、いっそう深刻な色を帯びた。

「すでに諸卿も聞いたとおもうが、反乱が起きた一部の地域で魔法が使えないという事態が起こっている。
 王立魔法研究所は、先年の事件で使われた〈解呪石〉と同じ効果のものだと断定した。ただし、それなら効果の持続時間はきわめて短いはずだが、今回はもはや数日をへてなお持続している。この先どれだけこの状態が続くのか予想もつかぬ。
 そして魔法が禁じられたことは、直接の戦闘よりもある意味はるかに重大な問題をうみだしている」

 大会議室の面々からは、数日前のどこか気楽な調子が完全に抜けている。
 貴族たちのだれもが黙って聞いていた。

「わけても風魔法に通じる風石の力の発動が封じられ、フネが戦場ちかくを航空できないことが最大の問題だ。
 ……追加の派兵も、パンも弾薬も……われわれはいまや空から前線に直接送りつけることができない。
 水上輸送もできない、大河は反乱軍の船団に埋めつくされているからな。
 つまり魔法が使えるようになるか大河を奪回しなければ、われわれは前線ちかくにおいて、補給物資を陸上から馬車の列で運ぶしかないのだ。
 一方の反乱軍は、水路を最大限に活用できる。大河といくつもの支流と運河でおりなされる、広範囲にわたる網の目のような水の道をな」

 アンリエッタが「マザリーニ」と呼んだ。

「わたくしは戦にあまり詳しくありません。
 馬車で運ぶしかないというのは、水路にくらべてそこまで不利なの?」

「陛下、あなたには会議のあと、くわしく説明させていただきましょう。
 ……しかし、軍事にかかわる貴族の諸卿らなら説明の必要なくわかっていただけると思う、われわれが序盤からどれだけ深刻な状況におちいったかを。
 ガヴローシュ侯爵は少し行軍しては立ち止まり、大砲やパン焼き窯や馬のまぐさを運ぶ部隊が追いついてくるのを待って、一日にようやく数キロメイルを進むというありさまだそうだ。
 ところで」

 マザリーニは厳しい眼光を、伝令となった竜騎士に向けた。

「ガヴローシュ侯爵の諸侯軍は、野戦を求めるのではなく、いまなお一路トライェクトゥムを目指しているというのだな?」

「は、さ、さようで……」

「いますぐ引き返させろ! 増援を派遣するから、それまで領地で待てと伝えよ」

 竜騎士があわてて出て行くのに目もくれず、彼は続いてわきにかかえていた図面のようなものをテーブルの上に広げる。

「これを見てほしい。
 トライェクトゥム付近についたところで、魔法が使えず兵数も不十分な軍では、けっしてあの都市は落とせない。
 見ていただきたい、これを。都市トライェクトゥムとその周辺の地形図だ」

 わらわらと貴族たちが立ち上がってそれを見ようとする。
 だれもがその水と堅固な城壁でかこまれた都市の防備には息をのんだが、それだけでなく周辺の土地がやっかいだった。
 都市前面の平野は、堤防のある大きな水路が一方の城壁ぞいに大河から分かれ、街道に沿うように築かれている。
 つまり都市のまわりの陸地が分断されている。

「この都市を完全に包囲しようとおもえば、水に分断された陸地のそれぞれに陣地を築き、軍をいくつかに分けなければならない。
 言うまでもないが敵の野戦軍が救援にかけつけるかもしれない状況で、こちらの軍がこのように分散するとき、各個撃破される危険性は格段にはねあがる」

 枢機卿は押し殺した声で、面々に向けて言った。
 貴族たちが沈黙しているのは、かれらも当然図面を見て気づいているからだった。

 この都市、「商人どもの巣窟」が、大軍の攻囲と砲撃に対して、異常なまでの耐久力をもつ要塞だということを。
 そのくせ、これを力押しで陥落させようとすれば、やはり大軍と大量の攻城砲、またはヘクサゴン級の大魔法の連発ぐらいしか手がないのだということを。
 つまり現在は、実質的に攻略は不可能だった。

