ゼロの使い魔保管庫
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「結婚しようと思っております」 ヴィットーリオの執務室に赴いたアンリエッタは、いきなりの宣言に驚いた。 聖職者とはいえ還俗すれば結婚できないこともないが、教皇が結婚というのは珍しい。 六千年の歴史でもそう何人もいないはずだった。 「お、おめでとうございます、聖下」 相手は誰かしら? そんなことを考えながら、祝福の言葉を…… 「あぁ、言い忘れておりました。相手はあなたですよ」 ……は? 「せ、聖下?」 「お互いの公務です。ロマリアとトリステインの分かりやすい象徴として、わたくし達の結婚は効果的でしょう?」 あっさりと言い切られる。 ルイズの希望によりサイトが去ってから一月。 仄かな思いを寄せていた相手の消失は、アンリエッタにも大きな影を残していた。 (……嘘でも……愛しているとは言っていただけないのですね) 初恋の人から最後まで贈られることのなかった言葉。 そして……これで一生縁の無くなる言葉。 その感傷が、受けるべき縁談を拒絶しようとした。 すると、それを察したようにヴィットーリオがアンリエッタに声をかけた。 「それと、あなたは水のメイジでしたね?」 「はい、聖下……それが何か?」 猫のように優雅な身のこなしで、教皇は隣室へのドアに向かった。 そこは公務が忙しい際に使われるという仮眠室のはずで、中には……確かベットが…… 慌てて逃げようとするアンリエッタを、笑顔で押しとどめながら小さな軋みを上げて隣室が開かれる。 「誤解ですよ、あなたに見て頂きたいのはコレです」 無理やり手を出す気は無い。 その事を示すように、大きく距離を取りながらアンリエッタに部屋の中を見せる。 「! っっっ、せ、聖下っ、ど、どうしてっ!」 部屋の入り口に崩れ落ちていたのは、会いたかった人。 ……二度と会えないはずの人。 「サイトさんっ!」 ―― 一月前、ルイズの希望によって異界に送り返されたはずの少年がそこに居た。 慌てて駆け寄ったアンリエッタがサイトを抱き起こす。 「ひ……め……さま……」 かさかさに乾ききった声がアンリエッタを追い詰める。 (熱い……脈は……ダメ……急がないと) この世界の水のメイジは、医者に近い技能を持っている。 助け起したサイトは重度の脱水症状で、急いで処置しないと…… 「聖下、これはどういう事ですか? 彼は元の世界に返したのではなかったのですが」 言い捨てながら、部屋を出ようとしたアンリエッタの前に、ヴィットーリオが立ちふさがる。 「彼をそのまま帰すはずはないでしょう? ガンダールヴが居なければ四の四が揃わなくなってしまいますよ」 始祖への信仰のためならば、人の命をなんとも思わない神の意思の地上代行者。 教皇としての正しい姿かもしれなかったが、アンリエッタには納得できなかった。 「ならっ、ルイズにもそう説明すればっ」 「お陰で彼女は『聖女』としてよくやってくれていますよ」 ルイズを好きに使うため、この男はサイトを監禁したのだ。 その事に気づいたアンリエッタは、自分も無事にこの部屋を出れない可能性を考え静かに杖を握り締める。 「おや、恐ろしいですね、トライアングルメイジ、アンリエッタ陛下」 「そこを退きなさい、ヴィットーリオ」 教皇としての敬意より助けたい者への愛情が勝り、アンリエッタは呪文を…… 「どうぞ……陛下、お好きになさって下さい」 虚無の魔法の使い手は、それぞれ特化されていてルイズ以外の使い手ならば力づくで押し通れる。 アンリエッタは自分の判断が正しかったことを喜びながら、廊下に一歩ふみだし…… 「ただし、陛下が戻ってきた頃には彼はこの部屋に居ませんよ」 「なっ……」 「もう彼は用済みですからね、一月も経てばミス・ヴァリエールも次の使い間が召還できた所でわたくし達を疑わないでしょうから」 いつでも殺せる。 この国の殆ど全ての国民が、『聖者』と信じてやまない青年の、無慈悲な宣告だった。 「わたくしは彼を助ける必要はないのです、あなたが人を呼びにいっている間に始末を付けるとしますよ」 優しく微笑みながら、アンリエッタが部屋の外に出るのを待った。 「ひ、人を……だれか必要な魔法薬を持ってこさせてください」 「……この国の神官が、わたくしの命令よりあなたの命令を聞くとは思えませんけれど? あなたの命令を聞く理由は、彼らには『まだ』ありませんよ」 至上最も美しい教皇は、首を傾げながら呟いた。 「ところで……先ほどの縁談、お受けいただけますか?」 『聖女』としてロマリア中を駆け回っているルイズが久方ぶりに大聖堂に戻ると、そこは一つの噂で持ちきりだった。 ――アンリエッタと教皇・ヴィットーリオの結婚。 (姫さま……) 一抹の寂しさが胸の中を通り過ぎるが、親友の幸せにほんの少しだけ救われた気がした。 (わたしは、もうサイトに会えないけど……もう二度と誰も愛さないけれど……) せめて自分を応援するといってくれた人は、自分の分まで幸せになって欲しかった。 特に聞いて回ろうとしなくても、耳を澄ましながら廊下を歩いていると、 柱の影で、部屋の入り口で、人が二人以上集まれば、自然その話で盛り上がっていた。 (ひ、ひめさまって……) ルイズは真っ赤に成りながら自分の部屋を目指す。 火照った顔を隠すために、床をじっと見つめている。 曰く ――婚約発表から毎日女王は、教皇の執務室に篭りきりらしい。 ――精の付くものが大量に執務室に運び込まれた。 ――夜中にやっと自分の部屋に戻る女王は、日に日にやつれていく。 ――教皇聖下は、まだまだお若い。 ――女王は、おぼつかない足取りでも次の日必ず執務室に早朝から向かう。 下卑た噂の的になっていると知っているはずなのに、何を言われてもアンリエッタは教皇の部屋に向かう。 服が汚れたからと、行きと帰りで違う服装の日があったと、男の神官が哂っていた。 トリステインの王族は結婚まで純潔を保つしきたりだから、覚えたてで歯止めが利かないのね、訳知り顔の女官は美しい女王を蔑んでいた。 (姫さまったら、姫さまったら、姫さまったらっっ!) まるで仕組まれたかのように、ルイズの耳に注がれるアンリエッタの噂。 確かにそれは、ロマリア中の誰でも知っている話だったが、明らかに偏ったものがルイズに知らされていた。 ――ルイズは…… どんな顔をして親友に会えばいいのか分からなかった為、アンリエッタに一度も会わずに次の旅に出る。 それが誰かの企みだなどと、考えもしなかった。 熱で朦朧としていた意識が、ゆっくりと晴れていく。 『あぁ……そういえば、昨日も今日も水をやるのを忘れていたな……』 最後に聞いたのは、教皇のそんな声。 (俺は、植物かなんかよ……) 見慣れてしまった天井を見ていたサイトの左目に、馴染みに成った違和感が宿る。 (……ルイズっ……) 主に危機が迫るたび、ガンダールヴの片目はそれをサイトに伝えていた。 拘束された彼は、それを黙ってみていることしか出来ない。 (ルイズ……無事だったんだな……ルイズ……ルイズっ……危ないっ、ちがう……あぁぁぁぁぁあっぅっ) ガリアからの刺客が、今日も『聖女』のために選別された護衛を数人削り、数人の死者を出しながらも撃退されていく。 既にカリスマと化しているルイズの護衛は、次から次へと補充されていたが…… (ルイズ……違うっ、お前の……お前の所為じゃない……) 死した護衛の手を取って涙を落とす愛しい人の姿を、見ることだけ。 それが今のサイトに唯一残された自由。 (……あ……消えていく……) 左目の違和感が消え、ルイズの姿が霞んで行く。 ――次にルイズを見れるのは、彼女が危険な目に会ったとき。 (……ダメだ……ダメだ……ダメダァァァァァっ) 思わず、ルイズの危険を願ってしまう自分をサイトは恥じた。 自分の助けなく切り抜けてしまった事に感じた寂しさに、サイトは死にたくなった。 一睡もせずに部屋中漁り武器を探しても、 喉が枯れるまで叫んでも、 骨が折れるまで壁を殴っても、 事態は何も変わらない。 唯一の救いは僅かに回復を始めた体調。 (あのまま死ぬかと思った……でも……なんでだ?) 折れていたはずの骨は繋がり、 枯れていた筈の喉は、また声が出せるようになっていた。 (よし……動く……) もう少し休めば、また何かできることを考えよう。 (考えて……何とかしないと……) 多分、次がラストチャンス、次に消耗したら立ち直る前に死ぬ。 そんな直感があった。 サイトはキィと、小さく軋んでドアが開くのに気が付いた。 仮眠室に入るたび、アンリエッタは緊張していた。 ――サイトさんがそこに居なかったらどうしよう。 それはヴィットーリオの気まぐれで十分に起こりうる事態。 彼にとってサイトを生かしておく理由はもうない筈だった。 心配で眠れない夜、十分に休めなくてやつれた自分が、 朝一番にここに向かい、淑女として恥ずかしい時間までここに留まっている自分が、 周りになんと言われているのかは知っていた。 今アンリエッタの周りに、彼女を庇うものは一人も居なかった。 アニエスや自分の身の回りの配下すら、婚約の翌日にはその事を国元に伝えるため、 そんな理由で追い返された。 ヴィットーリオの指示だ。 サイトの命を盾に取られているアンリエッタは、逆らえぬまま親衛隊を追い返すしかなかった。 孤立した彼女に、ロマリア中の悪意が突き刺さる。 親愛なる教皇の下に、毎日毎日…… そう見られていることが分かった日は、辛くて泣きはらした。 ……その泣き腫らした目すら、教皇に鳴かされたと思われている。 国に帰りたかった。 でも帰れない。 今帰れば、サイトが死ぬ。 恥辱に耐えながら、この国に踏みとどまっている。 それすら蔑みの元に成っている、サイトの為に手ずから作った料理を零さない様に慎重に運ぶ。 ――聖下にがんばってもらいたいようですなぁ そう声を掛けた兵士は、アンリエッタの身体を上から下まで視姦してから立ち去った。 ――気高い方とて、わたしたちと同じですのねぇ この国に着いた時、アンリエッタの美貌を羨ましそうに見ていた女官は、馴れ馴れしい態度で声を掛ける。 歯を食いしばって前に進む。 悲しくても誰も助けてくれない。 泣いても何も変わらない。 だから、自分ががんばるしかない。 サイトの居る部屋のドアを開くため、手近なテーブルにサイトのための料理を置きながら、 アンリエッタはそっと唇に手を当てる。 朦朧としていたサイトに、栄養を取ってもらうため……重ねた感触が彼女の小さな慰めだった。 「ひ……め……さま?」 ドアの向こうに居た人影は、見間違えようの無い美貌の持ち主だった。 「あ……よ、良かった……気付かれたのですね……」 ベットの側まで駆け寄ったアンリエッタは、杖を抜きサイトの状態を確認してから、そっとサイトの頭を抱いた。 「本当に……良かった……よか……ったぁ……」 ぱたぱたと、熱い滴がサイトの頬に当たる。 一月の間、人との触れ合いが一切無かったサイトは、自分がどれだけ温もりに飢えていたのかを思い知っていた。 少しだけ自由の利くようになった腕を、アンリエッタの背中に回し優しく抱き返す。 「……あ……サイト……さ……ん……」 抵抗する様子の無いその身体を、もっと強く感じるために抱き寄せようと…… 「人に許婚に何をしているのでしょうか? ガンダールヴ」 冷たい声が二人を引き裂いた。 「お、お前はっ……」 「エサが足りれば、次は? 浅ましいことです」 自分を監禁した憎むべき敵をにらみつけた次の瞬間、サイトは先の台詞を思い出した。 