「……この状況で、力押しなど愚の骨頂だ。
 河川都市が篭城するなら、これを直接攻撃してはならない。大河を奪回するか封鎖して、かれらの水上からの補給を断つしかない。
 物資が流れこまなくなったなら、都市にどれだけ食料の備蓄があろうともって一年だ」

 マザリーニが、面白くもなさそうに戦略の練りなおしにかかっている。
 彼と、真剣に聞きいる評議会の面々を見ながら、アンリエッタはつい爪を噛みたい衝動にとらわれた。
 王軍が鎮圧にかかわらないのは、もう不可能らしかった。彼女を最高司令官とする軍隊は、自国民を相手にこれから本格的に戦をはじめようとしているのである。
 しかもその戦は彼女の最初の予想とちがって、一筋縄ではいかないかもしれないという。

「枢機卿……
 この期におよんでだけれど、わたくしはそうまでして戦いたくはないわ。
 なんとか、話し合って解決できないのかしら」

「長引きそうなくらいなら戦いたくないのはまったくわたしも同様です、陛下。
 今でさえ、商業と交通の要衝であるあの地域が戦場になって人の往来が激減したことで、国庫の損失は一日ごとに大きくなっていますから。
 ですが、この河川都市連合の声明文が問題です。王政府はここに記されたこの条件を絶対に呑むわけにはいかない。第一よりも第二の条件でとくに」

 返ってきたのは、冷たい論理だった。

「この第二の条件は無理もきわまる。かれらはトリステインのなかに独立国を作ることを認めろと言っているも同様です。
 撤回させなければならないのはもちろんですが、命じるだけでかれらがおとなしくそうするでしょうか?」

 王政府の幾度もの対話呼びかけを無視し、突然の蜂起で被害をまき散らし、そのあとでこのような声明文を叩きつけてきた河川都市連合が。
 そうは思えない、とマザリーニは顔色で語った。
 それから彼はアンリエッタに歩み寄って、周囲に聞かれないよう耳元でぼそりとささやいた。

「それにここまでした都市民をあっさり許せば、貴族たちはおさまらないでしょう。王政府の立場ではまず戦ってみせなければならないのです。
 ある程度長びけば戦争支出などを言い訳に、相手の言い分をいくつか受け入れ、とにかく終わらせることを優先した選択もできるでしょう。
 そうなれば王政府は負けたといわれますが……何ヶ月、何年、何十年も粘られる悪夢よりましですからな」

 女王と宰相の立場は、タルブの戦い直前のときと逆転していた。
 あのときはマザリーニが外交での解決にこだわったところを、当時は王女であったアンリエッタが「国土を侵略されているのですよ」と叱咤したのである。
 ただ違うのは、今回のこれはむしろ王政府を引きずりだすための相手の挑発であり、こちらはそうと知りながらも乗らざるをえないという点だった。

 いくつもの面で、王政府は序盤から一杯食わされた形になっている。

 女王と宰相が沈黙し、重い視線を交しあったとき。
 会議室に「報告報告です!」と叫びながら、駆けこむように入ってきた者がいる。さきほどの竜騎士と入れ違いの形だった。

 その汗にまみれた騎士は、空からの調査のためにアンリエッタが放った竜騎士連隊の一人だった。
 名をルネ・フォンクといい、才人たちとも顔見知りである。
 最新の報告をすぐさまもたらせるよう、ここ数日探索にはげむ竜騎士たちにはどこであろうと入ってこれる権利を与えている。

 今回、ルネほか数名に命じられたのは、魔法が使えない区域がどこまであるのかを探ることだった。
 〈解呪石〉とかいうものによって風石の発動がさまたげられたため、フネは大河周辺の上空を通れないが、竜をはじめとして幻獣の飛行には支障がないのである。

 会議室の視線が集中するなか、数日前から国土上空を飛びまわっていたルネは疲労困憊の態でひざを折った。
 彼はすぐさま、重大なことを口にした。

「拡大しています。魔法使用ができない範囲は、水辺にそってさらに拡大しました。
 ……反乱軍は、傭兵として雇い入れたらしき竜乗りや幻獣騎士を空に放ちました。今後は空からの偵察にも危険がつきまといそうです。
 ですから細かい調査ではありませんが、同僚たちの意見も合致しており……」