「……いいな……ず……け?」 「ちっ……ちがっ」 「そうですよ、アンリエッタ・ド・トリステインはわたくしの許婚です、ガンダールヴ」 手を離しなさい。 ヴィットーリオがそう続ける前に、サイトの手はアンリエッタから離れていた。 「な、何で? 姫さま……姫さままで……俺を……」 閉じ込めていた、教皇の仲間なのか? サイトの目が絶望と共にアンリエッタに向けられ、彼女の表情で真偽を悟った。 一言も言葉交わされるとこがないまま、二人は引き離された。 ――サイトの視界の端で、アンリエッタが作ったスープが冷えていく。 彼女がどれほどの犠牲を払って作ったのか、知らないサイトはそれを冷めるに任せて…… 静かに泣いた。 「ひ、ひどっ……どうし……てっ……」 アンリエッタが我に返ったのは、ヴィットーリオに手を引かれるままに廊下に連れ出された後だった。 「当然でしょう? あなたはわたくしの許婚なのですから」 にっこりと彼はアンリエッタに手紙を渡す。 ソレはトリステインの宰相から。 内容は……無断で婚約した事に対する苦言と…… 「この上は……一刻も早い世継ぎの……」 母国語で書かれたはずの手紙が、どこか知らない言葉で書かれたように意味が分からない。 「そういう事ですので、陛下」 「……ぇ?……」 「今夜にでも、『作業』に参りますがご予定の方はよろしいですか?」 肉の欲望などは一切無く、淡々と…… 一切の興味の無い様子で綴られる教皇の言葉の意味が分かったのは、ふらふらと部屋に戻る途中。 今夜何が起こるのかを理解したのは、止まらない涙を見たとき。 逃げられないと悟ったのは、身体に回されたサイトの腕の感触を思い出したとき。 彼の安全を確保する方法を、無力な彼女は他に思いつかなかった。 #br 今夜、この身体に回される手が、あの優しい感触でない事を想い。 遠くで泣くサイトと響きあう様に、彼女もまた……静かに泣いた。
タイムスタンプを変更しない
「結婚しようと思っております」 ヴィットーリオの執務室に赴いたアンリエッタは、いきなりの宣言に驚いた。 聖職者とはいえ還俗すれば結婚できないこともないが、教皇が結婚というのは珍しい。 六千年の歴史でもそう何人もいないはずだった。 「お、おめでとうございます、聖下」 相手は誰かしら? そんなことを考えながら、祝福の言葉を…… 「あぁ、言い忘れておりました。相手はあなたですよ」 ……は? 「せ、聖下?」 「お互いの公務です。ロマリアとトリステインの分かりやすい象徴として、わたくし達の結婚は効果的でしょう?」 あっさりと言い切られる。 ルイズの希望によりサイトが去ってから一月。 仄かな思いを寄せていた相手の消失は、アンリエッタにも大きな影を残していた。 (……嘘でも……愛しているとは言っていただけないのですね) 初恋の人から最後まで贈られることのなかった言葉。 そして……これで一生縁の無くなる言葉。 その感傷が、受けるべき縁談を拒絶しようとした。 すると、それを察したようにヴィットーリオがアンリエッタに声をかけた。 「それと、あなたは水のメイジでしたね?」 「はい、聖下……それが何か?」 猫のように優雅な身のこなしで、教皇は隣室へのドアに向かった。 そこは公務が忙しい際に使われるという仮眠室のはずで、中には……確かベットが…… 慌てて逃げようとするアンリエッタを、笑顔で押しとどめながら小さな軋みを上げて隣室が開かれる。 「誤解ですよ、あなたに見て頂きたいのはコレです」 無理やり手を出す気は無い。 その事を示すように、大きく距離を取りながらアンリエッタに部屋の中を見せる。 「! っっっ、せ、聖下っ、ど、どうしてっ!」 部屋の入り口に崩れ落ちていたのは、会いたかった人。 ……二度と会えないはずの人。 「サイトさんっ!」 ―― 一月前、ルイズの希望によって異界に送り返されたはずの少年がそこに居た。 慌てて駆け寄ったアンリエッタがサイトを抱き起こす。 「ひ……め……さま……」 かさかさに乾ききった声がアンリエッタを追い詰める。 (熱い……脈は……ダメ……急がないと) この世界の水のメイジは、医者に近い技能を持っている。 助け起したサイトは重度の脱水症状で、急いで処置しないと…… 「聖下、これはどういう事ですか? 彼は元の世界に返したのではなかったのですが」 言い捨てながら、部屋を出ようとしたアンリエッタの前に、ヴィットーリオが立ちふさがる。 「彼をそのまま帰すはずはないでしょう? ガンダールヴが居なければ四の四が揃わなくなってしまいますよ」 始祖への信仰のためならば、人の命をなんとも思わない神の意思の地上代行者。 教皇としての正しい姿かもしれなかったが、アンリエッタには納得できなかった。 「ならっ、ルイズにもそう説明すればっ」 「お陰で彼女は『聖女』としてよくやってくれていますよ」 ルイズを好きに使うため、この男はサイトを監禁したのだ。 その事に気づいたアンリエッタは、自分も無事にこの部屋を出れない可能性を考え静かに杖を握り締める。 「おや、恐ろしいですね、トライアングルメイジ、アンリエッタ陛下」 「そこを退きなさい、ヴィットーリオ」 教皇としての敬意より助けたい者への愛情が勝り、アンリエッタは呪文を…… 「どうぞ……陛下、お好きになさって下さい」 虚無の魔法の使い手は、それぞれ特化されていてルイズ以外の使い手ならば力づくで押し通れる。 アンリエッタは自分の判断が正しかったことを喜びながら、廊下に一歩ふみだし…… 「ただし、陛下が戻ってきた頃には彼はこの部屋に居ませんよ」 「なっ……」 「もう彼は用済みですからね、一月も経てばミス・ヴァリエールも次の使い間が召還できた所でわたくし達を疑わないでしょうから」 いつでも殺せる。 この国の殆ど全ての国民が、『聖者』と信じてやまない青年の、無慈悲な宣告だった。 「わたくしは彼を助ける必要はないのです、あなたが人を呼びにいっている間に始末を付けるとしますよ」 優しく微笑みながら、アンリエッタが部屋の外に出るのを待った。 「ひ、人を……だれか必要な魔法薬を持ってこさせてください」 「……この国の神官が、わたくしの命令よりあなたの命令を聞くとは思えませんけれど? あなたの命令を聞く理由は、彼らには『まだ』ありませんよ」 至上最も美しい教皇は、首を傾げながら呟いた。 「ところで……先ほどの縁談、お受けいただけますか?」 『聖女』としてロマリア中を駆け回っているルイズが久方ぶりに大聖堂に戻ると、そこは一つの噂で持ちきりだった。 ――アンリエッタと教皇・ヴィットーリオの結婚。 (姫さま……) 一抹の寂しさが胸の中を通り過ぎるが、親友の幸せにほんの少しだけ救われた気がした。 (わたしは、もうサイトに会えないけど……もう二度と誰も愛さないけれど……) せめて自分を応援するといってくれた人は、自分の分まで幸せになって欲しかった。 特に聞いて回ろうとしなくても、耳を澄ましながら廊下を歩いていると、 柱の影で、部屋の入り口で、人が二人以上集まれば、自然その話で盛り上がっていた。 (ひ、ひめさまって……) ルイズは真っ赤に成りながら自分の部屋を目指す。 火照った顔を隠すために、床をじっと見つめている。 曰く ――婚約発表から毎日女王は、教皇の執務室に篭りきりらしい。 ――精の付くものが大量に執務室に運び込まれた。 ――夜中にやっと自分の部屋に戻る女王は、日に日にやつれていく。 ――教皇聖下は、まだまだお若い。 ――女王は、おぼつかない足取りでも次の日必ず執務室に早朝から向かう。 下卑た噂の的になっていると知っているはずなのに、何を言われてもアンリエッタは教皇の部屋に向かう。 服が汚れたからと、行きと帰りで違う服装の日があったと、男の神官が哂っていた。 