「ええ、だいたいの範囲でかまいません。
 魔法が使えない地域は、現在はどのくらいの規模なのですか?」

 アンリエッタの問いに、彼は意を決したように顔をあげた。
 その声が震えた。

「上流のゲルマニア国境から河口周辺海域にいたるまでの、トリステイン東部をつらぬく大河流域全体です。
 国土は分断されています、陛下」

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 大河の水面が昼の陽光をはねかえしている。
 都市トライェクトゥムの見える街道で、諸侯軍はくたびれきった足を止めていた。
 ガヴローシュ侯爵は、かなたにそびえる都市の城壁を見やって絶望的なものを感じている。
 “遠見”の魔法がつかえなくても、平野の離れたところから巨大な都市はよく見えた。

 緒戦の勝ちの勢いもあり、諸侯軍が姿を見せて示威すれば相手はあっさり降伏するのではないか、そう考えてここまで兵を進めてきたのだが。
 ――その期待が、いかに甘かったか思い知らされていた。

(都市だと? ふざけたことを、これはもう完全に要塞じゃないか。
 本気で篭城されると、この軍でこれを陥落させるのは絶対に不可能だ。
 都市民どもはこっちの降伏勧告を正面から笑殺してのけるだろう)

 はね橋を上げて篭城態勢をとったトライェクトゥムの城壁の上には、見えるだけで数十門の砲がはりつき、敵を寄せつけまいとしている。
 諸侯軍の砲隊はまだ後方である。竜や馬にひかせても、やはり大砲は重くて行軍に遅れがちなのだった。
 攻城砲が到着してもどのみち、砲門の数と設置場所の高低の差、それにたぶん性能の差でトライェクトゥムの防城砲に圧倒され、近づくこともできないだろうが。

 その幾重もの分厚い城壁は、上から見ると多角形――星を重ねたような形をして町をとりかこんでいる。傾斜がつき、砲弾の直撃によるダメージを最小限におさえる構造。
 星のいくつもの角、突きだした部分の城壁には大砲と小銃が集中し、ほかの角と連携をとって近づく敵を殺傷する。

 トライェクトゥムの後方の城壁はゆるく湾曲した大河に沿っており、大河の水は水路として導かれることで城壁をかこみ、おのずと堀をなしている。
 さらには、仮に城壁の一部分を魔法や砲撃で破壊することに成功したとしても、壊した壁の内側にすみやかに土塁が積みあげられて、不完全ながらすぐさま修復されるだろう。

 数代がかりで商人たちの資力をつぎこみ、金をかけて防備をととのえてある、難攻不落の大城塞。
 大貴族でさえ、この尋常ではない規模の城壁を築こうとすれば破産するだろう。防備の武器は勘定に入れず、である。
 数百年単位での建設というのは、技術の進歩ゆるやかなハルケギニアだからこそ可能なことであった。
 時間をかけているうちにいまの技術が時代遅れになることを、ほとんど心配しないですむのである。

 この人口二十万の大都市をささえるのは、大河から運びこまれる食料である。

(かりに魔法が使えて、いまの数十倍の兵力を動かしても、この都市を力押しで陥とすのは数ヶ月はかかるぞ。
 兵糧攻めにしようにも、この都市には水上から補給が運びこまれている……
 無理に軍を割いてでも完全に包囲するか、王政府の空海軍が大河を奪回しないかぎり、われわれは無限に近い体力を持つ巨大なドラゴンを相手にしなければならない)

 ガヴローシュ侯爵はくらくらする思いで、街道から呆然と城壁をみつめる。

 魔法が使えないことは、軍においては直接の戦闘より、ある意味でもっと致命的なことをひきおこしていた。
 輸送。
 築城。
 索敵と通信。
 それらをメイジや風石などのアイテムにたよってきた軍が、一気に「原始的」なレベルに突き落とされたのである。

(ちくしょう、土魔法やゴーレムを全くつかわず、大砲への即席の防御壁ってどうやって築かせればいいんだ? それを味方の砲撃がとどく距離まで前進させていく方法は、たしかどうだったか?
 傭兵どもに訊いて……その傭兵たちが途中で分かれた後どうなっているのかさえ、まだ報告が来ていないじゃないか。
 あいつらを離すんじゃなかった、騎兵がもっといれば今よりましな偵察ができたのに! 敵どころか離れた味方の位置さえまともにわからない)

 この諸侯軍はなんというざまだ、司令官の私からして魔法抜きでの技術がわからない、とガヴローシュ侯爵はほぞを噛む。

 おそらく反乱都市側は、このような平民だけでの技術に悩むことはないだろうし、少なくとも自分たちに何ができて何ができないのかを把握しているだろう。
 能力的には、メイジを目明きとするなら平民は盲人――そのくらいの差が元来あったが、もし、いやおうなく双方が何も見えない暗闇のなかで戦うことになれば……元からの盲人のほうが、かえって有利になる。
 これがそういう状況であることを、ガヴローシュ侯爵はいやでも思い知っていた。

 どうしますか? と訊いてくる幕僚たちの声にも力がない。
 迷い、ためらいながらも、とるべき道など一つしかなかった。
 あの都市にまともに挑んだところで、まったく手はない。

「……退却する。それと幻獣騎兵の一部を割いて、伝令を王都に」

…………………………
………………
……

 その夜。
 火種さえ兵たちの野営からもらってくる羽目になった。
 王都から借りてきた参謀長が火系統だったのだが、なまじ火のメイジがそばにいたばかりに火打石など持っていなかったのである。

 そうしてようやく燃えた暖炉の前、椅子にすわって酒のはいったグラスを手に、ガヴローシュ侯爵は暗い目で部屋の隅を見つめている。
 寝る前だが、服は脱いでいない。

 空が厚く曇り、星のない夜だった。
 大河からやや離れたところで諸侯軍は夜営していた。
 司令部は宿屋を接収し、彼はその一部屋に泊まるところだった。ひとりきりである。

(どうせ今夜も、何十人も脱走するのだろうな。
 いや、きっと昨夜までよりもっと多いだろう)

 都市トライェクトゥムの威容を前にして、戦いを挑むこともできず諸侯軍は引き返した。
 それがただでさえ下がりっぱなしだった軍の士気を、もはや完全に地に這わせている。
 いまのこの軍での脱走者は、日ごとに膨れあがっていた。
 若いガヴローシュ侯爵にそれほど従軍経験は多くないが、先年のアルビオン戦役の敗走のときでさえここまで惨めではなかったように思う。

(アルビオン戦役では空の上の他国で戦っていたから、まだしもまとまっていたんだ。
 今回は地元だ、だから農民兵たちは敗勢が濃いとみれば、簡単に逃げて近い故郷の村に帰ろうとする……)

 戦いを避けたわたしの判断はまちがっていない、と彼は自分に言い聞かせる。
 まず都市への進軍そのものが誤りの判断だった、という事実は考えないようにした。

(魔法なしの三千程度の軍で、あんな城壁に立ち向かってどうなるというのだ。
 トリスタニアに援軍要請をするほかなかった)

 兵たちはおびえきっている。反乱軍の野戦部隊に攻められでもしたら、今度こそ瓦解しかねない。
 王政府にたいしてや貴族間での面子もあるとはいえ、どうしようもなかった。

 鬱々と酒をあおったとき、部屋の扉がノックされた。
 グラスを置いたガヴローシュ候が誰何しようとしたとき、扉が開けられて男が勝手に入ってきた。
 無礼な、と怒声をあびせようとして、酸っぱい表情になる。

 ゲルマニアの傭兵隊「黒狼隊」の隊長ザミュエル・カーンが、黒い甲冑を身に着けたまま部屋に踏みこんできたのである。
 途中で別れたあと、黒狼隊との連絡さえついていなかったが、いま追いついてきたらしい。

「……来たのか」

「ああ」

 簡潔なやりとりのあと、(あいかわらず、なんという粗野なふるまいをするゲルマニア人か)と思って舌打ちしたくなる。
 いちおうこの相手は友軍とはいえ、知らせを持ってこなかった自軍の偵察隊もいまいましい。