トリステインの王族は結婚まで純潔を保つしきたりだから、覚えたてで歯止めが利かないのね、訳知り顔の女官は美しい女王を蔑んでいた。 (姫さまったら、姫さまったら、姫さまったらっっ!) まるで仕組まれたかのように、ルイズの耳に注がれるアンリエッタの噂。 確かにそれは、ロマリア中の誰でも知っている話だったが、明らかに偏ったものがルイズに知らされていた。 ――ルイズは…… どんな顔をして親友に会えばいいのか分からなかった為、アンリエッタに一度も会わずに次の旅に出る。 それが誰かの企みだなどと、考えもしなかった。 熱で朦朧としていた意識が、ゆっくりと晴れていく。 『あぁ……そういえば、昨日も今日も水をやるのを忘れていたな……』 最後に聞いたのは、教皇のそんな声。 (俺は、植物かなんかよ……) 見慣れてしまった天井を見ていたサイトの左目に、馴染みに成った違和感が宿る。 (……ルイズっ……) 主に危機が迫るたび、ガンダールヴの片目はそれをサイトに伝えていた。 拘束された彼は、それを黙ってみていることしか出来ない。 (ルイズ……無事だったんだな……ルイズ……ルイズっ……危ないっ、ちがう……あぁぁぁぁぁあっぅっ) ガリアからの刺客が、今日も『聖女』のために選別された護衛を数人削り、数人の死者を出しながらも撃退されていく。 既にカリスマと化しているルイズの護衛は、次から次へと補充されていたが…… (ルイズ……違うっ、お前の……お前の所為じゃない……) 死した護衛の手を取って涙を落とす愛しい人の姿を、見ることだけ。 それが今のサイトに唯一残された自由。 (……あ……消えていく……) 左目の違和感が消え、ルイズの姿が霞んで行く。 ――次にルイズを見れるのは、彼女が危険な目に会ったとき。 (……ダメだ……ダメだ……ダメダァァァァァっ) 思わず、ルイズの危険を願ってしまう自分をサイトは恥じた。 自分の助けなく切り抜けてしまった事に感じた寂しさに、サイトは死にたくなった。 一睡もせずに部屋中漁り武器を探しても、 喉が枯れるまで叫んでも、 骨が折れるまで壁を殴っても、 事態は何も変わらない。 唯一の救いは僅かに回復を始めた体調。 (あのまま死ぬかと思った……でも……なんでだ?) 折れていたはずの骨は繋がり、 枯れていた筈の喉は、また声が出せるようになっていた。 (よし……動く……) もう少し休めば、また何かできることを考えよう。 (考えて……何とかしないと……) 多分、次がラストチャンス、次に消耗したら立ち直る前に死ぬ。 そんな直感があった。 サイトはキィと、小さく軋んでドアが開くのに気が付いた。 仮眠室に入るたび、アンリエッタは緊張していた。 ――サイトさんがそこに居なかったらどうしよう。 それはヴィットーリオの気まぐれで十分に起こりうる事態。 彼にとってサイトを生かしておく理由はもうない筈だった。 心配で眠れない夜、十分に休めなくてやつれた自分が、 朝一番にここに向かい、淑女として恥ずかしい時間までここに留まっている自分が、 周りになんと言われているのかは知っていた。 今アンリエッタの周りに、彼女を庇うものは一人も居なかった。 アニエスや自分の身の回りの配下すら、婚約の翌日にはその事を国元に伝えるため、 そんな理由で追い返された。 ヴィットーリオの指示だ。 サイトの命を盾に取られているアンリエッタは、逆らえぬまま親衛隊を追い返すしかなかった。 孤立した彼女に、ロマリア中の悪意が突き刺さる。 親愛なる教皇の下に、毎日毎日…… そう見られていることが分かった日は、辛くて泣きはらした。 ……その泣き腫らした目すら、教皇に鳴かされたと思われている。 国に帰りたかった。 でも帰れない。 今帰れば、サイトが死ぬ。 恥辱に耐えながら、この国に踏みとどまっている。 