(もし偵察の騎兵どもが報告を怠ったのではなく、傭兵隊の接近に気がつかなかったというなら、それはそれで処罰ものの怠慢ぶりだ)

 酒に濁りかけた思考をさえぎったのは、傭兵隊長の問いだった。

「どうだった?」

 侯爵は一瞬腹が煮えくり返りかけた。

(そうだ思い出したぞ、そもそもこいつがトライェクトゥムに兵を進めることをそそのかしたんじゃないか……
 いや、八つ当たりと思われるのも業腹だ。怒鳴っても仕方あるまい)

 立腹はどうにかしまいこみ、黙って首を横に振る。

「そうか。こっちのほうは強襲が成功した」

 ザミュエル・カーンのこともなげな言葉を聞いて、ガヴローシュ候はますます気分が悪くなった。
 緒戦でもこの傭兵隊長の働きが目立ったのに、今度もこの男は続けて手柄を立ててきたという。
 自分がトライェクトゥムの城壁に手も足もでず引き下がっていたときに。
 いかに彼が戦いのプロとはいえ、くらべて自分はまるで見せ場がないではないか。

(おおかた、あのとき逃げた平民軍をどこまでも追撃してたんだろう。
 背をむけて逃げる敵を殺すほど楽な仕事もない)

 それでも、侯爵はつとめて嫉妬を隠しながら、笑みを浮かべてみせた。

「それはご苦労だった。
 戦果はどのくらいのものなのだ?」

「あんたの館を落とした。数日でたわいもなく落ちた」

 一拍。
 二拍と数えられるだけの間が空いてから、困惑げにガヴローシュ候は眉を寄せた。
 くだらない冗談はよせ、と言う前に、傭兵隊長ザミュエル・カーンの声が先に発せられた。

「あんたは領民にそこそこ慕われていたようだ。だが愚かだな、戦ではとくに。
 もうすこし火器と、その扱いに習熟した兵を、領地の守りに残しておけばよかったのに」

 狼のうなりのような不気味な笑いが、黒ずくめのその傭兵隊長ののどから出ている。
 ぽかんと椅子に座っているガヴローシュ侯爵の前で、その瞳がぎらぎらと輝いた。

「……このまえ、メイジのくせに武器を使うということで俺を馬鹿にしたな?
 俺はメイジとしてはついに『ドット』から先に進めなかった、だから父は俺ではなくて俺の従兄に領地と男爵位を継がせようとした。
 だが俺は剣と馬術ならだれにも負けない、戦の仕方もおぼえた、貴族は捨てたが傭兵隊長の地位を手に入れた」

 怨念をこめてぶつぶつ語る声。
 分厚い鉈のようなサーベルが抜かれる。男の目とおなじ残忍な光をはなつ鋭い刃。
 状況を完全に把握できないまま、ガヴローシュ候は思わず立ち上がっていた。

「俺は貴族が嫌いだ、ことにおまえたち伝統を守るというトリステインの貴族には反吐が出る。
 俺が殺した父や従兄のように、魔法の才能のない俺を見下そうとするのだから。
 おまえたちこそ、魔法以外は無能なくせに」

…………………………
………………
……

 その屋外の夜営。
 天幕がたちならび、かがり火がそこかしこに燃えている。
 都市トライェクトゥムが近いため、見張りの数はそれなりに多かった。脱走者をふせぐという意味もある。

 その歩哨たちは突然としてあらわれた黒狼隊にとまどい、壁をつくるように集まってざわめいていた。
 起きて近くにいた士官身分の者たちもその中に混じって説明を求めている。

 それらと相対しながら、騎獣にまたがったゲルマニア傭兵たちは大きく動かない。
 夜営のただなかに隊列を組んで乗り入れながら、すぐそこの「司令部」に入っていった隊長を待っているのだ、とばかりに悠然とさえしている。
 この百名ほどの傭兵の一団のなかで、黒いローブをかぶってグリフォンに乗っていた小柄な者がいきなり発言した。

「周囲の偵察に出していた騎兵は、やはりあれで全部だったな。
 こいつらは明らかにわれわれの接近をいま知ったところだ」

 それに傭兵たちがうなずく。一人が「ずいぶん簡単だな」とつぶやいた。
 その会話の意味がよくわからないながらも、いらだちと怯えが、集まっている諸侯軍の兵たちに満ちていく。

「乗り物から下りて質問に答えろ!」

 騎士身分のメイジが、馬や幻獣に乗ったままの黒狼隊にむけて怒鳴った。
 彼が怒ったのは無理なかったのだろう。
 その傭兵たちは今夜あらわれたときから、不遜な態度を通していたから。

 黒狼隊の一人が、無造作に腰から火打ち石式の拳銃を引きぬいて撃った。
 至近距離から放たれた球形の弾丸は、怒鳴ったメイジの鎧をつらぬいて、形をつぶれさせたまま胸に食いこみ、心臓をずたずたに裂いた。
 轟然たる発砲音とともに後方に吹っ飛んだその騎士は、当然ながら即死している。

 自分も撃たれたかのように、場のだれもが衝撃を受けた表情でその死体を見た。
 攻撃した黒狼隊以外が。
 つい先日まで味方であったはずの傭兵たちは間髪をいれず、つぎつぎと拳銃を、またサーベルを抜いていた。
 さらに陣の横手の闇のなかから、小銃の一斉射撃の音があがった。傭兵の一人が宣伝するように声をはりあげた。

「河川都市の市民軍も追いついているぞ」

 それから、にわかに信じがたいほどの短時間のうちに、諸侯軍は総崩れとなった。
 統制などどこを探してもなかった。

 黒狼隊の騎馬突撃を受けるまえに、本能的に背を向けて走った諸侯軍の兵士たちが、同僚を起こそうと叫んでいる。無数の天幕から兵が転げ出てきた。
 傭兵たちは手馴れた動きで天幕につぎつぎと火をはなち、一部は陣の外に並べてある砲にとりついて向きを変え、雨よけをはがして操作しはじめている。
 そこからも大砲の轟音が夜営にひびき、水平に飛んだ砲弾が地面にはねて天幕と人体を破壊しながら転がっていくと、混乱が倍加した。
 ひとにぎりの兵がマスケット銃を持ち出してきて抵抗しようとしたが、ばらばらに一発撃ったあとで騎兵に突っこまれると、あっけなく隊列を崩して逃げ散った。

 いっそ喜劇じみた血まみれの騒乱のなか、小柄なローブの者が、グリフォンから降りて「司令部」に入っていく。

…………………………
………………
……

 屋内にいても、異変が起きたことは耳でわかった。
 わずかのうちに屋外からの音が、戦場のそれに変わっている。砲弾による大地の震動、小銃の散発的な音、軍馬のいななき、吶喊と悲鳴、逃げる兵たちが走る音。
 耳をつんざくような騒音のなかで「かたまるな、大砲に狙われる。王都方面へ退却しろ」と士官のだれかが悲痛に叫んでいた。

 だがガヴローシュ侯にとっては、目の前のサーベルのほうがさしせまった危機だった。
 傭兵隊長は抜いた刃をだらりと下げたまま動かず、入り口への退路を断つように立っている。脂汗をながし、じりじりと侯爵は後じさった。
 そのとき部屋の入り口からもう一つ、新たに小柄な影が入ってきた。
 それをザミュエル・カーンの肩越しに見やった青年貴族の顔が、新たな驚愕にゆがむ。

「陛下……いや、誰だ……?」

 黒いローブを身につけた、少女の姿をした者がうっすらと微笑した。
 その笑まう少女はアンリエッタに酷似している。というより、やや幼いことを除けば、まさに同一だった。
 無理もない相手の混乱にはそれ以上反応せず、「はじめまして、ガヴローシュ侯」と〈黒い女王〉が挨拶する。

「事情はのみこめただろうか。
 おまえのこの軍がトライェクトゥムを見るため、陸路をのたのたと進んでいる間、河川都市連合の市民軍は船で迅速に移動し、がら空きになったおまえの城を攻撃した。
 そこの〈カラカル〉も一枚噛んだぞ、ガヴローシュ領への攻撃には。おまえと別れたあと、彼は私およびトライェクトゥムの市民軍と合流したのだよ。
 裏切ったといって彼をあまり責めてやるなよ、そいつはもともと私の手の者なんだ」