それすら蔑みの元に成っている、サイトの為に手ずから作った料理を零さない様に慎重に運ぶ。 ――聖下にがんばってもらいたいようですなぁ そう声を掛けた兵士は、アンリエッタの身体を上から下まで視姦してから立ち去った。 ――気高い方とて、わたしたちと同じですのねぇ この国に着いた時、アンリエッタの美貌を羨ましそうに見ていた女官は、馴れ馴れしい態度で声を掛ける。 歯を食いしばって前に進む。 悲しくても誰も助けてくれない。 泣いても何も変わらない。 だから、自分ががんばるしかない。 サイトの居る部屋のドアを開くため、手近なテーブルにサイトのための料理を置きながら、 アンリエッタはそっと唇に手を当てる。 朦朧としていたサイトに、栄養を取ってもらうため……重ねた感触が彼女の小さな慰めだった。 「ひ……め……さま?」 ドアの向こうに居た人影は、見間違えようの無い美貌の持ち主だった。 「あ……よ、良かった……気付かれたのですね……」 ベットの側まで駆け寄ったアンリエッタは、杖を抜きサイトの状態を確認してから、そっとサイトの頭を抱いた。 「本当に……良かった……よか……ったぁ……」 ぱたぱたと、熱い滴がサイトの頬に当たる。 一月の間、人との触れ合いが一切無かったサイトは、自分がどれだけ温もりに飢えていたのかを思い知っていた。 少しだけ自由の利くようになった腕を、アンリエッタの背中に回し優しく抱き返す。 「……あ……サイト……さ……ん……」 抵抗する様子の無いその身体を、もっと強く感じるために抱き寄せようと…… 「人に許婚に何をしているのでしょうか? ガンダールヴ」 冷たい声が二人を引き裂いた。 「お、お前はっ……」 「エサが足りれば、次は? 浅ましいことです」 自分を監禁した憎むべき敵をにらみつけた次の瞬間、サイトは先の台詞を思い出した。 「……いいな……ず……け?」 「ちっ……ちがっ」 「そうですよ、アンリエッタ・ド・トリステインはわたくしの許婚です、ガンダールヴ」 手を離しなさい。 ヴィットーリオがそう続ける前に、サイトの手はアンリエッタから離れていた。 「な、何で? 姫さま……姫さままで……俺を……」 閉じ込めていた、教皇の仲間なのか? サイトの目が絶望と共にアンリエッタに向けられ、彼女の表情で真偽を悟った。 一言も言葉交わされるとこがないまま、二人は引き離された。 ――サイトの視界の端で、アンリエッタが作ったスープが冷えていく。 彼女がどれほどの犠牲を払って作ったのか、知らないサイトはそれを冷めるに任せて…… 静かに泣いた。 「ひ、ひどっ……どうし……てっ……」 アンリエッタが我に返ったのは、ヴィットーリオに手を引かれるままに廊下に連れ出された後だった。 「当然でしょう? あなたはわたくしの許婚なのですから」 にっこりと彼はアンリエッタに手紙を渡す。 ソレはトリステインの宰相から。 内容は……無断で婚約した事に対する苦言と…… 「この上は……一刻も早い世継ぎの……」 母国語で書かれたはずの手紙が、どこか知らない言葉で書かれたように意味が分からない。 「そういう事ですので、陛下」 「……ぇ?……」 「今夜にでも、『作業』に参りますがご予定の方はよろしいですか?」 肉の欲望などは一切無く、淡々と…… 一切の興味の無い様子で綴られる教皇の言葉の意味が分かったのは、ふらふらと部屋に戻る途中。 今夜何が起こるのかを理解したのは、止まらない涙を見たとき。 逃げられないと悟ったのは、身体に回されたサイトの腕の感触を思い出したとき。 彼の安全を確保する方法を、無力な彼女は他に思いつかなかった。 #br 今夜、この身体に回される手が、あの優しい感触でない事を想い。 遠くで泣くサイトと響きあう様に、彼女もまた……静かに泣いた。
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