 少女に〈カラカル〉と呼ばれた傭兵隊長が、「もういいのか?」と背後にたずねた。
 それに「すこしだけ待て」と言い捨てて暖炉に向かい、その少女はもて遊ぶように火かき棒を手にして熾火をかきまぜる。
 火を見つめながら唇を開く。

「いい報せが一つだけある。館にいた者のうち、おまえの老いぼれた父は包囲の外にいて逃げ切ったぞ。
 ただしほかは館で死んだ。おまえの妻も息子も、娘も家令も、その他の家臣たちもほとんどが。
 この軍も、どれだけの兵が五体満足に逃げのびるやら。市民軍が追わなくとも、黒狼隊は今度こそ追撃を楽しむつもりでここに来ている」

「な……なぜわたしの館を……
 この軍ではなく館から攻める必要がどこに……」

「なぜって、おまえの館は河口をおさえるいい位置にあるから。われわれには防御施設がこの先必要だから。
 昔風に見た目だけ立派で砲弾に弱いデザインのあの城壁はいただけないが、いちおう固定化の魔法もかかっていることだし。土塁でもつめば王軍に対する要塞として、ある程度は機能するだろう。
 ……おや、なんて顔をしている、『平民主体の反乱軍』がそこまで本気で戦うつもりだと思っていなかったのか?
 甘っちょろいやつだな。ただいまは乱世の入り口であって、これはすでに戦なのだぞ。あるいは革命か」

 暖炉では、乾いた火の音がぱちぱちと鳴っている。
 〈黒い女王〉は目をほそめて、熾火に語りかけるように口に出す。

「ベルナール・ギィは、人口九割を占める平民のなかに埋没せざるをえなかった人材の一端だ。
 都市民は戦争をささえる富という力を持ちながら、先天的な技能であり精神力の産物である魔法に屈しなければならないことに、理不尽さをおぼえていた。
 おまえの眼前の〈カラカル〉は、魔法の才がないためうとまれた貴族の一人だ。
 いわばハルケギニアの魔法文明社会に不当にあつかわれてきた者たちであり、それが私の与えた機会にとびついて、社会の頂点にある王政府に挑戦したことになる。
 これは反動だ、抑えつけられていたこの世の底の怒りのな」

 私のオリジナルはどのように対処するかな、と興味もあらわにつぶやいてから少女は唇の両端を吊りあげてガヴローシュ侯爵を見た。

「では既存秩序の終焉開始の合図としよう、おまえの首をはねることでな。
 この歴史の転換点で最初に、おまえをラ・ヴァリエール、グラモンなどこの国の古い名家を代表する者として扱ってやる。光栄に思っておくれ。
 もういいぞ、〈カラカル〉」

 黒服と黒い鎧と黒いマントを着け、狼の頭をかたどった黒い兜をかぶったその男が、サーベルを手に前に出た。
 ガヴローシュ侯爵は恐怖に圧倒されながら、無意識に杖をかまえた。
 メイジの、貴族の象徴。いまこの場では役に立たない杖を。

 〈カラカル〉の兜の面頬の奥から笑い声がほとばしり、あざけりをこめて上がった刀が、勢いするどく斬撃を……

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 翌日。
 諸侯軍の崩壊と反乱拡大の報を受け、トリステイン王政府の騒乱評議会は、異例の速さで王軍投入を決定した。
 先のアルビオン戦役の二万には及ばなくとも、その過半数、一万数千規模の王軍兵士の動員が見こまれた。
 可能なかぎり早期の決着が目的である。

 また各地の有力な諸侯へも、鎮圧のための協力要請が飛んでいる。
 しかし動きの鈍い諸侯が目立った。
 そのひとつとして、反乱が起こった一帯と領土を接しているはずのラ・ヴァリエール家がある。


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Last-modified: 2008-11-10 (月) 22:53:49 (5651d)

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